狂乱の世界 [生きる方法]
1950年代以降を今と弾き比べる時代感覚の錯誤が、指摘されました。
これは、重要な指摘だと思います。
私も、1930年代こそ、今と比べるべき時代だというご指摘に、
賛成します。
しかし、それだからこそ、
1950年代に目を向けている、つもりなのです。
日本の1930年代は、いつ、終わったか。
それは、各方面でずれがあると思いますが、
少なくとも日本のキリスト教界(新教に限る)では、
1950年代に、やっと、おわります。
1950年代になるまで、
1930年代の思想を引き継いだ1940年代の指導者が、
相変わらず、平然と、日本のキリスト教界に君臨していました。
そのことを総括するのは、1950年代になってからなのです。
ニヒリズムが、1950年代の大問題でした。
それは、キリスト教以外の思想圏との連動もあります。
しかし、ニヒリズム克服の運動の中で、
1930年代を総括したことは、事実です。
文学では、椎名麟三が、新教を代表しています。
そして、椎名に連携している神学者たちが、
私の研究対象となっています。
その神学者たちは、
1940年代の顛末を振り返り、
自分たちに欠けているものを見据えます。
そして、その欠損故に起こってくる待望にこそ、
1930年代を克服する足がかりを見出したのでした。
その今、1930年代を克服しようとした1950年代に学ぶこと。
それは、まず第一に過去の失敗に学ぶことを目指すものですが、
同時にまた、「新しい生産」の可能性を模索することにも、
つながるかもしれません。
エールをいただきましたこと、ありがとうございました。
そして、もうひとつ。
原題は、虚無主義が全体を覆っている、とうのは、事実です。
しかし、私は、教師として考えます。
若者たちは、世界を見渡すことができるようになって、
皆、押し並べて、ショックを受けているようです。
それは、おっしゃる通り、
虚無主義が跋扈している現状を知って、
「こんなはずではなかった」というショックです。
私は、教養の教師ですから、
世界の実相を伝えなければならない。
その時、常に、
新しく虚無主義と向き合わされる若者たちと共に、
虚無主義と、戦わなければならない。
そうした私にとって、
1950年代に、学ぶことが多くあると思っているのです。
文明様態選択の自由 [生きる方法]
西欧に農業革命が起こる前から、存在しました。
それは、「唯一神」を「父・子」に分ける理論から始まり、
「聖霊」の理論によって、無限に分化することに至ります。
その背景には、古代ローマの「古代的資本主義」というべきものがある。
それは決して中世西欧的「農業社会」を背景に作られたものではない。
この点は、重要かと思われます。
現代において私が有効であると思われるのは、
「関係の類比」と呼ばれるものです。
それは、無限分化する全体が、
関係性において一体性を保つという理解です。
その概念は、「農業社会」においては異端視されるものです。
しかし、近代以降、K・バルト以降の現代に至るまで、
「関係の類比」としての三位一体論は、
世界を説明する原理として、有効性を有していると思われます。
ただし、そこには、最深奥部に致命的な欠陥があるのが残念ですが。)
以上、第一の事柄として、
「三位一体論の崩壊」というご指摘に、反論いたしました。
三位一体論の崩壊 [生きる方法]
(前略)
私は、キリスト教の神学者です。
神学者は、物事を三位一体論的に考える癖をもちます。
「三位一体論的」というのは、
「多」と「一」が矛盾しつつ統合される動的視点です。
三位一体論的な視点からすると、
「3界の分離」という理解の困難さと重要さのご指摘は、
極めて大切で適切だと思われました。
その理解こそ、「迷信」と戦う足がかりになる。
本当に、そう思います。
「分離」と同時に、「統合」についても、
考えられなければならないのではないか、
ということです。
つまり、「サントーム」の問題です。
私は、ラカンについては門外漢です。
内田樹さんと斎藤環さんのお仕事から、
長年、その魅力に引き寄せられつつあったのですが、
まだ、「敬して遠ざけて」いる状態です。
ですから、間違えているかもしれません。
私の理解では、サントームとは、
「3界」を「人為(art=als)で統合する第4界」です。
そう思うと、彦坂様の「格付け」も、理解できるような、
そんな気がしているからです。
私の質問は、
「3界」と「第四界であるサントーム」のつなぎ目は何か?
