ロングテール/少数者のネットワーク [生きる方法]
よく知られているように、ロングテールは2種類の人々にとって良いニュースである。一つは、少数の幸運な集積業者、たとえばアマゾンやネットフリックス。もう一つは60億人の消費者。これら2種類のうち、消費者のほうが無限のニッチに隠れている財産からより多くの恩恵を受けていると思う。
しかし、創作者にとってみればロングテールが功罪相半ばするものであることは疑う余地がない。この方程式においては一人一人の芸術家、演出家、発明家、制作者が考慮されていない。ロングテールは創作者の売上を大きく増やすのではなく、激しい競争と価格低下への果てしない圧力を加えてくる。芸術家としては、他の芸術家たちの作品を集積する大規模業者にでもならない限り、微々たる売上という低迷から抜け出す道筋をロングテールが提供してくれることはない。
爆発的大ヒットをねらう以外に、芸術家はどうすればロングテールから脱却できるのだろうか?
一つの解決策は「千人の忠実なファン」を見つけ出すことである。そういう呼び方はしなくてもこのやり方に気づいた芸術家たちもいるが、私は定式化してみる価値はあると思う。「千人の忠実なファン」の要点を簡単に言えば次のとおり。
芸術家、音楽家、写真家、工芸家、俳優、アニメ作家、デザイナー、ビデオ作家、著述家などのような創作者、すなわち芸術作品を創作する人は誰でも、生計を立てるためには「千人の忠実なファン」を集めれば良い。
「忠実なファン」とは、あなたが創作したものを何でもかんでも購入する人のことである。あなたが歌うのを見るために200マイルの道のりを自動車で走ってくる。あなたの作品の「超豪華 再発売 高画質版ボックスセット」を買ってくれる。すでにその低画質版を持っているのに。あなたの名前をグーグルアラートにセットしている。あなたの絶版作品が出てくるイーベイのページをブックマークしている。あなたのコンサートの初日に来る。あなたにサインを求める。Tシャツやマグや帽子を買う。次の作品が発売されるのを待ちきれない。そういう人たちが忠実なファンである。
売上を増やしてロングテールの水平な直線から脱出するためには、「忠実なファン」と直接つながる必要がある。別の言い方をすれば、千人の「平凡なファン」を千人の「忠実なファン」に転向させることである。
控えめに見積もって、「忠実なファン」はあなたの活動を支援するために、賃金1日分を1年間に使うものとする。この「賃金1日分」は平均での話である。「最も忠実なファン」は当然それより多くのお金を使うだろう。ここでは、一人の「忠実なファン」は1年あたり賃金1日分として100ドル使うことにしよう。千人のファンがいれば、その合計は1年あたり10万ドル。そこから多少の経費を差し引いて、たいていの人の生活費くらいにはなる。
千人というのはありうる数字である。千まで数えることはできる。1日一人ずつファンを増やしていけば、3年で達成できる。「忠実なファン」の仕組みは実現可能だ。「忠実なファン」に喜んでもらうことは、楽しくて励みになる。そのおかげで芸術家は本物のままでいられる。自分の作品の独自性に集中でき、「忠実なファン」はそこに価値を認める。
重要な課題は、「千人の忠実なファン」と直接につながっているということである。彼らは直接あなたに支援を与える。たぶん彼らはあなたのハウスコンサートに来るだろう。あるいは、あなたのウェブサイトでDVDを買う。ピクトピアであなたの写真を注文する。直接の支援であれば支援の全量をあなたが確保できる。さらに、直接のフィードバックや愛情も有益である。
つながるための技術と、小規模生産のための技術がこの循環を可能にする。ブログとRSSフィードでニュースや出演予定、新しい作品などを流す。ウェブサイトには過去の作品のギャラリー、経歴情報のアーカイブ、持ち物のカタログなどを置く。いろいろなデジタル関連業者、たとえばディスクメーカー(CD/DVD作成)、ブラーブ(自費出版)、ラピッドプロトタイプ業者、マイスペース(コミュニティサイト)、フェースブック(SNS)などが、少量のものを早く安く簡単に生産して宣伝するために協力してくれる。何か新しい物を制作するために、百万人のファンがついている必要はない。わずか千人で十分なのだ。
あなたの生計を支える熱狂的なファンの小さな輪のまわりに、同心円状に「平凡なファン」の輪がある。この人たちは何でも買うというわけではない。じかに接することを求めない。でもあなたが創作するものを多く買ってくれる。「忠実なファン」を育てるために用意したプロセスは「平凡なファン」にも使える。新しい「忠実なファン」を獲得しながら、同時により多くの「平凡なファン」も増加させることができる。これを続けていけば、ついには何百万人のファンができて大ヒットするだろう。百万人のファンを持つことに関心がないような創作者を私は知らない。
しかしこの戦略のポイントは、生き延びるためにはヒット作品は必要ないということだ。ロングテールから脱出するためには、ベストセラーというショートヘッドを目指さなくても良い。テールからそう遠くない中間部分に、少なくとも生計を立てられる場所がある。途中にある安息の地が「千人の忠実なファン」である。芸術家がベストセラーのかわりに目指すべき目標である。
