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明日の予定 [日記]



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建築家/手塚貴晴氏


越後妻有トリエンナーレも、
毎週金曜日に行って、日曜日に帰ってということを繰り返して、
田麦という村での作品は、ようやく今週で完成という段階です。

しかし今回はもう一つ松の山の坂下の作品があります。
これは廃屋を建築家の手塚貴晴さんが改修して
イタリアレストランにするというプロジェクトです。
ここに私が作品を5点入れるというもの。

つまり中くらいの作品を5点制作しなければならなかった訳で、
これにあてられる時間は、月火木の3日しかなかったのです。
これを5週繰り返して仕上げました。

それを昨日がんばって、集中して5点完成して、
とりあえず撮影して、車で武田友孝さんの家に、夜の11時に到着。

本日7月17日に武田友孝さんの車で、これから朝8時に出発して、
新宿で栃原さんという女性美術家と落ち合って、妻有に向かいます。


ようやく作品制作を間に合わせたので、
本日はいよいよ作品を持ち込んで、壁への設置となります。
これが大変そうなのです。

和室の土壁なので、私のウッドペティングという木の支持体の作品は、
やや重いので、支えられないのです。
そこで元東京スタジオの武田友孝さんの出番でありまして、
彼にがんばってもらう予定です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回の制作は、基本にあったのは、
作品をシニフィアンとシニフィエの同時表示で組み立てて行くという
問題でした。

実は、もともとそういう組立そのものにはたどり着いていたのですが、
今回は、このシニフィアンの構造と、シニフィエの表現を
逆立して積むということ。
これを初めて実現したのです。

逆立しても良いことに気がついたのは、
全くの偶然だったのですが、
やってみると、長年苦しんできていた統合が、実現したのです。

・・・・・・・・・・

芸術というものの構造と、観客の欲望というものは、実は矛盾するのです。
コレクターも観客も、実は本心は芸術を求めていなくて、
実体的なエンターテェイメントとデザインを求めているのです。

この矛盾というのは、
実は言語(=シーニュ)の解体として、出現したのです。
近代になると、物理科学が時代の知(エピステーメ)として
時代を支配先導した結果、
芸術は物質に還元される傾向の中で展開して行きました。
これがモダンアートの運動であって、
表現のシニフィエ性が増大する形で、タッチや絵の具の物質性が増大し、
最終的に、物質性を増大させた抽象物としてのミニマルアートになった
というのが、乱暴な美術史の図式になります。

こうした運動の中では、キッチュという通俗的な表現は禁止排除され、
今までにないと信じられる斬新さが希求されました。

そうした美術が大衆的には不評であった事が、
初期モダニズムの貴重な記録である
オルテガの『芸術の非人間化』に書かれています。

それに対して
キッチュを全面的に肯定して、
芸術の人間化を切り開いたのが、ジェフクーンズであったと
思います。

こう書くと、キッチュの復権が情報化社会の芸術であると誤解されますが、
実はそれほど簡単ではなかったのです。

問題なのは、そのキッチュさが、日本の草間弥生、前本彰子や森村泰昌では
作品のシニフィアン化という、古さの中でされているのです。

話が難しくなりますが、
ジェフジューンズで成立している表現の構造と、
草間弥生、前本彰子や森村泰昌の作品構造は、似て非なるものなのです。

この辺を丁寧に分析的に語る時間が今朝はないので、
はしょって言うと、
彦坂が今回試みているのは、
作品をシニフィアン化した水準で制作した上で、
その上にシニフィエを載せるのですが、
その時に、シニフィエとシニフィアンを逆立させる関係で積むという
手法なのです。

そうすると、何が変わるかというと、
作品が、普通の人にとって見やすくなるのです。
10人中8人の人は、世界をシニフィエ連鎖で了解しているのです。
シニフィエ連鎖というのを解りやすく言うと自然的な態度による常識的な
見方という事です。
この常識的な見方の視覚を、上部に載せる事で、
難解な芸術は、人間化して、常識で理解できるようになるのです。
正確には、なったように見せかける事ができるのです。

今回の彦坂の制作は、そういう意味で、
2重性の中での組織化の手法の進化なのです。

まあ、私の思惑通りに行くとは思いませんが、
自分では、芸術制作の手法としては、随分と成熟してきたように、
思っています。


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不況下の中国現代絵画(加筆2) [状況と歴史]

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岳敏君

ニューズウイークの最新号で、
不況下の現代アート市場について書かれています。


昨年後半から、中国の現代アートはぱったりと売れなくなったと書いています。
その代表として岳敏君が取り上げられています。

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《想像界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


中国現代絵画のインチキ性があらわになった事は良い事です。
こういうものを押し出そうとした画廊も淘汰されるのでしょうか?


