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三位一体論の崩壊 [生きる方法]

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川上さんから、次のようなコメントをいただきました。
むずかしい事なので、簡単にですが
私の考えをお答えいたします。

(前略)

私は、キリスト教の神学者です。
神学者は、物事を三位一体論的に考える癖をもちます。
「三位一体論的」というのは、
「多」と「一」が矛盾しつつ統合される動的視点です。

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この三位一体論の統合の視点が可能であったのは、
産業革命以前の農業化社会においてなのです。

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産業革命以後は、
この三位一体の状態は、
解体されているのです。

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《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を語るラカンは、
実は体質が固体の人で、
つまり前近代的な古い体質の人であるからこそ、
3界のモデルを語ったのでした。
現実には、この3界は、
三位一体のようには、ラカンにおいても統合されていないのです。

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つまり人間の精神は、三位一体として統合されていなくて、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界に分裂しているのです。
こういう分裂の把握がラカンであると言えるのです。

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ジャック・ラカンというのは、
デカルト以来の、《近代》の個人主義的な自我の解体者なのです。



三位一体論的な視点からすると、
「3界の分離」という理解の困難さと重要さのご指摘は、
極めて大切で適切だと思われました。
その理解こそ、「迷信」と戦う足がかりになる。
本当に、そう思います。

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ただ、気になるのは、

「分離」と同時に、「統合」についても、
考えられなければならないのではないか、
ということです。

川上さんが、考え違いをなさっているのは、
この統合が可能だとする、その希求性です。
統合は不可能です。
一方的に、解体だけが進んで行くのです。

分離、分裂を認める事が重要なのです。

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つまり、「サントーム」の問題です。

サントームというのは、統合ではありません。
分離/分裂したままでの、関係の形成なのです。

私は、ラカンについては門外漢です。
内田樹さんと斎藤環さんのお仕事から、
長年、その魅力に引き寄せられつつあったのですが、
まだ、「敬して遠ざけて」いる状態です。
ですから、間違えているかもしれません。

私の理解では、サントームとは、
「3界」を「人為(art=als)で統合する第4界」です。
そう思うと、彦坂様の「格付け」も、理解できるような、
そんな気がしているからです。

統合という言葉の意味や、使い方ですが、
今日において、
昔の意味での統合や、結合や、再統合は、
あり得ないのです。

あるのは、ただバラバラに拡散して行く事です。

この状態を不可避のものとして認めつつ、
再度の新たな弱い関係性の形成が、サントームです。

私の質問は、
「3界」と「第四界であるサントーム」のつなぎ目は何か?
ということです。

この質問は、彦坂様の「ナウシカ」批判によって引き起こされたものです。

漫画版「ナウシカ」は、確かに、破綻した物語です。
でも、それは、その破綻の中に、重要な価値をもっている。
私はそう思っています。
なぜなら、その破綻においてこそ、
《想像界》の限界性が(期せずして)体現され、
その「先」への欲望を、読者に強烈に与えるものとなっている、
そう思うからです。
その意味で(のみ)、
漫画「ナウシカ」は、高く評価されると思っています。

私見を申し上げれば、
「先」というのは、
「ナウシカ」では、常に先送りされて行く構造であって、
それは万華鏡のように繰り広げ得られるものであって、
際限の無い、戯れに過ぎません。
そこには意味が無いのです。

この「ナウシカ」的な次元の世界では、
「死んでしまえばおしまい」であって、
死が意味構成をすることがないのです。


この、「ナウシカ」をめぐる評価の違いに、
彦坂様の理論への疑問が、生じました。

漫画「ナウシカ」は、
確かに「先送り」でお茶を濁しているのですが、
しかしその「先」は、
《現実界》《象徴界》となっているのではないか?

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彦坂の私見では、そのようにはなりません。
次元そのものが違うのです。

彦坂理論では、《想像界》の偶像崇拝性を
全面否定した時に、《象徴界》が出現するのです。

それがモーゼが、金の牛を壊す事であり、
十戒を確立する事なのです。

《現実界》の出現も同様であって、
《象徴界》を全面否定しないと出現しません。

《想像界》に終始する漫画という枠組の中で、
《他の次元の不在》を露骨に示すこと。
そのようにして、
却って、《他の次元への渇望》を
呼び起こすことができるのではないか?
そして、その渇望の中にこそ、
《他の次元》は生起してくるのではないか?