デジタルに媒介されたこの世界でスタートする若い芸術家には、スターを目指す以外の道があるはずだ。ロングテールを作ったまさにその技術で可能となった道である。プラチナ・ヒットや爆発的ベストセラーやセレブの地位などという、狭くて見込みのない頂上に到達しようとするかわりに、「千人の忠実なファン」との直接のつながりを目指す。それははるかに健全な目標である。巨万の富ではなく生計を得るのだ。一時的流行やブームではなく、「忠実なファン」があなたを取り巻いている。実際にそこに到達する可能性はずっと高い。
ここで警告をいくつか。この方策「千人の忠実なファン」は、一人の場合、すなわちソロ・アーチストのために考案したものである。デュエットやカルテット、あるいは映画のクルーの場合はどうか?明らかにより多くのファンが必要だ。増加すべきファンの数は、創作グループの人数の増加に正比例する。グループの規模が33%大きくなれば、33%だけ多くのファンが必要になる。この線形的増加は、デジタル世界でたいていのものが指数関数的に膨張するのと対照的である。この「忠実なファン」のネットワークは、標準的なネットワーク効果の法則に従って、ファンの数の二乗に比例して増加すると言っても驚くにはあたらない。「忠実なファン」は互いに結びつきがあるので、あなたの作品への平均的支出額を容易に増加させる。創作に関わる人数が多ければ、必要とされる「忠実なファン」も多くなるが、その増加は爆発的ではなく緩やかで比例的に増加する。
もっと重要な注意。芸術家は必ずしもファンを育成する素質や意欲を持っているわけではない。多くの音楽家は音楽を演奏したいだけであり、写真家は撮影したいだけ、画家は絵を描きたいだけである。彼らの気質としては、ファンの相手、とくに「忠実なファン」の相手をしたいとは思っていない。このような創作者には、仲介者、マネージャー、付き人、代理人、あるいは観客係というような、ファンを取り仕切る人が必要である。そうであっても同様に「千人の忠実なファン」という中庸の目標を目指すことはできる。彼らは二人組で仕事をしているだけのことだ。
三つ目の特徴。直接のファンが最も望ましい。間接的に生活費を稼ごうとすれば、必要な「忠実なファン」の数は急速に増大するが、無限には増えない。ブログを例として考えてみよう。ブロガーに対するファンの支援は広告のクリックを通じて行われる。(たまにチップ・ジャーによる場合もあるが。)ブロガーが生活費を稼ぐためにはより多くのファンが必要になる。このため到達目標はロングテール曲線の左へ向かって動くが、それでも爆発的ヒットの領域にはまったく届かない。同じことが本の出版にも言える。作品による収益の大部分を取ってしまう会社が関与していると、支援する「忠実なファン」は何倍も多くの人数が必要になる。自分のファンと直接に接触することを開拓すればするほど、その必要な人数は少なくなる。
最後に、実際の数字は媒体ごとに異なるかもしれない。たとえば、画家には500人の「忠実なファン」、ビデオ作家には5千人の「忠実なファン」とかいう具合に。さらに、国によっても違うはずだ。実際の数字が問題なのではない。それはやってみなければ決められない。そのモードにはいってみれば、実際の数字が明らかになるだろう。それがあなたにとって必要な「忠実なファン」の数だ。私の方策は数字の桁が違っているかもしれないが、それでも百万人よりはずっと少ないだろう。
「忠実なファン」の人数について参考文献を調べてみた。Suck.com の共同創設者カール・ステッドマンにはマイクロセレブについての理論がある。その計算では、マイクロセレブとは1500人に有名な人である。1500人があなたに夢中ということだ。ダニー・オブライエン (Danny O'Brien) は次のように述べている。「英国のすべての町にひとりずつ、あなたのおバカなオンラインコミックが好きな人がいるとする。あなたが1年中ビールを飲むためには(またはTシャツを販売するのには)それで十分である。」
このマイクロセレブに対する支援をマイクロ後援とか分散後援と言う人もいる。
1999年にジョン・ケルシー(John Kelsey) とブルース・シュナイアー(Bruce Schneier) は「ファースト・マンデー」 (First Monday) というオンラインジャーナルでこのモデルを発表した。それは大道芸人方式 (Street Performer Protocol) というものである。
大道芸人の論理を使うと、本が出版される前に著者は直接読者に協力を求める。もしかすると本を書く前ということもあり得る。著者は出版社を通さずに、次のような声明を発表する。「10万ドルの寄付が集まったら、このシリーズの次の小説を公開します。」
読者は著者のウェブサイトに行って、寄付金がいくら集まったかを知ることができる。小説を出版させるために寄付することができる。注意すべきことは、著者は次の章を出版する費用を誰が払うのか気にしなくて良い。また、お金を払わずにその本を読む人がどれくらいいるかも気にしなくて良い。著者は10万ドルという容器が満杯になったかどうかだけを気にすれば良い。それが満たされたら、次の本を出版する。この場合には「出版」というのは単に「提供」するというだけのことであり、「製本して書店で販売する」という意味ではない。本は無料で誰にでも提供される。寄付金を払った人にも、払わなかった人にも。
