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文明様態選択の自由(加筆2) [状況と歴史]

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コメントをいただいている 川上直哉さんへのお返事です。
長いので省略して、
中央部分だけにお返事します。
後半ば、別の機会に書ければと思います。

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しかし、三位一体論は、もちろん、
西欧に農業革命が起こる前から、存在しました。
それは、「唯一神」を「父・子」に分ける理論から始まり、
「聖霊」の理論によって、無限に分化することに至ります。
その背景には、古代ローマの「古代的資本主義」というべきものがある。
それは決して中世西欧的「農業社会」を背景に作られたものではない。
この点は、重要かと思われます。

上記の論理は、私の組するところではありません。

古代ローマの「古代的資本主義」というのは、すでに農業革命後の
事象です。

彦坂尚嘉の理論的枠組みは、《全人類史》というものですので、
人類が農業を始めて以降に、世界宗教と言われるものが始まるので
あって、それは西欧と古代ローマを区分しては考えないのです。

川上さんは、古い西欧中心主義に捕われています。
一度その枠組みを外して、《全人類史》でお考えになってみる
ことも、お薦めします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「農業社会」的トマスの「三位一体論」以外のうち、
現代において私が有効であると思われるのは、
「関係の類比」と呼ばれるものです。
それは、無限分化する全体が、
関係性において一体性を保つという理解です。
その概念は、「農業社会」においては異端視されるものです。
しかし、近代以降、K・バルト以降の現代に至るまで、
「関係の類比」としての三位一体論は、
世界を説明する原理として、有効性を有していると思われます。

カール・バルトの理論枠が古いとすれば、
それは「言における神の啓示」という正論をいっていることです。

《近代》というのは、実は数式によって言葉そのものの否定によって
物理自然科学が成立したからです。
数式を基礎とするリテラシーによって単純系自然物理学が成立して、
同時に言語が否定されたが故に「神の《死》」が出現して、
ニーチェの言ったニヒリズムの時代になったのです。

カール・バルトによる「言における神の啓示」によっては、
言語を否定して数式で成立する単純系物理科学を超える事は出来ない
のであり、ニヒリズムも超える事は出来ないのです。

実際にカール・バルトは、1968年に亡くなっているので、
1975年にアメリカがベトナム戦争に敗れて以降の、
《近代》の崩壊の出現を、彼は見ていないのです。

つまり私たちが今、議論している現代という状況は、
1975/1991年という《近代》の崩壊以降の爆発的な状況なのです。
この爆発的な状況は、数式による単純系自然物理科学の限界化を超えた、
複雑系情報理論によって生み出されたと言えます。

複雑系情報科学が、単純系自然物理科学とニヒリズムを否定して、
超えたのです。
複雑系情報科学のリテラシーを基盤として、
ニヒリズムを超えたサントーム/マネージメントの時代になったの
が、現在のプラズマ化したグローバリゼーション/新ローカリゼーションの
時代なのです。
繰り替えますが、ここではニヒリズムと、近代個人主義は乗り越え
られているのです。

哲学者でいえば、たとえば少なくともボードリヤールの
『透きとおった悪』(1990年)が素描したような状況です。

いわゆるポストモダン状況ですが、
これは今日ではボードリヤールの素描した状況は、さらに進化して
いるのです。
実際ボードリヤールは2007年に死んでしまっています。

ご指摘の「関係の類比」というのは、
情報科学が、ビットという概念で組み立てられている事の内に
組み込まれています。
ビットというのは、差異の最小限化という考えです。

この情報理論の内に「関係の類比」という構造が組み込まれてしまった
という事態は、これだけで起きたではありません。

《近代》においては重要であった「抽象」という概念の有る一面は、
情報化社会でのレイヤーとか、過防備都市(セキュリティ)等々に
組み込まれてしまって、まったく違う様相になっています。