「中国の現代アート市場は、熱にうかされてボタンを掛け違えたマーケットの典型例だ。価値ある作品かどうか見極めるには、専門家の確かな目が欠かせない。・・・・中国にはほとんどそれがなかった。」(ニューズウイーク日本版29/7/22 64頁)

確かな専門家の目がないのは、中国現代アートだけではありません。日本の現代アートの作品もまたボタンの掛け違えたものでしかなくて、専門家の目を欠いているのです。それは岡本太郎のひどい絵画を高く評価する所から始まって、日本のいわゆる戦後美術の中枢を形成している間違いアートの系譜なのです。そのボタンの掛け間違いの完成者こそが椹木野衣であり、山本現代です。そこには中国現代アートの間違いと良く似た世界が広がっているのです。

中国現代アートのように、作品の評価が下がると言う事を、
美術史は何度も体験して来ているのです。

私の学生時代、世界を席巻したのはウイーン幻想派でした。

恩師の一人に坂崎乙朗という美術評論家がいましたが、
彼が押していました。
何人かの作家を多摩美術大学の教室まで連れて来て、
作品も見せられました。

その後、坂崎乙朗先生は自殺なさいました。
その原因がウイーン幻想派の評価間違いであるとは思いません。
自殺の原因も知りません。
私にとっては良い先生でありました。


タグ:岳敏君
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メーキングビデオの最初のもの(大幅加筆1) [制作]


木村静さんが、
越後妻有トリエンナーレの私の田麦のビデオをもう一本アップしてくれました。

現地に着いた最初のものです。

 

撮影をしてくれた木村静さんが、ブログで文章を書いてくれました。

先週末は3日間、越後の山に篭っていました。無心で撮影していました。

7月26日から9月13日まで新潟県の越後妻有(えちごつまり)地区で行われる「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2009」のために制作している芸術家の彦坂尚嘉さんと3人のアーティストの方に同行しました。金曜の早朝に新宿から武田友孝さんの車に乗り、越後へ。彦坂尚嘉さんのほかには、山口俊郎さん、中川晋介さんの5人です。

越後妻有アートトリエンナーレは3年に一度開かれ、今回が4回目。過去にボランティアとして参加した友人が、「北海道でもこういうのやろうよ」と、ガイドブックや写真を見せてくれた。あれから2年、開幕前の越後妻有に来ているなんて。

私は美術の知識もなく、いつも身体と心で感じたまま言葉をつないだり、その感覚でシャッターを切ったりするだけなのだが、出会って間もない彦坂尚嘉さんはそんな私の言動をとてもよく理解してくれる。

山の中の田麦という集落の、小さな土壁・木造の小屋の芸術作品は、とんでもない力を放っていた。
そして、カメラを向けるたび、レンズ通して芸術のパワーが一気に私に向かってきて、圧倒された。
すさまじい勢いで作品の力を正面から受け、倒れそうになる。両方のこめかみのあたりで線香花火がチリチリ燃え、肩から足にかけては台風の強風がつねに吹いているような状態。朝からそんな状態で、夕方には立っていられないほどへとへとになる。

おいしい食事や温泉、少しのお酒で中和するけど、神経がチカチカするのはどうにも収まらない。

映像と写真で記録を一部UPしたので見てください。(写真は次の記事です)

映像は、2つ前に3つと、新たにUPしたのがこちらの1本。到着直後の様子です。彦坂さんは毎週末作業に来ていて、武田さんと山口さんは2週間ぶり、中川さんと私は初めて来ました。全員驚きながら入っていきます。
彦坂尚嘉さん自身による解説がとてもわかりやすいです。制作過程については彦坂さん自身のブログで何度も触れていますが、作品の解説は、この映像が初めてかもしれません。

20年以上かけて成長したのに間引きされ、切られて山中で腐っていくしかない間伐材と、競争社会の中で行き場をなくす人々を重ねて表現されています。私と同じくらいの年数生きてきた木が切られていく事実に心が痛くなった。

しかたない、という言い方もある。木がまっすぐ大きくなるためにある程度の間伐は必須だと。
しかし、もっと広く、遡って考えてみる。原生林は間伐などしなくても自然のバランスが保たれていた。
人間が産業のために大量に伐採し、ハゲ山に偽者の秩序をこしらえて、ごまかすために植林した。
その結果、常に山は異常な数の木であふれ、秩序という理由で間伐は続いている。
人間社会も常に、秩序という理由で排除が続いている。

ちょっと書きすぎてしまった。
映像や文章や映像をどれだけ駆使しても、伝わるものには限度がある。
もし興味をもったなら、彦坂尚嘉さんのブログを見て、そしてもっと興味をもったなら、現地に足を運んでほしい。

私は26日の開会式に向け、25日から再び越後妻有に入ります。

http://channelp.exblog.jp/10629129/


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

この作品は、フロアーイベントという、1969年の私のデビュー作品から、断続的に作られて来ている作品の新展開なのですが、当初のプランは竹を使う予定でした。こういう作品の場合、何よりも重要なのは金銭の問題であって、限られた予算で、どのように自分のやりたい事をするのか? ということです。竹の使用を考えたのも、竹が費用的に安いので、それが重要な要素でした。ですから当初、この安い竹を探したのですが、その中で間伐材に到達したのです。

津南という地域で、間伐が大規模に行われて、不要な間伐材がタダで手に入るという情報をアートディレクターの奥野恵さんが聞き込んできたのです。津南の山奥で、舗装されない道の、奥の奥まで入って、間伐材を運ぶ所から、この作品は現実化して行きました。概算では1000本の丸太が必要で、1000本と言うとたいへんで、手伝ってくれる人が嫌になりそうに思えたので300本と言う所で、始めました。

今回の制作を手伝ってもらうメインの人として元・東京スタジオの武田友孝さんを口説いてお願いしたのは、細かい部分も含めると作業量が多くて、自分一人ではやりきれない事が分かっていたからです。それと奥野恵さんのディレクターとしての采配が大きかったのです。どうしても人力に頼るので、小蛇さんというボランティアの人手を適切に回してもらう事が重要だったからです。

