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視野が狭いということ [生きる方法]


あらゆる人間の欠点は、視野が狭いことです。


同時に1人の人間の強みもまた、この視野の狭さです。


視野が狭いから、人間には魅力があるのです。


しかし、自分が視野が狭いと言う事は、

実は気がついていない場合が多いのです。


他人の目には、明らかに見えるのに、本人には自分の狭さが分からないのです。


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素人には、色の好みがあるという事です。


色彩を学ぶと、好きな色とか、嫌いな色とかは、

なくなります。


食べ物の好き嫌いが有る人と言うのは、

実は感性が狭いのです。

広くなると、マズいものでも、美味しいものでも、

そう言うものとして食べて、好き嫌いがなくなります。


つまり、自分の好みをはっきり持っている人は、

視野の狭い人です。

素人なのです。


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あるデザイナーが、すごくこだわって作品をつくるのですが、

私から見ると《第6次元》の《6流》作品でしかなくて、

凡庸です。


しかしその人には、すぐれて感性の良いものとして、

お洒落で、凄いものと信じられているのです。

《6流》のデザインを、洗練された世界と信じている人は、

結構な人数がいます。


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お金の問題が良く分からないと言う人、

あるいはお金を稼ぐのが巧く無い人と言うのは、

その人の人格の《象徴界》の中で、《第7次元》領域が欠けているのです。

意識ですから、意識して《第7次元》を獲得しようとすると出来ます。


そう言う意味で、意識を《第7次元》に広げる事は、

簡単で、お金ももうかるようになります。


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視野を広くする事というのは、

意識を広げる事ですが、

意識の広い人は、

聴く音楽の幅が広いです。



民族音楽、演歌、ポップスから、

ゲーム音楽、

ブルース、ロック、

クラシックから、現代音楽と、

公汎に聴いて楽しむ事ができます。


音楽の好みと言うのは、

その人の意識の広さや、傾向を示すのです。


自分の音楽の趣味が狭い人は、

意識が狭いと言う事を自覚できることになります。


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情報化社会というのは、

実は、意識の広さを必要とする時代であります。


意識が広く無いと、

多くの情報を理解し、適切に処理できないからです。


それはまた、自分自身の内面の様々な葛藤を、

適切に解決して行く事も、この意識の広さが重要なのです。


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電車の中で観察する限り、

中年から高年のおばさんや、おじさんの精神の《象徴界》は、

《第6次元》《第7次元》《第8次元》の3次元で出来ています。


つまり自然領域、金銭領域、そして信念の領域で生きているのです。


この3次元性を理解しないと、彼らと巧く付き合う事ができません。


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視野そのものは、その人の《象徴界》に現れる様です。


《象徴界》の次元を増やすと、自分の人格を拡大して、

抱えていた問題を、新たに処理できる能力を得る事ができるようになります。


《象徴界》には、《超次元》から《第1次元》、そして《第2次元》から《第41次元》まで、実に42段階があるのです。


人格的に成長して解脱するというのは、意識を42段階のすべてに広げる事です。


42段階に意識を広げても、人生の問題が消えるわけではありませんが、

しかし《苦》そのものは大幅に軽減して行きます。

処理できる範囲になると、言えます。



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第23回「ラカンと美術読書会」 [告知]

加藤 力です。

「ラカンと美術読書会」のご案内させていただきます 
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第23回「ラカンと美術読書会」のご案内

日時7月29日(水)18時30分 〜 2時間程度 
場所 立教大学(池袋) 6号館 6106研究室

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「ラカンと美術読書会」とは下記の2人が共催する読書会です。

彦坂尚嘉(日本ラカン協会幹事、立教大学大学院特任教授、日本建築学会会員、美術家) 
武田友孝(元・東京スタデオ、インデペンデント・キュレーター)

ラカン『無意識の形成物〈上〉』と、 
月代わりで選出される美術本の読書会です。

2007年8月より月一回のペースで開かれています。 
ごくごく初歩的な読書会で何方でも参加できます。 
どうぞお気軽にご参加下さい。

テキスト 
     ◎ラカンは『無意識の形成物〈上〉』 (岩波書店) 
     ●美術は日本近現代美術史事典(東京書籍) 
     参加費 無料(コピー代のみ実費で頂きたくお願いいたします) 
     テキストは特に準備なさらなくても、こちらでコピーを用意いたします。

※ 研究会終了後、懇親会を予定しております。 
 お時間に余裕のある方は、こちらの方にもご参加ください。 
 なお、懇親会は、持ち寄りのパーティー形式で行いたいと思いますので、 
 希望者の方は、あらかじめアルコールとつまみを 
 適当に用意して来て頂ければ幸いです。 
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 
立教大学への一番楽な道

