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縄文とウエザー・リポート/シニフィエへの転換(加筆1) [アート論]

Weather-Report-Star-Box-365634.jpg

漂流する日本の現代アート,
例えばナイーブな楽しさ追求のパラノイアを見る時
”一次元の真性芸術”の不在という切口は新鮮です.
ブルース・ナウマンを僕は分かっていないのかもしれませんが,
少なくとも自己の狭い視野の円環には陥ってはいない.
その視野が社会的価値観の拘束を脱していないという批判は
このような作品の分厚い繭に囲まれてこそ
それを突き破る形で誕生してくるものでしょう.
日本のアート環境というのは想像以上に厳しいのかもしれません.
なによりも制作者の内側の壁の巨大さという点で・・. 
by symplexus (2009-06-30 22:34)  

symplexusさんのコメント、ありがとうございます。
これへのお返事と言う形で、現在の問題を書いておきます。


まず、《1流》という《第1次元》の問題です。
これについてはこのブログでも、何度も書いて来ていますが、
想像以上にむずかしい問題です。

なぜなら、まず、原始の自然採取文化の中に《第6次元》の表現が
あります。
日本の歴史の中でいえば、縄文土器の中で、あ
紀元前約16,000年前の草創期無文土器から
紀元前約5,500年前中期縄文の火炎土器までが《第6次元》です。
その代表が国宝に指定された縄文雪炎(じょうもんゆきほむら)です。
pic_doki01.jpg
縄文雪炎(じょうもんゆきほむら)の芸術分析

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、
絶対零度の美術(=原始美術)。

《気晴らしアート》でも《シリアス・アート》でもないもの。
《ローアート》でも《ハイアート》でもないもの。

シーニュの美術ではないもの。

《原始立体》
【A級美術】【B級美術】ではないもの。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

こういう原始美術を芸術として認めるのか、否かについては、
ニューヨーク近代美術館の学芸員ウィリアム・ルービンが、
人類学者と大論争をしています。(淡交社の出した『プリミティズム』の
付録の別刷り冊子に収録されています。)

ルービンは芸術であるとしているのですが、
文化人類学者は、芸術ではないとしています。

彦坂尚嘉は、実はルービンのさまざまな企画の美術展から大きな影響を
受けているのですが、結論的には、
こうした縄文中期までのものは、芸術ではないと考えます。

その一つの根拠は、
繰り返し見に行くと、感動の劣化が激しいのです。
最初の第1回目は確かに感動するのですが、
2回目、3回目になると急速に飽きて来ます。

この縄文雪炎(じょうもんゆきほむら)を含めて国宝の縄文土器が、
十日町市博物館にはあって、越後妻有トリエンナーレで十日町には
いっているので、繰り返し見ますが、
これは芸術ではないという立場に私はなったのです。

むしろ自然美術に近いものです。
例えば極楽鳥とか、孔雀などの美しさに近いものなのです。
Victorias_Riflebird_Display.jpg
victorias-riflebird.jpg
peacock_MgT3iylDQMuF.jpg
孔雀の芸術分析

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《現実界》の美術、
気体/液体/固体/絶対零度の4様態の美術ではないもの 。

《気晴らしアート》でも《シリアス・アート》でもないもの。
《ローアート》でも《ハイアート》でもないもの。

シーニュの美術ではないもの。

《原始立体》でも《透視立体》でもないもの。
【A級美術】【B級美術】ではないもの。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

孔雀が《現実界》の美術であるというのは、
このブログを書いての新発見です。

それに対して火炎型土器は《想像界》の美術です。
この違いはおもしろいものです。


後期縄文になると、
火炎土器の派手なひらひらは、抑制されて地味になります。

縄文の狩(中末期後期青森韮窪遺跡).jpg
(中期~後期青森韮窪遺跡)
《想像界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《現実界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》