2004年には、ローレンス・ワット=エバンスという作家がこのモデルを使って最新作の小説を出版している。彼は「忠実なファン」にみんなで合わせて毎月100ドル払ってくれるように頼んだ。100ドルを手に入れると、小説の次の章を投稿した。本全体は「忠実なファン」に対してオンラインで公開して、その後、すべてのファンに向けて紙で出版した。彼は今この方式の第二作を書いている。彼の生活は200人程度の「忠実なファン」に支えられている。それができるのは、彼が従来のやり方でも出版しているからだ。何千人もの「平凡なファン」の支援によって出版社から前払金を受け取っている。その他、ファンからの直接の支援を利用している作家としては、ダイアン・デュエイン、シャロン・リーとスティーブ・ミラー 、ドン・セイカーズなどがいる。ゲームデザイナーのグレッグ・ストルジは同様の「忠実なファン」モデルを採用して前払資金による二つのゲームを作っている。ここでは「忠実なファン」50人が開発資金を寄付した。
「忠実なファン」モデルの特質は、ファンがその人数に比べて大きな力をもって、芸術家をロングテールの末端から脱却させることが可能になるということである。それには3通りの方法がある。各人がより多く購入すること、直接お金を払うことによって売上高のうち創作者の取り分をもっと多くすること、支援のための新しいモデルを実現させること、の三つである。
支援の新しいモデルにはマイクロ後援も含まれる。別のモデルとしては起業費用の前払調達がある。デジタル技術のおかげでファンによる支援がいろいろな形で可能になっている。ファンダブル (Fundable) はウェブをベースとする企業で、誰でもプロジェクトのための一定額の資金を調達できる場を提供し、さらに後援者に対してもプロジェクトが発足することを保証する。全額が集まるまではファンダブルが資金を保留する。もし最低額に達しなければ、そのお金を返却する。
ファンダブルのサイトから一例を示す。
アメリアという20歳のクラシックソプラノ歌手は、録音スタジオに入る前に自分の最初のCDを事前販売した。「事前注文で400ドル得られたら、(スタジオ費用の)残りが払えるようになります。」と寄付予定者に説明した。ファンダブルのオール・オア・ナッシングモデルによって、彼女が目的を達成できなかったとしても、顧客は誰も損をしないことが保証されている。アメリアのアルバムは940ドルを超える売上があった。
千ドルあっても飢餓状態の芸術家を生き延びさせることはできないだろう。しかし本気の心遣いがあれば、熱心な芸術家が「忠実なファン」とともに成長することは可能だ。カナダの音楽家ジル・ソビュール は長年にわたるツアーとレコーディングを通じてかなりの規模の支持者を集めており、「忠実なファン」の力を得て成功している。最近、彼女は次のアルバムのレコーディング費用7万5千ドルをファンにお願いして調達することにした。今のところ5万ドル近くを集めている。寄付という形で直接に支援することにより、ファンはその芸術家に対する親近感を増す。AP通信(Associated Press)は次のように伝えている。
寄付者は資金に対する担保のレベルを選ぶことができる。10ドルの「磨いていない宝石」、すなわち彼女のレコードが完成したらそれを無料でデジタル・ダウンロードできるというものから、1万ドルの「兵器級プルトニウム・レベル」まで。これは彼女が次のことを約束している。「私のCDに歌いに来てね。あなたが歌えなくても大丈夫。こちらでなんとかするから。」5千ドルの寄付に対しては、寄付者の家でコンサートをするとソビュールは言っている。低いレベルはもう少し一般的なもので、寄付者は特別版のCDをもらえるとか、寄付者がそのCDの「ジュニア・エグゼクティブ・プロデューサー」としてライナーノートやTシャツに記載されるといったものである。
「忠実なファン」によって生計を立てることに対して、通常、他の選択肢は貧困である。つい先頃の1995年の調査によると、芸術家であることの一般に認められた価格は高い。だが社会学者ルース・タウスが英国の芸術家を調査したところ、彼らの収入の平均は貧困最低限レベルを下回るという結果を得た。
創作者には、貧困でもなくスターでもない中間の居場所があると私は言いたい。それは成層圏レベルのベストセラーよりも低いけれども、ロングテールの暗がりよりは高いところだ。実際に本当の数字はわからないが、熱心な芸術家であれば千人の「忠実なファン」を開拓することができると思う。ファンからの直接の支援と新しい技術を利用して、正当な生活ができるはずである。そのような道を進むと決めた人がいたら、私に連絡をいただけるとありがたい。
《マイノリティの結合》が社会を変える/情報縁による71,314の《島》を創出せよ!(訂正加筆2) [生きる方法]
大きな社会
アメリカという社会は、
ヨーロッパでいじめられた人々が、
逃げて作った社会です。
ですので、国家をつくる最初の段階で、
マイノリティがいじめられない社会を、どのようにしたら
つくりえるのか?
