著作権の問題(加筆3校正2) [状況と歴史]
5万人突破/過去最高記録 [状況と歴史]
入場者数が5万人を突破したという挨拶メールが転送されて来ました。
アートフェア東京2010の事務局からです。
(このブログの最後に全文を収録してあります。)
経済状態が悪いという日本の状況の中での、
5万人突破/過去最高記録というのは、
やはり凄い事です。
時代がはっきりとアートフェアの時代になって、
アートシーンにおける大衆の反逆が、
作家だけでなく、観客動員においても定着したと言えます。
オルテガが言うところの「大衆の反逆」が、完全に成立した時代
こそが、一面から見た所の情報化社会であると言えるでしょう。
だからと言って、反面から見れば、精神的な貴族主義の人びとの
存在が大きくあるのも、実は確かな事であって、
その面を忘れると、時代を見誤ります。
しかし、そんな事は公には言わないで、
時代は完全に大衆の時代であると、言うべきでありましょう。
大衆の勝利万歳!
大衆芸術の勝利万歳!
こう描いた作品を作りたいものです。
こうした大衆主義の全面展開の一方で、
経済は悪化し、雇用状況は悪化し、そして失業者はあふれ、
日本のGDPは、墜落するように低下し、
財政破綻は、世界一で突出して来ているのです。
私の回りの友人関係で言えば、
こうしたまともな生活や文化への希求をしている人に、
白濱雅也さんがいます。
糸崎公朗さんにも、こうした正しいまともさがあります。
さらには梅谷幾代さんや、玉田俊雄さんなどのギャラリストにも
まともなものへの願望があります。
建築家の友人では、新堀学さんや、南泰裕さんにも、
まともなものへの回帰への欲動があります。
こういう人たちの気持ちが間違っているとは思いませんが、
しかし・・・・・と、私は思います。
私自身には、余裕が無いのかもしれませんが、
どうしても、この敷居を飛び越す、棒高跳びのような跳躍への欲望が、
あります。
それが死への欲動であっても、ジャンプしてみたいのです。
つまり、展示内容は、まったくひどい水準で、
通俗と凡庸、キッチュと退廃ではありましたが、
アートフェア東京2010の観客動員の勝利を、
私は肯定的に評価したいと思います。
これが日本文化と日本人の現在の現実なのです。
椹木野衣が言う所の「悪い日本」が出現しているのです。
これが現実なら、直視しましょう。軽々と!
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出展者各位
拝啓
平素は格別のご厚誼にあずかり、厚く御礼申し上げます。
今年もアートフェア東京2010が、無事終了致しました。これもひとえに皆様のお力
添え、ご協力のお陰様と、心より感謝申し上げます。
総来場者数はプレビュー日を含む4日間で50,075人となり、昨年の4万5千人を上
回り、5万人を突破するという過去最高の記録となりました。今年も国内外から多く
の方々にお越しいただき、アートフェアというイベントが日本でも認知されつつある
ことを実感いたしました。また、NHK、J-WAVEをはじめとする多数のメディアにも取
り上げられ、春のアートイベントとして定着したのではと思っております。この潮流
を発展させ、アートが産業として日本に根付くようこれからも尽力していきたい所存
でございま す。
詳細は後日クロージングレポートにてご報告いたしますが、取り急ぎ、メールでの
御礼とさせていただきます。
今後とも宜しくご支援、ご指導のほど、お願い申し上げます。
敬具
アートフェア東京実行委員会
代表 山下宗白
エグゼクティブ・ディレクター 辛美沙
祭りの後 [状況と歴史]
個人メールで私の作品について感想をいただきました。
彦坂様
○○です。
本日も貴重な機会をありがとうございました。
○○○は、適切なことであるのかどうか、昼まで悩んだのですが、
彦坂さんの実際の作品を見てもらいたいと思い、
あと、アートフェアなどに行くのもはじめてなので、ものは体験ということで、
一緒に行きました。
突然すみませんでした。
