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携帯電話の問題とアーミッシュ的人々(最後に加筆) [生きる方法]

 
携帯電話を持たない自由と言うのはあるのです。
 
同じように自動車を持たないとか、
コンピューターを使わないとかいう態度の自由はあります。

テレビを持たない、新聞をとらない自由もあります。

そういう意味では、犯罪以外は、何でも自由なのです。
しかし同時に、それは他人との関係は、何らかの形で、影響を被るものではあります。

テレビを見ない、新聞を読まないというのが、他人との関係に影響を及ぼすのと同様に、携帯電話を持たないという事は、他人との関係に影響を与えることではあります。つまり自由であると言う事と、他人との関係に変化を与えるという事は、同時に起きるのです。

その代表的な人々は、アーミッシュです。
アーミッシュは電気を使用しません。
商用電源は使用せず、わずかに風車水車によって蓄電池に充電した電気を利用する程度であるといわれます。
 
アーミッシュの日常生活では、きわめて古い自給自足時代の技術しか使わないのです。
原則として、《近代》の技術による機器を生活に導入することを拒んでいる人々です。
近代以前と同様の生活様式を基本にして、自給自足の生活を営んでいます。
こういう生活態度は、当然のように、現代文明で暮らす人々との関係に影響を与えます。
 
アーミッシュは、自動車は運転しないのです。日本にもアーミッシュのように自動車を運転しない人はたくさんいます。こうした日本人も、ある意味では部分的にはアーミッシュ的な面を持っていると言えると言えるかのしれません。

アーミッシュは、《近代》の一般的な通信機器である電話等々も家庭内にはいれません。
 
アーミッシュは、アメリカ合衆国・ペンシルベニア州などに居住するドイツ系アメリカ人です。カナダにもいるそうです。原郷はスイスなどで、人口は20万人以上いるとされています。むかし(1985年)に 刑事ジョン・ブック 目撃者』という映画があって、アーミッシュが描かれました。
 
私自身は、自給自足を基本とした生活というのは、
重要だと思っています。
ですからアーミッシュの存在自体は好きであります。
 
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今日の日本にも、実はたくさんのアーミッシュ的な
人々がいて、
携帯電話の使用も拒否しています。
私も回りにもいます。
 
それはそれで良いのだろうと、私も思います。
 
ただ、実感として、そういう人々と接すると古さを感じます。
それと話が合わないのです。
 
今の情報化社会の新しい表現の問題を、
携帯も持たない新アーミッシュ的人々と話しでも、
話が通じないのです。
 
話が通じなければ、当然のように人間関係は疎遠になって行きます。
それもまた致し方のない事です。
 
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アーミッシュというのは、キリスト教の新教であるルター派などから分かれて、スイスのチューリッヒで生まれた一派であります。そして、ドイツに移住した人々です。古い固体的なキリスト教共同体に忠実である厳格な規則のある宗派で、創始者はメノ・シモンズです。
 
メノ・シモンズは、15世紀から16世紀の人で、この人自身は《近代》の産業革命を体験していません。ですから《近代》に対する反動の宗教者ではないのです。彼の思想は、福音的人道主義者と言われるものであって、バプテスト派の重要な人物であります。
 
バプテスト派というのは、キリスト教プロテスタント教派のひとつで、イギリスの分離派思想から派生します。17世紀のイギリスから生まれて、現在のアメリカ合衆国の最大の宗派なのです。このアメリカ合衆国のバプテスト派は南部を拠点に、最大の保守派勢力を形成しています。
 
つまりアーミッシュの源流であるプロテスタント・バプテスト派は、実は産業革命の基底を形成していた保守派の最大勢力であって、その中からヤコブ・アマンという宗教者が、ほかのグループから離れて暮らすいっそう保守的な派を作ったのです。それがアーミッシュです。ヤコブ・アマンというアマンという名前から、この派の人たちのことをアーミッシュというのです。つまり多くの人々から離れて暮らす事を好む人々というのは、アーミッシュ的であって、それは日本にもたくさんいるのであります。
 
つまりアメリカ南部の最大の保守勢力の極端な人々がアーミッシュであって、アーミッシュだけで切り離してアーミッシュを見る事は間違いであって、その裏に、アメリカのプロテスタント保守派の大勢力バプテストが存在しているのです。