つまり《近代》にあった重要な概念や価値枠は、
情報化社会では、部分化してしまって、違う次元に組みこまれた
のです。

それと同時に、《近代》にあった重要な関係構造が解体されて
きています。

ベルトコンベアー型生産のラインとか、終身雇用制、年功序列、
デパート、新聞社、 マスコミュニケーション。定価。
地震予知、天気予報の中期予報、
核家族、近代個人主義、国民皆兵、官僚、ジェンダ、学校、
純文学/大衆文学の区分、
純粋芸術、純粋主義、前衛美術、抽象美術、平面絵画、立体作品、
画廊/画商、評論家/批評、
本、レコード、2D映画、

産業革命が成立して、教会が支配する時代が終わって、
科学の時代になっても、バチカンが崩壊しなかったように、
情報革命が成立して、多くの《近代》の産物が終わっても、
《近代》は残って続くのは確かです。

新聞社にしても、大手のいくつかは倒産するでしょうが、
それでもいくつかは生き残って、小さくなって継続します。
それはそうなのですが、
しかし確実に、時代は変わって、《近代》は古く小さくなるのです。

それは神学が古くなったように、哲学も古くなるのです。
モダンペインティングが古くなり、近代小説は古くなるのです。

恐竜の時代が終わっても、は虫類は小型化して、
トカゲは今も生き残っているように、
宗教も小型化して生き残るし、
哲学も小型化します。
近代小説も小型化するのです。
吉本ばななは、トカゲなのです。

近代芸術も小型化して生き残るのです。
奈良美智が示しているのは、そうした近代絵画のトカゲ化なのです。

松井みどりが示した「マイクロ・ポップ」というのは、
現代美術の小型化であり、トカゲ化なのです。

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《全人類史》で、考えると、区分は単純化します。
時代によって、その時代を支配している知的構造が変化するのです。

自然採取時代・・・・・呪術魔術   占い/まじない
農業化社会・・・・・・世界宗教 神学/ギリシア・インド・中国思想
産業化社会・・・・・・物理科学 科学思想/近代哲学
情報化社会・・・・・・情報科学 マネージメント/サントーム

この変化の比喩の根底にあるのは、
水(H2O)の比喩で、温度が上がると様態が変化するという
かたちでの説明です。

時代によって、文明の様態が固体→液体→気体→プラズマ
と変化すると、それに伴って、知的構造も変化するのです。


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自然採取時代
絶対零度で、空気まで凍り付いていて、動きません。
アボリジニは、5万年同じ生活をしていたと
言われますが、歴史がほとんど流れないのです。
         
呪術魔術が支配し、占い/まじないが、知的な構造
なのです。この世界が《想像界》なのです。
《想像界》というのは、魔術や呪術が支配し、
偶像崇拝が行われている知的世界です。
これは現在も現在も継続しているのです。

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農業化社会/文明
農業をするようになると、社会の温度はあがって、
氷は氷河となって、ゆるやかに動き始めます。
歴史が流れ始めるのです。氷河の跡は明確で、
この時代は歴史は理解しやすいものなのです。
ゾロスター教、ユダヤ教、キリスト教などの
世界宗教 神学/ギリシア・インド・中国思想
が、登場します。
私見では、この時代の古典文化こそがシーニュで
あり、基本なのです。その後の《近代》や、《現代》は、これらの
脱構築にすぎません。農業化社会の古典文化の拡散化としてしか、
今日の文化は生産され得ないという、極端な考えを私は持っています。

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産業化時代

産業革命で、温度が上がって、氷河は融けて水という
液体になり、川になって歴史は速度を上げて流れ始めます。時代は
急速に変わったように見えますが、しかし現実には20世紀初頭で、
革命的な変化は終わってしまって、以後は世界大戦があっても、同じ
川としての流れが続きます。
この産業革命化の社会という《近代》は、実は2つあって、
ひとつが自由主義経済の《近代》であり、
もうひとつは社会主義のソヴィエト型の計画経済による産業革命の
《近代》であったのです。
この2つの《近代》があるという冷戦構造的な2分化構造が、
《近代》の構造でした。
この2つの《近代》が激突して戦争をしたのがベトナム戦争であったの
です。ここで1975年にアメリカがベトナムに敗れる事で、
ひとつの近代が終わります。
そして1991年、ソヴィエト官僚社会が情報革命ができずに崩壊すると
《近代》は本格的に終焉したのです。
この《近代》の終焉前に、液体の水は沸騰して水蒸気に様態を
変えます。
この様態変化の沸騰の時期が、1960年代の後半と、
1980年代の後半の時代です。
ここで水は沸騰して水蒸気に様態を変え、さらに温度は上がって、
プラズマ状態になるのです。
【続きは下記をクリックして下さい】