以後は、○○○というのは控えようと思います。
わたしが集中できないので。
○○は
「ヒコさんの作品は、実際に見るとかわいい」と言っていました。
(○○もブログを読んでいます、わたしほど熱心ではありませんが(笑))
わたしもはじめて見たとき、似たような感想を抱きました。
暖かみがあるし、人間味があるように感じるので。
今感想を聞き直しました。
「(会場で)いろいろ見てると、社会構造のしがらみを感じてげんなりしてくるけれど、
ヒコさんのは、その外側にあるものに見えた」だそうです。
ほんとにそうですね。
(それが褒めていることになるのかは分かりませんが)
あの会場の中で、わたしは吐き気を感じました。
あんなにたくさんあるのに、心が躍るような、
かすかでも元気をもらえるようなものが、ほとんどなかったですから。
でも、彦坂さんのからは、風というか、、そういうのを感じました。
ウッドペインティングの青いやつは、いつまででも見ていたい青でした。
あとは、阿修羅のが好きでした。
けれど、値段がアレなので。。。。(笑)
「ポスターでいいよ」とか「イラストじゃん」とか、「職人仕事じゃん」と
言いたくなるものがたくさんあって、ちょっと驚きました。
ああいうことになってるのですね。
現代アートの「売り物」を、あんなにたくさん見たことなかったのです。
欲望と人間関係がうずまいているようで、息苦しかったです。あの大きな空間が。
彦坂さんはああいう中で闘っていらしたんだなあ、と思いました。
でもきっと、昔は少し事情が違ったのかもしれませんね。
正直、大変だなあ、と思いました。
ああいう中で、気体分子ギャラリーをやるのは、大変だなあと思いました。
正直ですみません(笑)。
でも、逆にわたしは「温度」のある作品と、その作者さんたちに触れることができて、
幸せなんだな、と、すごく思いました。
普通の大きな美術展にばかり行っていた者の感想です。
皇居美術館のチラシもできてよかったですね。
紙が厚くて、がんばったな! と思いました(笑)。
出版が楽しみです。
早く読んでみたいです。
それでは、取り急ぎお礼と感想でした。
あと2日、体調気をつけてがんばってください。
追伸:本日、「○○○○」が届きました♪
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感想をありがとうございました。
《近代》という時代は、
2つの世界が成立していて、
自由主義圏では、純粋芸術=前衛美術が成立し、
もうひとつ社会主義圏では、社会主義リアリズム=凡庸アートが
成立していたのです。
ところが1975年にアメリカがベトナム戦争に敗れると、
純粋美術は退潮して、。ニューウエーブという形で、
《想像界》の美術が復権して、不純主義の美術が台頭します。
さらに2001年にソヴィエトが崩壊すると、
社会主義リアリズムとしてあった凡庸アートが、
世界中に広がって行くのです。
今回のアートフェア東京2010は、
この不純主義と、凡庸アートでほとんどが占められていて、
スターリンがいたら、大喜びするような分かりやすい展示と
なりました。
《第6次元 自然領域》と《第8次元 信仰領域》が大半で、
その中にかすかに《第1次元 社会的理性領域》の作品が
あったという状態でした。
一般に《第8次元 信仰領域》のものが商業主義の中では増大する
傾向があるように思います。
それはレンタルビデオ屋でも感じる事です。
しかしだからこそ、今回のアートフェア東京でも、驚くほどの大衆が
やって来て、混雑の日々となりました。
この不景気に、買いもしない人びとは、何のために来ているので
しょうか。
実は、《近代》が終わった時に、ということは
1986年ぐらいからなのですが、
巨大建築が建ち始めた時期から、文化の大衆化が、
さらに進展したのです。
文学においても、映画においても、美術においても、
スポーツにおいても、
グローバリズムと、商業主義と、そして巨大化、大衆化が、
爆発するように展開して来ます。
