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《現実界》の否定として情報化社会(加筆2校正1) [状況と歴史]

《無》について再論します。

川上直哉さんという方から、長文のご質問が来ています。
最後にそのご質問を再録してあります。

ご質問には直接はお答えしないで、
彦坂尚嘉の基本的な考えを述べておきます。

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もともとは《死》の話からはじまりました。

ギャラリーのSさんも、
「彦坂さん、死んでしまえばおしまいですよ」という様な事を
何回も言っていました。

死んでしまえば、無に帰するというような常識が、蔓延しています。
しかし山口光子さんが死んでも、無には帰さないのです。

まず、彼女のつくった負債の3000万円は未処理で残ります。

ギャラリー山口の30年間の活動で、そこで発表した作家の経歴に、
ギャラリー山口の名前は残って行きます。

たとえば大浦信行 の『遠近を抱えて』という作品は、
ギャラリー山口で最初に発表されたものです。

普通に回顧すれば、篠原有司男さんを擁護したギャラリーとして、
記憶に残ります。

我田引水でいえば、彦坂尚嘉も『フェイク・デス』という
良い作品を発表しています。

等々、山口光子さんの人生67年が生み出した様々な波紋は、
今後も継続するのです。

死んだからといって、無にはならないのです。

今のギャラリー関係者は、
常識としての科学的な考えを基盤に生きているように思いますが、
それは厳密さを欠いているのです。

科学的な《現実界》の眼で世界を見ると、
《無》ということが現れます。
しかしそれは虚偽なのです。

そこで無と死が連動して、今日の常識を形成します。
その常識そのものが、虚偽なのです。

《現実界》というのは、意味構成をしないので、
人生の意味も、芸術の意味も解体されてしまうのです。
解体する事自体は良いと思いますが、
そのことが、実は事実を隠して行くのです。
つまり山口光子さんの死の後にも、
多くの事実は連動して動いてくと言う事実を見ない事に、
しているのです。


こういう世界観とか、人生観というのは、
日本だけとは言いませんが、
世界的に見ると、世界常識とは違うところもあります。

たとえば韓国は、朝鮮戦争をくぐって、たくさんの死を経験してから
キリスト教が強くなって、韓国キリスト教は、
日本への布教も果敢に展開しています。
私が今教えている立教大学もキリスト教の大学で、教会があります。
その教会の牧師さんのトップは、韓国人です。

韓国に限らす、キリスト教は世界中でまだ生きています。

もちろんアメリカはキリスト教が強くて、
現在も多くの葬儀は、土葬でなされています。
最後の審判のあとに、復活するために、土葬で埋葬された墓が、
多いのです。

こうしたキリスト教の宗教観というのは、
ラカン的を下敷きにした彦坂流の考えで言えば、
《象徴界》的な価値観が支配している見方であると言えます。

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つまり人間の精神は、《想像界》《象徴界》《現実界》そして
《サントーム》という4つの次元があるので、
《死》について考えたり、《無》について考えたりする時でも、
どこで考えているかで、微妙に内容が違うのです。

科学的に考えるという事は、
《現実界》で考えるという事であって、
それには、実は限界と古さがあるという事です。

ここからは彦坂尚嘉の独特の考えですが、

人類の歴史を見ると、
初期は、自然採取の原始時代でありました。

書き文字も無い無文字社会であったのです。
この時代を主導したのは呪術的な思考で、
これが《想像界》です。

今日の漫画の世界というのは、
この《想像界》を基盤としたものであって、
現代という文明世界の中に出現した野蛮文化なのです。

そこの原理は偶像崇拝です。
キャラクターというのは、この偶像崇拝の原理で作動するのです。

村上隆や奈良美智の描くキャラ芸術というのは、
この野蛮主義の復活と連動した美術の動きなのです。
近代芸術が、野蛮なものへと退化する動きだったのです。

《想像界》の特徴は、『アキラ』や、漫画版の『ナウシカ』が
指し示したように、先送りの戦闘世界で、
それは万華鏡のようにきらびやかで面白いのですが、
最後まで行くと、何もないのです。

《想像界》というのは、意味構成をしないのです。
とりとめもない万華鏡的な戯れの世界です。
同時に心的には、ラカンの明らかにした鏡像世界であって、
私たちの心理的な愛憎や、執着、絶望、苦悩の大半が、
この《想像界》で展開され、それは今も続いているのです。