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情報化社会/現在
        
情報化社会というのは、
温度が上がって、水(H2O)は気体分子化し、
さらに温度が上昇してプラズマ化しているというのが今日の様態なの
です。
私はH2Oという比喩で、氷という固体状態から、水という液体、さらに
水蒸気という気体に、人間の文明の様態が変化してきていると
指摘して来ましたが、情報化社会では、
H2Oは、電離して、分子は解体し、電子化しているのです。

通常の気体を構成する中性分子が電離し、
正の電荷をもつイオンと負の電荷をもつ電子とに別れて自由に飛び
回っているという状態ですので、つまり本来の結合は分離されているのです。

「三位一体」というような結合は、この温度の上昇によるプラズマ化
の中で、電離して解体して、バラバラになって、自由に飛び回って
いるのです。
しかし全体として電気的に中性な物質であるのですという意味では、
「三位一体」は、電気的中性性としては成立しているのです。

このプラズマ化というの物質の第四態といわれています。
プラズマ化というのは、炎の状態です。


ですから、こういう変化の中では、神学的な立場は古くなって
いるのです。同様の事は、画家という立場にも言えて、
画家は古い骨董的な職業になっているのです。



ただ、古い意味での哲学や神学は、今日でも存在し続けて、
意味を生産はしています。そのことを私は認めます。
カソリック神学からの現代美術論もあって、私も読んでいます。
いま本が見つからなくて題名が出て来ませんが、良いものです。
見つけました。
ロークマーカー著『現代美術と文化の死滅』(すぐ書房 1979年)
ふるくはゼードルマイヤーの『中心の喪失』という名著がありました。

しかし私見では、文明の高度化は、様態をさらに変化させているので
あって、今日の情報文明をコントロールしている理論の場は、
従来の哲学ですらないところに移ってしまっていて、
カール・バルトも、今日の事態を把握していたとは
言いがたいように思われます。


(中沢新一さんの最近の議論は、その一形態です。
ただし、そこには、最深奥部に致命的な欠陥があるのが残念ですが。)

以上、第一の事柄として、
「三位一体論の崩壊」というご指摘に、反論いたしました。

私自身は、中沢新一の評価は低くて無視するだけですが、
私の言っている理論的な枠組みは、
人類の文明の様態変化なのです。

つまり

自然採取時代・・・・・・絶対零度の氷の様態で不動
農業化社会・・・・・・・氷河のように流れる氷状態
産業化社会・・・・・・・氷が溶けて水になって川のように
            流れる状態。
情報化社会・・・・・・・水が蒸発して気体分子状態になり、
            さらにプラズマ化した状態。

古典的な「三位一体論」というのは、あくまでも農業化社会での、
氷のような社会/人間関係の中で組み立てられています。

産業革命が波及して、文明の様態が、氷が溶けて水のような流体に
なると、人間関係では大家族が解体されて、
核家族という形態に分解されます。
ここで「三位一体論」は、核家族の父と母と子共という形態に
実体化したとも考えられます。

情報化社会になると、核家族も解体し、独り住まいが増えて行きます。
こういう中で、すでに述べたように、
「関係の類比」というような構造は、情報科学のビットという単位の
中に組み込まれ、そういう形で、解体されているのです。

神学をなさっているというお立場は尊重いたしますが、
そのスタンスに立つと、なかなか現状を把握するのがむずかしくなる
と思います。
同様の事は私にも言えて、画家という立場に固執すれば、現状把握は、
出来なくなるのです。
ですからブロガーという立場の方が、まだましだと考えています。