ということです。
この質問は、彦坂様の「ナウシカ」批判によって引き起こされたものです。
漫画版「ナウシカ」は、確かに、破綻した物語です。
でも、それは、その破綻の中に、重要な価値をもっている。
私はそう思っています。
なぜなら、その破綻においてこそ、
《想像界》の限界性が(期せずして)体現され、
その「先」への欲望を、読者に強烈に与えるものとなっている、
そう思うからです。
その意味で(のみ)、
漫画「ナウシカ」は、高く評価されると思っています。
この、「ナウシカ」をめぐる評価の違いに、
彦坂様の理論への疑問が、生じました。
漫画「ナウシカ」は、
確かに「先送り」でお茶を濁しているのですが、
しかしその「先」は、
《現実界》《象徴界》となっているのではないか?
《他の次元の不在》を露骨に示すこと。
そのようにして、
却って、《他の次元への渇望》を
呼び起こすことができるのではないか?
そして、その渇望の中にこそ、
《他の次元》は生起してくるのではないか?
一つの次元に閉じ込められることで、
その次元の底にある破れを示し、
そのようにして、読者の内部に《サントーム》を萌させる、
それも、芸術の価値ではないだろうか。
ここで「芸術」と言っていますのは、
もちろん、近代以来のfine artに限定されません。
宗教や政治や科学を含む、「人為」全てを意識しています。
artはもともと、alsと表記された昔、
そのようなもの、だったのですから。
たとえば科学について。
ほんとうに科学を突き詰めるなら、
人は「無」の問題と向き合わなくてはならなくなる。
そして、「その先」を、科学の外に、求めなければならなくなる。
でも、それは自己否定をしなければ、進めない。
そのギリギリの場所で、破綻を体現してみせること、
たとえば、近年のドーキンスの仕事は、
そういう意味で、尊敬に値するものだと思っています。
そんな似非専門家が、「迷信」を広めて自己を守る。
そこに、「自己愛性人格障害」的状況が生じているのだと、
本当に、そう思います。
1950年代に似て、新しい体制が出来上がろうとしている今、
彦坂様がご指摘になっている通り、
大崩壊が始まろうとしているのだと思います。
そして、その中で、ニヒリズムが、
やはり1950年代と同様、これから、大問題になるのではないか。
(その時、「情報」という言葉が、キーワードになりそうです。
その意味で、西垣通さんの書籍のご紹介は、有難いことでした。)
虚無主義と、どう向き合うか。
それを否定する強い言説を彦坂様から頂き、
それに感銘を受けつつ、考えています。
虚無主義を「取り込む」ことは、できないのだろうか。
聖書でも、「無」が語られることがあります。
それは、パウロが言っているのですが、
「被造物は虚無に服した、それは、新しい命への待望として・・・」
という思想です(ローマ書に出てきます)。
「無」というものは、実は、「サントーム」的な、
人為(art=als)としてのみ、意味をもつ。
そのようにしたとき、「無」は、
究極の人為として、非常に重要なものとなる
・・・とは、言えないでしょうか。
無は存在しません [生きる方法]
思い出してくれる人が無くなったときに、存在は消えてゆくのですね。
私も亡くなった祖父や祖母や父のことを思い出したり、語るとき、彼らは
まだ存在しています。私が死んだとき、彼らは本当に消えてしますのだと
思っています。
心よりお悔やみ申し上げます。
文化は学習の連鎖である(校正2) [生きる方法]
普通の意味で、勉強のできない人という範囲を超えて、
学習の出来ない人が沢山います。
学習というのは、他人の思考を学び、それを吸収する事です。
ですから、学習した人の頭の中には、他人の思考が入っているのです。
しかし自己愛性人格障害の人は、他者排除をしますから、
学習ができません。
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そもそも言語自体が、自分の造ったものではありませんから、
他者のものを使って考えるのです。
言語の他者性というのは、重要なものです。
