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アート・ローリングプレイゲームについて [アート論]

無能について書いたブログに、
以下の様な、コメントをいただきました。


いつも拝見させて頂き、大変勉強になっております。
今回の記事も非常に興味深い内容でした。ありがとうございます。

ところで、ひとつ気になったので質問させていただきます。
私はささやかに生きることを選択した、この話でいえば、身の丈にあった生き方を選択した人間です。それを自覚しております。なので、興味で聞くのですが、
彦坂さんだとか、両村上さんのようなアーティストの方たちが、自分が無能力であることを自覚し、彦坂さんの言うように、自分がこの世で最も劣っている人物であると、自覚して、それでもなお、自らの道に固執し、努力していくその根拠というか、目的というか、なぜ自分が一番劣っているとわかっていながらその道でやっていこうと思うことができるのでしょうか?

私のような凡人にはこの辺が理解できなかったです。もし、私ならば、「私はこの世で最も絵の下手な人間である」と自覚することはできても、絵の道で生きていくことは選択できないと思うのです。

そこを選択するのは、いったい何を根拠に、選択しているのでしょう?この話では少なくとも自らの才能ではないわけですよね?

こんな私でも、ひとつの根拠は考えられるのですが、それは「好き」という根拠です。もし、とにかく絵を描くことが好きであれば、それは根拠になるかもしれません。しかし思うのですが、「好き」という感情だけで、「この世で最も絵がへた」という壁は超えられるものでしょうか?根拠として成立するのでしょうか?私にはどうしても、自分がこの世で最も絵がヘタだと自覚してしまうと、絵の世界で生きることが考えられなくなってしまうのですが。。。


理解力がなくてすいません。ついわからずに質問してしまいました。
なにか失礼な発言がありましたら、それは意図してのことではありません、お許しください。
もし、時間に余裕があれば、お答えいただければ幸いです。
お仕事がんばってください。いつも応援しております。
では、失礼します。 
by 凡夫 (2009-07-07 09:20)  



凡夫様

コメントありがとうございます。

「なぜ自分が一番劣っているとわかっていながらその道でやっていこうと思うことができるのでしょうか?」というご質問は、たいへんすぐれた質問だと思います。

ここに本質があるのでしょうね。

キルケゴール的に言えば、それが「絶望」の問題です。キルケゴールの『死に至る病』というのは絶望について書かれた本で、私は8回読んでいますが、ある意味では実は「なぜ自分が一番劣っているとわかっていながらその道でやっていこうと思うことができるのでしょうか?」という問いに対する、答えです。

それは絶望するその自分自身になって行くという、そう言う行為について書いています。自分以外のものになろうとするのではなくて、絶望している自分自身になろうとするのです。そのときに恩寵とも言うべき、他者の存在が出現します。 

私の個人的な経緯ですと、20歳の誕生日を病院のベッドで迎えています。この時に意識したのは関根正二という画家です。彼は20歳と3ヶ月で死んでいます。後3ヶ月では関根正二のような画家になれないという事を意識します。自分に才能は無いと思いました。ならば、才能ではなくて努力だけで美術家になろうと思ったのです。

この場合に、正確には他者の作品、あるいは、過去の人が現れます。すぐれた美術家の作品とか、偉人と言われる画家の闘いです。すぐれた他者の作品によって、自分が救われるのですね。先日の阿修羅展での阿修羅像のすばらしさというのも、一つの大きな救いであって、あのような作品存在そのものが、自分の絶望に呼応してくれて、すべての存在を「良し」と認める肯定感覚を蘇らせてくれます。つまり先人の努力を信じて、それを努力だけで理解して、その高みへの階段を一つずつ登ろうと思うのです。


高度の精神性を持った作品と言うものが、私と向き合ってくれる事で、私自身の存在の低さが明確になるのです。その低さから、高さへの道のりを歩もうと思うのです。

つまり、過去の他者の作品があるから、私が生きられて、今に耐える事ができる。

しかしフロイト的に見れば、そうしたすぐれた過去の作品に感動している事自体も、「きばらし」に過ぎない事であります。つまり、自分の無知無能に打ちのめされながら、その絶望を気晴らししているに過ぎないのです。