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このように、お考えになりたいお気持ちは分かりますが、
しかし歴史的に、そのような事態の変化が出現する事実が、
過去にあったのでしょうか?

いわゆる「改心」というのは、あると思いますが、
フロイト/ラカン的には、外部、つまり父が禁止するから、
《想像界》が否定されて、
《象徴界》が出現するのです。

彦坂理論では、それは人類史の中では、
地球の寒冷化による窮乏が必要でした。
その中で《書き言葉》の出現や、定住、農業の開始、
そして戦争の開始があって、
《想像界》が全面否定されたのでした。

そのような外部からの激変ないと、
《想像界》の否定は出現しないと思います。

個人史的には、不幸が必要です。

圧倒的な不幸に打ちのめされることによって、
《象徴界》を受け入れる心的な展開があるのであって、
普通の延長では起き得ない事ではないでしょうか。

一つの次元に閉じ込められることで、
その次元の底にある破れを示し、
そのようにして、読者の内部に《サントーム》を萌させる、
それも、芸術の価値ではないだろうか。

まず、誤解なさっているのは、
『風の谷のナウシカ』は、すばらしい《超一流》の作品ですが、
それは芸術ではなくて、デザイン的エンターテイメントです。
それ以上のものではないのです。

しかも《シリアス・アート》ではなくて、
あくまでも《気晴らしアート》にすぎないのです。
ここには《象徴界》も《現実界》もありません。
ましてや《サントーム》は、ひとかけらもありません。

ここで「芸術」と言っていますのは、
もちろん、近代以来のfine artに限定されません。
宗教や政治や科学を含む、「人為」全てを意識しています。
artはもともと、alsと表記された昔、
そのようなもの、だったのですから。

そういう意味では、
おっしゃるように
『風の谷のナウシカ』は、
彦坂的には《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はあります。

たとえば科学について。

ほんとうに科学を突き詰めるなら、
人は「無」の問題と向き合わなくてはならなくなる。

彦坂の私見では、科学は、《現実界》であって、
突き詰めなくても、もともと無の上に据えられているのです。


そして、「その先」を、科学の外に、求めなければならなくなる。
でも、それは自己否定をしなければ、進めない。
そのギリギリの場所で、破綻を体現してみせること、
たとえば、近年のドーキンスの仕事は、
そういう意味で、尊敬に値するものだと思っています。

ドーキンスは、凡庸な知性にすぎません。
《第6次元 自然領域》の直接性に過ぎないのです。

また、逆に、そうした自己否定に恐怖を覚えて立ちすくむ、
そんな似非専門家が、「迷信」を広めて自己を守る。
そこに、「自己愛性人格障害」的状況が生じているのだと、
本当に、そう思います。

たぶん、川上さんと私の立っている理論の次元が違うのです。
ドーキンスの「神は妄想である」という主張は、
《現実界》から見る限り正しいのですが、
それ以上では無いという事です。

たとえば、川上さんは、ご自身の顔を、
直接には見る事が、できないのです。
鏡か、写真などによって、間接的に、自分自身を把握しています。
この自己把握の厳密な適中性は、
科学によって、どのように証明できるのですか?
ラカンが言うのは、この自分自身の自己把握が、
妄想であるということです。
神が出現するのは、ここにおいてなのです。

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1950年代に似て、新しい体制が出来上がろうとしている今、
彦坂様がご指摘になっている通り、
大崩壊が始まろうとしているのだと思います。
そして、その中で、ニヒリズムが、
やはり1950年代と同様、これから、大問題になるのではないか。
(その時、「情報」という言葉が、キーワードになりそうです。
 その意味で、西垣通さんの書籍のご紹介は、有難いことでした。)

時代把握が、違うと思います。
今日起きている事は、1950年代に似てはいないのです。
普通に言われるように、1929年に似ているのです。

それとニヒリズムに対する理解が違います。
単純系の科学がニヒリズムであったのです。

今日の問題はニヒリズムではありません。
今日におけるニヒリズムは、問題にならないのです。
なぜなら二ヒリスムに満ちているのであり、
全ての人の中で80%がニヒリストとすら言えるような
全体的な状況だからです。
言い換えると、今日では全体化している故に
ニヒリズムはもはや古い過去なのです。