締め切りの仕事がなかなか終わらなくて、
遅れ込んでいるので、あまり整理して書けませんでした。

川上さんに、私の言っている文明の様態変化にともなう、
知の構造変化ということを、分かっていただけないとは思いますが、
今日の社会関係、分かりやすいところでは人間関係が、
全部ではないですが、かなりのところが気体化し、さらにプラズマ化
して来ているのです。
正確には絶対零度、固体、液体、気体、プラズマの5様態が、
現在の社会の中では混在しています。
この混在をマトリックスの図で説明は出来るのですが、
それは別の機会に譲ります。

つまり「三位一体」が解体されているのは、
全体的な状況ではなくて、固体性の残っているグループの中では、
むかし通りに生きているのです。
それは事実だと思います。

今日の一人の人間は、各自の欲望にしたがって、自由に、自分の
生きるべき文明様態を選択する事が、かなりの量できるのだと
思います。

《文明様態選択の自由》というのが、可能な時代になったのです。

絶対零度の野蛮である原始時代を正しいとする価値観を
生きたり、そういうホームレスの生活をする人びともいます。

氷河時代と言える封建社会の固定的な秩序と、
そこでの君主的絶対者と信奉する人びともいるのです。
たとえば新興宗教の多くは固体の人びとの集団が多いのです。

川の流れるような水の液体世界に、価値を見続ける近代主義者も、
今もたくさんいるのです。

そしてプラズマ化した現在に可能性を見る人びともいます。

どの様態を取って生きるかは、各自の自由になったのです。


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行き違い

kバルトとロラン・バルトは別人ではないでしょうか?
by 行き違い (2010-03-12 10:05) 

通りすがり

カールバルトは、神学者では?
by 通りすがり (2010-03-12 10:15) 

川上直哉

川上直哉です。
極めて興味深く、刺激に富む応答をいただきました。
しかも、まだ先を書いてくださるとのこと。
深く驚きつつ、敬服し、考えさせられています。

「西欧中心主義」のご指摘は、ごもっともと存じます。
それは、キリスト教神学の宿痾でしょう。
キリスト教徒は、この病と付き合って生きる存在です。
そのことを、改めて思いました。

K・バルト論。
興味深く拝読しました。
私は、英国の神学を専門とし、
バルトと距離をとっている神学者です。
バルトは、カルヴァンの系譜に従い、
「言葉」への忠誠に殉じた神学者です。
その忠誠心は、私には疎遠なものです。
そんな私にとって、彦坂様のご指摘は、腑に落ちます。
ただ、彼は、
「言葉」の限界の先に「言葉」で捕捉できないものを憧れていた、
その憧れに、私は、共感し、共鳴するものです。

この憧憬については、おそらく、
いつかまたご高見をご披露いただくことも、あろうかと存じます。
その時を、待望いたします。

神学が、足かせとなっていること。
そのことを、ご指摘くださいました。
それは、重要なご指摘だと思いました。

私は、「礼拝」を総合芸術と捉える見方に従い、
実践的な展開を理論的に構築したいと考え、
このブログに行きあたって学んでいます。
「礼拝=総合芸術」という見立ては、
今道友信先生から、R・グァルディーニの神学として、
ご教授いただいたものでした。
グァルディーニは、礼拝の演劇性を強調し、
映画に、新しい芸術の可能性を見出して、
1950年代、礼拝の映画的変革を模索したのだそうです。

今、それでは、礼拝はどのような可能性を秘めているのか。
それが、私の学びのメイン・モチーフです。

おっしゃる通り、時代は変革期にある。
それが、プラズマであるというご高見に、
まだ、私の理解はついていっていませんが、
しかし、直感的に、「様態変化」という見立てには、
正しさが感じられます。
私は、私の直感を信じています。