この《想像界》を否定して抑制したのが《象徴界》なのです。

《象徴界》というのは書き文字の出現で可能になったのです。
書き文字が、法をつくり、そして聖書や仏教教典、コーラン。。
諸子百家の思想、さらにギリシア哲学を形成します。

つまり世界宗教が書き文字という識字によって成立して、
この書き文字が《象徴界》であって、
書き文字が《想像界》の原理である偶像崇拝を否定したのです。

しかし、それは《想像界》が消えてしまう事では
なかったのです。

《象徴界》が成立してもなお、人間は《想像界》制を保持して、
《象徴界》と《想像界》の2住生活をおくります。
そして次第に《想像界》の偶像崇拝が蘇ってくるのです。

そういう中で《象徴界》を再度否定して、
違う次元を切り開くのが禅宗であり、
そして科学であったのです。

ヨーロッパで言えば、17世紀から18世紀に、
この変動が来ます。

これらが《現実界》です。
《現実界》の特徴は、書き文字を否定して、
不立文字を主張して、
科学では、数式で表現する事です。
アインシュタインの相対性理論も、数式で示されたのです。

私が言っているのは、
科学が正しいとか、間違っていると言っているのではありません。

科学のものの見方は、
人間精神の《現実界》の見方であると言う事です。
それは数式で示される世界であって、
それを「死」とか、「無」という書き言葉で示すと、
実は混乱が生じるのです。

しかしもその科学というのは、
物理科学を主体にした単純系の科学であったのです。
今日の情報理論が主導する複雑系の科学ではありません。

自然物理学を中心にした単純系科学の主導した時代が、
《近代》というものであったのです。
それと今日の複雑系の科学とは違うものなのです。
連続性はありますが、原理的に革命があったのであって、
この科学技術の革命を見損なうと、今日の科学を
理解し損ないます。

重要なことは近代の《現実界》というのは、
意味構成をしないのです。

ここからはむずかしいかもしれません。

つまり分離という考えが、なかなか、みなさんに
分かってもらえないのです。

例えば、背の高さを測ることと、
体重を量る事は、別の事なのです。
測定する時に、別々にする必要があります。

背の高い人は、体重も重いという事は、一般にはありますが、
連動して考えると、間違えるのです。
体重が100キロあるから、背の高い人であると言うような
予想は、マズいのです。
身長は低いのに、体重が極端に重い人もいるからです。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を、それぞれの
特徴をつかんで、分離しておかないと、
混乱するのです。

絵画における色の問題も、
彩度、明度、色相の3つをバラバラにして考えて、
コントロールするのが、むずかしいのです。
それなりの理論学習と、訓練と、経験をつまないとできないのです。

分離を踏まえておかないと、
「死」とか、「無」とか言う書き言葉をつかって考えると、
《現実界》と《象徴界》をミックスしてしまって、
混乱を生むのです。

《現実界》では数式で考えるのが基本で、
言語を使ってはいけないのです。

ギャラリーARTEの梅谷幾代さんの中に、
彦坂尚嘉が見ているのは、
そうした《想像界》《象徴界》《現実界》の3界が、
未分離に重なっていて、
しかも単純系の科学へと、還元する形で、
「死」とか「無」の言葉が使われていることです。

思考が団子になっているのです。

問題なのは、それが今日の日本の大多数の常識と、
重なっている事です。
常識の中で思考する事自体が、実は問題なのです。
その虚偽性は、ソクラテス以来の真理であって、
今日の日本社会の常識は、実は虚偽なのです。

今日の日本社会の常識が信じているような形では、
「死」とか「無」というのは存在しないのです。

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コメント 1
こんにちは。
いつも、たくさん学ばせていただいております。
川上直哉と申します。

死をめぐる考察、静かに拝読いたしました。
まずは何よりも、お見舞いを申し上げます。

すこし、考えを整理して、一つの質問をさせてください。

共観福音書(マタイ・マルコ・ルカの福音書)の共通した記載によると、
“神は生きている者の神だ”というのが、
イエスの思想であったようです。
このイエスの思想の特殊なのは、
「神は生けるものの神だ」という発想から、
「死=無化」という発想を退ける方向へ、
論理を進めた点にあります。

「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」と、
そのようにその名を呼ぶところのユダヤの唯一神は、
生ける者の神である、
だったら、アブラハム・イサク・ヤコブは生きている。
それが、福音書に残されたイエスの死生観の展開でした。