他人の本を読まない人は、文章を書けません。
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私は今も読書会をしますが、
読書会に参加しないタイプの人がいるのです。
五十嵐太郎さんも、学生時代から沢山の読書会をして来ていますが、
私も大学時代から読書会をくり返して来ています。
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文章を書くためには、人の文章を7倍は読まなければなりません。
私の基本は、キルケゴールと、フッサールです。
フッサールの後に、ジャック・ラカンを読んで来ています。
日本人でいうと、まず内村鑑三です。それに今道友信、谷川雁。
こうした人々の思考をくぐって、考えているのであって、
それは普遍的なものです。
ラカンでいえば、ソシュールの言語学の用語であるシニフィエ、シニフィアンという
言葉を借用しつつ、意味内容を変形しています。
こういう用語の借用と、意味のずらしや、変形は、多くの哲学者や思想家に見られる
ものです。
私の使う、現実界や、サントームという用語の使い方は、
ラカンの用語の借用ですが、内容はずいぶん違ってきていますので、
そのことは、繰り替し断りを書いてきています。
ラカンのように、造語することも重要ではありますが、
他人の用語を使い、変形して行く事も、文化をつくる基本であり、
重要な事なのです。
村八分に耐える事は、日本的な処世術ではない(削除書き換え) [生きる方法]
私自身は、中学生から、村八分にされて、生きて来ているのです。
私はそれに耐えて来ているのです。
いまでも、私の悪口は沢山あるのであって、
それを平然と耐えて生きて来ているのです。
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建築家の南さんに誘われてmixiに入りましたが、
書かなくなったのは、村的で、読者の顔が見える様になるからです。
顔が見える関係になると、その人に遠慮して、批評とか言論は成立しなくなるのです。
多くの人は言論が、血によって書かれて来ている事を知りません。
言論人は、殺されるのです。
殺される覚悟で、書いているのです。
美術というのは命のかかっている職業なのであって、
当事者にとっては遊びではありません。
ギャラリー山口さんはお亡くなりになりましたが、
美術家でもゴッホをはじめとして、多くのアーティストが自殺しています。
美術家というのは、命がけなのです。
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私は日本の村の外に出続ける人間です。
ラカンの読書会に来ている人は分かっていると思いますが、
私の人間関係は、移動や、循環は早いのです。
激しく入れ替わって行きます。
固定的な村や島をつくることは、目指していません。
美術史家の富井玲子さんは「彦坂は、移動する標的だ」と書きましたが、
私自身は、脱-領土化をしつづける人間ですから、
みなさんが考えるような固定的なグループを形成してはいません。
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私はこのブログを無償の行為で書いているのです。
ブログの記事で壊れる人間関係は、沢山あります。
それに絶えて書いているのであって、
無料のブログですから、
読者に読む事をしいているものではありません。
嫌なら、読まないで下さい。
これは日本的な処世術ではありません。
この場合、私のイメージしているテキストは、安岡 正篤の本です。
陽明学者として尊敬はしますが、
私のやっていることは、彼の考え方の外部なのです。
私の方法は日本処世術の外部を生きるところにあります。
小さな門より入れ/軽蔑に耐え(加筆2) [生きる方法]
駄美術というのがあって、駄菓子をもじったものですがグリコのおまけのような、貧しさの中にあって光る、お札のような作品ですね。
丈様
コメントありがとうございます。
