欲望の奇怪さ/美術家とコレクター [生きる方法]
「施主」のように具体的に顔が見えない分難しいですね。
自分の中もつ観客がどのような存在なのか、如何に多くの眼差しを取り込めるかが重要なようですね。
丈様
コレクターというのは、具体的に顔が見えるのです。
私自身、何人ものコレクターを知っているし、付き合って
来ているのです。
作品を買うコレクターの全部が顔が見えるのではないのですが、
具体的に存在していて、顔は見えるのです。
分かりやすく言うと、レオナルド・ダ・ヴィンチに作品を注文
していた人々は、顔が見える人々でした。
狩野永徳に作品を注文した織田信長は、顔の見える存在で、
実際に永徳は、織田信長の肖像画を描いています。
ゴヤやティツィアーノに肖像画を注文した人々の顔も、
彼らに見えていたのです。
レンブラントに「夜警」の絵を注文した『フランス・バニング・コック
隊長の市警団』の人々の顔も、レンブラントには見えていたのです。
ピカソの場合にも、実はコレクターの顔が見えていたのです。
ピカソは、手紙をすべて残したのですが、
これをすべて読んだ研究書があって、
日本語に翻訳されています。
『ギャラリーゲーム』(淡交社)という本です。
これによると、ピカソは、新しいコレクターが登場すると、
その人に合わせて、作品を変えているのです。
ピカソの全レゾネというのは、私は見ていませんが、
キュービズムの時期の9年間のレゾネは買って持っています。
これを見て行くと、かなり不思議な作品展開をしているのですが、
その理由は『ギャラリーゲーム』を読むと、理解できるものになります。
コレクターとの関係で作品が変化しているのです。
メープルソープとコレクターの関係は映画になっていますが、
私はまだ見ていません。
村上隆さんの発言を読んでいても、コレクターが武器商人で嫌になった
とか等々の発言があって、コレクターの顔が見えている事が分かります。
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多くの美術家は、実は作品を売りたいとは思っていないのです。
このことは重要です。
なぜなら、自分の欲望によって作品を作りたいと思っているからです。
他人の欲望を排除したいと考えているのです。
つまり自分を愛しているが故に、他者を排除したいのです。
他者を排除するが故に、コレクターはいなくなるし、
コレクターの顔も見えなくなるのです。
他者の欲望を排除したいと言うナルシズムに身をゆだねると、
他者はいなくなります。
だからコレクターの顔が見えなくなるのです。
根本にあるのは、
ナルシズムという欲望の奇怪さです。
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人間の社会は、他人が欲望を持っている事を認める事で成立しています。
他人の欲望を満たす事で、ビジネスは成立しているのです。
この他人の欲望を切り捨てて、
他者を排除する事で、純粋な芸術を成立させようとしたのが、
モダンアートであったのです。
そのことは、豊かな成果を上げたと思います。
しかし、この方法が自明化し、飽和した時に、限界に達したのです。
そして崩壊したのです。
この崩壊は、芸術上の崩壊であっただけではなくて、
軍事上の崩壊でもあったのです。
ベトナム戦争に、なぜ、圧倒的な軍事力のあるアメリカが負けたのか?
それは他者を排除して、ベトナムの人々の欲望を理解
しなかったからです。
この無理解さは、コッポラの『地獄の黙示録』に、見事なまでに
描かれています。
他者を排除し、他者への認識を失う時に、破綻がやってくるのです。
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田中日佐夫氏の名著に『日本美術の演出者―パトロンの系譜』というの
があります。
私はこの本を学生時代に読んで、大きな影響を受けています。
彦坂さま
> 多くの美術家は、実は作品を売りたいとは思っていないのです。
それでも「他者を排除するが故に、コレクターはいなくな」ってしまっては作家も経済的に辛い環境におかれ、食べていけないので買ってもらえなさそうだというような作品は始めから作らなくなり、(コレクター)に買ってもらいやすい作品を作る。
これも現在の資本主義社会では避けられないことない、と理解して良いのでしょうか?
by じゃむ (2009-12-09 08:46)
確かに、コレクターもパトロンというのを考えると具体的に顔の見える存在ですね。自分も含め学校教師として売買の厳しさの外で制作していると、つい忘れてしまいます。(この度退職することにしましたが)
ナルシシズムというのも克服しないといけませんね。
じゃむさん…コレクターというのも甘くなくて、「買ってもらいやすい(つもりの)作品」、というのはすぐ見抜かれてかえって駄目なんではないでしょうかね。
by 丈 (2009-12-09 22:09)
訂正します。
これも現在の資本主義社会では避けられないことない、と理解して良いのでしょうか?
→ これも現在の資本主義社会では避けられないこと、と理解して良いのでしょうか?
by じゃむ (2009-12-09 22:09)
ジャム様
私自身は、40年以上作家をやっていて、ボランティアでたくさんの若手の個展やグループ展も作って来ていて、多くのアーティストをみてきました。
多くのアーティストは、プロのアーティストになることを、まったく望んでいません。貸し画廊を借りて、20万円から30万円もの画廊代をはらって、そうすることで、20人から120人くらいの規模の人に見てもらって、自分なりの小さな社会の中で、アーティストとして存在するという欲望が、大多数の人でありました。
現在の若いアーティストの欲望は違うとは思いますが、私の時代の、いわゆる現代美術の作家というのは、プロになろうとは思っていない人が、80%以上いたのです。多くの人は、自己満足を追いかけているのです。それも目先の自己満足です。自分の作った作品を死後に残そうとも思っていません。自己満足を追求しようとする欲望もまた、しかし美術にまつわる人間のいとなみのある姿なのです。
彼らは美術が好きなのではなくて、自分の作品だけが好きなのです。ですから美術史には、あまり興味が無いし、自分が興味を持てる作家だけに興味があって、自分には理解できない作家や、興味の無い作家については、勉強をしないのです。つまり中心にあるのは、あくまでも自分自身であって、自分の外にある美術や美術史ではないのです。自分と自分の興味のあるものだけを愛している。どこまで行っても、自分しかいない世界に生きているのです。そしてその中で死ぬのです。
こうしたことは、実は資本主義とは、深いところでは関係がある事なのです。つまりヨーロッパですと17世紀のフランドル地方(=オランダ)から始まりますが、美術家の人数が増大し始めるのです。つまり《近代》が始まると、美術家の人数が、異様なまでに増大を始めるのです。《近代》以前は、実はアーティストの人数は少なかったのです。それが日本ですと、大正の時期から、アーティストの人数が、急速に増大を始めるのです。その結果、奇妙な現象がたくさん現れるようになるのです。
《近代》という時代は、奇妙な時代なのです。その中でのいろいろな現象が、《近代》が終わる1975/1991年以降になると、またまた激変が起き始めます。村上隆さんの芸術起業論というのは、こうした《近代》の非職業美術家の増大を否定する象徴的な主張であったと言えます。
by ヒコ (2009-12-10 11:47)