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才能の無い私/無能な私(加筆1) [生きる方法]

Aさんより、次の様なご質問をいただいたので、
お答えします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ぼくは以前より詩に興味がありまして、美術の製作と詩を結合したいと考えています。

理由のないことではなくて、中高時代に俳句の地区公募で入選して賞をもらったことがあり、それも二度あったので偶然でもないなと勝手に思っています。


美術予備校に入る前はロックミュージシャンになろうとしていたのですが、曲も歌詞も作れなかったので挫折しました。

僕が強い影響を受けたのはブランキージェットシティーというバンドの浅井健一という人の歌詞で、とてもかなわないと気付き止めたんだと思います。


この人はまた、椎名林檎に多大な影響を与えた人でもあるのですが、椎名林檎はおそらく彼を超えているんじゃないかと思います。

(ブランキーおよび浅井についてはYouTubeで映像がたくさんあります。)


最近、椎名林檎の新曲の、有りあまる富というのを聴いて、その歌詞の内容に感銘を受けたのでまた詩を書いてみたいと欲求が湧いてきました。


そこで、もう少し詳しく、シニフィアン連鎖ということについて論じていただきたく思っています。。


以前中川さんの封筒の作品を論じられたブログで、シニフィエの連合とシニフィアン連鎖の違いについて書かれていました。

ビールという言葉があって、同じアルコール類で常識的に連想していくのがシニフィエの連合で、ビールのフランス語の意味表現から音の似ているものをつなげていくのが、詩的領域であり、シニフィアンの連鎖ということであったと思います。


また、バシュラールとヴァン・モリソンのシニフィアン併置という記述もありました。この場合の両者のシニフィアンにおけるつながりは両者共にシニフィエがないということなんでしょうか?

つまり「シニフィエの欠如」という文字や音声にした情報によって共通項を見出し、それを併置したというこになりますか?


また関連して質問もありまして、メイプルソープについて、形態の類似から作品を撮るということがあると思いますが、

普通に考えると形の類似を見つけるというのはシニフィエによる連想のように思うのですが、しかし、これはシニフィアン連鎖ではないのでしょうか?ということです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

Aさんよりのご質問にどのようにお答えするのか?

と言う事自体が、重要な問題なのです。

つまり、私が何かを答えたとしても、それをAさんが理解を出来るのか?

という事自体が、問題なのです。


Aさんの本質的限界を現しているのは、次の部分です。


僕が強い影響を受けたのはブランキージェットシティーというバンドの浅井健一という人の歌詞で、とてもかなわないと気付き止めたんだと思います。


人は実は様々なもので、実はその人にあった知識しか理解できないのです。

つまり人間は平等ではなくて、平等には理解できないのです。


自分より浅井健一がすぐれていると認めながら、

だから「かなわない」と思って作詞する事を止めたという事のうちに、

Aさんの人生のある態度が出ています。


「かなわない」と思う、その自分の無能性との向き合い方の問題です。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


人に何かを教えようとしても出来ない事があります。


書き文字を覚えていない非識字者に、白川 静についていくら教えても、

理解できないのです。


同様に、数学の苦手な子に、アインシュタインの一般相対性原理の数式を

講義しても、理解は出来ないのです。


つまり重要な事は、物事には積み重ねがあって、

ある重要な事柄を理解しないと、先には行けないと言う事です。


先に行かなくても良いのですが、

自分には理解できない事柄が、この世界にはたくさんある事を、

まず、認めなければ、なりません。


この世は、分からない事だらけで、

自分自身は無知無能なのです。

この分からなさと、自分自身の無能力性から逃げないで、

まず、認める勇気が無いと、何事も始まらないのです。


Aさんの問題は、自分より浅井健一がすぐれていると認めた時に、

ここで、「かなわない」と思った逃げた事です。


すべての事で、実は自分自身は無知無能であって、

自分よりもすぐれている人はたくさん、無数にいるのです。

この世界の中で、自分自身は一番劣っている存在なのです。

この最低の自分自身を認めて、まず、受け入れないと、

何も始まりません。


しかしAさんは 理由のないことではなくて、中高時代に俳句の地区公募で入選して賞をもらったことがあり、それも二度あったので偶然でもないなと勝手に思っています と書いている成功体験に捕われて、自分に才能があると思っているのです。この成功体験で、Aさんの人生はピークを迎えて、終わっているのです。