池袋駅西口方面へ 
西口の階段は登らずに、 
地下商店街の通路を歩きC3出口から立教通りへ 
駅から歩いて行くと、左手に立教大学の正面のツタの生えたたてものの 
正門が見えます。 
右手にも、立教大学の門があります。 
それを通り過ぎて、最初の小さな道を右に曲がると、 
左手に6号館の建物の門があります。 
建物に入ると守衛の部屋があるので彦坂の所に行くと言って下さい。 
研究室は6号館の6106です。

分からなければ、彦坂の携帯に電話して下さい。 
090-1040-1445 
研究室の電話 
03-3985-6106

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 
詳しい行き方は以下よりお願いします 
立教大学のサイト 
http://www.rikkyo.ac.jp/ 
一番上のバーに交通アクセスがあります。

ページ中程に池袋キャンバスへの道順が、あります。 
http://www.rikkyo.ac.jp/access/pmap/ikebukuro.html

キャンバスパップがあります。 
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/index.html 
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 
申込・問合せ先:加藤 力(美術家、臨床美術士) 
           E-mail:riki-k@mc.point.ne.jp 
           FAX:0467-48-5667 
  
  
  


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越後妻有トリエンナーレ名品ツアー [告知]

アートスタディーズと、建築系ラジオの共同主催で、
越後妻有トリエンナーレ名品ツアーを行います。

会期は、
8/9~8/12日の3泊4日です。

3泊出来ると、遠方にある良い作品を見に行けます。 
越後妻有の名品は、辺鄙なところに、有る傾向があ 
るのです。 


五十嵐太郎、彦坂尚嘉、
そして山田幸司、南泰裕、松田達、天内大樹
 暮沢剛巳、伊藤憲夫、藤原えりみ、新堀学、橋本純など、
建築ラジオとアートスタディーズのパネリストの多くが参加を予定しています。

 





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松田達さんとの仕事 [建築]

若手建築家の松田達さんと、
昨日会った。

実は2つ、ささやかな企画をお願いしていて、
その案がまとまって来たので、
それを見せていただいた。

一つが、ある場所に2畳のギャラリー空間を作ろうというもの。
具体的な模型を作っていただいて、イメージが進みました。

もう一つが、彦坂尚嘉の皇居美術館の建築模型彫刻を、
実際に建築として、1千メートルでは無理だから100メートルの
高さでつくろうというプランで、
その構造の提案をいただいた。
それもすばらしいもので、感激して帰って来たのでした。

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シニフィアンからシニフィエへ [生きる方法]

Aさんへの、お返事の続きです。

ナルシズムというのは、
前にも書きましたが、自己防御のシステムで、
自己を守ると同時に、他者を排除します。

他者を排除すると、ご質問のシニフィアン連鎖ということは、
わからなくなるのです。

言語そのものが、社会の中の生成物であって、
他者の作り出したものなのです。

つまり他人の言葉の記録や記憶の集積に、
自分自身の言葉が連鎖しているのです。

言葉で考えると言うのは、
実は他人の言葉、それは無意識なのですが、
無意識としての言葉の集積と網があって、
これと連動してしか、自分の言語は作動しないのです。

自分が使う言語と言うのは、
常に他人の無意識であって、
それによって意味は形成されているのです。

海と言う言葉が、
海という意味になるのは、
海と言う言葉が、
海という意味になる共同体が存在しているからです。

言語の共同体の中で、
自分が発する海と言う言葉が海になる。

しかし、「うみ」という音が何故に「海」と言う意味に
なるのかは、実は日本語共同体の内部だけで成立しているのです。

海という言葉を書いて、
海であると理解するのは、
自分で決めた事ではなくて、
社会の中で成立しているのです。
言語を使う事自体が、他者との関係そのものなのです。

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アートスタディーズ第15回を終えて [報告]

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彦坂尚嘉
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五十嵐太郎
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南泰裕

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伊藤憲夫



昨日は無事昨日、アートスタディーズ第15回が終わりました。
全20回の内の3/4が終了したのです。

「五十嵐太郎さんが、ここまで来れば最後まで行くでしょう」と言って 
いましたが、
確かに、完了の実現性が見えて来たとは言えます。

ありがとうございました。

この記録写真は、斉藤ちさと さんの撮影によるものです。
撮影に感謝いたします。

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いつも、面白くて、やっている本人たちが勉強し楽しんでいるのですが、
今回も刺激的でありました。


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山田幸司

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一番の驚きは、山田幸司さんのレクチャーした石井和紘(いし 
い かずひろ)さんの業績でした。初期の直島の建築を見ていた 
だけに、私の評価は《第6次元》建築家として低かったのですが、狂気 
としか言いようの無いポスト・モダニズム建築の展開と、そしてアメリ 
カのそれの紹介活動は、目をみはるものがあります。さらに驚いたのは 
建築学会賞を受賞した数奇屋邑の後、建築がまともなものになって、 
《第1次元》のきちんとした美しいものに変貌した事です。