私もそう思います。人間に必要なことが《気晴らしアート》にすぎなくて、それ以上のものではないのです。しかしその《きばらし》にもいろいろなものがあるのですね。一番簡単な《きばらし》が麻薬であって、麻薬は努力無しに《きばらし》ができます。この麻薬から一番遠くにあるものが、すぐれた作品です。すぐれた作品を見たり読んだりすることによって、我慢して努力していくという、修行とか、求道という、長い歩みによってしか達し得ないゲーム世界があらわれます。つまり人生の絶望に耐えることが出来る。

つまりロールプレイングゲーム(RPG)なのです。
コンピューターRPGと、芸術RPGというのは、領域が違うだけで、基本は同じ構造です。コンピューターRPGが疑似体験型冒険物語であるのに対して、芸術RPGというのも疑似体験型冒険物語なのですが、疑似性の領域が違うのです。
ですから芸術家への道のりとか、『芸術への道』というのはRPGなのです。ゲームをコンピューターの中でやるのか、社会の中でのアーティスト成功ゲームとしてやるのか、さらに美術史の中での芸術探究ゲームとしてやるのか、その領域の違いだけなのです。

そして問題は安易なRPGをするのか、難易度の高いRPGをするのかの違いなのです。

人間が生きて行く事はたいへんで、ただ耐える事や、我慢する事です。それはコンピューターRPGであっても、社会RPGであっても、美術史RPGであっても、同じで、我慢して試行錯誤を繰り返し、体験を蓄積して行く事です。我慢と蓄積だけが生きる方法です。

すぐれた作品と言うのは、こうした我慢による体験の蓄積を良くやっていて、耐えた果てに出現して来ている正直な意識の表明なのです。

さて、私のこのような説明よりも、以下のような糸崎公朗さんのコメントが、問題の所在を良く説明してくれています。

 

糸崎

自分にとってタイムリーな話なので割り込ませて頂きます。

ぼくはテキスト中心のブログを書いてるのですが、書きたいことはモヤモヤとあるはずなのに、いざ書こうとすると書けないということで悩んでいました。
そこで書けない原因を考えたところ、書くための「前提」がはっきりしていなかったのだということに気付き、ここしばらくはその「前提」について投稿してました( 
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-55ac.html 以降の記事です)。
「前提」というのは、まさに「自分はいかにバカで無能か」ということの自覚です。
自分の「無知無能性」がハッキリすると、そこを立脚点にしてものを考えることができます。
逆に「無知無能性」という立脚点がないと、何かを考えたり、作ったりしても空中分解してしまうでしょう。

しかし、自分の「無知無能性」を知るということは、簡単にできることではありません。
「無知の知」という言葉通り、自分の無知を知ることが、すなわち「知る」ということだからです。
哲学者や思想家が「無知の知」に励んでいるのに、自分のような「バカ」が「ものを考える」ことに何の意味があるのか?と途方に暮れることもありますし、中断して投げ出すこともあります。

いや普通、自分の「身の丈」をわきまえた人は、分不相応な無駄な努力はしないものです。
しかしぼくのように、ムダと分かってもどうにもあきらめきれない思いのある人は、「あるもの」に囚われているのだといえます。
ぼくなりの表現をすれば、それは人間の認識世界と外部世界との「境界面」です。
認識の外部世界は、概念的に想定することは出来ますが、文字通りそれを人間が認識することは出来ません。
しかし人間の認識世界に、認識できない外部世界が「境界面」となって表れることがあり、それが「認識の境界面」です。

「認識の境界面」とは、例えば「死とは何か?」とか「時間とは何か?」とか「存在とは何か?」というような哲学的問いがそうだと思います。
これらの問いは「認識の境界面」を扱ったものであり、また「認識の境界面」が「哲学的問い」という形態で表れたと見ることもできます。
普通の「身の丈をわきまえた人」は、このような問いは「無駄なこと」として考えようとはしません。
しかし「哲学者」と呼ばれる人種は、その問いを考えることが無駄だと分かっていながら、なおその「問い」にこだわってしまいます。
つまり哲学者は、「認識の境界面」そのものに囚われているわけです。
普通の「身の丈をわきまえた人」は、人間の認識世界の範囲内での「無駄なこと」を排除しようとします。
しかし「認識の境界面」に囚われた哲学者にとって、認識世界内での「無駄」という価値判断は意味を持ちません。