この成功体験を完全に否定できないと、

何も始まりません。


これが去勢です。

去勢をして、物事は始まるし、

学習する事が、始まるのです。


それが大人になる事の敷居なのです。


本当に、自分自身の無知無能性を認められる人と言うのは、

実は少数者なのです。

10人中8人くらいの人は、この辛い事実を認めない事で、

小さな成功の記憶にしがみついて、

永遠の子供の世界を生きて死ぬのです。


つまり人格的に成長できないで、

子供のままに停滞して、死ぬのです。


子供と言うのは、実は自分には能力があって、

本当は、何でも出来るという、神のような万能感を持っているのです。

子供の頃に、大人から ほめられた、ささいな成功体験を記憶し続けて、

この万能感を心の奥底に隠して、これに向って精神を集中する事が、

生きる事の最も重要なテーマになって、

そして何もやらずに死ぬというのが、

多くの凡庸なアーティストの生き方です。


神の様な全知全能の万能感と、無知無能性と、

そしてナルシズムに包まれた統合体としての自我・・・私自身を、

抱いて、死んで行く人々は、

しかし、安全な人々でもあり、

また危険な人々でもあるのですが、

この全知全能/無知無能の未分離性こそが、

《第8次元》性を形成して、人間社会の中心の大きな幹となっているのです。


ですから、この《第8次元》の世界の外に先ず、出る事が、成長のためには

重要なのです。


しかし、多くの人は成長をしたいとは、思っていないのです。


自分自身の人格を成長させたいとは思っていない事を、

まず、素直に、認めないと、困るのです。


そして、成長したく無ければ、そのままに、

つまり、ささやかに ほめられた時に喜びを抱いて、

ありのままに生きて死ねば良いのです。

人生とは、そうしたものなのです。


そういう身の丈の生き方をしたい場合には、

シニフィアン連鎖は、理解は出来ないのです。


メイプルソープについて、形態の類似から作品を撮るということがあると思いますが、

普通に考えると形の類似を見つけるというのはシニフィエによる連想のように思うのですが、しかし、これはシニフィアン連鎖ではないのでしょうか?ということです。


上記のメープルソープの類似性の併置と言う手法も、そもそもそれは表現の実体化を解体して行く手法であるのです。人間の外部を知覚する時に生じる実体化という自然作用を、どのように解体して行くのかということが重要なのですが、その事の意味を教えるのは、真の意味ではむずかしいのです。

 


なによりもナルシズムに捕われている人に、教える事は出来ないのです。


世の中には、教える事の出来ない事が、いくらもあるのです。


何よりも、一度ほめられて、ナルシズムに捕われている人に、

その人自身の無知無能性と、無意味性を、

教える事が出来ないのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


村上龍も、そして村上春樹も同様の事を書いていて、

読んだ覚えがありますが、

自分が無能で、書く事が出来ないと認めて、

初めて文章は書けるようになるのです。


そういう正直さがないと、文章は書けるようになりません。


詩も、美術も同様であって、

作れないと認めないと、作れるようになりません。


そういう意味では、文章を書いたり、

詩をつくること、美術を作る事のコツは、

極めて簡単なことなのです。


誰にでもできる、やさしい事です。


自分自身の無知無能性、無意味性を認めれば、良いだけなのです。


しかし、そのためには、

小さな成功体験を捨てなければなりません。


そんなもの、何の意味もないのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


村上隆さんも、アエラのインタビューで答えています。

「俺なんか、空っぽですよ」

この自分の無内容性を認めた時に、

つまり自分には才能が無いという、

そのことを認めた時に、初めて社会的な学習が始まるのです。


そうするとシニフィアン連鎖の意味が分かるようになります。


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凡夫

いつも拝見させて頂き、大変勉強になっております。
今回の記事も非常に興味深い内容でした。ありがとうございます。

ところで、ひとつ気になったので質問させていただきます。
私はささやかに生きることを選択した、この話でいえば、身の丈にあった生き方を選択した人間です。それを自覚しております。なので、興味で聞くのですが、
彦坂さんだとか、両村上さんのようなアーティストの方たちが、自分が無能力であることを自覚し、彦坂さんの言うように、自分がこの世で最も劣っている人物であると、自覚して、それでもなお、自らの道に固執し、努力していくその根拠というか、目的というか、なぜ自分が一番劣っているとわかっていながらその道でやっていこうと思うことができるのでしょうか?
私のような凡人にはこの辺が理解できなかったです。もし、私ならば、「私はこの世で最も絵の下手な人間である」と自覚することはできても、絵の道で生きていくことは選択できないと思うのです。そこを選択するのは、いったい何を根拠に、選択しているのでしょう?この話では少なくとも自らの才能ではないわけですよね?
こんな私でも、ひとつの根拠は考えられるのですが、それは「好き」という根拠です。もし、とにかく絵を描くことが好きであれば、それは根拠になるかもしれません。しかし思うのですが、「好き」という感情だけで、「この世で最も絵がへた」という壁は超えられるものでしょうか?根拠として成立するのでしょうか?私にはどうしても、自分がこの世で最も絵がヘタだと自覚してしまうと、絵の世界で生きることが考えられなくなってしまうのですが。。。


理解力がなくてすいません。ついわからずに質問してしまいました。
なにか失礼な発言がありましたら、それは意図してのことではありません、お許しください。
もし、時間に余裕があれば、お答えいただければ幸いです。
お仕事がんばってください。いつも応援しております。
では、失礼します。
by 凡夫 (2009-07-07 09:20) 

中野輝也

「村上」から連想できる代表的な3人のアーティストをさりげなく並べたのは、「シニフィアン連鎖」でしょうか?

by 中野輝也 (2009-07-07 14:24) 