《象徴界》の作品、
絶対零度の美術。

《シリアス・アート》《ハイアート》
シーニュの美術


この段階で《第1次元》の《真性の芸術》になるのです。

さらに弥生土器になります。
下記の土器は、弥生の後期です。

kuriya2_2.jpg
栗谷遺跡出土の弥生後期の土器

《想像界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《現実界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》

《象徴界》の作品、
固体の美術。

《シリアス・アート》《ハイアート》
シーニュの美術

《透視立体》【A級美術】


彦坂尚嘉の価値観と言うのは、こうした農業を始めた弥生時代の
美術に、本格的な《第1次元》の《真性の芸術》を見いだすのです。

縄文と弥生.jpg

縄文雪炎(じょうもんゆきほむら)                                                 栗谷遺跡出土の弥生後期の土器 

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント 《想像界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント 《象徴界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント 《現実界》の目で《第1次元》の《真性の芸術》

《想像界》の作品、                    《象徴界》の作品、
絶対零度の美術(=原始美術)。               固体の美術。

《気晴らしアート》でも《シリアス・アート》でもないもの。 《シリアス・アート》
《ローアート》でも《ハイアート》でもないもの。      《ハイアート》

シーニュの美術ではないもの。               シーニュの美術

《原始立体》                                                                           《透視立体》
【A級美術】【B級美術】ではないもの。                                 【A級美術】



多くの日本人が、今日では縄文の火炎型土器を芸術の原点基準だと考えて
いる様ですが、それは彦坂尚嘉的に言えば、間違いなのです。

私の意見が特殊ではないのであって、
むしろオーソドックスな考えであると思います。

火炎型土器を過剰評価する風潮は、一つは岡本太郎の主張ですが、
岡本太郎以前に、すでにこういう主張はされていました。

しかし、ここで注目したいのはむしろ、1960年代後半から出現する
原始的なものへの回帰の運動なのです。

それを今回は、ウエザーリポートのジャズに見てみたいと思います。

ウエザーリポートは、文字通りでは「天気予報」です。

の名前は、実は象徴的で、
1975年以降、文化が気象化したことを良く読み込んでいます。

マイルス・デイヴィスの元で活躍していた
ジョー・ザヴィヌル(キーボード)、
ウェイン・ショーター(サックス)の二人により1971年に結成された、
ジャズバンドです。
ジャズというよりは、フュージョンというべきものです。

ウエザーリポートの黄金時代は、
1976年〜82年と言われています。

彦坂尚嘉的にその音楽の重要性を言うと、
マイルス・ディヴィスの音楽の《象徴界》が、
《超次元》〜《第6次元》であったのに対して、
ウエザーリポートは、《超次元》〜《第41次元》に拡張されています。

この拡張性の中で、原始的なもの、アフリカ的なもの、野蛮なもの
への志向が出ています。

なによりも大きいのは、
マイルスの音楽がシニフィアン(記号表現)であったのに対して、
ウエザーリポートの音楽は、
シニフィエ(記号内容)の表現になっている事です。

シニフィアンから、シニフィエへと音楽表現の基盤が転倒することを、
良く象徴しているバンドなのです。

その時に、《象徴界》が《超次元》〜《第41次元》までの全領域に
拡張されます。

同時に音楽としては、《想像界》と《現実界》の音楽になっていて
になっていて、
《象徴界》の音楽性を欠いています。

それはマイルスが《象徴界》の音楽で、
《想像界》と《現実界》の音楽を欠いていた事と比較すると、
反転性を示していることになります。

マイルスの音楽が液体音楽(近代音楽)であったのに対して、
ウエザーリポートは、気体音楽(脱近代)の音楽です。

マイルスは1975年にアガルタ、パンゲイアの2枚のアルバムを出して、
10年間活動を休止しますが、
この1975年の時点で、近代という時代の一つが終わるのです。
それはシニフィアン(記号表現)の時代の終わりであり、
液体音楽の時代の終わりであり、
そして《象徴界》の芸術の終わりであったのです。