という議論をしています。
その時に、大きな社会を作った方が、
多様な人々が、共存できるのだという、
結論が出ます。
「アメリカ」という名称の中には、
こうした自由を基盤にした社会と言う、
そういう共同幻想があります。
ロック/ファンクの歌のなかで、
たとえば、プリンスやジェームス・ブラウンが、
「アメリカ」と歌うときの意味は、
こうしたマイノリティがいじめられない、自由の世界への希求と
しての「アメリカ」があります。
同時に1975年にアメリカがベトナムに敗戦した以降、
「リエンジニアリング」という社会再編が吹き荒れますが、
その時に、ブルーススプリングスティーンが歌った、
「アメリカに生まれて」という歌は、
ベトナム戦争で戦った兵士たちが、帰還後、
アメリカでいじめられて行く失望が、歌われます。
同じテーマは、
『ランボー』シリーズの1で描かれた帰還兵にも言えます。
アメリカにおいても、弱者やマイノリティは、いじめられるのです。
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マイノリティの結合
マイノリティの中でも、ホモセクシュアルな人々に対する社会的ないじめは、
過酷を極めます。
ホモセクシュアルな人々の中でも、男性同性愛者による社会への抵抗
と、表現の自由への希求は、
過激で過剰なものとなって、
社会を変革して行くのです。
その頂点のひとつがジョン・ウォータース監督の
「ピンク・フラミンゴ」です。1972年製作。
それともうひとつがピエル・パオロ・パゾリーニ監督の
「ソドムの市/サロ、或いはソドムの120日」です。
1975年に製作されています。
これらの映画は、スカとリジーに至ったものです。
こうしたスカトロジーの出現は、
実は1975年というアメリカの敗戦によって、
《近代》という《象徴界》の強い抑圧の時代が終焉して、
価値再編の時代になったことを象徴する、
そうした時代への象徴をなしたもので、
重要な結節点であり、
表現の自由の、ある臨界点であったのです。
男性同性愛者の人々は、
何よりも少数者であるために、
ナイフを使った傷害事件を起こすのを、
私は学生時代に、間接的ですが、知っています。
私の身の回りには男性同性愛者も、
女性同性愛者も多くて、
私自身は、これらホモセクシュアルな人々を差別する意識は無いか、
あるいは弱いものです。
つまり男性同性愛者の場合、昔は、恋人を見つける事が困難なので、
別れ話になると、ナイフを使って刺すということになるのです。
インターネットの出現は、こうしたマイノリティが結びつく事を、
可能にする、有効な方法になります。
マイノリティという次元では、まったく別ですが、
障害児を持つ親たちが結びつくのにも、
インターネットは、有効なものの様です。
私の場合には、弟が重度の脳性麻痺で、
浜松の天竜厚生会という私設に入っているので、
そういう問題は当事者の位置に居ます。
学術的な結びつきとか、
高度な芸術的な趣味判断の結合、
たとえば現代音楽のCDやDVDの購入のためのネットの形成なども
また、ある意味でのマイノリティの問題で、
インターネットは有効なのです。
さらには老人たちの結合、
さらには疲弊した地方どおしの結合など、
マイノリティが結びつく事で、お互いの苦痛の軽減をはかり、
助け合うことが、可能になったのです。
そういう意味で、インターネットの出現は、
孤立したマイノリティを結合させ、
新たな社会勢力と、市場形成を可能にして、
未来の社会の再編を形成する重要な新しい環境なのです。
木村静さんの地域起こしのテレビ活動も、
地域の中での関係の再編を、インタネットで、
進めようというものです。
山本育夫氏の、AWや、
富井玲子氏の、ポンジャなどは、
そのメーリングリストでの代表です。
平井玄氏らの地下大学の運動や、
上岡誠二氏らの東京 F.A.T.も、そうした文化再編の運動です。
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《近代》とは、
《村》の解体であった
《近代》という時代は、何であったのか?