「死=無」という概念は、ギリシャ哲学においても大問題で、
たとえば、デモクリトスのアトム論は、
「アトム=分けられないもの」を、世界の構成原理としました。
でも、それは、キリスト教が支配した中世西欧において、
完全に退けられました。
それは、上記のような福音書の思想の枠内に、
人々の思考が支配されていたからでした。
さらにそれは、トマス・アクイナスが、
アリストテレス哲学をキリスト教に大胆に導入して、
神学全体のが理論的補強を施された、結果でした。
トマスが用いたアリストテレスこそ、
アトム論に反対した代表者の一人だったからです。

ここまでが、《象徴界》の主導した時代です。
この後、数式を基盤にした単純系科学の《現実界》が、
主導する時代が始まります。

こうした状況は、17世紀に逆転します。
17世紀に、真空が発見されたことが、
大きなきっかけになります。
背景には、
16世紀の宗教改革=宗教の破綻を受けて、
論理と数学と実証に支えられた科学が、
人々の思考を新しく展開し始めていたことがある。
そのような背景と発見に押し出されて、
アトム論は、17世紀に復活します。
アトム論は、ライプニッツのモナドとして、洗練を加えられます。
「モナドロジー」は、現代の思考の先取りとして読めます。

こうして、アトム論は、実に、現代を支配する思想となりました。
アトム的・モナド的枠組みが出来上がることで、
現代の機械論的世界観が生まれる。
それは、「死=無」とすることを、
自明のこととして疑わない世界観です。

現在の情報革命は、実は近代の単純系科学を、
根本において否定して、別の原理で出現して来ているのです。

【続きは下記をクリックして下さい】


いわゆる複雑系の科学というのは、《近代》ではないのです。
原理から違うのです。

つまり複雑系の科学は、《現実界》で成立しているのではなくて、
《サントーム》で成立しているのです。

それと、情報科学の中には、神が蘇って来ているのです。
つまり《サントーム》というのは有神論なのです。

たとえば岩波書店が出版した『21世紀問題群ブックス』という
シリーズがあります。


21世紀問題群ブックス
■構成 全24冊

青木 保,佐和 隆光,中村 雄二郎,
松井 孝典 編集
目前にせまった新しい世紀.われわれはどんな問題に遭遇するだろう.科学技術の展開から国家のありようにいたるまで,ここに示された問題群の広がりは,次世紀を豊かに生きて行くための確かな手がかりを提供する.


〈 全巻の構成 〉
◆1 21世紀問題群 (中村 雄二郎)
品切重版未定

◆2 生きがいクエスト1996 (大岡 玲)
品切重版未定

◆3 死のレッスン (石田 秀実)
品切重版未定

◆4 個人/個人を超えるもの (花崎 皋平)
品切重版未定

◆5 イデオロギー/脱イデオロギー (佐伯 啓思)
品切重版未定

◆6 地球倫理へ (松井 孝典)
品切重版未定

◆7 科学と幸福 (佐藤 文隆)
品切重版未定

◆8 テクノロジーの行方 (吉川 弘之)
品切重版未定

◆9 だれのための仕事 (鷲田 清一)
品切重版未定

◆10 教育の目的再考 (西澤 潤一)
品切重版未定
 
◆11 宗教クライシス (上田 紀行)
定価 1,785円(本体 1,700円 + 税5%)

◆12 医療の原点 (中川 米造)
品切重版未定

◆13 都市/交通 (原 広司)
未刊

◆14 拒食の喜び,媚態の憂うつ (大平 健)
品切重版未定

◆15 生活空間の自然/人工 (新田 慶治)
品切重版未定

◆16 開発と文化 (岡本 真佐子)
品切重版未定

◆17 人口問題のアポリア (竹内 啓)
品切重版未定

◆18 国家/民族という単位 (青木 保)
未刊

◆19 国連システムを超えて (最上 敏樹)
品切重版未定

◆20 資本主義の再定義 (佐和 隆光)
品切重版未定

◆21 さまざまな貧と富 (内田 隆三)
品切重版未定

◆22 正義論/自由論 (土屋 恵一郎)
品切重版未定

◆23 聖なるヴァーチャル・リアリティ (西垣 通)
品切重版未定

◆24 正負のユートピア (松田 卓也)
品切重版未定


私はこの24冊は、全て読んでいます。

その中の一冊(23)には、『聖なるヴァーチャル・リアリティ』とい
うものがありますが、情報科学の中では神が蘇ってくるのです。

質問は、上記の世界観の変化が、
絵画において、どのように確認されるのか、どうかです。

私は、19世紀以降の英国の神学を研究しております。
それで、ラファエロ前派の運動を、微々たるものですが、学びました。
しかし、どうも、ラファエロ本体について、
その意味が、分かりかねています。