しかし2002年の赤坂一ツ木三度笠(街路灯)以降、忘れられてい 
るようで、作品が立っていないとのこと。


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平塚 桂

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平塚 桂(建築ライター)さんの「高松伸とポストモダンの時代」とい 
うレクチャーも、商業建築から出発した高松伸のドローイングの重要性 
や、商業建築というものの短命性も浮き彫りになって、日本のポストモ 
ダン建築の学習として、立体的で深みのあるものになりました。

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橋本純
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新堀学


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白濱雅也

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白濱雅也さんの廃墟論のレクチャーも、大変に良く準備されていて、面 
白かった力作でした。歴史的な事実以上になると、その解釈と芸術論の 
問題になるのですが、芸術というものが、実は骨董性と平行するものが 
あって、その辺が、廃墟の美学の問題になるのですが、この辺について 
は、議論の深まりが、やや浅かったように思います。それは司会の私の 
責任もあったと思います。



1985年からの美術を取り上げるとすると、正統には森村泰昌や、宮島達 
男を取り上げるとはおもいますが、しかし1991年のソヴィエトの 
崩壊による《近代》の終焉と言う問題を視界に入れると、雑賀雄二と宮 
本隆司の廃墟写真を取り上げる視点も、一理あると思いました。

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高橋 直裕
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高橋 直裕(世田谷美術館学芸員)さんのレクチャーと呼応する形で、 
雑賀雄二と宮本隆司の写真の美しさの差までが、 暮沢剛巳さん 
などからも指摘されて、藤原えりみさんの質問も絡んで、踏み込んだ議 
論になったと思います。

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藤原えりみ

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 暮沢剛巳

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伊藤さんの発言に彦坂が噛み付いたのですが、
それは宮本隆司さんのデビュー作品の『建築の黙示録』が、
もともと宮本さんが磯崎新の建築廃墟論を読んでいて生まれた写真であることを、
知っていたからです。そして『建築の黙示録』に、磯崎新の文章がついていますが、これを仕掛けたのは、宮本さん自身です。出版社の編集者ではないのです。宮本さんの写真を解釈する視点はいろいろあると思いますが、
その多様性と、基礎研究は食い違うのは、仕方がない事だと思います。

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最後に、会場から松田逹さんの質問もいただきました。


スタッフとパネリストのみなさまのご尽力と、観客としてのご参加をい 
ただくみなさまのお陰で、アートスタディーズは作動しています。改め 
て、深く感謝申し上げます。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。


彦坂尚嘉

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才能の無い私/無能な私(加筆1) [生きる方法]

Aさんより、次の様なご質問をいただいたので、
お答えします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ぼくは以前より詩に興味がありまして、美術の製作と詩を結合したいと考えています。

理由のないことではなくて、中高時代に俳句の地区公募で入選して賞をもらったことがあり、それも二度あったので偶然でもないなと勝手に思っています。


美術予備校に入る前はロックミュージシャンになろうとしていたのですが、曲も歌詞も作れなかったので挫折しました。

僕が強い影響を受けたのはブランキージェットシティーというバンドの浅井健一という人の歌詞で、とてもかなわないと気付き止めたんだと思います。


この人はまた、椎名林檎に多大な影響を与えた人でもあるのですが、椎名林檎はおそらく彼を超えているんじゃないかと思います。

(ブランキーおよび浅井についてはYouTubeで映像がたくさんあります。)


最近、椎名林檎の新曲の、有りあまる富というのを聴いて、その歌詞の内容に感銘を受けたのでまた詩を書いてみたいと欲求が湧いてきました。


そこで、もう少し詳しく、シニフィアン連鎖ということについて論じていただきたく思っています。。


以前中川さんの封筒の作品を論じられたブログで、シニフィエの連合とシニフィアン連鎖の違いについて書かれていました。

ビールという言葉があって、同じアルコール類で常識的に連想していくのがシニフィエの連合で、ビールのフランス語の意味表現から音の似ているものをつなげていくのが、詩的領域であり、シニフィアンの連鎖ということであったと思います。


また、バシュラールとヴァン・モリソンのシニフィアン併置という記述もありました。この場合の両者のシニフィアンにおけるつながりは両者共にシニフィエがないということなんでしょうか?

つまり「シニフィエの欠如」という文字や音声にした情報によって共通項を見出し、それを併置したというこになりますか?


また関連して質問もありまして、メイプルソープについて、形態の類似から作品を撮るということがあると思いますが、

普通に考えると形の類似を見つけるというのはシニフィエによる連想のように思うのですが、しかし、これはシニフィアン連鎖ではないのでしょうか?ということです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

Aさんよりのご質問にどのようにお答えするのか?

と言う事自体が、重要な問題なのです。

つまり、私が何かを答えたとしても、それをAさんが理解を出来るのか?

