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しそジュース [食べ物]

しそジュース2-1.jpg

しそジュースを手作りでつくって、飲んでいます。
昔から、何回かやっていますが、美味しいものです。
私の場合にはお砂糖はまったく入れないので、
一般向けとは言えません。

こういうある意味で煎じ薬のような味覚というものも、面白いものなのです。

手作りしそジュースの味覚
《想像界》の舌で《第41次元〜超次元》の《真性の味覚》
《象徴界》の舌で《超次元〜第41次元》の《真性の味覚》
《現実界》の舌で《第41次元〜超次元》の《真性の味覚》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な味覚
固体の味覚

《シリアスな味覚》《ハイアートの味覚》

シニフィアン(記号表現)の味覚
【A級の味覚】

前近代的な固体の味覚なのですね。
まあ、煎じ薬の味ですから、前近代の味覚ですね。
《第41次元》の味覚というものを知る上では、良いサンプルです。

健康には良いもので、
抗癌効果もあるそうです。

作り方は以下のサイトにあります。
私の場合にはレモンジュースをクエン酸の代わりに使っています。



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相対化と現実/善悪について(加筆1) [生きる方法]

物事の善し悪しを判断するのは、

難しいし、人によって価値観がちがうので、

今日では特に難しいことです。

たとえば昨日書いた携帯電話を持つかどうかにしても、

持たない人を擁護することはできるし、

同時に携帯電話を持たない人を嫌うこともできるのです。


つまりどちらでも良いように見えて、相対化しているのです。

ただ、相対化していても、大きな流れの中で見ると、かならずしも、どちらでも良いとは言えないところもあります。例えば、ワープロが出て来た時に、私はワープロに飛びつきましたが、手書きにこだわって一言をいう友人がいました。ところが時代は進んで、メールの時代になると、キーボードを使わないで来た事のしわ寄せがきたのです。あの時の一言は、時代の中で、踏みつぶされるのです。時代の流れは暴力なのです。適者生存という原則はあって、環境の変化に適応して行かないと、生きて行く事はむずかしく、淘汰されるのです。淘汰という現実の前では、必ずしも相対性は維持できないのです。

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善と悪という2元論が気になって、調べたことがあります。

私自信が、実はこの二元論自体が嫌で、アレルギーを起こしていたことがあるからです。それは自分の作品の制作の基本にかかわるところがあって、画面を2つに分割して終わって良いのか、それとももう一つ分割して、3分割で良しとするのかという問題にかかわっていました。そんな事とどちらでも良いではないかと思われるでしょうが、しかし普通の人にはどうでも良い事でも、美術の専門家としては、かなり気になることです。

 たとえば遠近画法でも、西洋遠近画法は2分割によって、まず地平線を決めることから始めます。つまり最初の画面分割が重要な意味を持ちます。それに対して東洋遠近画法である三遠法においては、その名前のとおり3分割が重要な構造を持つのです。

この理由は、西洋遠近画法においては、レンズを使った単眼構造で設定されているからです。レンズを基準にするので、俯瞰ということが禁止されて画法が成立しているのです。しかし実際の絵画作品では、そのような単純さは実はないのですが。

それにたいして東洋遠近画法は、透視面に対する人間の目の動きを基準に組み立てられているので、俯瞰法生きていて、その結果として水平の視覚、仰角の視覚、さらに俯瞰視覚の3つが組み合わさるという肉眼の目の動きが絵画構造をつくります。

 先ほど書いたように西洋絵画えも、実際には3視覚を意識して画面に取り入れているものはモナリザはもちろん、マネの絵画にも見られて、西洋絵画の、実は基本構造としてあるのですが、その事を日本の西洋美術史の解説では、比較的無視して書いているものが多いのです。

さて、こうした絵画の画面の組み立てに深くかかわる二元論と、三元論の問題です。三元論が、キリスト教の三位一体の教義にあって、実は物事の重要な認識枠なのです。

私の場合、三元論には感覚的に肯定的で、相性が良かったのです。

さて、今書きたいのは、アレルギーを起こしていた二元論の問題です。

つまり善と悪という二元論の根拠はなんなのか?