虚無主義と、どう向き合うか。
それを否定する強い言説を彦坂様から頂き、
それに感銘を受けつつ、考えています。
虚無主義を「取り込む」ことは、できないのだろうか。

川上さんの思考は、ワンサイクル遅れているのです。
虚無主義を否定する私の思考というのは、
徹底的な分離と分解を認めている中に出現しているのです。

聖書でも、「無」が語られることがあります。
それは、パウロが言っているのですが、
「被造物は虚無に服した、それは、新しい命への待望として・・・」
という思想です(ローマ書に出てきます)。
「無」というものは、実は、「サントーム」的な、
人為(art=als)としてのみ、意味をもつ。
そのようにしたとき、「無」は、
究極の人為として、非常に重要なものとなる
・・・とは、言えないでしょうか。

言う事はできます。
なんでも言えるからですが、
しかし「無」というのは《現実界》にしか出現しないのです。
しかし《現実界》は、現実ではないのです。

【続きは下記をクリックして下さい】


たぶん、川上さんは多層性が理解できないのです。

現実というのは、《想像界》ではありません。
現実というのは、《象徴界》でもありません。
そして、現実とは、《現実界》でもないのです。
つまり現実というのは、《想像界》《象徴界》《現実界》では、
把握できないのです。
そしてもちろん《サントーム》によっても把握できないのです。

もういちど繰り返すと、
「無」というのは、《象徴界》=言語を否定した時に出現する
ものなのです。
それが《現実界》です。

その現実界は、その下に否定したはずの《象徴界》と《想像界》を、
潜在させているのです。
その潜在を、除去できないのです。
できると思い込んでいるから、ドーキンスは、凡庸な知性なのです。

また、長文になってしまいました。
ブログへのコメントとしては、不適切だと、恐縮しています。
今回のコメントの第一の目的は、
彦坂様の美術論のご披瀝への感謝でした。
それは、私の研究の停滞を打ち破るものだったからです。
本当に、ありがとうございました。

いつか、立教(私の母校!)での読書会に、
参加させていただきたく、願っています。
その願いがかなうことを夢見ながら、
長文をものしてしまいました。

失礼しました。 
by 川上直哉 (2010-02-24 06:58)  

立教でいらっしゃるのですね。
ご縁がありますね。
ぜひ、一度遊びに来て下さい。

川上さんに限らないのですが、
人と議論すると感じるのは、
多くの人が1991年以前に生きていると言う古さです。

議論が古典的と言うか、
もうすでに20年もたってしまっている1991年以降の世界を、
直裁に把握して、語る努力をする必要があるのです。

川上さんがいちばんまずいのは、1950年代を上げている事です。
1950年代というのは、冷戦構造の真っ最中で、
古い《近代》の中心の時代なのです。
ここは、もう、とっくに終わってしまったのです。

終わった過去の中で思考することが、
まったく無意味な事ではありません。
ラカンの例に見られるように、新しい生産が可能かもしれません。
ご健闘を祈ります。

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コメント 2

川上直哉

二度までも、拙文にお付き合いくださいましたこと、
本当にありがとうございます。

いつも長文になってしまうことを、申し訳なく存じます。
今回は、3点に絞って、返信いたします。

第一は、「三位一体論の崩壊」というご意見に対してです。

「対話」ということの意味を、うれしくかみしめています。
「対話」は「横切って(ダイア)・語る(ローグ)」ことです。
それは、一人の人の言説内の思考を、
他者によって遮り、切断して、
そして、その先に新しい展開を仰ぎ望む、
そうした知性の所作です。
コピペができるブログは、
「ダイアローグ」ということを、視覚化することができる。
ここには、新しい可能性が発見できた気がします。

彦坂様がご指摘される通り、
間違いなく、私は私自身のことを認識できません。
それは、たとえば「対話」の先に、
常に新しく立ち現われてくるものだからです。
ですから、
「たぶん、川上さんは多層性が理解できないのです。」
というご指摘は、その通り、かもしれません。

ただ、

>現実というのは、《想像界》ではありません。
>現実というのは、《象徴界》でもありません。
>そして、現実とは、《現実界》でもないのです。
>つまり現実というのは、《想像界》《象徴界》《現実界》では、
>把握できないのです。
>そしてもちろん《サントーム》によっても把握できないのです。

