いよいよ2010年です。
1991年がソヴィエトが崩壊して、冷戦時代が終わります。
日本では、昨年2009年自民党政権が終わって、ようやく55年体制=冷戦時代
が終わったのです。世界の情勢に18年も遅れたのです。
日本は混乱期であり、漂流状態で、雇用情勢は悪いかもしれません。
こういう雇用状態の悪化が、美術そのものの基盤を変動させていきます。
従来のようには、たとえば銀座の貸し画廊を借りて作品を発表するというような
ことが、今の若い人には、経済的にできなくなってきているのです。
つまり日本の貸し画廊や、現代美術というものは、
戦後の高度成長経済という基盤の上で展開していていたのです。
豊かであったから、売れもしない美術作品がつくれたのです。
1970年代の、作品を売る事も考えないインスタレーション中心の
美術の展開は、高度成長経済があって成立していたのです。
現在のように日本経済が3流国、4流国、5流国、6流国へと
急降下していく時代には、日本の現代アートは大きく変貌するのです。
6流国では、少なくとも今までのようにはやれないという事です。
高額の画廊代金を払えない若いアーティストは、
一方では作家を止めるでしょう。
止められるアーティストは、アーティストを止めた方が良いのです。
それでも芸術を選択する真性のアーティストだけが、
残れば良いのです。
私のお世話になった画廊も2つ閉じました。
ギャラリー手が、昨年半ばに閉鎖されました。
先日、貸し画廊の老舗の村松画廊が閉廊しました。
貸し画廊の多くは、は閉鎖し、廃業していくでしょう。
すでに出現していますが、貸しスペースの画廊の時代に移行するでしょう。
もう一方では、新しい仕組みをつくって、変貌する事で、
生き残っていく貸し画廊もあるでしょう。
貸し画廊が、いかにして変身して新しい時代に対応するのか?
日本が6流国になるにしても、新しい時代が始まったのです。
この混乱期が2010年からの、とりあえず5年間です。
5年間を乗り切れば、次の2010年代の後半があります。
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大変に厳しい時代だとは思いますが、
悪い時代の方が、すぐれた作品が作られてきているというのが、
歴史の教えるところです。
1960年代や、1980年代、
2000年代という経済状態の良い時代の美術作品は、
あとから振り返ると、虚名ばかりです。
ここで1960年代論をするつもりもないのですが、
普通に信じられているようには、
芸術的に豊かな時代ではなかったのです。
実質である《真性の芸術》、あるいは《原芸術》が無いか。
弱かったのです。
例えば、作品の善し悪しと言う面だけで見ると、
アンディ・ウォーホルは、《芸術》的にすぐれていた
わけではないのです。
彦坂尚嘉責任によるアンディ・ウォーホルの芸術分析
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の美術
気体美術
《シリアス・アート》
《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
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《原芸術》は無い。
《芸術》、《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》がある。
《無芸術》という官能性のある芸術なので、
アンディ・ウォーホルを、多くの人は好きなのです。
多くの人は、《無芸術》や《非芸術》を求めているのです。
さらには《世間体のアート》を求めているのです。
こうした欲望は、無視し得ない力を持っています。
ジェフ・クーンズも村上隆、ダミアン・ハーストにも
《原芸術》はありません。
それはルノワールに似ているのです。
ルノワールには《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体アート》
はあるのですが、《原芸術》はないのです。
同じ事が、ジェフ・クーンズ、村上隆、ダミアン・ハーストに言えるのです。
つまり彼らは現代のルノワールであったのです。
そのうちにTAKASI MURAKAMI という喫茶店ができるのではないでしょうか。
喫茶店としてのルノワールは、私は好きなのです。
未来は、喫茶店TAKASI MURAKAMIでコーヒーを飲むことになるのかもしれません。
ルノワールを超えた芸術作品を作る事は、ですから可能なのです。
《原芸術》を入れれば良いのです。
つまり村上隆を超えた現代アートは、十分に可能なのです。
それは同時に、
真性の芸術というのは、《原芸術》を持っているものです。
マティスがすごかったのは、《原芸術》をもつ作品を作っていたからです。
同様の事がピカソに言えます。
2010年代は、良い現代アートが出てきます。
状況的には地味で、ジャーナリスティックにも受けないかもしれませんが、
《真性の芸術》作品が生まれてくるのです。そういう意味で、悪い時代だからこそ、
本当に芸術/アートをやる作家だけが頑張る時代なのです。
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リーマン・ショックが起きたのが2008年9月、
負債総額64超円という史上最大の倒産に至ります。
これがきっかけになって世界金融危機が起きたのです。
日本の株価も7000円台まで暴落したのです。
今日までつづく経済不況というのは、何であったのでしょうか?
