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広報とシニフィエ [アート論]

「うどん」を食べたいと言う。

この時に、「うどん」という言葉は、
ラーメンや、寿司、ステーキといった言葉とのちがいで、
成立している。

この事が、問題なのです。

これがシニフィエ連鎖です。

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「うどん」と言った時に、
スーパーで売っているの「茹でうどん」なのか、
四国の超1流の「讃岐うどん」なのか、
インスタントのマルちゃん赤いきつねうどんなのか、
そういうクオリティーの差異というものが、
あります。

私なんかは、このクオリティーの差異に重点があるのですが、
普通の意味で、広報の仕事をやる人々は、
言語の構造としては、このクオリティの差異を問題にする側は、
実は、ある意味で無視するのです。

なぜなら、本物の「讃岐うどん」は、流通しないからです。
ハイクオリティというのは、流通性そのものの否定において成立していると言えます。だから逆に言えば、流通するというのは、クオリティの否定や、変質において生まれるのです。

その象徴的な出来事は、ココシャネルの仕事にあります。ココシャネルは、ボーイフレンドの貴族から本物の宝石をもらうと、これに刺激を受けてイミテーションのジュオリーをつくって売って成功します。有名な香水のシャネルの5番も同様で、あれは人口香水を混ぜてつくた偽の香水だったのです。ココシャネルは、貴族などの上流階級が独占していた高級品を、産業化社会のあたらしい主役であるプチブルジュアジーに向けて、大衆化した3流品化したものを作り出したのです。つまり超1流のものを3流に落としたものをつくって、ブランドという領域を切り開いたのです。このことは音楽ではサティの仕事です。サティの音楽もまた、それまでの超1流のクラシック音楽を3流に落として、新しい鑑賞者層に、提供したのです。

このように、20世紀初頭においては、ひとつは超1流の贅沢品を3流に落とす事で、流通にのせたのです。

3流という第3次元領域というのはコミュニケーション領域で、その倒錯領域は第11次元で交通領域です。ポップスと言われる軽音楽も第3次元ですので、第3次元こそが、流通にのせるためには重要なクオリティであると言えます。

念のために言っておけば、現在のシャネルというブランドは超1流になっています。大衆のための3流品をつくったシャネルが、ブランドとして確立される事で高級品化して、超1流をつくるようになるのです。

その意味で、産業化社会に転換する時に、第3次元を一度くぐる必要があったと言えます。
シャネルは、いちど3流に落とす事で超1流への上昇を果たしたのです。

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むかし、東京都現代美術館でジャスパージョーンズ展が開かれた時に、
何人かの人と論争になったのですが、
一人の人がこだわったのは、1990年代になってからのジャスパーに関する報道量のリストの、異様なまでの増加です。

この膨大な報道ゆえに、ジャスパージョーンズを偉大な作家であると評価するのですが、私の方は、その報道の多くが吟味も責任も無い、ただのコピー的な内容の連鎖であって、ゴミでしかないと言う判断をするのです。

つまり作家論としてジャスパーに関するまともな議論だけが問題であって、それ以外は、情報のゴミと判断する立場を取ったのです。

ジャスパーの作品が、良く無いという問題は、何人かの人と、論争をしていますが、作品の善し悪しは、報道量や文献の量では決定されないのです。つまり有名であれば優れているという、そういう量が質になるという単純さは無いのです。

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広報の担当の人は、実はこのゴミのような報道の模倣の連鎖をいかにして作り出していくかという仕事であって、まじめな作家論の形成を目指すものではないのです。

情報化社会というのは、こうしたゴミ情報をいかに多く生み出すかが重要だという事になります。クオリティや内容は、関係がなくて、ただ表層で多く流通すれば良いのです。このことが切り開く可能性だけが重要であると言えます。あるいは、このゴミ情報の膨大な増加の中で、何かが変わっていくという時代なのです。

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つまり世の中には2つの価値観があって、流通量を増やす事に意味を見いだす考え方と、讃岐うどんのような、高度の超1流の価値を生み出す事に意味を見る見方です。

しかもこの事が、実は言語や思考の2つの面に関わっているのです。

最初に戻って言えば、「うどん」と言った時に、ラーメンや、寿司、ステーキといった言葉とのちがいで成立している差異の体系での思考というものがシニフィエ連鎖なのですが、こうしたシニフィエ連鎖での了解というのが、日常生活を大きく形成しているのです。

広報の仕事は、このシニフィエ連鎖の中だけで成立するのです。何よりも情報化社会というのは、こうした表層的な差異体系の中で稼働しているので、「うどん」であれば、何でも同一であるという前提のようなものが無意識についているのです。