という事自体が、問題なのです。


Aさんの本質的限界を現しているのは、次の部分です。


僕が強い影響を受けたのはブランキージェットシティーというバンドの浅井健一という人の歌詞で、とてもかなわないと気付き止めたんだと思います。


人は実は様々なもので、実はその人にあった知識しか理解できないのです。

つまり人間は平等ではなくて、平等には理解できないのです。


自分より浅井健一がすぐれていると認めながら、

だから「かなわない」と思って作詞する事を止めたという事のうちに、

Aさんの人生のある態度が出ています。


「かなわない」と思う、その自分の無能性との向き合い方の問題です。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


人に何かを教えようとしても出来ない事があります。


書き文字を覚えていない非識字者に、白川 静についていくら教えても、

理解できないのです。


同様に、数学の苦手な子に、アインシュタインの一般相対性原理の数式を

講義しても、理解は出来ないのです。


つまり重要な事は、物事には積み重ねがあって、

ある重要な事柄を理解しないと、先には行けないと言う事です。


先に行かなくても良いのですが、

自分には理解できない事柄が、この世界にはたくさんある事を、

まず、認めなければ、なりません。


この世は、分からない事だらけで、

自分自身は無知無能なのです。

この分からなさと、自分自身の無能力性から逃げないで、

まず、認める勇気が無いと、何事も始まらないのです。


Aさんの問題は、自分より浅井健一がすぐれていると認めた時に、

ここで、「かなわない」と思った逃げた事です。


すべての事で、実は自分自身は無知無能であって、

自分よりもすぐれている人はたくさん、無数にいるのです。

この世界の中で、自分自身は一番劣っている存在なのです。

この最低の自分自身を認めて、まず、受け入れないと、

何も始まりません。


しかしAさんは 理由のないことではなくて、中高時代に俳句の地区公募で入選して賞をもらったことがあり、それも二度あったので偶然でもないなと勝手に思っています と書いている成功体験に捕われて、自分に才能があると思っているのです。この成功体験で、Aさんの人生はピークを迎えて、終わっているのです。


この成功体験を完全に否定できないと、

何も始まりません。


これが去勢です。

去勢をして、物事は始まるし、

学習する事が、始まるのです。


それが大人になる事の敷居なのです。


本当に、自分自身の無知無能性を認められる人と言うのは、

実は少数者なのです。

10人中8人くらいの人は、この辛い事実を認めない事で、

小さな成功の記憶にしがみついて、

永遠の子供の世界を生きて死ぬのです。


つまり人格的に成長できないで、

子供のままに停滞して、死ぬのです。


子供と言うのは、実は自分には能力があって、

本当は、何でも出来るという、神のような万能感を持っているのです。

子供の頃に、大人から ほめられた、ささいな成功体験を記憶し続けて、

この万能感を心の奥底に隠して、これに向って精神を集中する事が、

生きる事の最も重要なテーマになって、

そして何もやらずに死ぬというのが、

多くの凡庸なアーティストの生き方です。


神の様な全知全能の万能感と、無知無能性と、

そしてナルシズムに包まれた統合体としての自我・・・私自身を、

抱いて、死んで行く人々は、

しかし、安全な人々でもあり、

また危険な人々でもあるのですが、

この全知全能/無知無能の未分離性こそが、

《第8次元》性を形成して、人間社会の中心の大きな幹となっているのです。


ですから、この《第8次元》の世界の外に先ず、出る事が、成長のためには

重要なのです。


しかし、多くの人は成長をしたいとは、思っていないのです。


自分自身の人格を成長させたいとは思っていない事を、

まず、素直に、認めないと、困るのです。


そして、成長したく無ければ、そのままに、

つまり、ささやかに ほめられた時に喜びを抱いて、

ありのままに生きて死ねば良いのです。

人生とは、そうしたものなのです。


そういう身の丈の生き方をしたい場合には、

シニフィアン連鎖は、理解は出来ないのです。


メイプルソープについて、形態の類似から作品を撮るということがあると思いますが、

普通に考えると形の類似を見つけるというのはシニフィエによる連想のように思うのですが、しかし、これはシニフィアン連鎖ではないのでしょうか?ということです。


上記のメープルソープの類似性の併置と言う手法も、そもそもそれは表現の実体化を解体して行く手法であるのです。人間の外部を知覚する時に生じる実体化という自然作用を、どのように解体して行くのかということが重要なのですが、その事の意味を教えるのは、真の意味ではむずかしいのです。

 