私は、自分を、
「神学者」「宗教家」「信仰者」として、世間に張り出しています。
それは、ちょうど、
「象徴界」「想像界」「現実界」の三様に、重なるかもしれません。
神学は、自分を校正する一面にすぎない。
それは、「現状」を、後追いで、古い枠組みをもって、
「理解」の枷につなぐ行為だと、自覚しています。
それでも、それは、世界を捕まえる一つの手がかりだと思います。
それは、批判を受け、否定されることを通して、
破れの中に、「現実」を瞬き見る(気にさせる)、
その「瞬き見た」体験(という妄想)の共有が、
永遠に捉えきれない「現実」を、無限に追及させる。
「神学」の営みは、そのような、便利なものだと思います。

彦坂様が、私の拙文にお付き合いくださり、
議論によって、「神学」に否定の契機を下さること、
感謝して拝読しています。
お時間の無い中、勝手を申し上げますが、
続きを、期待して、お待ちしております。

以上、感謝のコメントを申し上げました。
by 川上直哉 (2010-03-12 16:59) 

川上直哉

川上です。追記です。

《文明様態選択の自由》という言葉に、
応答しなければならなかったのを、
書きもらしました。

私は、神学を、「creatioの神学」として構築しています。
それは、無意味で混乱している中に、
意味と秩序を創造するための神学です。

「意味」「秩序」は、絶対的に正しいものではありません。
それが、しばしば、人を束縛し、自由を乳母ものもであることは、
言うまでもないことです。
しかし、人はそれでも、「意味」と「秩序」を必要とする。

まずそのことを大前提に、
無意味と混乱の中に、かりそめの意味と秩序を与えること。
それによって、人が自分の生を生きる足がかりを得ること。
それが、私の学問も目標です。

《文明様態選択の自由》の中に、私たちは今、生きていること。
そのことに、完全に、同意します。
(まだ、「プラズマ」だけ、よくわからないのですが。)
そして、それは、
各自が、自分の生きる世界を相対化しなければならないということ。
そのことの困難を、思うのです。

私の周りには、
呪術の中に生きる人も、
宗教の中に生きる人も、
近代の中に生きる人も、
たしかに、います。
キリスト教というのは、
少なくともこの三つの側面を呑み込んでいるからです。
教会という制度・組織は、
そうした雑多な人々の魂の世話をするためにある。
「宗教家」としての私は、魂の世話係です。

人は、皆、自分の生だけしか、生きられません。
しかし、その自分の生が、one of themであるということ、
そのこと自体が、不合理で苦しいことです。
その苦しさと向き合うとき、人のいのちは輝く、のですが、
しかし、そのためには、まず踏み台がいる。
跳躍の前の屈伸が、必要です。
「宗教家」の仕事は、その踏み台を用意し、屈伸に付き合うことにある。
かりそめの、破られるための意味と秩序を用意し、
それを踏み越えて、その先へと進む捨て石になること。
それが、私の目指すところです。

ですから、「プラズマ」という世界観の可能性は、
私の眼には、輝いて見えます。
それが、解答であるという誇大な期待ではありません。
そうではなくて、
新しい時代の新しい「魂の世話」のための、手がかりが、
そこにあるのだと、そう思うからです。

バルト神学が、
虚無主義に勝てないものであることのご指摘は、
正しいと思います。
バルト自身も、そう認めて笑っていたそうです。
バルトの神学そのものは、ヘーゲル哲学の神学版です。
「近代」の枠組みは、おそらく、ヘーゲルから逃れられない。
バルトの価値は、その「神学」にはないのです。
私は、その価値を「憧憬」に見ています。

ボードリヤールは、ヘーゲルから踏み出す一歩を示しました。
しかし、まだ、足りません。
今道友信という人は、もう半世紀前から、
ヘーゲルの超克に乗り出しています。
そして、ここに、「プラズマ」の世界観がある。
その可能性を、わくわくしながら、学んでいる次第です。

以上、追記でした。
by 川上直哉 (2010-03-13 06:20) 

ヒコ

川上様
2つのコメントありがとうございます。
またお返事はブログで書かせてもらいます。
by ヒコ (2010-03-13 10:27) 

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