19世紀までの絵画が、ラファエロに支配されていた、ということは、
教科書的に知っているのですが、
その意味を、つかみかねているのです。
それでも、上記のような流れを押さえてみると、
やっと、何か、掴めるのかもしれないと、予感し始めました。

ラファエロは、これも教科書的ですが、
イタリア・ルネサンスまでの芸術の総合者であるとのこと。
それは、つまり、
「無」も「真空」も存在しない世界を描く総合者ということになります。
それは、絵画において、どのように表現されているのか。
そして、それはその後の絵画において、どのように否定されたのか。

ご質問に正面から答える事は、
このブログでは不可能ですが、
ラファエロについて、短くお答えします。

ラファエロはヨーロッパの中では大きな作家ですが、
人類史的には、《一流》の作家に過ぎないし、
何よりも《想像界》の画家で、退屈です。

イタリア・ルネサンスまでの芸術の総合者である」という評価は、
確かにありますが、それはヨーロッパ世界の内部の迷信にすぎません。


イタリア・ルネサンスまでの芸術の総合者である」という美術家は、
厳密には存在しません。
存在した美術家で、一人選ぶのであれば、レオナルド・ダ・ヴィンチ
であって、ラファエロではありません。


それからラファエロ前派というのは、近代絵画の動きに対する
反動形成が主であって、ラファエロそのものとは、
実は関係がないのです。

ラファエロ前派を通して、ラファエロを見る事は、
あまり良いラファエロ研究の方法ではないと思います。


長文となった揚句、漠とした質問に帰結していますこと、
恥ずかしく、申し訳なく存じます。
それでも、長年の疑問でした。
ヒントを頂ければ、幸いに存じます。

人は、身体の一部を切り分けた相手を自分の家族とする。
それが、創世記神話の家族理解です。
ペットロス、といえば、消費されるクリシェに堕しますが、
お心深くに刻まれた傷を、思います。
今日は日曜日です。
平安が、癒しをもたらすことを、
祈りたいと思います。

それでは失礼します。

川上直哉 
by 川上直哉 (2010-02-21 06:00)  


固体発生は、系統発生を繰り返すという原則があるので、

人間は今日でも、初期仏典や、聖書を読まないと、
人格として成長して行く事ができないと思います。

デカルトやパスカルなどの近代科学の祖となった哲学者の本も
読まないと、近代人としての人格形成が不可能になります。

そして今日では、複雑系の科学の基本書を読まないと、
今日の精神の基本が獲得できないと思います。

私自身も不十分にしかできませんが、ささやかでもそういう学習を
試みているのであって、
そういう中で見る限り、
今日の日本に蔓延する《無》や《死》に対する硬直した思考は、
誤謬に満ちたものであると思います。

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梅谷です

こんにちは。
面白い展開になってそれはそれで、なるほどと思います。

それが、実は単純な変換ミスでこのお話が始まってしまったのです。

私が死んだら、私が思い出している亡くなった人々は、誰も思い出す人が
いなくなるから、本当にこの世から亡くなるということなんですね。

ということでした。無 ではなく 亡 


by 梅谷です (2010-02-23 12:37) 

ミー

はじめまして。
いつも楽しく参考にさせていただいております。

原始時代=野蛮文化とは
一神教信仰に見られるエゴイスティックな
客観論では?