なによりもナルシズムに捕われている人に、教える事は出来ないのです。


世の中には、教える事の出来ない事が、いくらもあるのです。


何よりも、一度ほめられて、ナルシズムに捕われている人に、

その人自身の無知無能性と、無意味性を、

教える事が出来ないのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


村上龍も、そして村上春樹も同様の事を書いていて、

読んだ覚えがありますが、

自分が無能で、書く事が出来ないと認めて、

初めて文章は書けるようになるのです。


そういう正直さがないと、文章は書けるようになりません。


詩も、美術も同様であって、

作れないと認めないと、作れるようになりません。


そういう意味では、文章を書いたり、

詩をつくること、美術を作る事のコツは、

極めて簡単なことなのです。


誰にでもできる、やさしい事です。


自分自身の無知無能性、無意味性を認めれば、良いだけなのです。


しかし、そのためには、

小さな成功体験を捨てなければなりません。


そんなもの、何の意味もないのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


村上隆さんも、アエラのインタビューで答えています。

「俺なんか、空っぽですよ」

この自分の無内容性を認めた時に、

つまり自分には才能が無いという、

そのことを認めた時に、初めて社会的な学習が始まるのです。


そうするとシニフィアン連鎖の意味が分かるようになります。


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島田忠幸さん [日記]

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三省という宿舎に泊っているのだが、
昨晩は島田忠幸さんに出会った。

島田さんは彫刻家なのですが、
自衛隊出身の方で、
落下傘の降下部隊にいたのです。

昨晩はその降下の話をいくつも聞いて、
面白かったです。

昨日の田麦では、
井上清仁さんと田島奈保子さんが手伝いに来てくれて、
さらに小蛇さんに藤本さんと田辺さんが来てくれて、
思ったよりも作業は進みました。


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シニフィエ論としてのラモーンズ/シンディ・シャーマン(改題加筆) [アート論]

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ラモーンズというのは、
アメリカパンク・ロック・バンドです。
音楽的には6次元で私は好きではありませんが、
情報化社会の表現を考える意味では重要なのです。

1976年にメジャーデビューしています。

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1975年にアメリカがベトナム戦争にやぶれて、
「2つの近代」の内の一つの自由主義の《近代》が終わった翌年に、
パンク・バンドのラモーンズは出現しているのです。

パンク・ロッックというと、興味を持たれない方も多いかもしれませんが、
情報化社会の音楽としては、
繰り返し登場してきて、
バットレリジョンとか、アヴリル・ラヴィーンなど、
高度な音楽性にまで展開してくる
ある種の流派とも言うべき様相を持ってきています。

ラップにも同様の現象が見られて、
《近代》の黒人音楽が変貌し続けたのに対して、
情報化社会の音楽は、同じ様式を繰り返す傾向が強く出ているのです。

これは美術にも言えて、
シンディシャーマンの亜流が世界中で量産的に出現してくるように、
同じ傾向の表現が、繰り返し焼き直されて、
似ているのですが非なるものとして登場してきます。

こうした情報化社会の芸術の類似性というのが、
実は重要な表現の性格であるようなのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ラモーンズを奈良美知が好きだと言っていて、
実際にラモーンズを主題に何枚も描いています。
つまりラモーンズとは何かという問いというのは、
奈良美知とは何か?という問いでもあるのです。

この問題をシニフィエ化の問題として考えたいと思います。


「はじめにすべてありき」という原則に照らしあわせれば、
ラモーンズのパンク・ロックというのは、
1975年という最初の近代の終焉後に出現したが故に、
情報化社会の表現の、すでに述べた流派性を示す
基本構造を持っていたのです。

 

ラモーンズは21枚のアルバムを残して、1996年に解散しています。
1995年というのは、第2次世界大戦が終了した1945年から50年が
たって、「戦後」という区分が完全に終わった年です。
日本では阪神淡路大震災とオウム地下鉄サリン事件が起きます。

つまりラモーンズは、アメリカがベトナムで破れて出現し、
そして第2次世界大戦後の時代の終わりとともに解散したという、
象徴的な2つの終焉期の間に生まれたバンドでした。

U2のボノは、「もしラモーンズが存在しなかったらU2も存在しなかっただろう」と発言していますが、確かにU2の音楽にも通ずるある本質的な6次元的な性格を、ラモーンズの音楽は示していたのです。それがフリの偽世界です。この「偽」というのは、荒木経惟の「偽日記」というのと同様にものです。

ラモーンズは、シンプルでキャッチーなメロディーラインをもっていました。そしてコードは3~4つのみを使用するという極めてシンプルでスピーディーな短い曲ばかりでした。それもダウンストローク一辺倒のギターリフ、リズムは8ビート中心という、ミニマリズムともいうべき音楽でした。

しかしこういう言い方では、ラモーンズの音楽に起きた事柄を説明する事はできません。それは初期のプレスリーと比較すると際立つのですが、エルビス・プレスリーのデビュー時期の記録フィルムを見ると、極めて激しい性行為を連想させるピストン運動の腰の動きを示しています。これは驚くべきもので、社会的避難を浴びて、抑制せざるを得なくなるのですが、こうした動きと、ラモーンズのステージアクションは、かなり違うのです。ラモーンズのパンク・ロックというのは、プレスリーらのロックンロールのコピーであり、6次元のデザイン化であり、ロックンロールのフリをした偽のロックンロールだったからです。