木村 静さんが撮影してくれたこの段階では、すでに田麦の村の農民の方々の手助けでチェーンソーで細分化された丸太が運び込まれて、ほぼ床を埋め尽くした段階です。この段階で、後100本以上が足りなくて、この後雨の中、再び津南の山奥に入って、軽トラック一台分の丸太を運びます。雨の中、香港から来てくれた小蛇さんたちが助けてくれて、トラックに乗せます。

水を吸った丸太で、軽トラックが坂を上れなくて、迂回して田麦の現地に着くのですが、この運搬が、今回の山場でした。こういう制作では、事故を起こさないで進めるというのが、重要なポイントです。この危ない運転は私が自分でやって、助手席には木村静さんが乗ってくれました。油断をすると大事故になる運転で、最後に田麦の村の坂を登る途中で登れなくなって、セカンドからファーストにマニュアルのギアを切り替えたタイミングが、最後の勝負でありました。こうして事故にならないで、乗り切って、何とか間伐材の量を埋める事ができました。最後の切断を全部やってくれたのが画家の山口俊郎さんで、これも危ない作業なので、何回か事故らないように声をかけましたが、無事に出来ました。

今回の作品では、壁に絵も描いています。号数的には500号を超える絵を2枚短時間に描く必要があって、家庭用壁塗料で、ローラーと刷毛で描いています。こうした大きな壁画のようなもの、しかも会期が終われば廃棄されるものを、いかに短時間で能率良く描けるかと言うのも、実は考えて何回かやって来ているので、出来る事でありまして、普通の画家には出来ない事です。見ている側からは、たいした事ではないように思えることですが、こうした廃棄を前提にした大きな建築水準の美術作品を、少ない予算と少ない時間で事故無く仕上げて行くのには、それなりの能力の蓄積がないと、段階段階での多くの決断の決定が必要で、そうした事を自分の責任で展開する事は出来ないのです。そう言う意味では、1969年の多摩美術大学のバリケードの中での美術展からはじまった私のインスタレーションの制作の、集約点であると言えます。

今回を最後にして、こうした廃棄を前提にした制作は、できれば止めたいと思っています。何よりも体力的な限界が来ています。

美術作品には、大中小の三つのサイズで区分される領域があります。大というのは、建築美術で、壁画や、今回の様な家全体を使う作品です。

中というのは、タブローで、運搬を前提にした作品です。美術市場に乗るものの基本は、この傾向であります。市場性を前提にした大きな美術というのも、実は中くらいのタブロー的なものを拡大しただけで、位相としてはタブローなのです。

小というのは、本の美術です。イラストレーションや画巻、絵巻物、そして版画、さらには写真などの多くも、この小さい美術です。つまり大である建築美術の系譜、中である市場美術の系譜、そして本の美術の系譜というように、3つの領域と系譜があるのですが、この3つをどれでも適切に作れる能力は、一丁一石では、養えないのです。

おのおのの系譜や位相の違いを、キチンと本当の意味で理解できていないと、根本的な間違いのまま制作してしまう事になります。大きな作品はつくれても、小さなものは作れない作家、そしてギャクに、中くらいのペインティングは良いものが出来ても、大規模な建築美術は作れない人。そうした、さまざまな能力の作家がいます。多くの美術家は、大中小のサイズは識別できても、そのサイズが実は建築美術、市場美術、本の美術という起源の違いに根ざした、本質的な差異を持っている事を理解していない人が大半であるように私には見えます。 

とは言っても、それは私自身をも含む事です。私にとっても、なかなかこうした起源を自覚する事がむずかしいのです。制作は一応出来上がってからが、本当の制作の開始でして、こうしたことを詰めて考えて行く必要があります。今週再び越後妻有に行きますが、ここで完成させなければなりません。

タグ:彦坂尚嘉
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間寛平の顔 [美人論]


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間寛平さん、大西洋横断へ=ヨットで5300キロ航海

7月15日0時29分配信 時事通信

 【ニューヨーク14日時事】ヨットとマラソンで世界一周を目指している人気タレントの間寛平さん(59)が14日、米ニューヨーク・マンハッタンを出航し、フランス・ルアーブルに向かった。間さんは想定期間30日、約5350キロのヨットでの大西洋横断航海に挑む。
 間さんは「頑張ってくるわ。ヨットってこんなに楽しいというところを伝えたい」と話し、桟橋を後にした。
 2016年東京五輪の招致大使を務める間さんは昨年12月、五輪実現の願いを込めて大阪からマラソンで出発。千葉からヨットで太平洋を渡り、今月8日に約4カ月をかけたマラソンによる北米大陸横断を達成した。フランス到着後はユーラシア大陸を走破し、来年11月以降に大阪に帰還する予定だ。 
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アースマラソンに挑む間寛平の顔を面白いと思いました。
普通の意味で美人とは言わないでしょうが、懐かしい顔であることと、
そして、奇妙な空無さをもっていて引きつけられます。
ある種の白痴美人というか、
馬鹿美人というか、
日本人を引きつける骨董的なものがあります。

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《想像界》の眼で《第6次元》の《デザイン的人格》
《象徴界》の眼で《第6次元》の《デザイン的人格》
《現実界》の眼で《第6次元》の《デザイン的人格》

《現実界》の人格
固体人間
《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィアン(記号表現)的人間。
『真実の人』

何故にアースマラソンをやるのか?
いろいろな理由があるのだろうが、
彦坂尚嘉の顔面分析では、先ずは現実界の人で、
しかも固体人間という前近代的な人と言うのがある。
前近代的時代は、もともとは《象徴界》が支配した時代だが、
宮本武蔵のような《現実界》の人間もいた。
間寛平は、宮本武蔵のようなタイプであると言える。