駄美術というか、低俗美術というのは、基本と言うか、
基盤だと言えます。
制作されている美術作品の80%は最低な駄菓子的な美術なのです。
実は映画論の中には『最低映画』という用語があって、
「エクスプロイテーション映画」の翻訳です。
私自身も『低俗映画研究会』というのを、
大学時代に主催していました。
「エクスプロイテーション映画」というのは、
exploitという言葉通りに、搾取するとか、搾り取るという意味です。
つまり「馬鹿な奴らから金を搾り取るための映画」というのが、
「エクスプロイテーション映画」というもので、
何の事は無い、商業主義の娯楽映画の事で、ハリウッド映画にしろ、
昔の五社映画の80%は、こうした商業主義の映画なのです。
こういうexploitを目指すのは、何も映画だけではなくて、
美術にもたくさんあって、
「馬鹿な奴らから金を搾り取るための美術」というものは、
実は美術作品の主流でると言えるのです。
つまり商業主義の娯楽美術なのですが、
これは古くはミケランジェロ、ティツアーノや、ゴヤ、
そしてマティス、アンディ・ウォーホル、リキテンシュタイン、
さらにはジェフクーンズ、ダミアン・ハースト、村上隆も、
奈良美智も、「エクスプロイテーション美術」であるのです。
この中には、ピカソの大多数の作品も入ります。
ミケランジェロを「エクスプロイテーション美術」というと、
怒る人が、多くいるかもしれません。
しかしミケランジェロの作品は、高く評価され、
多くの影響を与えた事は事実ですが、
彦坂尚嘉の私見では、《第6次元 自然領域》の低い
しかもデザイン的エンターテイメント作品に過ぎないのです。
だからこそ、社会的に大成功したのです。
これについては別のブログを用意しているので、
詳細はそちらに譲ります。
美術史を通して、実は「エクスプロイテーション美術」は、
いつの時代にも大きな流れでありました。
しかも「低俗美術」というのは、実は、
特に1975年以降の主流の美術であると言えます。
高級美術、あるいは上流美術、《真性の芸術》の美術というのは、
忌避され、抹殺されて来ているのです。
今日においては、ほぼすべての美術は低俗美術であり、
駄菓子のような美術なのです。
そういう美術への嫌悪は正当ではありますが、
しかし単なる貴族趣味では、
敗北するしかないでありましょう。
むしろ逆であって、
「エクスプロイテーション美術」のフリをして、
そのキッチュで低俗な表情のしたに、
《真性の芸術》を滑り込ませて行く事が求められているのです。
あるいは、意識的に良い趣味性をとり、
分かりやすい現代美術の定式的なスタイルやイデオロギーを
まとう。
こうした事もまた、商業的に、
つまり「馬鹿なコレクターから金を搾り取るための美術」として
制作されている事が、事実としてあるのです。
実際に多くの人々は、
こうした商業主義が好きなのです。
もともとが、美術は、映画と同様に低俗なのです。
「エクスプロイテーション映画」が、
映画を通して訴える思想も芸術論も、世界に対する知的認識もなく、
単に《気晴らし》の娯楽映画をつくるというもので、
そこにはオリジナリティもなく、平気で人の作品をパクル。
もともと映画をそれほど好きなわけではなくて、
単に商売にすぎないという人々が蠢(うごめ)いている世界です。
同様の事は現代アートにも言えて、
多くの美術家は、美術を通して訴えるべき思想も芸術も、
世界に対する認識も無くて、
それでも社会的に了解にのるそれらしきコンセプトを、
もっともらしく書く事で了解されているだけなのです。
その表層的な理屈や定番のイデオロギーを、
また馬鹿な人々が文字通りに信じるという、
馬鹿でアホで、能天気なお祭りが繰り広げられているのです。
そこにはオリジナリティも無く、平気で他人の作品を焼き直し、
自分の作品として発表する。
何よりも、美術の作家自身が、
もともと美術はそれほど好きではなくて、
単に《自己愛》性人格障害者で、単に自己中毒者の商売に過ぎない
美術が蠢(うごめ)いているのです。
低俗美術というのは、理性脳による抑制が無いのです。
美術のイラスト性、装飾性、官能性という、