その時に、ウエザーリポートの音楽が指し示すように、
原始や、野蛮、アフリカへの回帰の志向性がむき出しに出て来ます。

問題なのは、この原始への回帰だけを見ていると、
全体を見失うと言う事です。
何よりも重要なのは、シニフィエへと時代構造が還元されたと言う面です。

真の原始時代は、シニフィエではありませんでしたから、
シニフィエへと還元されて行く時代の中での原始性というのは、
偽の原始性なのです。

文明の中の野蛮の発生が、大規模に進行する時代として、
情報化社会があることを印象づけるバンドでありました。

今聴くと、かなりたわいもない音楽であって、
内容はありません。
実際、ピークを過ぎると、急速に衰えます。

シニフィエだけの表現は、実は泡の様なものであって、
長時間は耐えられないのです。

だからといって、時代精神がシニフィエ化したことは極めて重大な
結果を生み出したのです。
それはシニフィエとしてだけ芸術を考えると、《気晴らしアート》で
良くて、さらには実体的なエンターテイメントで良いと言うことに
なります。

ウエザーリポートの音楽を、シニフィエとしてだけ聴くと、
実体的でエンターテイメントでしかありません。
さらに《気晴らしアート》でしかありません。
つまりシニフィエに精神が還元されると、
エンターテイメントしかなくなるのかも、しれないという、
そのいう可能性もあり得ます。
まだ証拠を見つけていませんが。

たぶん、この構造は、本質なのかもしれません。
シニフィエ/表現の実体化/《気晴らしアート》
という情報化社会の文化の三身一体性が、
人間精神の本質性を秘めているように、
私には思えてきています。

しかし人間の文化をこのディメンションだけで切って、
独立させると、短命になります。
内容もたわいのない、万華鏡状態で、
弱いものに、終わるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

シニフィエ化の次元だけで独立させて表現する事は、
限界があります。

私見を申し上げれば、
人類の歴史の重層性を、レイヤーで仕切って積み上げる事が必要なのです。
重層的多層的な人格構造からの作品制作が必要と考えます。

情報化社会のシニフィエ表現
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
産業化社会のシニフィアン表現
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
農業化社会のシーニュの表現
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
原始時代の無文字文化

この4層をレイヤーで仕切った上で、往復しうる精神が必要なのです。
そこに位置づけられる原始性は、レイヤーで切られた原始性なのです。
原始性は、レイヤーで封じ込められる事で、成立すると言う事を
認めないと、マズいのです。

だからといって、この原始的直接性は、人間が身体を持つ限り
作動しつづける野蛮機械として、
存在し続ける事もまた認められるべきなのです。

この様な4階層をバラバラにするのではなくて、
つないで、総合化するという精神がサントームであると言えます。

《真性の芸術》はサントームによって、
人類の全精神史を、統合するものとして立ち現れるのです。

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Koshida_kyoto

いつも興味深く読ませていただいています。
 確かにウエザー・リポートの音楽は象徴界を欠いた音楽性であるということは納得できます。
当時のクロスオーバーやフュージョンの音楽性,それ自身が象徴界を欠いたものだった気がします。(例えばJeffBeckがヤン・ハマーらとBlow By Blowという作品(1975年)を作ったり、Rockサイドからも近いアプローチがあります。Rock自身もJazzに少し遅れてこのような傾向が出ているような気がします。)