しかもコメディアンでありながら《シリアス人間》で、
そして《ハイアート》的な人間。
つまり伝承的な価値観を超えようとする人間なのです。

なのに、何故にデザイン的な人格なのか?
デザイン的と言うのは、フロイトの言う《退化性》が無いと言う事。
この《退化性》というのは、もっと正確に言えば、その人格の成立の過程が、歴史的蓄積性を持っているかどうかと言う事。間寛平の場合には、そうした私的体験の蓄積が幼児から一貫して継続はしていなくて、キチンと成人になって、子供の時代との継続性は切って、去勢してしまっている。だからこそ、挑むのがアースマラソンというような、ある意味で私性を超えた公的な領域になったのだと思います。

【続きはここをクリックして下さい】


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マイケル・ジャクソンの音楽 [音楽から考える美術論]


◆◆1◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

マイケル・ジャクソンの顔の分析は、
以前にブログで書きました。

その時は、マイケルジャクソンの音楽については、
一切触れなかったのですが、
それは異常なものを、私が感じていて、
安易な形では、書き得なかったからです。

◆◆2◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

レコードで2枚くらいしか聴いていないので、
一つは、書きにくいということがありますが、
音楽としては《第8次元》のもので、
ガラスの砕ける音に驚きがあり、
極めてマイナー音楽で、異様な破壊欲望を感じたのです。

ですから、下記に引用する様な感想とは、
ずいぶんと違うイメージを持っていました。

彼の音楽性そのものは、とても素晴らしいものだと思う。楽曲のクオリティや、楽曲に込めたメッセージは、マイケル・ジャクソン独自のものだった。彼に音楽に対する妥協はずっと無かっただろう。

『スリラー』でスターになったことは確かだけど、ジャクソン・ファイヴ時代から持っていた音楽の天性や、
やはり、楽曲に対するクオリティの追求が、彼を<キング・オブ・ポップ>としたと思う。

さて、私は今回のマイケル・ジャクソン追悼番組を、たまたま見ていて、
歌詞の内容が、父親から受けた虐待に対する反撃のもので、
憎悪に満ちていることを発見して、驚かされました。

BADというビックヒットした曲ですが、
自分自身をバットに居直らせる内容も、虐待された子供が自分を悪と感じる、
そういう一般的な心理傾向のもので、
あまりにマイケル・ジャクソンの私的な体験に根ざした、
極めて個人的な歌である事の異様さに打たれたのです。

【続きはここをクリックして下さい】


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越後妻有トリエンナーレ『大地の芸術祭』の中の名品を求めて巡るツアー(改稿2) [告知]

 越後妻有トリエンナーレ
『大地の芸術祭』の中の名品を求めて巡るツアー 

美しい棚田と燃え上がる熱い緑の《1流》のパノラマの景色、そして様々な温泉も堪能できる『美しい自然の中に《超1流》の現代アートの名品名作を探す』オリジナルのアート・ツアーです。
越後妻有全6エリアの主な評判新作作品と過去の名品を遠い遠隔地まで巡るディープな探究で専門家とマニアの方におすすめです。
 
 企画 アートスタディーズ実行委員会+建築系美術ラジオ

   旅行日程 2009年8月9(日)〜12日(水) (3泊4日の旅)
   集合 新潟県十日町駅 10時頃  解散 十日町駅 18時頃 予定
  (東京からの自動車での移動もありますので、希望者はご相談に乗ります。)

特徴ある3つの宿泊場所
  8月  9日(日)、11日(火)・・・三省センター(廃校の小学校を改造した所)
  


8月10(月)・・・銀河荘・・・作品です。
         全建築が銀紙に包まれた家の作品の中に泊まります。


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加藤力、渡辺五大、山崎真一の「還るところ」。
高倉集落における展示作品です。
サービスは無いので、自炊です。



●    旅費 は実費です。出来る限り安く、楽しく、快適なツアーを組んでゆきたいと思っております。

参考最低予算 概算¥35000円くらいから(学生はガソリン代は負担しないとか、何らかの優遇措置をします。)
 
・芸術祭パスポート 一般 前売り¥3,000 大学生・シルバー(65歳以上) 前売り¥2,000
小中学生 前売り ¥500

・ 宿泊代  ¥11,935(宿泊 三省小学校1泊2食付き¥4,935、、銀河荘1泊¥2,500,アルコール代別)
*現在、他の宿泊先も探していますので、宿泊先,料金が変更になる場合もございます


・自動車代;
《内訳》・車諸費用 約¥10,000 くらいを予定《トヨタレンタカー代¥7,088+¥5,198×3日+保険1日¥1,050×4日》÷5人(乗車人数)+ガソリン代(¥20,000÷5人)¥4,000
(上記を実費でご請求させて頂きます)

・その他:温泉代が1回500円前後、昼食代、アルコール代は別途かかります。
・必需品;温泉用の手ぬぐいとバスタオル

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

● 目的 大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ2009の開催に伴い、評価の出ている新作と今まで4回の開催の中で優れた美術作品、その周辺の優れた建築関係の作品をめぐるツアーです 
●    募集人数 15名 
●    交通手段 レンタカー
●    ここが違う!!こだわりのポイント 
・    建築系ラジオのコアメンバー、五十嵐太郎、南泰裕、山田幸司、松田達も同行予定で交渉中
・    アートフロントからの現地おすすめ作品情報、ほか彦坂尚嘉の厳選した超1流作品、建築ラジオコアメンバーらの建築作品が見られる見所をおさえたマニアックなツアーです。  
・    ツアー企画と連動した公開ラジオ収録予定

