縄文とウエザー・リポート/シニフィエへの転換(加筆1) [アート論]
漂流する日本の現代アート,
例えばナイーブな楽しさ追求のパラノイアを見る時
”一次元の真性芸術”の不在という切口は新鮮です.
ブルース・ナウマンを僕は分かっていないのかもしれませんが,
少なくとも自己の狭い視野の円環には陥ってはいない.
その視野が社会的価値観の拘束を脱していないという批判は
このような作品の分厚い繭に囲まれてこそ
それを突き破る形で誕生してくるものでしょう.
日本のアート環境というのは想像以上に厳しいのかもしれません.
なによりも制作者の内側の壁の巨大さという点で・・.
例えばナイーブな楽しさ追求のパラノイアを見る時
”一次元の真性芸術”の不在という切口は新鮮です.
ブルース・ナウマンを僕は分かっていないのかもしれませんが,
少なくとも自己の狭い視野の円環には陥ってはいない.
その視野が社会的価値観の拘束を脱していないという批判は
このような作品の分厚い繭に囲まれてこそ
それを突き破る形で誕生してくるものでしょう.
日本のアート環境というのは想像以上に厳しいのかもしれません.
なによりも制作者の内側の壁の巨大さという点で・・.
symplexusさんのコメント、ありがとうございます。
これへのお返事と言う形で、現在の問題を書いておきます。
まず、《1流》という《第1次元》の問題です。
これについてはこのブログでも、何度も書いて来ていますが、
想像以上にむずかしい問題です。
なぜなら、まず、原始の自然採取文化の中に《第6次元》の表現が
あります。
日本の歴史の中でいえば、縄文土器の中で、あ
紀元前約16,000年前の草創期の無文土器から、
紀元前約5,500年前中期縄文の火炎土器までが《第6次元》です。
その代表が国宝に指定された縄文雪炎(じょうもんゆきほむら)です。
縄文雪炎(じょうもんゆきほむら)の芸術分析
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》の作品、
絶対零度の美術(=原始美術)。
《気晴らしアート》でも《シリアス・アート》でもないもの。
《ローアート》でも《ハイアート》でもないもの。
シーニュの美術ではないもの。
《原始立体》
【A級美術】【B級美術】ではないもの。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
こういう原始美術を芸術として認めるのか、否かについては、
ニューヨーク近代美術館の学芸員ウィリアム・ルービンが、
人類学者と大論争をしています。(淡交社の出した『プリミティズム』の
付録の別刷り冊子に収録されています。)
ルービンは芸術であるとしているのですが、
文化人類学者は、芸術ではないとしています。
彦坂尚嘉は、実はルービンのさまざまな企画の美術展から大きな影響を
受けているのですが、結論的には、
こうした縄文中期までのものは、芸術ではないと考えます。
その一つの根拠は、
繰り返し見に行くと、感動の劣化が激しいのです。
最初の第1回目は確かに感動するのですが、
2回目、3回目になると急速に飽きて来ます。
この縄文雪炎(じょうもんゆきほむら)を含めて国宝の縄文土器が、
十日町市博物館にはあって、越後妻有トリエンナーレで十日町には
いっているので、繰り返し見ますが、
これは芸術ではないという立場に私はなったのです。
むしろ自然美術に近いものです。
例えば極楽鳥とか、孔雀などの美しさに近いものなのです。
孔雀の芸術分析
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の美術、
気体/液体/固体/絶対零度の4様態の美術ではないもの 。
《気晴らしアート》でも《シリアス・アート》でもないもの。
《ローアート》でも《ハイアート》でもないもの。
シーニュの美術ではないもの。
《原始立体》でも《透視立体》でもないもの。
【A級美術】【B級美術】ではないもの。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
孔雀が《現実界》の美術であるというのは、
このブログを書いての新発見です。
それに対して火炎型土器は《想像界》の美術です。
この違いはおもしろいものです。
後期縄文になると、
火炎土器の派手なひらひらは、抑制されて地味になります。
(中期~後期青森韮窪遺跡)
《想像界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《現実界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の作品、
絶対零度の美術。
《シリアス・アート》《ハイアート》
シーニュの美術。
この段階で《第1次元》の《真性の芸術》になるのです。
さらに弥生土器になります。
下記の土器は、弥生の後期です。
栗谷遺跡出土の弥生後期の土器
《想像界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《現実界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の作品、
固体の美術。
《シリアス・アート》《ハイアート》
シーニュの美術。
《透視立体》【A級美術】
彦坂尚嘉の価値観と言うのは、こうした農業を始めた弥生時代の
美術に、本格的な《第1次元》の《真性の芸術》を見いだすのです。
縄文雪炎(じょうもんゆきほむら) 栗谷遺跡出土の弥生後期の土器
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント 《想像界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント 《象徴界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント 《現実界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《想像界》の作品、 《象徴界》の作品、
絶対零度の美術(=原始美術)。 固体の美術。
《気晴らしアート》でも《シリアス・アート》でもないもの。 《シリアス・アート》
《ローアート》でも《ハイアート》でもないもの。 《ハイアート》
シーニュの美術ではないもの。 シーニュの美術
《原始立体》 《透視立体》
【A級美術】【B級美術】ではないもの。 【A級美術】
多くの日本人が、今日では縄文の火炎型土器を芸術の原点基準だと考えて
いる様ですが、それは彦坂尚嘉的に言えば、間違いなのです。
私の意見が特殊ではないのであって、
むしろオーソドックスな考えであると思います。
火炎型土器を過剰評価する風潮は、一つは岡本太郎の主張ですが、
岡本太郎以前に、すでにこういう主張はされていました。
しかし、ここで注目したいのはむしろ、1960年代後半から出現する
原始的なものへの回帰の運動なのです。
それを今回は、ウエザーリポートのジャズに見てみたいと思います。
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