結論を急いで言えば、エルビスプレスリーの初期の過激な記録フィルムに見られる音楽性は、超次元の真性の芸術として音楽表現でした。それはシニフィアンに還元されている《近代》の音楽芸術と言うべき特徴をもつものです。今、その記録フィルムをYouTubeでは完全には見つけられません。貼付けたYouTubeの画像は、あくまでも抑制されてしまったものです。実物はもっと過激だったのです。プレスリーの長編記録映画で見られます。

プレスリーの、画像掲載できなかった本物の激しい動きと、ラモーンズのアクションの違いが、実は重要なのです。プレスリーの動きも性行動のフリなのですが、これが肉体の動きとしてはフリではなくて、本物の腰の動きなのです。それに対して、ラモーンズの動きは、すでにあるロックバンドの動きのコピーを、やや激しくしているのです。この根底にあるコピー性が重要です。

本物の腰の動きと、コピーを基盤としたフリの腰の動きの差が、重要なのです。

ラモーンズの動きは「フリ」なのです。つまりプレスリーの「本物」の性行動であるかのような本物の動きと、ラモーンズのロックンロールする模倣者の「フリ」の差があって、このラモーンズの模倣者特有の「フリ」性こそが、音楽表現がシニフィエ化したことを示しているのです。シニフィエ化というのは、実はこの「フリ」の事なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・
生物界には、20%80%という法則があります。
ミツバチの働き蜂を観察すると、本当に働いているのは20%で、
後の80%は、働いているフリをしているというのです。

人間の社会も同様で、本当に働いている人は20%で、
後の80%の人は、フリをしているのです。

アーティストの多くも、制作しているフリをしているだけです。
美術作品の80%は壊されると、
金と芸術 /なぜアーティストは貧乏なのか』に書いてありますが、
それはフリをした制作だからです。

フリというのは、手抜き行動であり、
同時に模倣行動です。

・・・・・・・・・・・・・

ここで重要なのは、フリの反対で、
本物に極度に還元される動きというのがあるのです。
本物主義です。

過剰に本物が追求されるという現象です。
それがシニフィアン化であると、
彦坂は考えるのです。

近代という産業社会の物質文明では、表現が物質の還元されて、プレスリーの初期ロックンロールの例で言えば、性的肉体の激しいピストン運動の本物主義へと還元される中で近代音楽表出されたのです。

それはポロックの絵画が、絵の具の滴りの物質性に還元されるドリッピングに還元される中で表出されることと見合っていたのです。

そこでは模倣は強く否定され、今までに無い表現が意図的に追究されていったのですが、それを可能にしたのがシーニュを物質に還元して、シニフィアンとして自立させる本物主義の中で実現されたのです。

それに対してラモーンズの音楽は、激しい演奏の「フリ」であって、この「フリ」という表現の仕方は、シンディ・シャーマンの「フリ」の写真作品と呼応しているものがあって、これが情報化社会を特徴づける表現のシニフィエ化なのです。

つまり80%のフリをしている模倣者の人々が、時代精神となって主役の座について、そのためにフリが独立し、自立化したのです。

ラモーンズのデビューした1976年と同じ年、シンディー・シャーマンはバッファローで初個展を開いているのです。この2つの表現は、実は同時代的な表現であり、それは1975年のアメリカのヴェトナム敗戦後の近代の終焉を特徴づける表現のシニフィエ化、つまり「フリ」の表現・・・それをシュミレーショニズムと言い換えるべきかもしれませんが、そうした偽の世界の出現を押し出してきたのです。

つまり表現のシニフィエ化とは、偽の表現であり、フリの表現の自立化です。それは実質との距離をもち、実体からあたかも自由であるかのような幻想の中で成立する表現なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《近代》というのは産業革命の運動でしたが、
産業革命には、
自由主義の産業革命と、共産主義の産業革命の2つががあったと、
ネグリ/ハートは『帝国』という本の中で指摘しています。

つまり自由主義競争による産業化と、
ソヴィエトや日本の明治維新期のように、
国家による計画経済としての産業革命の推進が
あったのです。

私は、この見方を受け継いで美術史を考えてきています。

1975年にアメリカがベトナム戦争に破れると、
自由主義の《近代》はここで終わり、
そして16年後の1991年にソヴィエとが崩壊すると、
共産主義の《近代》も終わって、
《近代》という時代は完全に終わるのです。

しかし《近代》という時代の終わりとはなんであったのでしょうか?
私見を申し上げれば、《近代》の終焉とは、
実は《近代》の反覆なのです。

《近代》という産業革命の世界は、
《近代》の終焉後に、情報革命としてもういちど、
同じ事を別の様態で繰り返すことになります。

たとえば現在の中国の世界は、情報化社会でしょうか。
自由選挙もしないで、情報統制をしている中国が、
情報化社会であるのではないのです。

実は中国は、まだ《前ー近代》の封建社会状態なのです。
共産党の一党独裁は、まるで幕藩体制のようです。
むしろ遅れた産業革命を展開している段階です。
産業革命が反覆されているのであって、
これはインドの状態も同様です。
多極化された現代世界とは、
実は遅れた《近代》なのです。