いつかは地球も無くなってしまう訳で
その後の地球人の財産は
誰が継承し受け継ぐのでしょうか?
そこに無がないというのであれば。
by ミー (2010-02-23 12:45) 

ヒコ

梅谷様
コメントありがとうございます。

ミー様
 ご指摘はごもっともです。私の使う「野蛮」という言葉には、そのような、ご指摘の面はありますし、それを隠す気がないと言えます。
 ただ、言っていますのは、一神教だけではなくて、書き文字の出現した識字革命を言っているので、仏教や中国の諸子百家から、ギリシア哲学までも含んでいます。
 根底にあるのは文明対野蛮の問題です。この場合の野蛮というのは、書き文字を持たない無文字社会のことです。
 こういう無文字社会を否定して、差別した構造をつくったのがゾロアスター教でして、ゾロアスター教が2元論を作ったと言われます。
 私自身は、実は無文字文化に興味があって、高野 雅夫さんから、いろいろな事をお聞きする事もしています。本も買っています。高野先生が、非識字者、つまり差別用語で言うと文盲ですが、そういう状態にあった時には、泣かなかったと言います。文字を学んでから、初めて涙が出たというのです。
 もうひとつ非識字の女性の有名な証言に、書き文字を知らない時には、夕焼けをきれいだと思わなかったと言います。

 つまり識字革命というのは、実は何であったのかも、学問的にはまだ分かっていない、深い問題があるのです。その中で1960年代半ばくらいから、野蛮の再評価が、哲学的にはレヴィ=ストロースの1949年以降の『親族の基本構造』『悲しき熱帯』『野生の思考』などの著作によって、出現して来ます。これは同時の構造主義の出現でした。私自身は、この時期が学生時代でして、大きな影響を受けています。私自身の『アートの格付け』とか芸術分析は、基本的には構造主義の系譜です。ラカンも構造主義者ですし、同じく影響を受けているフーコーも構造主義です。
 しかし野蛮な文化を評価するのは美術の方が早くて、ピカソのキュビズムの美術は、この本格的な取り組みでした。「アビニヨンの娘たち」が完成するのが1907年ですから、レヴィ=ストロースよりも半世紀近く美術は早かったのです。
 こうした野蛮なものを評価する動きは、100年間も継続して格出して、一般化して来ていて、そこいら中に勉強もできない野蛮だけの人びとがあふれている状態なのです。
 私の野蛮の否定は、こうした現状を踏まえて、あえて言っているのです。
 識字の問題は、実はコンピューター・リテラシーの問題となって、今日進められてい識字革命は、過酷を極めていて、野蛮万歳という戯言を言っておられる次元では無いのです。

 地球が無くなろうと、人類が滅びようとも、さらには宇宙が滅んでしまっても、無は出現しません。

 問題なのは、多くの人が、野蛮と同様ですが、《無》というものを、よくに知りもしなめれば勉強もしないで、迷信として信じている事です。そういう迷信の強さに溺れている精神が問題なのです。
 
 《無》という概念の発生そのものを、丁寧にたどってみる事です。今のように、馬鹿のように当たり前には存在していなかったのです。何故でしょうか?

 今の時代が異常であると言う事です。この異常な状態の常識や、迷信を基盤にして思考しても、多くの人の共感は得られるでしょうが、それは虚偽なのです。

 《無》があってもなくても、本当はどちらでも良いのですが、多数の人間が、勉強も疑いも無く信じる事としての「無」は、虚偽なのです。本当に真実であるとするのならば、「無」の歴史を、しっかりと追いかけて学んでみる事です。すくなくとも、今のような自明さ、つまり当たり前さとしては、存在していなかったのです。

 人間が確実だと思う事の多くは、迷信なのです。
by ヒコ (2010-02-23 13:50) 

梅谷です

彦坂さんの今日のブログを拝見して
「知識」が、人にとって何をもたらすのかと考えました。
社会においては、知識を有効に活かせる人や企業が価値を生み出せるということとされています。
これは、状況的な知ということです。知恵というべきものです。ある具体的な時と場所において、特定の人が経験したことがらに由来する知識。活動と経験という一種の「出会い」を通じて、人は刻々と「知識」を得それを、上手に活かすことができている場合に、環境は好循環に向かい、人も組織もともに成長します。

まさに地球上の生命の進化そのものです。

また学問によって得られる知識があります。彦坂さんは生涯をかけて
学究的に物事を探求したいという この学習による知性の重要さを説いていらっしゃいます。ヒトにとっては、それは大切な姿勢だと思います。

ただ、知恵の歴史は、ヒトの誕生するさるか前の古細菌と真正細菌の出現したときからですが、知識の歴史のスタートは、ヒト道具、ヒト武器から物道具、物武器に変わった人類の石器時代からではないでしょうか。歴史がないからということではなく、宇宙に存在しているのは、ヒトだけではないので、知識がもたらすものは、しっかりした「根」のある人間の育成で会って欲しいと私は考えます。
知識はヒトを切るものであっていいはずがないのですから。 頭で考えながら、さらに、もっと、深く、状況の中に根を張って、そこから養分を吸い上げるようでなくてはならないものだと考えたいです。