そのひとつの答えは、《村》の解体運動であったという事です。
江戸時代に日本には、7万1千の《村》がありました。
正確には71,314です。
これが現在は、1,760の市町村に合併併合されているのです。
明治の大合併、昭和の大合併、そして平成の大合併の、3回を中心に、
私たちの生活世界の基本的な枠組みが再編されて、
大きな社会への変貌して来ているのです。
こういう環境の変化の中で、
「環境圧」というべきものが変わって、
家族関係も、友人関係も、そして恋人関係も激変して来ました。
つまり人間の関係というのは、実は環境が持つ圧力の中で形成されて
いるので、この「環境圧」の変化で、大きく変わるのです。
江戸時代に比べて、40分の1になった《村》の数は、
私たちの社会を変貌させ、そしてリアルな人間関係をも激変させて
来ているのです。
では、環境の圧力が、40分の1にまで、激減した時に、
何が起きなのか?
かつての《村》は、鎮守の森を中心にした神道が生きている世界でした。
《村》の解体は、同時に鎮守の森の解体であり、
神道の解体に結果したのです。
現在の日本の農村には、アメリカのファンダメンタリズムの
キリスト教である、ものみの塔などが、入り込み、
徘徊しているのです。
日本の農村が、アメリカ化して来ているのです。
神道の衰弱化は、同時に社会的なモラルの衰弱になっています。
それは一人一人の生きる意味のあいまいか、理想の喪失、そして
生きる目的の喪失に結果して行きます。
それは同時に男の衰弱化でもあります。
鎮守の森を中心とした社会規範がある事で、
男たちは、「男」である事の意味を教えられ、
「男に成る」ことができたのです。
「男である」ということは、実は生物学的な生理ではなくて、
「社会的・文化的な性のありよう」の問題であり、
ジェンダーでありました。
鎮守の森と、神道の崩壊は、
同時に「男」という文化事象=ジェンダーの崩壊であり、
男は、鎮守の森を失うことで、フォルスを屹立させる契機を
失ったのです。
その結果として、「女の腐ったような男」たちが大量に出現します。
それは同時に、鎮守の森からの女たちの解放でもありました。
解放された女たちは、小さなペニスであるクリトリスを勃起させて、
かつての男たちのようにタバコを吸い、東南アジアに男を買いに
売春ツアーに参加するようになります。
こうして《村》を解体された日本社会は崩壊して行きます。
GDPは、急降下して、日本の経済力は衰弱し、国際競争力も失い、
日本は、沈没したのです。
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《マイノリティの結合》が社会を変える/情報縁による71,314の《島》を創出せよ! [生きる方法]
棲み分けの問題 [生きる方法]
加藤和彦氏の自殺(加筆3構成変更1) [生きる方法]
加藤和彦氏の自殺の報に接し、
たいへんに悲しく思います。
私も号泣しました。
加藤和彦氏の音楽は、心に深く残るもので、
「帰って来たヨッパライ」は最高でした。
あの時代の大ヒットで、この曲を聴きながら
渋谷の大横断歩道を渡っていた記憶は、
私の中に今も生きていて繰り返し思い出すものです。
1968年に開始されたオリコンで、
史上初のミリオンヒットとなりました。
テープの早回しが使われていますが、これはビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を連想させるもので、このアルバムの発売はアメリカで1967年6月1日で、半年遅れて1967年12月25日に東芝音楽工業からのレコード発売されたのが「帰って来たヨッパライ」です。こういう経緯から、「帰って来たヨッパライ」のテープの早回しのテクニックの使用にはビートルの影響があると推察されます。
しかしビートルズは第3次元〜6次元の音楽であって、「帰って来たヨッパライ」は第41次元〜超次元で、芸術的な『アートの格付け』は上なので、模倣ということではありません。芸術的格を上げた場合には模倣とは言わないのです。
コメント 2
「イムジン河」も学生時代に聞いて、
多摩美の映画研究会の部室で感動した事を覚えています。
『悲しくてやりきれない』も、すばらしい名曲で、
加藤和彦氏の才能の凄さを感じさせます。
私自身も、学生時代は酒を飲むと、黙って涙をポロポロと流していた人なので,
この曲は身にしみて聞いていました。
サディスティックミカバンドも、その早さも含めて、
すばらしい音楽でした。
さらに『うたかたのオペラ』も、私には記憶の残るアルバムで、
忘れられないものです。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・
自殺というのは、私も考えた事はあります。
一番あぶなかったのは、高校3年生の春で、