その中で、プライマリーギャラリーが主導した時代は終わるのです。
それは同時に批評の終焉でありました。
オークションと、アートフェアが台頭して、芸術を、大衆が決定する
ような時代に変貌したのです。
その代表的なアーティストがジェフクーンズでした。
株屋上がりのアーティストで、イメージ戦略を意識し、
大衆の理解できるイメージを、高度で大規模な技術で成立させた
作品は、グリンバーグが否定したキッチュを再評価して使用した
新しい時代のアートであったのです。
このジェフクーンズを摸倣したのがダミアン・ハーストと村上隆で
した。
こうして新しい前衛美術と社会主義リアリズムの統合された現代アート
が成立すると、実は何でもありの状況になって、
純粋芸術はあっというまに退潮したのです。
アートフェア東京2010年にあった猥雑さは、
大衆美術の猥雑さと言えます。
しかし《近代》にあった純粋美術の前衛性を知っている者にとっては
この交代劇は、ある種の必然に見えるのです。
文化も政治も、大衆凡庸主義が占拠してくる時に、
これを避ける事に、あまり私は意味を感じないのです。
つまり大衆主義から見を引き離すにしろ、貴族主義に隠遁してみても、
あまり成果が上がらないように思います。
彦坂尚嘉がめざすものは、大衆主義から身を引き離しつつ、
この大衆主義=凡庸普遍主義=自然的態度との格闘を、
試みていく事です。
つまり貴族主義と大衆主義の統合化の模索です。
それはサントーム・アートと言えます。
新国立美術館や東京都現代美術館など、美術館の巨大化は、
美術作品の巨大化を要請するとともに、集客性を要求しているのです。
もはや大衆という観客の存在を、単純に切り捨てるだけでは、
芸術を成立させ得なくなったのです。
ニヒリズム以後の世界(加筆1) [状況と歴史]
1950年代以降を今と弾き比べる時代感覚の錯誤が、指摘されました。
これは、重要な指摘だと思います。
私も、1930年代こそ、今と比べるべき時代だというご指摘に、
賛成します。
しかし、それだからこそ、
1950年代に目を向けている、つもりなのです。
日本の1930年代は、いつ、終わったか。
それは、各方面でずれがあると思いますが、
少なくとも日本のキリスト教界(新教に限る)では、
1950年代に、やっと、おわります。
1950年代になるまで、
1930年代の思想を引き継いだ1940年代の指導者が、
相変わらず、平然と、日本のキリスト教界に君臨していました。
そのことを総括するのは、1950年代になってからなのです。
ニヒリズムが、1950年代の大問題でした。
それは、キリスト教以外の思想圏との連動もあります。
しかし、ニヒリズム克服の運動の中で、
1930年代を総括したことは、事実です。
文学では、椎名麟三が、新教を代表しています。
そして、椎名に連携している神学者たちが、
私の研究対象となっています。
その神学者たちは、
1940年代の顛末を振り返り、
自分たちに欠けているものを見据えます。
そして、その欠損故に起こってくる待望にこそ、
1930年代を克服する足がかりを見出したのでした。
その今、1930年代を克服しようとした1950年代に学ぶこと。
それは、まず第一に過去の失敗に学ぶことを目指すものですが、
同時にまた、「新しい生産」の可能性を模索することにも、
つながるかもしれません。
エールをいただきましたこと、ありがとうございました。
そして、もうひとつ。
原題は、虚無主義が全体を覆っている、とうのは、事実です。
しかし、私は、教師として考えます。
若者たちは、世界を見渡すことができるようになって、
皆、押し並べて、ショックを受けているようです。
それは、おっしゃる通り、
虚無主義が跋扈している現状を知って、
「こんなはずではなかった」というショックです。
私は、教養の教師ですから、
世界の実相を伝えなければならない。
その時、常に、
新しく虚無主義と向き合わされる若者たちと共に、
虚無主義と、戦わなければならない。
そうした私にとって、
1950年代に、学ぶことが多くあると思っているのです。