この事を日本社会に当てはめれば、携帯電話を持たない新アーミッシュ的な人々は、実は極端な少数派であって、その裏には、実は日本社会の南部ともいうべき巨大保守勢力が潜在しているのです。

アーミッシュに代表される人々が、《近代》の産業革命を拒絶しているように、現代の日本の新アーミッシュ的な人々は、現在の情報革命を拒絶する姿勢を示しているのです。それはしかし複雑な形態を取っているのであって、携帯を持たなくてもコンピューターのメールはやっていると言った部分的な反応を取ります。メールは間接性が強いメディアですが、携帯電話は音声の直接性を持っているので、拒否する理由もこの直接性なのかもしれません。

人類史的にみると、現在の情報革命は、巨大な革命であって、それは暴力的なものです。その暴力的な大変革に対して、順応しつつも拒否の姿勢を崩さずに保とうとする複雑な反応が、実は多くの人々の姿勢であって、その分かりやすい例が、携帯電話を持たない人々と言えると思います。
 
基本としては、この新アーミッシュ的な人々を私は肯定的に見たいと思いますが、しかし距離を取りたく思います。一緒に仕事はしたくないのです。仕事はやりにくいのです。何よりも、その古さは、近くで付き合うには堪え難い所があります。ですから、一緒に仕事を決してしない限りにおいては、距離を持って、遠くから肯定的に眺めていたいと思います。
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バプテストの宗教的な最大の特徴は、赤ん坊の洗礼を認めない事です。
洗礼というのを、成人になるイニシエーションとしてのみ限定して考えているのです。そして洗礼と言う言葉を使わずに「侵礼/バプテスマ」と言います。バプテストでは、全身を水に沈める全浸礼を行います。そして、また、信仰告白を行うことが重要であるしています。この儀式によって、子供の時からの継続的な成長の歴史としての自我は殺され、新しいパプテストとしての成人の自我が作られるのです。つまり子供から大人になる重要な区切り目として、この「侵礼/バプテスマ」と信仰告白の儀式が存在するのです。それは極めて正統な成人社会の形成のシステムであると言えます。その結果として、アメリカ合衆国の極めて保守的な成人による巨大勢力が成立しているのです。

日本にも成人の社会は、少なからず存在しているし、保守勢力は巨大な存在としてあるのです。

 
アメリカ南部の保守勢力に私は近づきたくありませんが、日本の南部ともいう成人達の保守大勢力にも、私は出来るだけ近づきたくはないのです
なぜなら、芸術家というのは、この成人になるイニシエーションの失敗した人々だからです。ですからこれら大人の保守派とは相性が良くないのです。


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斉藤ちさと論 [アート論]

以下の文章は、気体分子ギャラリーのホームページに載せるものです。
ホームページにアップしたら、ダウンさせるかもしれません。


今、ホームページの改造・改良と更新で、上岡誠二さん、栃原比比奈さん、中川晋介さん、金田圭史さん、さらにYouTubeでのビデオアップで木村静さんのご協力をいただいています。斉藤ちさと展も、なかなか改造後というわけに行かないので、工事中の中での個展となりますが、お見苦しい面はお許しください。来たるべき2010年代は、私も全力でホームページ作りに集中して行こうと思っています。

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斉藤ちさと/獏と気泡1.jpg

斉藤ちさと/獏(ばく)と気泡 1 2009年

 

 

斉藤ちさと/獏と気泡2.jpg

斉藤ちさと/獏(ばく)と気泡 2 2009

 

 

斉藤ちさと気泡.jpg
斉藤ちさとの写真作品
《想像界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》、《気晴らしアート》が無い
《ハイアート》、《ローアート》性が無い

シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

 


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 1990年代後半には、HIROMIXや蜷川実花、長島有里枝などの女性 写真家が次々と出現した、「ガーリーフォト」という芸術現象がありました。


 

1404021210.jpgHIROMIX
蜷川実花.jpg蜷川実花

01.jpg長島有里枝


斉藤ちさとも、この1990年代後半に、写真をつかった作家とし て登場します。ただし斉藤ちさとの作品はフォトグラムでありました。フォトグラムというのは、カメラを用いずに、印画紙の上に直接物を置いて感光させる などの方法により制作された写真作品のことです。フォトグラムを使った作家としては、ダダイストまたはシュルレアリストとして有名はマン・レイがいますが、斉藤ちさとはこのマン・レイと、イタリアのマニ エリズムを代表する奇想の画家ジュゼッペ・アルチンボルドの影響で、 様々なオブジェを印画紙の上に置いて、奇怪な人の顔に見える画像を作り出したのです。