椹木野衣的に言えば、根拠は無いということになります。

今日の日本社会の中で、他人の意見を聞いて見て、その空気の中で判断をして行く限り、人それぞれで良いのであって、どうという事は無いのです。今の女性はタバコを吸う人が多いですが、それも各自の責任でどうでも良い事ということになります。しかしタバコの害は明らかになっているのですから、タバコを吸う女性は、いろいろな理由があるにしても、理性的ではないのです。その内に肺癌にでもなって、死ぬだけかもしれません。もっとも人間は理性的では、かならずしも無いので、女性がタバコを吸うのは相対的に自由ではあります。だからといって、愚かである事に変わりはないのです。毒は毒です。


つまり、思考の原型というのは、実は相対的ではなくて、歴史の中で反省をしてみると、それなりの根拠の上に形成されているのです。ただ人類の歴史が長くなり過ぎているので、初心を忘れてしまって、根拠が忘却の彼方に消えているのです。歴史を遡ってみて見ると、きちんとした根拠はあるのです。

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善悪の二元論の成立を、

キリスト教の神学の中で追いかけると、

カソリックの祖といわれるアウグスティヌスにぶち当たります。

神学というのは、前近代においては哲学であり、認識なので、馬鹿にできるものではないシリアスな人間の思考が見られるのです。

面白いのはアウグスティヌスは、もともとはマニ教徒だったことです。

そしてマニ教というのはゾロアスター教から出てきたのです。

そして二元論の源流のひとつがゾロアスター教なのです。

ゾロアスター教は、人類史の中での農業革命に深くかかわっていて、

原始的な自然採取の野蛮世界を悪としてとらえ、農業革命を経て確立された文明世界を善として、2元論を組み立てていたのです。

ゾロアスター教というのは、日本語では拝火教で、何か野蛮ないかがわしい呪術のように思われますが、世界の中でも非常に古いの宗教で、旧約聖書に大きな影響を与えた先行宗教で、人類の精神史にとって重要なものなのです。


文明を善とする闘いの歴史を述べるゾロアスター教の中で、善悪の二元論を理解すると、私は二元論に潜在している理不尽さが納得のいくものになったのです。

つまりゾロアスター教的に文明を善として見る見方からすると、岡本太郎やデビュッフェのように野蛮主義を主張する事は、悪なのです。今日の文明の中には、「文明の中の野蛮」がはびこっているので、野蛮こそが善であって、熱狂をもって迎えられるのですが、しかし、それは「文明の中の野蛮」という現象であって、クーラーや暖房のある部屋の中にいる野蛮人に過ぎないのです。本当の野蛮状態というものとの差を見損なうと、間違いになります。

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今日進んでいるリテラシー(識字)革命も、このゾロアスター教の起源にさかのぼって考えると、良くわかります。識字革命というのは暴力であって、文字通り革命なのです。それゆえに理不尽なのであって、暴力というものの単純さがあります。

携帯電話をもつというのは、暴力としてのコンピューター・リテラシーに屈して、この情報革命に適応する道を選ぶことなのです。

それに対して、携帯電話を持たない人は、心の根底において現在の情報革命に抵抗して、古いものに回帰することに快感を覚えるタイプのレトロ主義的な人々です。

実際に情報革命というのは暴力ですから、実は良いも悪いもないのであって、問答無用に暴力が作動しているのです。その場合、ゾロアスター教の考え方をとれば、古いレトロの世界が悪であって、新らしい情報化社会が善なのです。この暴力的な二元論の単純さが重要なのです。ここで線引きされるのです。

私が言っているのは、あくまでも現在の情報革命が、暴力であるといっているのであり、人類史の中での新しい意識革命であって、この展開は良くも悪くも凄いことだと、考えているということです。

 この単純な認識を持たないで、価値の多様性だけを言って論議することには、私は迷路すぎて興味が持てません。ジラールがいうように暴力というものの単純さが、文明の根底にあるのであって、根本にあるのは問答無用性なのです。それが良いと言っているのではないのです。事実であると言っているだけなのです。

携帯電話をも持たないのは各自の自由ですが、その選択の根底には、ゾロアスター教的な二元論の善悪の価値観があるのです。つまりレトロを良しとするのか、悪とするのか、の区分です。ゾロアスター教的に言えば、レトロは悪なのです。


悪に魅力はありますが、しかし悪は、かならず、行き詰まるのです。悪が際限なく栄える事はありません。


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