直接性からはなれて [状況と歴史]
文明様態選択の自由(加筆2) [状況と歴史]
西欧に農業革命が起こる前から、存在しました。
それは、「唯一神」を「父・子」に分ける理論から始まり、
「聖霊」の理論によって、無限に分化することに至ります。
その背景には、古代ローマの「古代的資本主義」というべきものがある。
それは決して中世西欧的「農業社会」を背景に作られたものではない。
この点は、重要かと思われます。
現代において私が有効であると思われるのは、
「関係の類比」と呼ばれるものです。
それは、無限分化する全体が、
関係性において一体性を保つという理解です。
その概念は、「農業社会」においては異端視されるものです。
しかし、近代以降、K・バルト以降の現代に至るまで、
「関係の類比」としての三位一体論は、
世界を説明する原理として、有効性を有していると思われます。
言われますが、歴史がほとんど流れないのです。
呪術魔術が支配し、占い/まじないが、知的な構造
なのです。この世界が《想像界》なのです。
《想像界》というのは、魔術や呪術が支配し、
偶像崇拝が行われている知的世界です。
これは現在も現在も継続しているのです。
北川フラム更迭される(大幅に加筆) [状況と歴史]
マドンナによるマイケル・ジャクソン追悼演説(加筆1) [状況と歴史]
現地時間2009年9月13日(日)ニューヨークで開催。オープニングに登 場したのはマドンナ。マイケル・ジャクソンへの心からのトリビュ ートを送り、急逝したキング・オブ・ポップへの深い哀悼の意とと もに、VMAは幕を開けた。
《現実界》の否定として情報化社会(加筆2校正1) [状況と歴史]
コメント 1こんにちは。
いつも、たくさん学ばせていただいております。
川上直哉と申します。
死をめぐる考察、静かに拝読いたしました。
まずは何よりも、お見舞いを申し上げます。
すこし、考えを整理して、一つの質問をさせてください。
共観福音書(マタイ・マルコ・ルカの福音書)の共通した記載によると、
“神は生きている者の神だ”というのが、
イエスの思想であったようです。
このイエスの思想の特殊なのは、
「神は生けるものの神だ」という発想から、
「死=無化」という発想を退ける方向へ、
論理を進めた点にあります。
「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」と、
そのようにその名を呼ぶところのユダヤの唯一神は、
生ける者の神である、
だったら、アブラハム・イサク・ヤコブは生きている。
それが、福音書に残されたイエスの死生観の展開でした。
「死=無」という概念は、ギリシャ哲学においても大問題で、
たとえば、デモクリトスのアトム論は、
「アトム=分けられないもの」を、世界の構成原理としました。
でも、それは、キリスト教が支配した中世西欧において、
完全に退けられました。
それは、上記のような福音書の思想の枠内に、
人々の思考が支配されていたからでした。
さらにそれは、トマス・アクイナスが、
アリストテレス哲学をキリスト教に大胆に導入して、
神学全体のが理論的補強を施された、結果でした。
トマスが用いたアリストテレスこそ、
アトム論に反対した代表者の一人だったからです。
こうした状況は、17世紀に逆転します。
17世紀に、真空が発見されたことが、
大きなきっかけになります。
背景には、
16世紀の宗教改革=宗教の破綻を受けて、
論理と数学と実証に支えられた科学が、
人々の思考を新しく展開し始めていたことがある。
そのような背景と発見に押し出されて、
アトム論は、17世紀に復活します。
アトム論は、ライプニッツのモナドとして、洗練を加えられます。
「モナドロジー」は、現代の思考の先取りとして読めます。
こうして、アトム論は、実に、現代を支配する思想となりました。
アトム的・モナド的枠組みが出来上がることで、
現代の機械論的世界観が生まれる。
それは、「死=無」とすることを、
自明のこととして疑わない世界観です。