●    アートスタディーズからの参加予定者
五十嵐太郎〔建築批評家、建築史家、東北大学准教授〕
彦坂尚嘉〔ブロガー、立教大学大学院特任教授、日本建築学会会員、日本ラカン協会幹事、アーティスト〕他

●    一次受付締め切り 7/26(日)
●    お申し込み、お問い合わせ ツアー担当:田嶋奈保子
 nahonaho0403@yahoo.co.jp
Tel 090−8308−0298
 
 ふるって、お気軽にご参加ください。
 

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アート・ローリングプレイゲームについて [アート論]

無能について書いたブログに、
以下の様な、コメントをいただきました。


いつも拝見させて頂き、大変勉強になっております。
今回の記事も非常に興味深い内容でした。ありがとうございます。

ところで、ひとつ気になったので質問させていただきます。
私はささやかに生きることを選択した、この話でいえば、身の丈にあった生き方を選択した人間です。それを自覚しております。なので、興味で聞くのですが、
彦坂さんだとか、両村上さんのようなアーティストの方たちが、自分が無能力であることを自覚し、彦坂さんの言うように、自分がこの世で最も劣っている人物であると、自覚して、それでもなお、自らの道に固執し、努力していくその根拠というか、目的というか、なぜ自分が一番劣っているとわかっていながらその道でやっていこうと思うことができるのでしょうか?

私のような凡人にはこの辺が理解できなかったです。もし、私ならば、「私はこの世で最も絵の下手な人間である」と自覚することはできても、絵の道で生きていくことは選択できないと思うのです。

そこを選択するのは、いったい何を根拠に、選択しているのでしょう?この話では少なくとも自らの才能ではないわけですよね?

こんな私でも、ひとつの根拠は考えられるのですが、それは「好き」という根拠です。もし、とにかく絵を描くことが好きであれば、それは根拠になるかもしれません。しかし思うのですが、「好き」という感情だけで、「この世で最も絵がへた」という壁は超えられるものでしょうか?根拠として成立するのでしょうか?私にはどうしても、自分がこの世で最も絵がヘタだと自覚してしまうと、絵の世界で生きることが考えられなくなってしまうのですが。。。


理解力がなくてすいません。ついわからずに質問してしまいました。
なにか失礼な発言がありましたら、それは意図してのことではありません、お許しください。
もし、時間に余裕があれば、お答えいただければ幸いです。
お仕事がんばってください。いつも応援しております。
では、失礼します。 
by 凡夫 (2009-07-07 09:20)  



凡夫様

コメントありがとうございます。

「なぜ自分が一番劣っているとわかっていながらその道でやっていこうと思うことができるのでしょうか?」というご質問は、たいへんすぐれた質問だと思います。

ここに本質があるのでしょうね。

キルケゴール的に言えば、それが「絶望」の問題です。キルケゴールの『死に至る病』というのは絶望について書かれた本で、私は8回読んでいますが、ある意味では実は「なぜ自分が一番劣っているとわかっていながらその道でやっていこうと思うことができるのでしょうか?」という問いに対する、答えです。

それは絶望するその自分自身になって行くという、そう言う行為について書いています。自分以外のものになろうとするのではなくて、絶望している自分自身になろうとするのです。そのときに恩寵とも言うべき、他者の存在が出現します。 

私の個人的な経緯ですと、20歳の誕生日を病院のベッドで迎えています。この時に意識したのは関根正二という画家です。彼は20歳と3ヶ月で死んでいます。後3ヶ月では関根正二のような画家になれないという事を意識します。自分に才能は無いと思いました。ならば、才能ではなくて努力だけで美術家になろうと思ったのです。

この場合に、正確には他者の作品、あるいは、過去の人が現れます。すぐれた美術家の作品とか、偉人と言われる画家の闘いです。すぐれた他者の作品によって、自分が救われるのですね。先日の阿修羅展での阿修羅像のすばらしさというのも、一つの大きな救いであって、あのような作品存在そのものが、自分の絶望に呼応してくれて、すべての存在を「良し」と認める肯定感覚を蘇らせてくれます。つまり先人の努力を信じて、それを努力だけで理解して、その高みへの階段を一つずつ登ろうと思うのです。


高度の精神性を持った作品と言うものが、私と向き合ってくれる事で、私自身の存在の低さが明確になるのです。その低さから、高さへの道のりを歩もうと思うのです。

つまり、過去の他者の作品があるから、私が生きられて、今に耐える事ができる。

しかしフロイト的に見れば、そうしたすぐれた過去の作品に感動している事自体も、「きばらし」に過ぎない事であります。つまり、自分の無知無能に打ちのめされながら、その絶望を気晴らししているに過ぎないのです。

私もそう思います。人間に必要なことが《気晴らしアート》にすぎなくて、それ以上のものではないのです。しかしその《きばらし》にもいろいろなものがあるのですね。一番簡単な《きばらし》が麻薬であって、麻薬は努力無しに《きばらし》ができます。この麻薬から一番遠くにあるものが、すぐれた作品です。すぐれた作品を見たり読んだりすることによって、我慢して努力していくという、修行とか、求道という、長い歩みによってしか達し得ないゲーム世界があらわれます。つまり人生の絶望に耐えることが出来る。