人間の脳の最深部にある原始的な本能や欲望という劣情に訴える
だけが、美術の本質だと思っているのです。
今日の社会は、ある意味で自然なのであって、
ジャングルなのですが、美術も芸術も、同様に、
ジャングルの中をサバイバルする、低俗な商売になったのです。
それが村上隆が提起した、芸術起業論なのでありました。
絵画の起源
人類の歴史の中には、大きな絵画=建築美術、中ぐらい(基準は20号)
の絵画=流通美術、そして小さな絵画=本の美術/版画・写真というのが、あるのです。
つまり絵画はひとつではなくて、起源が3つあるのです。
日本の中でされている絵画論は、絵画をまるでひとつの起源から生まれて来たかの様な議論の仕方で、抽象的に論じているのです。そういう抽象論は、不毛なのです。
それはまるで、人間もゴキブリも同じ生物だとして、生物を抽象的に論じているのと同様なのです。
「木」という言葉で指し示す物が、松の木から、ツツジ、榛松、さらには木の橋から、割り箸まで指し示しえるように、「絵画」という言葉が指し示す物は、実はひとつの絵画ではなくて、複数の起源から生まれた多様な絵画なのです。その中には低俗絵画も含まれているのです。
この絵画の複数性への認識を欠いた議論は、単なる抽象論に過ぎないのです。
小さな絵画
ドローイングというのは、基本的には小さな美術で、本の美術です。浮世絵も、版画ですので、この小さな美術に入ります。
小さな絵画の多くは、コレクターのところでしか見られませんが、例えば瑛九のマッチ箱代の絵画は、なかなか良いものでした。
モローの小さな絵画は、ヨーロッパの美術館には展示してありましたが、胸を締め付けられる様な感動があります。
アンドレマッソンの作品も、小さなものが多くて、MOMAでも、知っていて探さないと見損ないます。
小さな絵画を、日本の多くの現代美術家は、見る事もしないで、軽蔑の眼差しで、見も市内で切り捨てる態度を取りますが、それは間違いです。
扇面
狩野派は、狩野永徳のように、安土桃山城の大壁画を描いていますが、しかし実際に食べるために描いているのは扇面の絵画です。
この扇面画は、普通に見ると、良いのか悪いのか分かりにくい物です。
同じ事は明治の巨匠である富岡鉄斎にも言えます。1000号を超える大作を数多く描きながら、しかしコレクターに人気のあったのは、扇面なのです。しかし私でも、この扇面を見て、なかなか分かりにくいということを経験しています。
小さな作品というのは、実はコレクター以外の普通のただ見の人間には鑑賞が難しくて、人に嫌な思いもさせます。
たとえば菅井汲の小さなシルクスクリーンの作品は、嫌な感じがしました。
ジョン チェンバレンの小さな彫刻も、嫌な感じで見た覚えがあります。
自分の作品も嫌な感じを持つ人がいるだろうとは思います。
しかし、私自身は、もともと小さな作品をつくることをし続けて来ています。
クレーの影響が大きいと言う事があります。小さなところから始めるというのは、重要な事だと思っています。
クレーを悪く言う人も多くいますが、クレーは偉大なアーティストです。
聖書にも、小さき門より入れとあります。
小さな作品は重要なものなのです。
小さな作品、中くらい作品、大きな建築美術と、すべての領域を作りたいと言う気持ちが私には、あるのです。でないと、美術と言う相互性が理解できないと考えます。
皇居美術館空想のような、概念的で象徴界の設計の様な作品も作れば、小さな名刺大のドローイングも描くと言う立場をとります。そうしないと、美術の全領域が追求できないと考えます。
しかし多くの作家は、自分の作品だけを愛して、美術そのものや、芸術そのものを追求しようとしません。
コレクター
コレクターも同様であって、大コレクターや美術館のような上流が重要ではありますが、しかし下流の小さなコレクターも重要だと、理念的には思います。
それはリアリズムというよりは、思想的な理念の問題であって、実際には小さな作品を作るのは手間も大変だし、社会的には不愉快な思いもたくさんします。小さな作品や、版画を作ると売春婦のような扱いを受けます。