それは美術品の価値解釈に大きく関わってきていて、作品の解釈や鑑賞が、こうした「うどん」という言葉の面で展開するのです。

話はむずかしいのですが、「うどん」であれば、不味いうどんでも良いというのが、私たちの多くの生活であります。同様に、「芸術」とか「アート」という名前で語られば、その内容は問わないという態度があふれていくのです。それが情報化社会というものであると言えます。つまりシニフィエ連鎖が大きくなった時代なのです。

そこで出てくる手法が、シニフィエを前に出しながら、同時にシニフィアンの本物のクオリティをつけて、同時表示するという手法なのです。
この手法が、ラモーンズをコピーして登場したセックスピストルズの音楽に見えるのです。ジョニーロットンのボーカルは、実に本物であって、フリの6次元のサウンドと重ねる事で、情報化社会の表現のもう一つのスタイルを切り出してきていたのです。

広報を考える時に、このシニフィエとシニフィアンの2重路線が可能なのかどうか?
模索してみたいと思います。

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北村

讃岐うどんに関してはやはり幼少の頃から食べ続けているひとが、うどん屋になるのが香川県では大半です。他県出身の人が東京で偽物の讃岐うどんを売っていますが、ひどいものになると一週間しか修行していないこともあるのです。ですが香川県で食べたことのないひとにはばれないわけです。乾麺のおみやげは味が落ちますので乾麺しか食べたことのないひとは本当の味をしらない。それゆえ、偽物の讃岐うどんが流通します。そのなかでも大衆向けに大量生産した はなまるうどんは香川県では下の中レベルですが、加ト吉の冷凍讃岐うどんとはさほど差がないので、食えなくもないのです。
 こういう大量生産方式は香川県出身の人間がやったことではなく本社は広島にあります。
 東京では圧倒的な強さであります。中の中くらいの香川県の正八が渋谷に進出していましたが、はなまるうどんに負けてしまい撤退しました。上のレベルなら相手にならないのですが、店が少ない上にうどん玉がきれたら店じまいが普通なのです。
 東京では比較的ましなのがお茶の水の丸香と十条のすみたくらいではないかと思います。それでも、香川県の人間が打っていないしやはり味に厳しい顧客がいないためか味が劣るのです。東京での讃岐うどんは ぬるま湯です。香川県ではコンビニより圧倒的に数も多く層もあついので味が悪いとすぐつぶれてしまいます。
 論点がちょっとずれてしまいましたが、讃岐うどんと名乗ったからといって超一流なのではなく、六流もあるし、8流もあります。
 他県にいて合格点の出せる味の味わい方は、半生麺を特殊冷凍パックで送ってくれる  もり家だけであると思われます。
 
by 北村 (2009-07-11 12:10) 

糸崎

先日のアートスタディーズ、行きそびれてしまいました・・・スケジュールをちゃんと把握してなかったもので・・・

>ハイクオリティというのは、流通性そのものの否定において成立していると言えます。

まさにこれこそが「芸術」の本質であって、「芸術至上主義」の立場では「芸術はお金の価値に換算できない」のだから、芸術も本来は流通し得ないものではないかと思います。
ただ、現在は「経済至上主義」の世の中であって、「芸術の価値」を大衆向けに分かりやすく「お金の価値」に換算したり、アーティストの生活を支えるための「アートマーケット」が必要だったりします。
そしてこのように、単純に「芸術至上主義」が成り立たなくなった時代が、「ポストモダン」なのかなと思います。

ぼくの提唱する「非人称芸術」は、芸術の「ある部分」を捨て去ることによって、「芸術至上主義」を成立させようという試みです。
「非人称芸術」はデュシャンのレディ・メイドの概念を拡大したもので、だから原理的に流通のしようのないものあり、ハイクオリティを保っていられるわけです。
「流通」に芸術のクオリティ低下の要因があるとすれば、その排除を目論んだのが「非人称芸術」だとも言えます。

一方でぼくは、「非人称芸術」の「模型」としての作品を制作することも始めました。
「芸術」は本来神聖なもので売買の対象にはならないけど、「模型」は流通に乗せることができる・・・ぼくは子供のころ戦車や戦闘機のプラモデルを作るのが好きで、「芸術」に対しても無自覚のうちにそういう態度で接していたように思います。
つまりぼくにとって、「芸術作品」そのものの売買というのはまったくリアリティーがなく、だからぼくはもっぱら「模型」としての「画集」を買っていたのです。
その感覚は今も根強く残っていて、「アートマーケット」の存在は理屈では理解できますが、感覚的にはどうも今ひとつピンとこないところがあります。
芸術に対する効した感覚は、一般常識に照らすと「奇形的」なのかもしれません。