つまりロールプレイングゲーム(RPG)なのです。
コンピューターRPGと、芸術RPGというのは、領域が違うだけで、基本は同じ構造です。コンピューターRPGが疑似体験型冒険物語であるのに対して、芸術RPGというのも疑似体験型冒険物語なのですが、疑似性の領域が違うのです。
ですから芸術家への道のりとか、『芸術への道』というのはRPGなのです。ゲームをコンピューターの中でやるのか、社会の中でのアーティスト成功ゲームとしてやるのか、さらに美術史の中での芸術探究ゲームとしてやるのか、その領域の違いだけなのです。

そして問題は安易なRPGをするのか、難易度の高いRPGをするのかの違いなのです。

人間が生きて行く事はたいへんで、ただ耐える事や、我慢する事です。それはコンピューターRPGであっても、社会RPGであっても、美術史RPGであっても、同じで、我慢して試行錯誤を繰り返し、体験を蓄積して行く事です。我慢と蓄積だけが生きる方法です。

すぐれた作品と言うのは、こうした我慢による体験の蓄積を良くやっていて、耐えた果てに出現して来ている正直な意識の表明なのです。

さて、私のこのような説明よりも、以下のような糸崎公朗さんのコメントが、問題の所在を良く説明してくれています。

 

糸崎

自分にとってタイムリーな話なので割り込ませて頂きます。

ぼくはテキスト中心のブログを書いてるのですが、書きたいことはモヤモヤとあるはずなのに、いざ書こうとすると書けないということで悩んでいました。
そこで書けない原因を考えたところ、書くための「前提」がはっきりしていなかったのだということに気付き、ここしばらくはその「前提」について投稿してました( 
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-55ac.html 以降の記事です)。
「前提」というのは、まさに「自分はいかにバカで無能か」ということの自覚です。
自分の「無知無能性」がハッキリすると、そこを立脚点にしてものを考えることができます。
逆に「無知無能性」という立脚点がないと、何かを考えたり、作ったりしても空中分解してしまうでしょう。

しかし、自分の「無知無能性」を知るということは、簡単にできることではありません。
「無知の知」という言葉通り、自分の無知を知ることが、すなわち「知る」ということだからです。
哲学者や思想家が「無知の知」に励んでいるのに、自分のような「バカ」が「ものを考える」ことに何の意味があるのか?と途方に暮れることもありますし、中断して投げ出すこともあります。

いや普通、自分の「身の丈」をわきまえた人は、分不相応な無駄な努力はしないものです。
しかしぼくのように、ムダと分かってもどうにもあきらめきれない思いのある人は、「あるもの」に囚われているのだといえます。
ぼくなりの表現をすれば、それは人間の認識世界と外部世界との「境界面」です。
認識の外部世界は、概念的に想定することは出来ますが、文字通りそれを人間が認識することは出来ません。
しかし人間の認識世界に、認識できない外部世界が「境界面」となって表れることがあり、それが「認識の境界面」です。

「認識の境界面」とは、例えば「死とは何か?」とか「時間とは何か?」とか「存在とは何か?」というような哲学的問いがそうだと思います。
これらの問いは「認識の境界面」を扱ったものであり、また「認識の境界面」が「哲学的問い」という形態で表れたと見ることもできます。
普通の「身の丈をわきまえた人」は、このような問いは「無駄なこと」として考えようとはしません。
しかし「哲学者」と呼ばれる人種は、その問いを考えることが無駄だと分かっていながら、なおその「問い」にこだわってしまいます。
つまり哲学者は、「認識の境界面」そのものに囚われているわけです。
普通の「身の丈をわきまえた人」は、人間の認識世界の範囲内での「無駄なこと」を排除しようとします。
しかし「認識の境界面」に囚われた哲学者にとって、認識世界内での「無駄」という価値判断は意味を持ちません。

これは「芸術」も同じであって、芸術家とは「認識の境界面としての芸術」に囚われた人だということが出来ます。
芸術が「人間の表現の可能性の追求」だとすれば、「可能性」とはすなわち「認識の境界面」と言い換えることが出来ます。
つまり優れた「芸術」は、「認識の境界面」として認識世界に立ち現れるわけです。
「認識の境界面としての芸術を」認識するには、絶えず新たな「芸術の創造」(作品制作のほか、鑑賞、評論、コレクションなど)をし続けなければなりません。

「芸術の創造」に参加しなければ、芸術を「認識の境界面」として捉えることはできません。
なぜなら、芸術作品は製作された直後から、徐々に「認識世界」に取り込まれ「普通」になってゆくからです。
そのような「芸術」を目の前にして、「自分は絵が下手だから」とその道を断念するのは、認識の範囲内での判断です。
しかし「認識の境界面」としての芸術に囚われた芸術家は、自分の「無知無能性」を立脚点にしながら、その可能性に向かうしか道が無く、「現実的には無駄なことだ」などと考える余裕が無いのです。
ぼくの場合は、美大を卒業したのに「絵が下手」で、しかも学歴社会から逃げるために美大に進学したほどの「バカ」ですが、どういうわけか「コンセプチュアル・アート」などと無謀なことをするハメになり、自分でもほとほとあきれ果ててしまいます(笑)
哲学にしろ芸術にしろ、「認識の境界面」なんか見えないほうが普通の意味では正常だし幸福なんだと思います。

by 糸崎 (2009-07-07 16:35)  

糸崎さんの言う認識の境界面というのが、ロールプレイングゲームです。学問や、芸術論というのは、このRPGなのです。この境界面=ゲーム領域に立たないと、なかなか制作や執筆を絶え間なくしていくことは、むずかしいのだろうと思います。