小さな作品だけを買うコレクターは、今度は逆に、自分には買えない大きな作品を見ようとはしません。美術作品が好きなのではなくて、買う事が好きなのです。
コレクターはコレクターで、自分の欲望だけを見つめていて、実は作家研究もしないし、極端に言えば作品も見ようとはしないのです。コレクターのほとんどは、コレクションという事自身を勉強しません。すぐれたコレクターについて、どのようにしてすぐれたコレクションを集めたのか、という、そういう他者のコレクターについて、勉強をしようとしません。ただ盲目的に買いたいだけと言うコレクターが多くいるのです。。
つまり人間の多くは自分のことしか考えていなくて、美術や芸術すらが、自分の《気晴らし》のために過ぎないのです。《気晴らし》への欲求は、人間の深い欲望なのです。こうした矮小な人間の欲望と向き合って、この矮小さをコピーして、自分の欲望であるかのように制作する中に、《真性の芸術》を滑り込ませて行くと言う詐術が重要なのです。芸術というのは、《社会芸術=エクスプロイテーション美術》を模倣した上での詐術なのです。
建築美術をコミッションワークでやる場合も同様で、日本の美術界は、こうしたものは見ない事にしているかのように無視します。つまり小さな美術を無視すると同時に、大きな建築美術をも無視するのです。
日本の現代美術界というのは、奇妙な欺瞞の空間の中に閉塞しているのであって、それはそれで仕方がない事です。美術や芸術というものが、奇妙な思い込みの迷信の中に形成されていて、一種の知的障害のような症状を呈しています。
しかしこうした構造を、一挙に変える事は出来ません。団体展は、どうしようもありません。現在の旧・現代美術も、まとめて古くなり、団体展のようになってしまいました。若い現代アートのことは、私自身には良く分かりませんが、しかしある種の新しい団体展のように見えます。
この外へと出たいという欲望!
電車の中で
ただ普遍的な美術を追究しようとすれば、私は小さな美術も、中くらいの美術も、大きな美術も追究をして行かないと、作家として大きく成長できないと思っています。
そんな、大それた事を言う必要も無い事ですが、自分としては電車の中で描けるこうした小さなドローイングも、面白いのです。電車の中で、私は退屈ですから、制作をしたいのです。
中くらいのものや、大きな作品も作りますが、小さなドローイングや水彩も、小さな隙間の時間の中で作って行きたいのです。
こうした小さくて安い作品を、軽蔑する人は軽蔑すれば良いのです。私は何人もの人に軽蔑されて生きて来ていますが、私は鈍いから、屁とも思わないのです。鈍さというのも才能の内であります。
私の方は、小さくても真剣に芸術作品として制作するだけです。
欲望の奇怪さ/美術家とコレクター [生きる方法]
「施主」のように具体的に顔が見えない分難しいですね。
自分の中もつ観客がどのような存在なのか、如何に多くの眼差しを取り込めるかが重要なようですね。
美術作家の欲望のちがい(加筆1) [生きる方法]
人はそれぞれ、違った欲望を持って生きています。 そのことを知っている、当たり前のつもりが、 実際は、私はそのことを良く知らなかったという事を、 知ったのが、今回の日本ラカン協会の大会でした。 経験としては知っていても、 理論として把握できるかどうかで、違うのですね。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 朝5時半起きで、日本ラカン協会第9回大会に行って来ました。 9時からの研究発表を聞くためです。 ですので8時15分に会場について、開催の準備に参加しました。 一応、日本ラカン協会の幹事ですので、そういう準備の作業も 参加するのです。 日本ラカン協会第9回大会プログラム 日時:2009年12月6日(日) 09:00~17:30 場所:専 修大学神田校舎7号館731教室(3F) (〒101-8425 東京都千代田区神田神保 町3-8) 交通: 営団地下鉄・神保町駅 徒歩3分 大会参加費 : 無料 私自身は、学問というものが好きです。 何が好き家と言えば、蓄積がきくからです。 