再び結核が再発して、医大進学を考えていた時期で、
ショックを受けて、それまで信じていた内村鑑三的なキリスト教への信頼を失います。この後、中村元の初期仏典へと転向していくのですが、この時期に自殺を考えています。自殺未遂というほどではなくて、高校の屋上から下を見つめていたほどです。
この時に書いた詩を、最初の著作である『反覆/新興芸術の位相』に収録してあります。
敗北の時代宣言
絶対に負けてやらぬ。
自殺はセン。
戦いは止めぬ。
復讐してやる。
絶対に負けてやらぬ。
絶対に負けてやらぬ。
自殺はセン、戦いは止めぬ。
復讐してやる。
絶対に負けてやらぬ。
こんなひどい詩を書く人間が彦坂尚嘉
という人物なのですが、この詩は1966年発行の版画同人詩『外』の第3号に収録されています。ちょうど私が20歳の時です。20歳の誕生日というのは、絶望していて暗かったですね。
この詩の格付けです。
想像界の眼で、第41次元。
象徴界の眼で、第8次元。
現実界の眼で、第21次元。
現実界の詩。
気体の詩。
シリアス・アートの詩。
ローアートの詩。
キッチュな詩。
透視詩。
『真実の人』の詩。
詩のレベルとしては、今読んでもひどいとは思いますが、今日に至までの彦坂尚嘉の基本的なエンジンだと言えます。つまり自殺はしないという意思の問題ですが、同時に常に死に向かって運動しているという感覚です。こうした事が、他人に嫌われるのは、良くわかります。しかし神と格闘するというレスリングにかけて行く以外に生きる方法が無いのですから、多くの人に嫌われることは、しかたがない事であると思っています。
神に対する徹底抗戦の戦いというのは、私性(わたくしせい)というものの戦いなのです。自然性や、公的性、社会性では無くて、自殺を拒絶した私性(わたくしせい)の屹立としての生き方であるのです。
そういう私の立場から見ると、加藤和彦氏の自死というのは、衝撃であると同時に、自分の問題と重なります。私自身は自殺の衝動を強く抑圧はしていますが、しかし自殺欲のようなものが強くあるからです。
私の多摩美術大学の先生であった美術評論家の坂崎乙郎先生も、1985年に自殺をなさっておられますが、自殺ではないということを書いている方がいるので、何とも言えないものを感じます。ただ、この前に画家の鴨居 玲が、57歳で自殺をしていて、これとの関連は言われています。
この鴨居玲という画家は、実は《第41次元》の絵画を残していて、
このことと加藤和彦氏の音楽に、実は《第41次元》のものが
多かったという事は、無関係では無いように思えます。
鴨居玲の絵画
《想像界》の眼で《第41次元 崇高領域》の《真性の芸術》《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的絵画
《現実界》の眼で《第2次元 技術領域》のデザイン的絵画
《想像界》の表現
固体の表現
《シリアス・アート》
シニフィアン(記号表現)の美術
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なぜ、加藤和彦氏は、自殺したのか?
それは加藤和彦氏の才能の構造そのものに、あったと
私は思います。
それは鴨居玲の自殺が、その才能と深く関わっていた事と
似ていると思うからです。
・
帰って来た酔っぱらい
悲しくてやりきれない
サディスティックミカバンド
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来る者は拒まず、去る者は追わず [生きる方法]
人間関係の基本は、去る者は追わず、来る者は拒まずです。
最近のように、自己愛性人格障害の人が増えてくると、
人間関係そのものは難しいのですが、
昔とは違うので、去る人はそのままにして、
新しい可能性を追究していった方が良いのです。
嫌いな人とか、興味を持てない人でも、
来る人は拒まない事が重要です。
新しい人間関係の中に、エネルギーが有ります。
古い関係は大切にしたいのですが、
現在のような大変化の時代に成ると、
なかなか古い関係を維持するのは難しいのです。
私の様に、自分の母なる時代からの出産と追究している者は、
古い時代に留まる事を良しとする人々からは嫌悪され、
憎悪され、足を引っ張られ、破滅を期待されるからです。
昔、私から去った小柳幹夫から始まって、
去っていく人というのは、自分のたこ壷にこもっている人です。
私の様に旅をし、移動する人間とは、彼らは違うのです。
このような古い人々から離れる意外に手が無いのです。
寂しい事ですが、
しかし若い新しき人々との出会いに向かった方が、
私には楽しいのです。寿命と変態 [生きる方法]
木村静と斉藤ちさと [生きる方法]