すみません 署名する前に送信していました。

by 梅谷です (2010-02-23 13:58) 

ヒコ

梅谷様
コメントありがとうございます。
生物学的には、地球上に5回にわたる大絶滅があったと言われています。
今の日本は、100年に一度の世界恐慌の中で、4月頃に2番底がやってくるという危険状態に入っています。
財政破綻が目の前にあるので、財政出動もできません。
人間の殺戮以前に、こうした崩壊というか、大絶滅の時代というものの中での、暴力というのは、暴力の根源に迫るものです。
ある意味で、明確に物事が見える時期です。
自然淘汰という、自然界の根底に作動する暴力装置の出現は、適者生存と言う過酷さと、同時に果敢な脱領土化の運動を生み出します。
苦しいときだからこそ、果敢にイノベーションを計って行く人と、保守性の中に引きこもって行く人びと、そして倒産し破綻し意欲を失い、死んで行く人びと。
ドラマは、待った無しで進行して行くのです。
言論や認識の適中性は、今こそ、試されるのです。
芸術やアートも、こういう時期にこそ、裸形の意味を試されるのです。成功しようと失敗しようと、わくわくする面白い時代です。
by ヒコ (2010-02-23 15:10) 

ミー

ありがとうございす。

勝手なリクエストですが
ファッションについての分析が増えると
嬉しく思います。

アレキサンダー・マックィーンも
自ら命を絶ってしまったようで残念です。
母親の死と共に創作者としての創造力の枯渇が
あったのかもしれません。

by ミー (2010-02-23 18:41) 

真理子

彦坂様
こんばんは、真理子です。
ルーカス君を亡くした深い悲しみの中で、私のような見ず知らずの者の相手をしてくださっていたのかと思うと、本当に申し訳なく思います。遅ればせながら、謹んでお悔やみ申し上げます。

今回の記事も大変興味深く拝読させていただきました。
残念ながら頭がついていかず、まだ半分程度しか理解できていないのですが、とても勉強になりました。
私は彦坂様やコメントを書かれている他の方の様に博学ではないので、コメントも幼稚なことしか書けませんが、これからも彦坂様のブログにて勉強させていただき、また、質問させていただくかと思いますが、よろしくお願いいたします。
by 真理子 (2010-02-23 23:38) 

川上直哉

川上です。

彦坂様、節分への誠実で真摯な応答をいただきましたこと、
心から感激しております。ありがとうございました。

ラファエロへの評価が「迷信」である、という一言。
その一言を頂けたことが、実に、決定的だった気がいたします。
胸のつかえがとれたような、爽快な思いに至りました。

さらに、ラファエロ前派が「近代絵画に対する反動」であったこと、
これも、本当にありがたいご指摘でした。
私の研究対象は、中世に憧れる19世紀の神学者でした。
その神学者がラファエロ前派に共鳴したことの意味が、
すっきり、説明付けられます。
研究上の大きな前進となります。
本当に、ありがとうございました。

頂いた応答の中に、分からないことがありました。
せっかくの機会ですから、
そのことを、質問させてください。

私は、キリスト教の神学者です。
神学者は、物事を三位一体論的に考える癖をもちます。
「三位一体論的」というのは、
「多」と「一」が矛盾しつつ統合される動的視点です。

三位一体論的な視点からすると、
「3界の分離」という理解の困難さと重要さのご指摘は、
極めて大切で適切だと思われました。
その理解こそ、「迷信」と戦う足がかりになる。
本当に、そう思います。

ただ、気になるのは、
「分離」と同時に、「統合」についても、
考えられなければならないのではないか、
ということです。

つまり、「サントーム」の問題です。

私は、ラカンについては門外漢です。
内田樹さんと斎藤環さんのお仕事から、
長年、その魅力に引き寄せられつつあったのですが、
まだ、「敬して遠ざけて」いる状態です。
ですから、間違えているかもしれません。

私の理解では、サントームとは、
「3界」を「人為(art=als)で統合する第4界」です。
そう思うと、彦坂様の「格付け」も、理解できるような、
そんな気がしているからです。