 彦坂さんの
「《象徴界》が《超次元》〜《第41次元》までの全領域に拡張されます。」という指摘に関して、
ウエザー・リポートではジャコ・パストリアスのエレクトリックベースの音楽性も大きい気がしますし、
Jazz自身はアフリカへの回帰の志向性をはらんだものだとは思いますが、象徴的な部分をほとんど見せないまま、直接的に表出する音楽性はウエザー・リポートがやはり顕著ですね。
 ウエザー・リポートと比較という意味では1969年にコペンハーゲンで録音されたDollarBrandの「アフリカン・ピアノ」(ECM)を聴きなおしてみました。アフリカ出身のDollarBrandですが、今聴いてみると興味深いです。
不思議にブルースがベースになっていますがおもしろいです。



by Koshida_kyoto (2009-07-01 23:29) 

symplexus

粗雑な僕の1コメントに対して,このように深く広い視点からの展開
 緊張を持って読ませていただきました.
  特に,1975年を一つの区切りとして
 マイルスからウエザーリポート登場までを
 記号表現,象徴界,液体芸術の終焉から
新たな 情報化社会を踏まえた記号内容芸術の登場ととらえ
 それ内実が”文明の中の野蛮”ともいえるものであること,
 これを”偽りの原始性”と指摘されたことは衝撃的でした.
今まで表現は違うにしても,何度かお聞きした見解ですが,
 糸をたどって今の何に到るのかという衝撃と言ったらよいのでしょうか.
  1985年, よみうりランドEASTでのライブ・アンダーザスカイでの
  マイルスの演奏曲目の終わりは確かタイム・アフタ・タイムでした.
 シンディー・ローパのヒット曲です.
  曲にかってのハードな鋭さは無く,
   むしろ柔らかな悲しみに満ちた旋律が7月の空に消えて行きました.
    帰り道で印象に残っていたのは
    「何が帝王だ!」とはき捨てるような観客の一人の罵声でした.
  ジャズへの裏切りと思ったのかもしれません.
 しかしこのようなマイルスの転身を僕自身は受け入れました.
 それが歴史的に何を意味するのか分からなかったのですが.
  ソフト・マシーンのような動きも有ったものの当時のジャズは
   一種の袋小路に入っていたように思います.
  ジャズ興亡の複雑な経緯を書く力など全く僕には無いのですが,
”人類の歴史の重層性を,レイヤーで仕切って積み上げる事が必要なのです.
重層的多層的な人格構造からの作品制作が必要と考えます.”という
言葉が啓示のように響きます.
 創作はまた方法論の模索でもあるはずです.
  4層をレイヤーで仕切った上で往復しうる精神,
  それは原始性に関しても抑制を失った開放ではなく,
 レイヤーで切られた原始性として往復することだということ,
このことこそ大勢の自足した若手に届いて欲しい.

 文明の中の野蛮に関して一つ思い出すのは
コロンブスの一隊が「サン・サルバドル」に到着して以来,
 原住民の好意に対して何により報いたかということです.
エスパニョ-ラの或る島は洗練された言葉,気品と高潔と後の記録には
賛辞が惜しまず投げられているのに,
王族もろとも住民は藁小屋に押し込まれ
火をかけられて生きたまま焼き殺されたといいます.
残るものも槍でさされ剣で切り殺されたという記録を読むのはつらいことです.
  野蛮という言葉をどうとらえたらいいのか!
   しかもこの文明の中の野蛮は終わるどころか
 現代に近づくほど加速している様相さえあります.
 1960年の中国では一年間で実に2,200万人の国民が
  毛沢東指導の意図的な政策によって餓死したとの指摘を読むと
   暗澹たる気持ちに落ち込んでしまいます.
  縄文時代の遺跡・遺品が引き起こす感情的なもの,
 それは厳密の意味でアートでは無いにしても
まだ人間が疎外を強くは経験したことが無い時代への
ノスタルジアかもしれないと思うときが有るのです.
 でも,これは文明化された僕等が決して同化してはいけない
  禁断の世界でもある.学ぶことは出来るが
   密着出来ない世界,帰ることの出来ない世界,
  そこにノスタルジアの秘密があるのでしょう.
by symplexus (2009-07-02 13:27) 

ヒコ

お二人のコメントありがとうございます。
妻有に行くので、後でお返事します。
by ヒコ (2009-07-03 07:53) 

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