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無は存在しません [生きる方法]

ルーカスとの日々壮絶な介護の日々だったのですね。

思い出してくれる人が無くなったときに、存在は消えてゆくのですね。
私も亡くなった祖父や祖母や父のことを思い出したり、語るとき、彼らは
まだ存在しています。私が死んだとき、彼らは本当に消えてしますのだと
思っています。

心よりお悔やみ申し上げます。 
by 梅谷です (2010-02-20 20:04)  


梅谷様

お悔やみをいただき感謝します。

私自身は、私が死んで、私の記憶が消えても、
死者たちが消えるとは思っていないのです。

私の禅宗に対する評価が厳しいのは、《現実界》に於ける思考というのは、《想像界》《象徴界》の存在を無視する事に、力点が置かれ過ぎているからです。聖書には次のようにあります。


マタイによる福音書

第一章

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。

アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、

ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、

ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、

エスロンはアラムの父、 アラムはアミナダブの父、

アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、

サルモンはラハブによるポアズの父、ポアズはルツによるオベデの父、

オベデはエッサイの父、 エッサイはダビデ王の父であった。

ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、

ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、
アビヤはアサの父、
 
アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、

ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキアの父、 

ヒゼキアはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、 

ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父
となった。

バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。
サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、
アビウデはエリヤキムの父、
エリヤキムはアゾルの父、 アゾルはサドクの父、
サドクはアキムの父、
アキムはエリウデの父、 エリウデはエレアザルの父、
エレアザルはマタンの父、
マタンはヤコブの父、 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。

このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。

だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、
ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、
そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

内村鑑三は、聖書研究の中で、こうした系譜学的思考を、
高く評価しています。

私も系譜学的思考をとるものです。だから私は歴史家であり、
遡行する事に情熱を持つのです。

消えるというふうには、考えないと言えます。


たとえば、国際的な美術展に参加すると、消防法が強い事に驚きます。

何故なのか?

火事で、多くの人が、無念の思いで焼け死んで行ったからです。

多くの人の犠牲の上で、消防法ができているから、

消防法は、強い法律なのです。

法とは、死者に上に立っているのです。

それは法だけではなくて、全ての存在が、
多くの無念の死の上に築かれているからです。

それは屠殺場で殺されて行く牛や豚までも含めて、
これらの死の上で、人びとは生きて行きます。

生物の弱肉強食の食物連鎖自体が、こうした死の連鎖の上に
築かれています。だから地球上には5回にわたる大絶滅があったのです。

最下層の弱者を滅ぼすと、食物連鎖の梯子の土台が崩れるので、

大崩壊が起きます。

今の日本に起きているのは、大崩壊なのです。

その崩壊を引き起こしているのは、弱者を死に追いやっている故に

起きる社会基盤の最下部の崩壊です。

全てのものの存在と死には意味があって、

クモの巣のように連鎖しています。

何らかの系譜があって、それは中国の大地の上で飛ぶ蝶の羽の動きが、
台風に増幅されて、カリホルニアを襲うタイフーンになるような連鎖
なのです。

それ故に、無は、存在しません。

複雑系の歴史観の中に、無は無いのです。

あるものは、この宇宙のすべてのものの連鎖と系譜の総体なのです。

この全ての関係を受け入れて生きる事。

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川上直哉

こんにちは。
いつも、たくさん学ばせていただいております。
川上直哉と申します。

死をめぐる考察、静かに拝読いたしました。
まずは何よりも、お見舞いを申し上げます。

すこし、考えを整理して、一つの質問をさせてください。

共観福音書(マタイ・マルコ・ルカの福音書)の共通した記載によると、
“神は生きている者の神だ”というのが、
イエスの思想であったようです。
このイエスの思想の特殊なのは、
「神は生けるものの神だ」という発想から、
「死=無化」という発想を退ける方向へ、
論理を進めた点にあります。

「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」と、
そのようにその名を呼ぶところのユダヤの唯一神は、
生ける者の神である、
だったら、アブラハム・イサク・ヤコブは生きている。
それが、福音書に残されたイエスの死生観の展開でした。

「死=無」という概念は、ギリシャ哲学においても大問題で、
たとえば、デモクリトスのアトム論は、
「アトム=分けられないもの」を、世界の構成原理としました。
でも、それは、キリスト教が支配した中世西欧において、
完全に退けられました。
それは、上記のような福音書の思想の枠内に、
人々の思考が支配されていたからでした。
さらにそれは、トマス・アクイナスが、
アリストテレス哲学をキリスト教に大胆に導入して、
神学全体のが理論的補強を施された、結果でした。
トマスが用いたアリストテレスこそ、
アトム論に反対した代表者の一人だったからです。

こうした状況は、17世紀に逆転します。
17世紀に、真空が発見されたことが、
大きなきっかけになります。
背景には、
16世紀の宗教改革=宗教の破綻を受けて、
論理と数学と実証に支えられた科学が、
人々の思考を新しく展開し始めていたことがある。
そのような背景と発見に押し出されて、
アトム論は、17世紀に復活します。
アトム論は、ライプニッツのモナドとして、洗練を加えられます。
「モナドロジー」は、現代の思考の先取りとして読めます。

こうして、アトム論は、実に、現代を支配する思想となりました。
アトム的・モナド的枠組みが出来上がることで、
現代の機械論的世界観が生まれる。
それは、「死=無」とすることを、
自明のこととして疑わない世界観です。

質問は、上記の世界観の変化が、
絵画において、どのように確認されるのか、どうかです。

私は、19世紀以降の英国の神学を研究しております。
それで、ラファエロ前派の運動を、微々たるものですが、学びました。
しかし、どうも、ラファエロ本体について、
その意味が、分かりかねています。

19世紀までの絵画が、ラファエロに支配されていた、ということは、
教科書的に知っているのですが、
その意味を、つかみかねているのです。
それでも、上記のような流れを押さえてみると、
やっと、何か、掴めるのかもしれないと、予感し始めました。

ラファエロは、これも教科書的ですが、
イタリア・ルネサンスまでの芸術の総合者であるとのこと。
それは、つまり、
「無」も「真空」も存在しない世界を描く総合者ということになります。
それは、絵画において、どのように表現されているのか。
そして、それはその後の絵画において、どのように否定されたのか。

長文となった揚句、漠とした質問に帰結していますこと、
恥ずかしく、申し訳なく存じます。
それでも、長年の疑問でした。
ヒントを頂ければ、幸いに存じます。

人は、身体の一部を切り分けた相手を自分の家族とする。
それが、創世記神話の家族理解です。
ペットロス、といえば、消費されるクリシェに堕しますが、
お心深くに刻まれた傷を、思います。
今日は日曜日です。
平安が、癒しをもたらすことを、
祈りたいと思います。

それでは失礼します。

川上直哉
by 川上直哉 (2010-02-21 06:00) 

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