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斉藤ちさと フォトグラム 1995〜96


斉藤ちさと フォトグラム 1995〜96

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斉藤ちさと フォトグラム 1995〜96

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斉藤ちさと フォトグラム 1995〜96

この大きい方の作品のサイズは3メートル×2メートルというもの。
この作品をジョニーウォーカー氏が買ってくれている。凄い!

村上春樹の『海辺のカフカ』に出てくるジョニーウォーカーは、この人がモデル。
某美術財団の仕事をしている人です。大きな犬を連れて画廊回りをしているのも見ています。

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斉藤ちさと フォトグラム 1995〜96
《想像界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》《超次元、第1次元、〜第40次元》が無い
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》《第1次元〜第41次元》が無い
《現実界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》《超次元、第1次元、〜第40次元》が無い

《現実界》の表現ではありますが、《想像界》《象徴界》の表現が無い
気体表現ではありますが、液体/固体/絶対零度の多層的な表現が無い

《シリアス・アート》ではありますが、《気晴らしアート》が無い
《ハイアート》ではありますが、《ローアート》性が無い

シニフィアン(記号表現)の美術、シニフィエ(記号内容)性が無い
《原始画面》『ペンキ絵』【B級美術】

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この奇怪な人の顔に見えるフォトグラムの中で、米を使っていた事か ら、その後、米を使った作品や、クローバーの作品などで、ドットや泡粒の作品を根気のいる制作実践を展開して、1970年代のプラクティス・アートを継承する芸術家として評価を得ます。セゾン美術館の個展はその頂点です。

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斉藤ちさとのrice dot drawing 
《想像界》の眼で《第1次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第1次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第1次元》のデザイン的エンターテイメント

《現実界》の表現ではありますが、《想像界》《象徴界》の表現が無い
気体表現ではありますが、液体/固体/絶対零度の多層的な表現が無い

《シリアス・アート》、《気晴らしアート》が無い
《ハイアート》、《ローアート》性が無い

シニフィアン(記号表現)の美術、シニフィエ(記号内容)性が無い
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

 


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ビニール布に米で絵を描く作品は、清潔な作品で、美術関係者の評価は高かったのですが、しかしそれは同時に、初期のグロテスクなユーモアに満ちた深く暗い《第41次元》の写真の世界を失う事でもありました。いや、それどころか《第1次元》ではありますが、デザイン的エンターテイメントでしかないものに転落していたのです。言い換えれば、だからこそ人気があったのです。多くの人はデザイン的エンターテイメントの作品だけが好きなのです。

斉藤ちさとの私的評伝の調査は私はしていないので、何があるのかは知りませんが、しかし音楽の話をしていても、斉藤ちさとが聴いている音楽は、極めて過激です。彼女が高校生の時、1983年にメタリカの『キムエルオール』というアルバムが出ますが、当時、これは狂気に満ちたスラッシュ・メタルの登場であって、当時の人々には聞きがたい音であったのですが、斉藤ちさとは、メタリカの来日コンサートに行っているのです。そうした音楽の趣味性が原因というわけでもないでしょうが、斉藤ちさとは、東京農業大学で、美術史を非常勤で教えるあたりから急速に、再度の成長を始めます。

 そして斉藤ちさとは、ジャンプをします。プロの写真家として秋山庄太郎が残した秋山写真工房に所属して、新たに写真修行をするとともに、気泡をより硬質に撮影した写真作品で、初期の奇怪性を回復し、より今日の迷宮の様な気体分子状態の世界を描き出す飛躍を展開したのです。

それは驚異的な成長を示して行って、《超次元》から《第41次元》までの全領域を《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で実現した《真性の芸術》作品になったのです。それが今回の斉藤ちさと気体分子個展です。
この質の高さはすばらしいものですが、それ故に、多くの人には理解が出来ない可能性も高くなりました。だからこそ、私は評価の声を高く大きくあげなければならないのです。

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