ともかく、ぼくは流通し得ない「非人称芸術」の模型(フォトモ)を作り、その作品を売るのではなく、フォトモをさらに模型化した「作品集」の形で出版しました。
なぜこんな二重の模型化をしたのかといえば、ぼくにとって作品集こそが「芸術の流通」としてリアリティがあったからです。
ただ、「フォトモ」がどれだけ世間に流通してるかというと、実のところそれほどではなく、ぼくの立場は「非常にマイナーなアーティスト」に留まっています。
それがどういうことなのかが、彦坂さんのこの記事で改めて分かったのですが、世間ではぼくについての「ジャンク情報」がほとんど流通していないのです。
というか、ぼくは自分についての「ジャンク情報」を意識的に発信することを、ほとんどしてませんでした。

「ジャンク情報」とは「意味内容」が薄弱な情報で、形態的には「記号」となって表れます。
ぼくは自分を表す「記号」の発信を怠ってきたと言えます。
逆に村上隆さんは、もっぱら「記号」だけを発信する戦略で、大成功したのではないかと思います。
ポストモダンとは「記号」が重要視される時代ではないかと思っています。
「記号」は「カテゴリー」と言い換えてもいいですが、アートの分野では「アートの記号」や「アートのカテゴリー」が非常に重要視されているように思います。
「アートフェア東京2009」でも、場内には「アートの記号」があふれ、その全てが「アートのカテゴリー」の範疇に収まっています。
そして、もはや誰もその「記号」や「カテゴリー」を疑うことはないのです。

しかしそれ以前の「モダニズム」の時代は、アートを初めとするあらゆる「記号」や「カテゴリー」が疑われ、解体されました。
その筆頭が印象派絵画で、それが本来の「モダンアート」のあり方ではないかと思います。
そうしたことを、岡本太郎は『今日の芸術』などで「遅れた日本人たち」に対して声高に主張したのです。
しかし岡本太郎自身が、そう主張することを「芸術家の記号」として利用したりして、そうやって芸術の「記号」や「カテゴリー」が形成され固定されたのがポストモダン状況ではないかと思います。

宮台真司さんは、「恣意性の時代からコミットメントの時代へ」と表現してましたが、「記号」や「カテゴリー」の恣意性(根拠が無いことに縛られているさま)を指摘するだけの時代は終わり、「恣意性」を了解した上で既成の「記号」や「カテゴリー」にコミットメントする時代なのだそうです。
これはまさに「芸術」にもそのまま当てはまるのではないかと思います。
つまり、誰も「記号」や「カテゴリー」の「外部」に出ようとはせず、ひたすら「内部」を掘り進めているのです。

彦坂さんの「41次元アート」はいわば「独自カテゴリーの提唱」ですから、これは「既成カテゴリー」の「外部」からの視点ではないかと思います。
ぼくは彦坂さんとはだいぶコンセプトは違いますが、「外部」という立場は共通しているのではないかと思います。
ただぼくは、中島義道さんほどではないにしろ「儀礼」的な意味を理解できませんから、「アートとしての記号」も彦坂さんに比べはるかにないがしろにしてます。
実際、彦坂さんはぼくなんかよりははるかに有名人で、「41次元アート」の意味内容はともかく、「記号としてのジャンク情報」も大量に流通してるんじゃないかと思います。
by 糸崎 (2009-07-12 11:36) 

ヒコ

北村様
うどんのお話ありがとうございます。おっしゃる通りで、讃岐のうどん屋でもひどいのもあります。

糸崎様
コメントありがとうございます。おっしゃる事は良く分かりますし、ご指摘も同感です。
ただ、私見では、非人称芸術という考えは、美術史的には、もう少し別の流れのように思います。具体的には、ただちょっと書きたく無いところがあるので、そこを置いていて、もっと前にさかのぼると、たとえばマーレビッチの白の上の黒とかの、デザイン的なるものへの還元の流れです。
by ヒコ (2009-07-13 01:12) 

糸崎

>具体的には、ただちょっと書きたく無いところがあるので、

ぼくは彦坂さんの言葉に触発されて、勝手な思い付きを書いているので気になさらないでください・・・
by 糸崎 (2009-07-13 11:53) 

ヒコ

糸崎公朗様
そうではなくて、非人称というのを全面に出したグループ活動をした人たちがいるのですが、前に書いて、そのリーダーに恩を仇で返されて、しかも侮辱を受けているので、さすがに公平に書く気になれない所があります。作家たちと言うのは下衆で、ひどい連中がいるのです。
by ヒコ (2009-07-13 15:53) 

糸崎

>そうではなくて、非人称というのを全面に出したグループ活動をした人たちがいるのですが、

彦坂さんにそう言われ、検索して調べたことがありましたが、どうも自分の言うところの「非人称芸術」とはコンセプトが違う気がしました。
シニフィアンは同じで、シニフィエはかなり違う感じです。

>作家たちと言うのは下衆で、ひどい連中がいるのです。

これも分かる気がします、ぼくもある人たちからそのように判断されてますから・・・まぁ、身から出た錆ですw


by 糸崎 (2009-07-13 18:59) 

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