普通の人とか、凡庸に生きようとする人は、ゲーム領域に入らないのです。ロールプレイングゲームの領域と言うのは、試行錯誤の経験を蓄積して問題を解決して行く領域ですが、凡庸と言う領域は、蓄積をしない領域なのです。そこは平明で、直接的な、自明な体験世界です。
その意味では、実は芸術というのは簡単なことであって、碁のように誰でも出来る事なのです。芸術は碁のゲームをする人には把握できて、碁のゲームをしない人には理解できない抽象的なものなのです。

物事を見たり、行動するのには、実は2つあって、平明で、直接的で、自明な《自然的な態度》で行うものと、直接性ではなくて蓄積性で成立する境界面=ロールプレイングゲームの、ゲーム内での行為と2つあるのです。
このゲームへの参入を事を自覚すると、行動が作動するようになるのです。
ゲームへの入り口に無知無能を自覚しないと、ゲームのルールを学び始められないという入り口の関門があるのです。
ただ、ここでも2つのゲームがあるので、それを間違えると分からなくなります。つまりロールプレイングゲームのように体験を蓄積して行くゲームと、博打のように《自然的な態度》で行うゲームです。この《自然的な態度》で行うゲームは、ゲームであっても芸術ではなくて、デザインなのです。デザインというのは、《自然的な態度》で行うゲームで、その基盤にあるのは平明な自明性なのです。

平明な自明性というのは、勉強や努力をしないでも分かる自然な領域です。
自然に生きると言う事は、決して悪い事ではないのです。
だから凡庸性や自然性、そして平明性というのは、いつの時代にも多くの人々の生活世界を形成する重要な基盤なのです。
この自然的な生活世界から、芸術というロールプレイングゲームを見る事は、ちょうど野球を観戦するようなものであって、ゲームのルールさえ分かっていれば面白いものなのです。スポーツ観戦にもいろいろあるように、芸術観戦にもいろいろなゲームがあるのです。

そのアーティストがギャンブルをやっているのか、社会成功アートゲームをやっているのか、あるいは美術史的探究ゲームをやっているのか、他にもゲームはあるのですが、そのゲームの違いもまた、見分けそれ自体はむずかしいのです。
アートゲームそのものは、難易度の高いゲームであるのです。
少なくとも碁や将棋、チェス程度のむずかしさはあるのです。
ですからアーティストになるというのは、プロの棋士になる程度のむずかしさはあるのだろうと思います。

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動画で見る彦坂の制作in越後妻有 [制作]


今回の新潟には、4人の人が同行してくれて、
さらに小蛇さんが2人来てくれて大掛かりな助っ人部隊になりました。
武田友孝さん、中川晋介さん、山口俊郎さん、そして木村静さんです。
小蛇さんは、香港からきた2人です。

作業を木村静さんが画像でアップしてくれました。





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第11次元と情報化社会の芸術 [アート論]

情報化社会が、情報に文化を還元してきている傾向は、
かなりすごい強さで現れています。

人間が情報でしか物事を見ないというのも、
ある本質では有るのですが、
それは物事の反面でしかないのです。

昨日も書きましたが、「うどん」を食べるにしても、
「うどん」であれば何でも良くて、まずい「うどん」を食べていても
「うどん」であるという事以上のことを知り得ないというひとは、
多いのです。

つまり「うどん」であれば、なんでも「うどん」という風に了解する精神が、
シニフィエの領域です。
情報化社会は、このシニフィエに還元される形で展開される傾向が強いのです。
その限りで言うと、8次元や21次元の「うどん」で、十分なのです。

8次元の「うどん」というと山田うどんというチェーン店がありますし、
21次元でよければサイゼリアというフィミリーレストランがあります。

絵画にしても21次元で良ければ、最近の中西夏之の絵がありますし、
写真にしても21次元で良ければ荒木経惟の写真があるのです。

しかし流通ということを考えると、実は超一流のものは、
なかなか難しいと言えます。
讃岐うどんの本物は、流通に乗りにくいのです。
はなまるうどん は、偽物です。

むしろ冷凍の讃岐うどんのほうが、おいしいです。

一つは量産の問題です。量産するのは、ハイクオリティですと、
なかなか困難なのです。
それと観客や消費者のレベルがあります。
大衆というのは、ハイクオリティは理解できないのです。
それは貧しいということと、教養が無いからです。

讃岐の地元のお客は、うどんに関しては、
教養のある人々なのです。
本場というものの強みは、良いお客がいる事です。
良いお客がいないと、ハイクオリティを成立させる事ができないのです。

教養の無い人々に、
直接に物事を伝えようとすると、6次元や8次元、
そして21次元の方が、直接的な伝達力が高いのです。

日本の芸術の質が低くなってしまったのは、
一つには敗戦によるボケがありますが、
もう一つは現代芸術の本場ではないという事が有ります。
本場にはいる優れた教養のある観客がいないことと、
模倣をすると作家も観客も落ちるのです。

さて、しかし落とすという事が、必ずしも悪くないのではないか?
という考えはあります。

昨日このブログを妻有で書いていいて気がついたのは、
ココシャネルやサティが第3次元に落とした流通のための偽のものを作った事が、
産業社会の成立に極めて大きなことであったという事です。

その意味で情報という領域を彦坂的に格付けすると、
それは第11次元ということになります。
つまり第11次元に落としてみる事が、重要なのではないのか?
ということです。


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広報とシニフィエ [アート論]