何かをするのではなくて、
何かをするフリをする形でするという、
《近代》の反覆が展開しているのです。
そこには同じ事がなされながら、奇妙な反転が生じます。

1991年のソヴィエトの崩壊は、実はアメリカの勝利ではなかった
のです。なぜならアメリカは、もっと早い1975年に敗北していたのですから。

実は冷戦構造という2大陣営の対立という構造が近代という構造であったのであって、これが1991年に終了する事で、1991年以降の世界は、多極構造の拡散化したものとなったのであって、「アメリカの一人勝ち」というのは、「根拠無き熱狂」であって、それが今日の世界金融危機の状況に至ったと言えます。ここでもアメリカの冷戦の勝利は、実質的な勝利ではなくて、勝利のフリであったのです。実質は本格的な多極化に、世界構造は展開していくなかで、情報革命が展開しながら、実は遅れた《近代》が反覆しているのです。


このシニフィエ化へ還元された世界とは、何なのか?ということを、
ラモーンズのパンクロックの中に見て見たかったのです。

・・・・・・・・・・・・・

しかし、ラモーンズや奈良美智的なフリだけの表現が世界を制覇し、満たしたのでは無かったのです。つまり表現はシニフィエ化によってのみ、成立したのではなくて、より複雑な構造に再統合される運動も登場してきているのです。それは次回に書く、セックスピストルズの問題として論じたいと思います。



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1985年革命? [告知]

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1985年〜1994年の美術

 

 一九八六年からバブル経済が始まるのですが、美術でも根本的な変動が起きます。空間そのものが拡張されて行く感覚があって、それは例えば国立近代美術館で一九九五年に開催された辰野登恵子の回顧展が一九八六年〜一九九五年であったのですが。この気切りがこの時代の空間の拡張を良く示していました。それは同時に森村泰昌や宮島達男の登場の時代で、それに続いて一九八九年に村上隆の最初の個展が開催されます。そしてこの一九八九年にはベルリンの壁画壊れ、一九九一年にはソビエトが崩壊するのです。

 この一九九一年のソヴィエト崩壊をもって、実は近代が完全に終わって、情報化社会という、脱近代の時代が始まります。実際にこの一九九一年にW...というシステムが登場する事でインターネットが誰でも使えるようになって、世界は、ソヴィエトの崩壊とこのインターネットによって急速にグローバル化して行くのです。この一九九一年の大変動の年に向けての準備段階が一九八六年のバブル経済の始まりであって、ここに登場したのは、現代アートという別の美術でありました。それは実は近代という産業化社会の物質文明性を完全に脱した情報化時代の情報文明の芸術だったのです。

 ですからこの時代を代表するのは、森村泰昌や宮島達男などのアーティストなのですが、しかしこの時代は同時に雑賀雄二や宮本隆司の廃墟写真の登場した時代でもあったのです。バブルの華やかさの陰で、実はバブル後の失われた十年と呼ばれるようになる日本社会の崩壊を先取りした写真表現が登場していた事は、忘れてはならないものがあります。


名品とは何か?

 

 

 人類の歴史の中で、芸術作品もその様態を変化させて来ています。

 自然採取の原始時代の美術も、次第に変化して、日本の例で言えば、縄文中期の火炎型土器や王冠型土器のような複雑なものにまで至っています。その後に稲作がはじまり、農業革命が伝播すると急速に文明化して、美術や建築も変貌します。この変貌の大きさには目を見張るものがあります。

 先日東京国立博物館で展示された阿修羅像は、日本の仏教彫刻の中で、初めて《超1流》になった名品です。今回の展示では後ろまで見ることが出来たのですが、後ろまで良くできていて、見事に彫刻になっていて、深い感動に捕われました。後ろから見られる事は、同時に側面からも見える事で、三つの顔を持つ像ですが、正面の顔が《超次元》、左の顔が苦悩に満ちている《第41次元》、そして右の顔が《第6次元》という自然性の領域になっていて、その世界観の大きさに驚かされました。3組の手の表現もすばらしくて、特に上にのばされて一組の手が、巨大空間を支えるように成立していて、彫刻としての大きさを示していました。こうした《真性の芸術》に触れると、初めて、我々は芸術のすばらしさを知るのです。多くの観客が来ていましたが、このこともまた深い感動を呼ぶ事実でありました。



シニフィアンからシニフィエへ

 

 産業社会から、情報社会への転換は、物質文明から、知価文明への転換と言えるでしょう。それは現実には情報リテラシーとか、コンピューター・リテラシーの必須化として登場して、これらの無い人を、非識字者として排除する動きとなって顕在化しました。