私の質問は、
「3界」と「第四界であるサントーム」のつなぎ目は何か?
ということです。

この質問は、彦坂様の「ナウシカ」批判によって引き起こされたものです。

漫画版「ナウシカ」は、確かに、破綻した物語です。
でも、それは、その破綻の中に、重要な価値をもっている。
私はそう思っています。
なぜなら、その破綻においてこそ、
《想像界》の限界性が(期せずして)体現され、
その「先」への欲望を、読者に強烈に与えるものとなっている、
そう思うからです。
その意味で(のみ)、
漫画「ナウシカ」は、高く評価されると思っています。

この、「ナウシカ」をめぐる評価の違いに、
彦坂様の理論への疑問が、生じました。

漫画「ナウシカ」は、
確かに「先送り」でお茶を濁しているのですが、
しかしその「先」は、
《現実界》《象徴界》となっているのではないか?

《想像界》に終始する漫画という枠組の中で、
《他の次元の不在》を露骨に示すこと。
そのようにして、
却って、《他の次元への渇望》を
呼び起こすことができるのではないか?
そして、その渇望の中にこそ、
《他の次元》は生起してくるのではないか?

一つの次元に閉じ込められることで、
その次元の底にある破れを示し、
そのようにして、読者の内部に《サントーム》を萌させる、
それも、芸術の価値ではないだろうか。

ここで「芸術」と言っていますのは、
もちろん、近代以来のfine artに限定されません。
宗教や政治や科学を含む、「人為」全てを意識しています。
artはもともと、alsと表記された昔、
そのようなもの、だったのですから。

たとえば科学について。

ほんとうに科学を突き詰めるなら、
人は「無」の問題と向き合わなくてはならなくなる。
そして、「その先」を、科学の外に、求めなければならなくなる。
でも、それは自己否定をしなければ、進めない。
そのギリギリの場所で、破綻を体現してみせること、
たとえば、近年のドーキンスの仕事は、
そういう意味で、尊敬に値するものだと思っています。
また、逆に、そうした自己否定に恐怖を覚えて立ちすくむ、
そんな似非専門家が、「迷信」を広めて自己を守る。
そこに、「自己愛性人格障害」的状況が生じているのだと、
本当に、そう思います。

1950年代に似て、新しい体制が出来上がろうとしている今、
彦坂様がご指摘になっている通り、
大崩壊が始まろうとしているのだと思います。
そして、その中で、ニヒリズムが、
やはり1950年代と同様、これから、大問題になるのではないか。
(その時、「情報」という言葉が、キーワードになりそうです。
 その意味で、西垣通さんの書籍のご紹介は、有難いことでした。)

虚無主義と、どう向き合うか。
それを否定する強い言説を彦坂様から頂き、
それに感銘を受けつつ、考えています。
虚無主義を「取り込む」ことは、できないのだろうか。

聖書でも、「無」が語られることがあります。
それは、パウロが言っているのですが、
「被造物は虚無に服した、それは、新しい命への待望として・・・」
という思想です(ローマ書に出てきます)。
「無」というものは、実は、「サントーム」的な、
人為(art=als)としてのみ、意味をもつ。
そのようにしたとき、「無」は、
究極の人為として、非常に重要なものとなる
・・・とは、言えないでしょうか。

また、長文になってしまいました。
ブログへのコメントとしては、不適切だと、恐縮しています。
今回のコメントの第一の目的は、
彦坂様の美術論のご披瀝への感謝でした。
それは、私の研究の停滞を打ち破るものだったからです。
本当に、ありがとうございました。

いつか、立教(私の母校!)での読書会に、
参加させていただきたく、願っています。
その願いがかなうことを夢見ながら、
長文をものしてしまいました。

失礼しました。
by 川上直哉 (2010-02-24 06:58) 

ヒコ

ミー様
コメントありがとうございます。
アレキサンダー・マックィーンのファッションもプラズマ化しているので、取り上げたいものですね。最近は余裕が無くて、なんとかやりたいものです。

by ヒコ (2010-02-27 02:10) 

ヒコ

真理子様
コメントありがとうございます。
最近山田さんのご不幸からはじまって、3つ続いたので、さすがに、何と言うか、思い出す事が多くて、自分自身の生活もかわります。


by ヒコ (2010-02-27 02:13) 

ヒコ

川上様

別のブログで、簡単にですがお答えします。
by ヒコ (2010-02-27 02:16) 

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