「うどん」を食べたいと言う。

この時に、「うどん」という言葉は、
ラーメンや、寿司、ステーキといった言葉とのちがいで、
成立している。

この事が、問題なのです。

これがシニフィエ連鎖です。

・・・・・・・・・・・・・・

「うどん」と言った時に、
スーパーで売っているの「茹でうどん」なのか、
四国の超1流の「讃岐うどん」なのか、
インスタントのマルちゃん赤いきつねうどんなのか、
そういうクオリティーの差異というものが、
あります。

私なんかは、このクオリティーの差異に重点があるのですが、
普通の意味で、広報の仕事をやる人々は、
言語の構造としては、このクオリティの差異を問題にする側は、
実は、ある意味で無視するのです。

なぜなら、本物の「讃岐うどん」は、流通しないからです。
ハイクオリティというのは、流通性そのものの否定において成立していると言えます。だから逆に言えば、流通するというのは、クオリティの否定や、変質において生まれるのです。

その象徴的な出来事は、ココシャネルの仕事にあります。ココシャネルは、ボーイフレンドの貴族から本物の宝石をもらうと、これに刺激を受けてイミテーションのジュオリーをつくって売って成功します。有名な香水のシャネルの5番も同様で、あれは人口香水を混ぜてつくた偽の香水だったのです。ココシャネルは、貴族などの上流階級が独占していた高級品を、産業化社会のあたらしい主役であるプチブルジュアジーに向けて、大衆化した3流品化したものを作り出したのです。つまり超1流のものを3流に落としたものをつくって、ブランドという領域を切り開いたのです。このことは音楽ではサティの仕事です。サティの音楽もまた、それまでの超1流のクラシック音楽を3流に落として、新しい鑑賞者層に、提供したのです。

このように、20世紀初頭においては、ひとつは超1流の贅沢品を3流に落とす事で、流通にのせたのです。

3流という第3次元領域というのはコミュニケーション領域で、その倒錯領域は第11次元で交通領域です。ポップスと言われる軽音楽も第3次元ですので、第3次元こそが、流通にのせるためには重要なクオリティであると言えます。

念のために言っておけば、現在のシャネルというブランドは超1流になっています。大衆のための3流品をつくったシャネルが、ブランドとして確立される事で高級品化して、超1流をつくるようになるのです。

その意味で、産業化社会に転換する時に、第3次元を一度くぐる必要があったと言えます。
シャネルは、いちど3流に落とす事で超1流への上昇を果たしたのです。

・・・・・・・・・・・・・・

むかし、東京都現代美術館でジャスパージョーンズ展が開かれた時に、
何人かの人と論争になったのですが、
一人の人がこだわったのは、1990年代になってからのジャスパーに関する報道量のリストの、異様なまでの増加です。

この膨大な報道ゆえに、ジャスパージョーンズを偉大な作家であると評価するのですが、私の方は、その報道の多くが吟味も責任も無い、ただのコピー的な内容の連鎖であって、ゴミでしかないと言う判断をするのです。

つまり作家論としてジャスパーに関するまともな議論だけが問題であって、それ以外は、情報のゴミと判断する立場を取ったのです。

ジャスパーの作品が、良く無いという問題は、何人かの人と、論争をしていますが、作品の善し悪しは、報道量や文献の量では決定されないのです。つまり有名であれば優れているという、そういう量が質になるという単純さは無いのです。

・・・・・・・・・・・

広報の担当の人は、実はこのゴミのような報道の模倣の連鎖をいかにして作り出していくかという仕事であって、まじめな作家論の形成を目指すものではないのです。

情報化社会というのは、こうしたゴミ情報をいかに多く生み出すかが重要だという事になります。クオリティや内容は、関係がなくて、ただ表層で多く流通すれば良いのです。このことが切り開く可能性だけが重要であると言えます。あるいは、このゴミ情報の膨大な増加の中で、何かが変わっていくという時代なのです。

・・・・・・・・・・・・・・

つまり世の中には2つの価値観があって、流通量を増やす事に意味を見いだす考え方と、讃岐うどんのような、高度の超1流の価値を生み出す事に意味を見る見方です。

しかもこの事が、実は言語や思考の2つの面に関わっているのです。

最初に戻って言えば、「うどん」と言った時に、ラーメンや、寿司、ステーキといった言葉とのちがいで成立している差異の体系での思考というものがシニフィエ連鎖なのですが、こうしたシニフィエ連鎖での了解というのが、日常生活を大きく形成しているのです。

広報の仕事は、このシニフィエ連鎖の中だけで成立するのです。何よりも情報化社会というのは、こうした表層的な差異体系の中で稼働しているので、「うどん」であれば、何でも同一であるという前提のようなものが無意識についているのです。

それは美術品の価値解釈に大きく関わってきていて、作品の解釈や鑑賞が、こうした「うどん」という言葉の面で展開するのです。

話はむずかしいのですが、「うどん」であれば、不味いうどんでも良いというのが、私たちの多くの生活であります。同様に、「芸術」とか「アート」という名前で語られば、その内容は問わないという態度があふれていくのです。それが情報化社会というものであると言えます。つまりシニフィエ連鎖が大きくなった時代なのです。

そこで出てくる手法が、シニフィエを前に出しながら、同時にシニフィアンの本物のクオリティをつけて、同時表示するという手法なのです。
この手法が、ラモーンズをコピーして登場したセックスピストルズの音楽に見えるのです。ジョニーロットンのボーカルは、実に本物であって、フリの6次元のサウンドと重ねる事で、情報化社会の表現のもう一つのスタイルを切り出してきていたのです。

広報を考える時に、このシニフィエとシニフィアンの2重路線が可能なのかどうか?
模索してみたいと思います。

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