糸崎

自分にとってタイムリーな話なので割り込ませて頂きます。

ぼくはテキスト中心のブログを書いてるのですが、書きたいことはモヤモヤとあるはずなのに、いざ書こうとすると書けないということで悩んでいました。
そこで書けない原因を考えたところ、書くための「前提」がはっきりしていなかったのだということに気付き、ここしばらくはその「前提」について投稿してました( http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-55ac.html 以降の記事です)。
「前提」というのは、まさに「自分はいかにバカで無能か」ということの自覚です。
自分の「無知無能性」がハッキリすると、そこを立脚点にしてものを考えることができます。
逆に「無知無能性」という立脚点がないと、何かを考えたり、作ったりしても空中分解してしまうでしょう。

しかし、自分の「無知無能性」を知るということは、簡単にできることではありません。
「無知の知」という言葉通り、自分の無知を知ることが、すなわち「知る」ということだからです。
哲学者や思想家が「無知の知」に励んでいるのに、自分のような「バカ」が「ものを考える」ことに何の意味があるのか?と途方に暮れることもありますし、中断して投げ出すこともあります。

いや普通、自分の「身の丈」をわきまえた人は、分不相応な無駄な努力はしないものです。
しかしぼくのように、ムダと分かってもどうにもあきらめきれない思いのある人は、「あるもの」に囚われているのだといえます。
ぼくなりの表現をすれば、それは人間の認識世界と外部世界との「境界面」です。
認識の外部世界は、概念的に想定することは出来ますが、文字通りそれを人間が認識することは出来ません。
しかし人間の認識世界に、認識できない外部世界が「境界面」となって表れることがあり、それが「認識の境界面」です。

「認識の境界面」とは、例えば「死とは何か?」とか「時間とは何か?」とか「存在とは何か?」というような哲学的問いがそうだと思います。
これらの問いは「認識の境界面」を扱ったものであり、また「認識の境界面」が「哲学的問い」という形態で表れたと見ることもできます。
普通の「身の丈をわきまえた人」は、このような問いは「無駄なこと」として考えようとはしません。
しかし「哲学者」と呼ばれる人種は、その問いを考えることが無駄だと分かっていながら、なおその「問い」にこだわってしまいます。
つまり哲学者は、「認識の境界面」そのものに囚われているわけです。
普通の「身の丈をわきまえた人」は、人間の認識世界の範囲内での「無駄なこと」を排除しようとします。
しかし「認識の境界面」に囚われた哲学者にとって、認識世界内での「無駄」という価値判断は意味を持ちません。

これは「芸術」も同じであって、芸術家とは「認識の境界面としての芸術」に囚われた人だということが出来ます。
芸術が「人間の表現の可能性の追求」だとすれば、「可能性」とはすなわち「認識の境界面」と言い換えることが出来ます。
つまり優れた「芸術」は、「認識の境界面」として認識世界に立ち現れるわけです。
「認識の境界面としての芸術を」認識するには、絶えず新たな「芸術の創造」(作品制作のほか、鑑賞、評論、コレクションなど)をし続けなければなりません。

「芸術の創造」に参加しなければ、芸術を「認識の境界面」として捉えることはできません。
なぜなら、芸術作品は製作された直後から、徐々に「認識世界」に取り込まれ「普通」になってゆくからです。
そのような「芸術」を目の前にして、「自分は絵が下手だから」とその道を断念するのは、認識の範囲内での判断です。
しかし「認識の境界面」としての芸術に囚われた芸術家は、自分の「無知無能性」を立脚点にしながら、その可能性に向かうしか道が無く、「現実的には無駄なことだ」などと考える余裕が無いのです。
ぼくの場合は、美大を卒業したのに「絵が下手」で、しかも学歴社会から逃げるために美大に進学したほどの「バカ」ですが、どういうわけか「コンセプチュアル・アート」などと無謀なことをするハメになり、自分でもほとほとあきれ果ててしまいます(笑)
哲学にしろ芸術にしろ、「認識の境界面」なんか見えないほうが普通の意味では正常だし幸福なんだと思います。

by 糸崎 (2009-07-07 16:35) 

ヒコ

凡夫様
コメントありがとうございます。「なぜ自分が一番劣っているとわかっていながらその道でやっていこうと思うことができるのでしょうか?」というご質問は、たいへんすぐれた質問だと思います。ここに本質があるのでしょうね。キルケゴール的に言えば、それが「絶望」の問題です。キルケゴールの『死に至る病』というのは絶望について書いた本で、私は8回読んでいますが、ある意味では実は「なぜ自分が一番劣っているとわかっていながらその道でやっていこうと思うことができるのでしょうか?」という問いに対する、答えです。それは絶望するその自分自身になって行くという、そう言う行為について書いています。自分以外のものになろうとするのではなくて、絶望している自分自身になろうとするのです。そのときに恩寵とも言うべき、他者の存在が出現します。
by ヒコ (2009-07-13 01:25) 

ヒコ

中野輝也様
これはシニフィエ連鎖でしょうね。なにしろ同じ村上ですから、平明で、常識的な連鎖性ですよね。
by ヒコ (2009-07-13 08:43) 

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