フリー・メディア・アーティストの木村静と、斉藤ちさと(写真家 /アーティスト)を、彦坂尚嘉がインタビュー。2009年9月3 日、清澄白河で、やのまき が運営するM7で収録
アーティストと職人の違い/Skyepとアンディ・ウォーホル(改題校正2最後に加筆2) [生きる方法]
家族あるいは人間関係(マトリックス追加改稿1加筆3) [生きる方法]
家族あるいは人間関係
1
家族や人間関係は崩壊しつつあるように見えます。
従来の血縁関係が分解して来ているように見える状態があるのです。
一番ひどいのは遺産相続時に於ける、兄弟の鬼のような形相の争いと言われます。
そう言う経験をした人と話すと、鬼というものが、人間の遺産相続という欲の中で育って出現する様が推察されます。人間の欲望の解放が、20世紀に進んで来たのは事実ですが、その欲やエゴイズム故の争いが、骨肉の争いとなって噴出するのです。
つまりかつてのアボリジニーのような120規模の血縁集団に回帰できない故に、むしろ母親や父親から離脱して行く方が、精神的には自由で健康な成長が出来ると言う時代なのです。
血縁家族のこうした解体性は、むしろ肯定的に評価しつつ、緩い血縁性を維持する事が重要なのです
2
単身世帯と言う、一人暮らしが増えているのです。
「日本の世帯数の将来推計」によれば、ほぼ3軒に1軒が単身世帯です。
東京の世帯の中で、51%は一人暮らしであると言います。しかしその数字は具体的には、ネット検索では見つけられませんでした。
東京都総務局の「住民基本台帳による東京都の世帯と人口」によれば、2004年の「区部における1世帯当たりの平均人員」が2を超えているのは、2.25で最高の足立区をはじめとする10区だけで、千代田・中央・港の都心3区を含む13区ではすべて1台なのだそうです。
ということは即ち、東京の過半の区では、最も多い世帯が単身世帯であるということになるというのです。(下図)
一人暮らしというのは、大昔には不可能であって、新しい今日の人間の獲得した可能性とも言えるものです。
大昔の自然採取段階の野蛮と言われた無文字段階では、アボリジニーのような集団は120人くらいで移動し続けていたのであって、この血縁集団からは、離れ猿のような離脱か、婚姻による共同体からの放出以外には不可能であったわけで、今日の一人暮らしは、全人類史的には、非常に今日的な新しい可能性の領域なのです。
原始時代の集団の基本は血縁集団であって、それは大家族の基本構造を示していました。
それに対して情報化社会の基本は、一人暮らしなのであって、それが個人の基本構造を現しているのです。
現在の一人暮らしとは反対である原始時代のアボリジニーを見てみると、それは一つの言語集団ではなくて、言語として知られているのは750にも上るものであって、つまりアボリジニーというのは、彦坂尚嘉の推論では、厳密な意味では120人くらいの群れごとに言語があって、つまりそういう血縁集団ごとの言語という少数言語の乱立が、実は血縁集団というものを作り出していたと考えられます。
3
現在の血縁集団の崩壊という事態の進展が、人間の幸せの喪失となっているのです。
しかし同時に、新しい開放的な人間関係の創出でもあるのです。
つまり幸せに生きるという事であれば、自然採取時の原始共産性こそが人間の幸せを生み出すシステムであったのです。
「幸せになりたい」という欲望を実現させたければ、古い原始共産性に戻る事が、その答えなのですが、しかし現実には戻り得ないのです。
もどったような幻想を生み出すのは、一つは新興宗教やヤマギシ会のような集団ですが、私がお薦めできる性格のものではありません。
ヤマギシ会というのは、日本生まれの共産主義運動です。農業・牧畜業を基盤とした理想社会を作ろうとするミューン団体ですが、基本にあるのは「「無所有一体」の生活を信条とするため、参画するには一切の財産を会に供出する誓約が求められる」という原始共産主義に回帰する運動です。1953年(昭和28年)、故・山岸巳代蔵(1901~61)の提唱する理念の社会活動実践母体「山岸会」として発足して、現在も継続しています。
アボリジニーに象徴される、原始共産主義的な社会と言うのは、人間にとって失われた理想生活であり、エデンの園であったのです。
そこではしかし、文字は無かったのです。
書き言葉が出現すると、人間の集団は定住するようになると同時に、
戦争する事を開始して、大きな共同体を形成するようになります。
戦争というのは、定住して農業をするようになると始まるのです。
それは遺跡で確認されている学問的な事実です。
つまりアボリジニーに見られる様な言語の小集団性は、人間が農業を開始して定住をすると、書き言葉が出現して、
そうすると農業をしながら、巨大集団の形成にむかって古代帝国を作り出していったのです。
つまり書き言葉の出現と言う識字=リテラシーの出現を介して、
