アート・ローリングプレイゲームについて [アート論]
いつも拝見させて頂き、大変勉強になっております。
今回の記事も非常に興味深い内容でした。ありがとうございます。
ところで、ひとつ気になったので質問させていただきます。
私はささやかに生きることを選択した、この話でいえば、身の丈にあった生き方を選択した人間です。それを自覚しております。なので、興味で聞くのですが、
彦坂さんだとか、両村上さんのようなアーティストの方たちが、自分が無能力であることを自覚し、彦坂さんの言うように、自分がこの世で最も劣っている人物であると、自覚して、それでもなお、自らの道に固執し、努力していくその根拠というか、目的というか、なぜ自分が一番劣っているとわかっていながらその道でやっていこうと思うことができるのでしょうか?
私のような凡人にはこの辺が理解できなかったです。もし、私ならば、「私はこの世で最も絵の下手な人間である」と自覚することはできても、絵の道で生きていくことは選択できないと思うのです。
理解力がなくてすいません。ついわからずに質問してしまいました。
なにか失礼な発言がありましたら、それは意図してのことではありません、お許しください。
もし、時間に余裕があれば、お答えいただければ幸いです。
お仕事がんばってください。いつも応援しております。
では、失礼します。
by 凡夫 (2009-07-07 09:20)
自分にとってタイムリーな話なので割り込ませて頂きます。
ぼくはテキスト中心のブログを書いてるのですが、書きたいことはモヤモヤとあるはずなのに、いざ書こうとすると書けないということで悩んでいました。
そこで書けない原因を考えたところ、書くための「前提」がはっきりしていなかったのだということに気付き、ここしばらくはその「前提」について投稿してました( http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-55ac.html 以降の記事です)。
「前提」というのは、まさに「自分はいかにバカで無能か」ということの自覚です。
自分の「無知無能性」がハッキリすると、そこを立脚点にしてものを考えることができます。
逆に「無知無能性」という立脚点がないと、何かを考えたり、作ったりしても空中分解してしまうでしょう。
しかし、自分の「無知無能性」を知るということは、簡単にできることではありません。
「無知の知」という言葉通り、自分の無知を知ることが、すなわち「知る」ということだからです。
哲学者や思想家が「無知の知」に励んでいるのに、自分のような「バカ」が「ものを考える」ことに何の意味があるのか?と途方に暮れることもありますし、中断して投げ出すこともあります。
いや普通、自分の「身の丈」をわきまえた人は、分不相応な無駄な努力はしないものです。
しかしぼくのように、ムダと分かってもどうにもあきらめきれない思いのある人は、「あるもの」に囚われているのだといえます。
ぼくなりの表現をすれば、それは人間の認識世界と外部世界との「境界面」です。
認識の外部世界は、概念的に想定することは出来ますが、文字通りそれを人間が認識することは出来ません。
しかし人間の認識世界に、認識できない外部世界が「境界面」となって表れることがあり、それが「認識の境界面」です。
「認識の境界面」とは、例えば「死とは何か?」とか「時間とは何か?」とか「存在とは何か?」というような哲学的問いがそうだと思います。
これらの問いは「認識の境界面」を扱ったものであり、また「認識の境界面」が「哲学的問い」という形態で表れたと見ることもできます。
普通の「身の丈をわきまえた人」は、このような問いは「無駄なこと」として考えようとはしません。
しかし「哲学者」と呼ばれる人種は、その問いを考えることが無駄だと分かっていながら、なおその「問い」にこだわってしまいます。
つまり哲学者は、「認識の境界面」そのものに囚われているわけです。
普通の「身の丈をわきまえた人」は、人間の認識世界の範囲内での「無駄なこと」を排除しようとします。
しかし「認識の境界面」に囚われた哲学者にとって、認識世界内での「無駄」という価値判断は意味を持ちません。
これは「芸術」も同じであって、芸術家とは「認識の境界面としての芸術」に囚われた人だということが出来ます。
芸術が「人間の表現の可能性の追求」だとすれば、「可能性」とはすなわち「認識の境界面」と言い換えることが出来ます。
つまり優れた「芸術」は、「認識の境界面」として認識世界に立ち現れるわけです。
「認識の境界面としての芸術を」認識するには、絶えず新たな「芸術の創造」(作品制作のほか、鑑賞、評論、コレクションなど)をし続けなければなりません。
「芸術の創造」に参加しなければ、芸術を「認識の境界面」として捉えることはできません。
なぜなら、芸術作品は製作された直後から、徐々に「認識世界」に取り込まれ「普通」になってゆくからです。
そのような「芸術」を目の前にして、「自分は絵が下手だから」とその道を断念するのは、認識の範囲内での判断です。
しかし「認識の境界面」としての芸術に囚われた芸術家は、自分の「無知無能性」を立脚点にしながら、その可能性に向かうしか道が無く、「現実的には無駄なことだ」などと考える余裕が無いのです。
ぼくの場合は、美大を卒業したのに「絵が下手」で、しかも学歴社会から逃げるために美大に進学したほどの「バカ」ですが、どういうわけか「コンセプチュアル・アート」などと無謀なことをするハメになり、自分でもほとほとあきれ果ててしまいます(笑)
哲学にしろ芸術にしろ、「認識の境界面」なんか見えないほうが普通の意味では正常だし幸福なんだと思います。