とおっしゃることは、とてもよくわかる気がします。
なぜなら、三位一体論というものの真髄は、

 「神」は「御父」ではない。
 そして、「神」は「御子」でもない。
 つまり「神」というのは、「父」「子」「霊」では
 把握できない。
 もちろん「三位一体」によっても把握できない。

という風に、表現できるからです。

彦坂様のおっしゃる「三位一体論の崩壊」は、
2000年の歴史の中の、300年位に限っていえば、
ご指摘の通りだと思います。
ロマネスクの時代にゲルマン・ケルトの文化を駆逐した教会は、
修道院の活動によって、農業革命を達成し、
彦坂様のおっしゃる「農業化社会」を、やっと、達成します。
その後、トマス・アクィナスによって、
アリストテレス哲学の導入が成功、
「存在の類比」と呼ばれる三位一体論が成立する。
しかし、その三位一体論は、彦坂様のおっしゃる通り、
産業革命期に、崩壊せざるを得なくなる。
むしろ、大航海時代に、それは崩れ始めているというべきです。

しかし、三位一体論は、もちろん、
西欧に農業革命が起こる前から、存在しました。
それは、「唯一神」を「父・子」に分ける理論から始まり、
「聖霊」の理論によって、無限に分化することに至ります。
その背景には、古代ローマの「古代的資本主義」というべきものがある。
それは決して中世西欧的「農業社会」を背景に作られたものではない。
この点は、重要かと思われます。

「農業社会」的トマスの「三位一体論」以外のうち、
現代において私が有効であると思われるのは、
「関係の類比」と呼ばれるものです。
それは、無限分化する全体が、
関係性において一体性を保つという理解です。
その概念は、「農業社会」においては異端視されるものです。
しかし、近代以降、K・バルト以降の現代に至るまで、
「関係の類比」としての三位一体論は、
世界を説明する原理として、有効性を有していると思われます。

(中沢新一さんの最近の議論は、その一形態です。
ただし、そこには、最深奥部に致命的な欠陥があるのが残念ですが。)

以上、第一の事柄として、
「三位一体論の崩壊」というご指摘に、反論いたしました。


第二に、
「先送り」の提示にすぎない作品が、
「その先」を読者に希求させる点で価値がある、
という私の主張に対して、
「しかし歴史的に、そのような事態の変化が出現する事実が、
過去にあったのでしょうか?」という問いかけをめぐるものです。

この問いかけは、非常に重要な問題提起です。

彦坂様のおっしゃる通り、
「全否定」によってのみ、次の次元が立ち現われる、ということは、
真実だと思います。
しかし、その「全否定」は、どのようにしてもたらされるのか。
それが、私の考えるところです。

一度出来上がった世界観は、
出来上がったなりの完成度をもっているために、
なかなか、壊れないものだと思います。
しかし、それが壊れなければ、先に進めない。
どうやって、それを壊すことができるか。

それは、「今ここにあるもの」を徹底して提示することで、
却って「今ここにないもの」を顕在化させる、
そのやり方のほかに、道はないのではないかと、考えています。
「今ここにあるものの徹底」ですから、
一般に「ウケ」たりする。
でも、それを見た人の中には、不全感を感じる人も出てくる。
「何か足りないのではないか?こんなに完成しているのに!」
という、不全感。

たとえば、いまここに体現されている、
彦坂様が体を張った「芸術」の追及があります。
彦坂様の生きざまは、
定型的な世間の反応(反感?)を呼び起こす。
その反応に、おいて、
私は、「今ここにないもの」を思い出させられる。
そのことが、このような議論へと、私をかきたてる。
「その先」は、そのようにして、求められるのではないでしょうか。

>川上さんが、考え違いをなさっているのは、
>この統合が可能だとする、その希求性です。
>統合は不可能です。
>一方的に、解体だけが進んで行くのです。

そうかもしれません。
そのご意見の魅力には、抗し難いものがあります。

しかし、「統合が不可能である」という点において、
むしろ、「統合」への希求は昂進するのです。

希求・憧れこそ、重要だと思います。
キリスト教神学の世界においては、
パウロ以来、イエスの不在故の憧れが、
全ての原動力となってきたのです。

また、私は今道友信先生に私淑しているものですが、
今道先生が常々おっしゃることは、
プラトンもダンテも、古典となるすぐれた思想はすべて、
時代のみじめさへの反動として存在するということです。
それは、憧憬という事柄の価値を示すものだと思います。