原始共産主義とも言える自然採取の小集団は解体されて行くのであって、つまりリテラシーの出現が、人間の諸関係を変革して行くのです。
このことは今日の情報リテラシーでも同様であって、コンピューター・リテラシーの出現によって、従来の近代国家の閉鎖性は相対化され、言語もまた国民国家の言語としての日本語が相対化されて、英語の世界語化に還元されて行くのです。
つまり風が吹けば桶屋が儲かる式の話で言えば、今日の家族の解体と、英語の世界言語化は、関係性があるのです。
4
情報化社会の中には、実は人間疎外の4重化という非常に不幸な構造があって、そのことの重荷において現代という時代の新しさがあるのであって、
その重荷をになう事での新しい、いきいきとした人間関係の構築性も同時にある事を見て行かないと、駄目なのです。
人間の定住化が、地縁関係を作ったように、人間は産業革命を経ると、《近代》学校制度を作り学閥関係を生み出しました。
《近代》資本主義を生み出して、会社という終身雇用年功序列という共同体を生み出したのです。
情報革命は、こうした血縁/地縁/学閥・会社閥といった古い3段階の人間関係を相対化して、つながりを緩くする事で、情報関係とも言うべき、新しい第4の人間関係を作り出しているのです。
この第4のネット関係こそが、新しい時代の推進力となる人間関係なのです。
- 原始社会の第一人間関係である血縁関係。
- 農業革命をへて作りだされた第2人間関係である地縁関係。
- 産業革命をへて生み出された第3人間関係である学閥/会社閥関係。
- そして情報革命をへて創出された第4の人間関係である携帯ネット関係。
現在起きている事は、古い血縁関係や、地縁関係、そして学閥/会社閥関係が、新しい情報関係によって、相対化され、解体され、再編されてきている事です。
このことの開放性と可能性を見て行かないと、新しい美術によるコミュニケーションも、新しい美術の創造性も、そして新しい美術の市場性も理解できない事になるのです。
たとえば私の古い付き合いのディーラーは、蓄積してきた顧客との関係の無意味化にぶち当たっています。アート・ディーラーというのは、コレクターに作品を売るとともに、価格が高くなった時に、その作品をコレクターから出さして、転売するという行為の繰り返しで、利鞘を稼いでいた商売でした。
しかし現在の顧客は、コレクションしている作品を売る場合、画商を通して売るのではなくて、オークションに出して売ることを選択するようになったからです。
オークションというのは、実は情報だけで成立している美術市場であって、従来の画商と顧客の画廊と言う会社を介しての会社閥的な人間関係は相対化されてしまって、お客は従来の人間関係を無視して、オークションに直に出すのです。
こうしてコンピューター・リテラシーという一つの識字が成立すると、根こそぎの崩壊が出現するという事を冷静に見て行かないと、識字=リテラシーというものが、文明や文化を作っていると言う問題の本質を見失います。
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こうした新しい事態に対して、反動も当然のように起きます。
この反動を本質として見誤ると、認識者としてはマズいのです。
つまり古い閉じた人間関係に戻って、安心したいという反動の欲望も起きるのです。
人間の精神は、しかしこの反動にむかうものなのです。
反動性においてしか、思考の原点が確認できないのです。それもまた生理であって、この生理を相対化する冷たい認識者の眼を持たないと、今日のサントーム的な視点を獲得できません。
だから、今日の和物のブームにしろ、古い地方への回帰にしろ、農業への回帰にしろ、そのことが悪いのではありませんが、それをサポートするネット環境の整備が無いと、すぐに行き詰まり、崩壊するのです。
地方に、何処にいてもつながる携帯電話網の整備は重要ですし、何処でもインタネットがつながる整備が重要なのです。
こういうものが無い形で、単に古いものに回帰しても、行き詰まって破綻するのです。
つまり進歩があれば、退化があるという、こういう二重性自体を,対象化し、この両者を同時表示して行く《つなぎ=サントーム》が必要なのです。
「ヨッパライ」が「制作」されたのは、もっと前だと思います。そもそもは自主制作アルバムに収録されていたものですので。
by makoto (2009-10-20 11:11)
makoto様
ご指摘ありがとうございます。
そのとおりですが、自主制作アルバム『ハレンチ』ですが、この300枚の出版も,1967年ですね。この『ハレンチ』の制作が、ビートルズの発売よりも前か、後かと言う事ですが、私は後だと思います。
解散の最後のコンサートが10月だからです。この10月に向けて制作されたのだろうと、考えるからです。
by ヒコ (2009-10-20 14:03)