知識や理論が蓄積して成熟してく事が可能なのです。 こういう学会発表も好きです。 若い研究者の発表に、学ぶものがあるのです。 この日の3つの研究発表は、大変に刺激的なものでした。 今日、一番学んだ事は、欲望の問題です。 人によって、欲望が違うのですが、 欲望そのものの消失の問題がまず、最初に私の興味を引きました。 アーティストでも、制作の意欲の消える人や、 あるいは何を作ったら良いか分からなくなる人を、 何人も見て来ているのですが、 こういう人の問題です。 1. 研究発表 09:00~11:45 (発表時間30分、質疑応答15分) 09:00-09:45 石崎 恵子 (お茶の水女子大学大学院博士課程) 「精神分析における『絶対的差異』 ――西田哲学との対比において」 司会: 伊吹 克己(専修大学) 概要: ラカンが精神分析の立場として提示した「絶対的差異を得る欲望」とは、 「S /対象a」及び「la Loi/les lois」における差異を求めるもので あるが、この差異を別の角度から「一般/個物」「道徳/宗教」の相違 として捉えていたと考えられる西田幾多郎の説と の対比において、 その分岐点から浮き彫りとなる差異の諸相と、日本におけるその 可能性を探りたい。 石崎恵子さんの発表は、《絶対的な差異》の問題です。 ラカンと西田幾多郎を比較しながらの発表は、 なかなかむずかしいものでした。 《絶対的な差異》とは何か? 彦坂尚嘉的に、分かりやすく要約すれば、それは押井守の 甲殻機動隊に出てくるゴーストの問題です。 人間が自閉するのではなく、自開して行った場合には、 個人は、もはや外部に開かれた情報の交差点であって、 情報網の中にとけ込んで行ってしまいます。 この時に、自分が自分である最小限の差異が、 《絶対的な差異》であり、ゴーストなのです。 彦坂尚嘉の芸術論の根拠は、このゴーストに依拠する 表現を芸術としている事です 。 学問が蓄積が出来ると書きましたが、 ゴーストと言う私性は、蓄積がきくのです。 公共性のあるデザインは消費されるのですが、 私性を帯びた芸術作品は、 時間を超えて人に感銘を与える蓄積性があるのです。 このことを今日の多くの人が忘れているのです。 10:00-10:45 太田 和彦 (東京農工大学農学府) 「宮澤賢治と『師』の機能――『セミネールⅡ:自我』を中心に――」 司会: 福田 肇(フランス・レンヌ第一大学哲学科博士課程) 概要:詩人・宮澤賢治(1987-1936)の心象スケッチ作品には、 ほぼ必ずそれぞれの作成 年月日が記されている。 しかし第三集に収録されている作品1020「野の師父」には、 例外的に草稿を含めてその作成年月日が記されていない――。 これを きっかけとして、賢治の詩作・推敲における「師」の機能を、 ラカンが『セミネールⅡ:自我』で行った「教える者への問い」を主に 参照しつつ考察する。そし て、〈賢治はなぜ推敲し続けたのか?〉 という前回ワークショップからの疑問に、別の視角からの回答を試みる。 太田 和彦さんの発表は、宮沢賢治自身が行っていた 心理学的な探究を問題にし、 興味深いものでした。 宮沢賢次は想像以上に面白い重要な文学者 であったのです。 【続きは下記をクリックして下さい】 |
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な人格 [生きる方法]
何を言っても無駄です。
私「山根秀太郎」も「桑山」もこのブログから去ります。名前を変えて再度出ることもしません。
というのも、どうやら、どうやっても私はここでは「悪霊」であり続けたようにです。私としては建設的な議論をして場を活性化させたいと思っていたのですが、結果的にはこうして多大なご迷惑をおかけしました。
このブログは、読み物として面白いものであると思います。
これからも頑張ってください。それでは。
山根さんの論点は正しいと思います。諦念を抱かれるのは、彦坂さんを含め想像界の人間(のコメント)が大多数だからだと思います。お気を落とさないでください。
by 浜 (2009-11-10 15:04)