これは「芸術」も同じであって、芸術家とは「認識の境界面としての芸術」に囚われた人だということが出来ます。
芸術が「人間の表現の可能性の追求」だとすれば、「可能性」とはすなわち「認識の境界面」と言い換えることが出来ます。
つまり優れた「芸術」は、「認識の境界面」として認識世界に立ち現れるわけです。
「認識の境界面としての芸術を」認識するには、絶えず新たな「芸術の創造」(作品制作のほか、鑑賞、評論、コレクションなど)をし続けなければなりません。

「芸術の創造」に参加しなければ、芸術を「認識の境界面」として捉えることはできません。
なぜなら、芸術作品は製作された直後から、徐々に「認識世界」に取り込まれ「普通」になってゆくからです。
そのような「芸術」を目の前にして、「自分は絵が下手だから」とその道を断念するのは、認識の範囲内での判断です。
しかし「認識の境界面」としての芸術に囚われた芸術家は、自分の「無知無能性」を立脚点にしながら、その可能性に向かうしか道が無く、「現実的には無駄なことだ」などと考える余裕が無いのです。
ぼくの場合は、美大を卒業したのに「絵が下手」で、しかも学歴社会から逃げるために美大に進学したほどの「バカ」ですが、どういうわけか「コンセプチュアル・アート」などと無謀なことをするハメになり、自分でもほとほとあきれ果ててしまいます(笑)
哲学にしろ芸術にしろ、「認識の境界面」なんか見えないほうが普通の意味では正常だし幸福なんだと思います。

by 糸崎 (2009-07-07 16:35)  

糸崎さんの言う認識の境界面というのが、ロールプレイングゲームです。学問や、芸術論というのは、このRPGなのです。この境界面=ゲーム領域に立たないと、なかなか制作や執筆を絶え間なくしていくことは、むずかしいのだろうと思います。

普通の人とか、凡庸に生きようとする人は、ゲーム領域に入らないのです。ロールプレイングゲームの領域と言うのは、試行錯誤の経験を蓄積して問題を解決して行く領域ですが、凡庸と言う領域は、蓄積をしない領域なのです。そこは平明で、直接的な、自明な体験世界です。
その意味では、実は芸術というのは簡単なことであって、碁のように誰でも出来る事なのです。芸術は碁のゲームをする人には把握できて、碁のゲームをしない人には理解できない抽象的なものなのです。

物事を見たり、行動するのには、実は2つあって、平明で、直接的で、自明な《自然的な態度》で行うものと、直接性ではなくて蓄積性で成立する境界面=ロールプレイングゲームの、ゲーム内での行為と2つあるのです。
このゲームへの参入を事を自覚すると、行動が作動するようになるのです。
ゲームへの入り口に無知無能を自覚しないと、ゲームのルールを学び始められないという入り口の関門があるのです。
ただ、ここでも2つのゲームがあるので、それを間違えると分からなくなります。つまりロールプレイングゲームのように体験を蓄積して行くゲームと、博打のように《自然的な態度》で行うゲームです。この《自然的な態度》で行うゲームは、ゲームであっても芸術ではなくて、デザインなのです。デザインというのは、《自然的な態度》で行うゲームで、その基盤にあるのは平明な自明性なのです。

平明な自明性というのは、勉強や努力をしないでも分かる自然な領域です。
自然に生きると言う事は、決して悪い事ではないのです。
だから凡庸性や自然性、そして平明性というのは、いつの時代にも多くの人々の生活世界を形成する重要な基盤なのです。
この自然的な生活世界から、芸術というロールプレイングゲームを見る事は、ちょうど野球を観戦するようなものであって、ゲームのルールさえ分かっていれば面白いものなのです。スポーツ観戦にもいろいろあるように、芸術観戦にもいろいろなゲームがあるのです。

そのアーティストがギャンブルをやっているのか、社会成功アートゲームをやっているのか、あるいは美術史的探究ゲームをやっているのか、他にもゲームはあるのですが、そのゲームの違いもまた、見分けそれ自体はむずかしいのです。
アートゲームそのものは、難易度の高いゲームであるのです。
少なくとも碁や将棋、チェス程度のむずかしさはあるのです。
ですからアーティストになるというのは、プロの棋士になる程度のむずかしさはあるのだろうと思います。

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