>個人史的には、不幸が必要です。

>圧倒的な不幸に打ちのめされることによって、
>《象徴界》を受け入れる心的な展開があるのであって、
>普通の延長では起き得ない事ではないでしょうか。

以上のようにおっしゃる彦坂様のご意見に、
私は、全面的に賛意を示します。
しかしそれは、
自分が「打ちのめされる」否定の契機において、
尚、「無」へと無限後退をしないで踏みとどまる、
そんな、人間の内なる力の現れを信じる故の、賛意なのです。
その「力」は、
「存在しない統合」への無限の憧憬の中にあると思います。
それは、「idea=理念」への憧れです。
それは、決して存在しないものである。
存在しないから、無限の憧憬をかきたてる。
しかし、その無限性に耐えられないとき、
人は「idea」を「イデアっぽいもの=ideale」として、
手の届く「理想」を措定して、そればかりを希求し、
結果、「普通の延長」を継続する迷信に陥る。
そのように考えています。

第二の点は、「統合への希求」を問題視されたことへの反論でした。

第三の点は、第二の点の展開です。

1950年代以降を今と弾き比べる時代感覚の錯誤が、指摘されました。
これは、重要な指摘だと思います。

私も、1930年代こそ、今と比べるべき時代だというご指摘に、
賛成します。
しかし、それだからこそ、
1950年代に目を向けている、つもりなのです。

日本の1930年代は、いつ、終わったか。
それは、各方面でずれがあると思いますが、
少なくとも日本のキリスト教界(新教に限る)では、
1950年代に、やっと、おわります。

1950年代になるまで、
1930年代の思想を引き継いだ1940年代の指導者が、
相変わらず、平然と、日本のキリスト教界に君臨していました。
そのことを総括するのは、1950年代になってからなのです。

キリスト教関連の思想においては、
ニヒリズムが、1950年代の大問題でした。
それは、キリスト教以外の思想圏との連動もあります。
しかし、ニヒリズム克服の運動の中で、
1930年代を総括したことは、事実です。

文学では、椎名麟三が、新教を代表しています。
そして、椎名に連携している神学者たちが、
私の研究対象となっています。

その神学者たちは、
1940年代の顛末を振り返り、
自分たちに欠けているものを見据えます。
そして、その欠損故に起こってくる待望にこそ、
1930年代を克服する足がかりを見出したのでした。

私は、これから、1930年代の暗黒が迫るのだと思います。
その今、1930年代を克服しようとした1950年代に学ぶこと。
それは、まず第一に過去の失敗に学ぶことを目指すものですが、
同時にまた、「新しい生産」の可能性を模索することにも、
つながるかもしれません。
エールをいただきましたこと、ありがとうございました。

そして、もうひとつ。
原題は、虚無主義が全体を覆っている、とうのは、事実です。
しかし、私は、教師として考えます。
若者たちは、世界を見渡すことができるようになって、
皆、押し並べて、ショックを受けているようです。
それは、おっしゃる通り、
虚無主義が跋扈している現状を知って、
「こんなはずではなかった」というショックです。
私は、教養の教師ですから、
世界の実相を伝えなければならない。
その時、常に、
新しく虚無主義と向き合わされる若者たちと共に、
虚無主義と、戦わなければならない。
そうした私にとって、
1950年代に、学ぶことが多くあると思っているのです。


「立教」のつながりに、「ご縁」のあることをご指摘くださったこと、
うれしく存じます。
「ご縁」という発想は、きっと、「どこにもないイデアとしての統合」の、
身近な典型かと、愚考しています。
東京でお会いできることを楽しみに、家族と、環境調整しています。
(私は、仙台に住む主夫ですから!)。

また、長くなりました。
失礼しました。
by 川上直哉 (2010-02-28 08:07) 

ヒコ

川上直哉様
コメントありがとうございます。
また別のブログでお返事書きます。
by ヒコ (2010-03-05 00:49) 

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