 美術や建築、さらには音楽、そして文学に現れて来ている事は、こうした新しい識字(リテラシー)が、表現のシニフィアン(記号表現)から、シニフィエ(記号内容)化というかたちで出現している事です。

 ソシュールが一般言語学として考えた言語というシーニュ(記号)は、シニフィアン(記号表現)とシニフィアン(記号表現)が、不分離なものとして考えられていました。しかし芸術表現の分析にこの用語を拡張して使うと、産業革命以前の前近代の表現は、シーニュとしての統合性が見られます。しかし産業革命をへた以降の芸術は、物質文明性へと還元される動きに巻き込まれてシニフィアン化して行くのです。このシニフィアン性こそがモダンアートの大きな特徴であったのです。

 しかし一九七五年にアメリカがベトナム戦争に敗れた以降になると、音楽や美術はシニフィエ化して行きます。物質文明の芸術から、情報文明の芸術への転換が、表現のシニフィエ(記号内容)化として現れた所に、情報芸術の新しさがあったのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

『第15回アート・スタディーズ 』へのお誘いです。
7月6日(月)午後6時から京橋のINAX:GINZAです。

              ディレクター・彦坂尚嘉
======================================================
レクチャー&シンポジウム
20世紀日本建築・美術の名品はどこにある?
第15回アート・スタディーズ 
1985年〜1994年「『85年革命』期の建築と美術」

「1985年前後に新人類と呼ばれる著名人が登場し日本社会に旋風を巻き起こした」と
いう主張が「85年革命」と呼ぶもの。批評では浅田彰、中森明夫など、 美術では森
村泰昌、宮島達男など、建築ではポストモダン建築が流行している。文学では田中康
夫、高橋源一郎、島田雅彦、小林恭二などなのだろうが、たしかに1986年のバブル経
済の中で、日本の国際化も急速に進展して、1990/2000年代の《根拠なき熱狂》へと
登り詰める出発点を形成しています。

ゲスト講師

【建築】テーマ 《日本のポストモダンと装飾》
   
    講師  平塚 桂(建築ライター)
        サブテーマ「高松伸とポストモダンの時代」
        
        講師  山田 幸司(建築家) 
        サブテーマ「ジャジィなポストモダン−石井和紘−」

【美術】テーマ 《「日本の廃虚化」を未来に見て》
           
    講師  白濱 雅也(アーティスト、デザイナー)
        サブテーマ
        「雑賀雄二『軍艦島』廃墟芸術は予知夢か」
   

    講師  高橋 直裕(世田谷美術館学芸員)
        サブテーマ 「宮本隆司−都市の変貌と写真−」

『アート・スタディーズ』とは?
アート・スタディーズは多くの人の鑑賞に資する、歴史に記録
すべき《名品》を求め、20世紀日本の建築と美術を総括的、通
史的に検証、発掘する始めての試みです。先人が残してくれた
優れた芸術文化を、多くの世代の人々に楽しんで頂けるよう、
グローバルな新たな時代にふさわしい内容でレクチャー、討議いたします。
いたします。

◆ディレクター
彦坂尚嘉(美術家、日本ラカン協会会員、立教大学大学院特任教授)
◆プロデューサー
五十嵐太郎(建築史家、建築批評家、東北大学助教授)
◆アドバイザー
建畠晢(美術批評家、国立国際美術館館長)
◆討議パネリスト
◇五十嵐太郎(建築史、建築批評、東北大学准教授)
◇ 伊藤憲夫(元『美術手帖』編集長、多摩美術大学大学史編纂室長)
◇暮沢剛巳(文化批評、美術評論家)
◇藤原えりみ(美術ジャーナリスト)
◇橋本純(編集者)
◇南泰裕(建築家、国士舘大学准教授)
◆司会
彦坂尚嘉(アート・スタディーズ ディレクター)
◆年表作成
橘川英規(美術ドキュメンタリスト)



◆日時:2009年7月6日(月)
17:30開場、18:00開始、21:00終了、終了後懇親会(別会場)
◆ 会場:INAX;GINZA 7階クリエイティブスペース(前回までと異なります)
(東京都中央区京橋3−6−18/地下鉄銀座線京橋駅2番出口徒歩2分)
(当日連絡先は 090-1212−4415 伊東)
◆定員:60名(申込み先着順)
◆参加費:500円(懇親会参加費は別途)
◆お申し込み・お問い合わせは
氏名、住所、所属、連絡先、予約人数を明記の上、下記e-mailアドレスへ
art_studies2004@yahoo.co.jp

詳細情報はこちら
http://artstudy.exblog.jp/

◆主催 アート・スタディーズ実行委員会
◆共催 リノベーション・スタディーズ委員会
     
◆後援 毎日新聞社
    日本建築学会
    日本美術情報センター

◆ 協力 ART BY XEROX  

 

 

 


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