基本的には《近代》の終焉という歴史的事態なのです。
実際には複雑ですが、単純化して言えば《近代》というのは、産業革命であります。
そして《近代》には、2つの《近代》が有り、
一つはアメリカの自由主義経済であり、
もう一つがソヴィエトの社会主義経済体制だったのです。
ソヴィエトは産業革命としては、うまく行っていたのです。
しかし情報革命ができなかった。
だからソヴィエトは崩壊したのです。
つまり冷戦構造というのは、《近代》特有の構造でありました。
自民党政権というのが、55年体制であり、55年体制は冷戦構造であり、
つまり自民党が日本の《近代》であったと、単純化できるのです。
《近代》の終焉は、したがって2つあったのです。
ひとつは1975年のアメリカのベトナム戦争での敗北です。
もう一つが1991年のソヴィエトの崩壊です。
1991年は同時にWWWが出現して、誰でもインタネットが使える時代になります。
インタネット・バブルが2000年まで続き、2001年にはじけます。
2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が起きます。
この事態で金融を緩めて、サブプライムローン・バブルが始まったのです。
そして2008年9月のリーマン・ショックに至ったのです。
こういう根拠無き熱狂という事態の根底にあったのは、
ソヴィエトの崩壊を、冷戦におけるアメリカの一人勝ちと、
誤って認識したところにあります。
アメリカはすでに1975年に、ソヴィエトよりも一足先に敗北していたのです。
ですからソヴィエトの崩壊は、冷戦構造=近代の完全終焉であって、
アメリカの一人勝ちでは無かったのです。
それなのに、一人勝ちしたと誤認したところに、
この20年間にわたるアメリカのバブルがあったのです。
このアメリカの根拠無き熱狂によるバブルで、
世界の美術は、実は展開したのです。
それが1991年、ソヴィエトの崩壊と一緒に出現した村上隆であったのです。
この1991年に椹木 野衣が、最初の評論集『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』(洋泉社)を刊行したのです。
つまり村上隆と椹木 野衣は、同じ年に出現したのであり、それはソヴィエトの崩壊と重なっていただけでなくて、アメリカの根拠無き熱狂のバブルの時代の20年と重なっていたのです。
2010年代は、この村上隆/椹木 野衣の時代が衰弱し、終演する時代なのです。
このアメリカのバブルによる過剰消費が世界の経済を牽引していたのです。
日本の新幹線の乗客まで増大したのです。
それは同時に1990年代2000年代の美術を買い支えた基本潮流だったのです。
精神科医の高橋龍太郎氏のネオトミージャパンも、
こうしたアメリカの過剰消費の産物であったのです。
そこにあるのは《非芸術》《無芸術》《世間体アート》であって、
通俗芸術に過ぎません。
《原芸術》《芸術》《反芸術》という芸術の上部構造を欠いているものが、
大半なのです。
すくなくともモダンアートを成立させた純粋芸術性や、《原芸術》という、
芸術の本質を欠いているのです。
決して眼の良いコレクションとして後世の人が尊敬するようなものではなくて、
アメリカの根拠無き熱狂を背景にした、時代のあだ花に過ぎないとされる事でしょう。
昔の『純文学』『大衆文学』と言う区分で言えば
《大衆美術》《低俗美術》《低級美術》なのです。
精神科医が、このような低俗美術に大金を使えたのも、
ご本人の芸術教養の無さと、芸術コンプレックスがあるにしても、
根本には、アメリカの根拠無き過剰消費があったのです。
高橋龍太郎氏の集めた美術作品のかなりの量は価格を
10分の1程度に暴落させるでしょう。それでも無にはなりません。
馬鹿な時代の、馬鹿アートのコレクションとして意味はあると思います。
一つの時代の証人ではあります。
人類史上、優れたコレクションはたくさんあるのですが、
その歴史の中におけば、芸術性というものがいかにコレクションにとって
重要かがわかると思います。
時間が経つと、芸術性の無い作品は、急速に色があせるのです。
アートコレクションとは何か?
どのように集めるべきなのか?
そういう学習を、日本のコレクターはしてこなかったのです。
日本の現代美術/現代アートの作家たちも、自己愛性人格障害ですが、
コレクターもまた、自己愛性人格障害です。
自己愛性人格障害者というのは、他者排除をするので、他人から学ぶという基本が
できないのです。
ですからコレクションも、先人のコレクションを検討して学ぶということを
していません。
そのようなコレクションを作れば、後世の人から尊敬されるのか?
すぐれたコレクションとは何なのか?
その基本について考えていないのです。
私が最初にアートコレクションについて学んだのは、
大阪市立美術館にかよって、大阪の商人がどのようにして、美術を買ったのかを、
見に行った時からです。
たとえば、ロダン、マイヨール、ブルーデルの3つのブロンズ像を、うまく買い集めた
コレクションは、印象に残りました。
つまり作品を買っていくというのも、創造行為なのです。
買うというのは、実に制限されている事です。
今からレオナルドの作品は買えないのです。
だから、買える作家のものを、複数うまく組み合わせながら、
自分個人の感性と趣味性という私的な感覚でコレクションを組み立てていく、
そういう私的な創造行為なのです。
大阪市立美術館には、阿倍コレクションという中国美術の大コレクションがありますが、
こういう大コレクションは、コレクターだけでは無理で、適切なアドバイスをしてくれる
美術家や美術史の専門家を必要とします。
すぐれたコレクションをつくったコレクターには、良いアドバイスをしてくれる美術家が
ついている例が多いと思います。
私が文化庁の芸術家在外研修員で留学したのはフィラデルフィアでしたので、
バーズ・ファンデーションという大コレクションがありました。
ここには毎月のように通いました。
ここの最大の特徴は、コレクションの展示にあります。
コレクターが展示を決めて、動かす事を禁止しているのです。
バーンズ・ファンデーションはすぐれているゆえに、アメリカの同時代人は
認めなかったために、バーンズ氏は怒り、戦い、そして公開を中止して死にます。
ここには壮大な他者との格闘のドラマがあります。
フィラデルフィア美術館にもすぐれたコレクションが、たくさんあります。
セザンヌの晩年の大傑作『大水浴図』、
そしてモンドリアンの格子の連作など、すぐれたコレクションがたくさんありますが、
なんといってもデュシャンの聖地であるということです。
ここを見ずして、デュシャンについて語る事はできないのです。
それほどの、すばらしいコレクションです。
先日、糸崎公朗さんのグループ展に行った時に、糸崎さんがデュシャンの話を
してきました。
しかしフィラデルフィア美術館を見るのが、先なのです。
デュシャンについて議論するなら、まず見てくる事です。
見もしないでする議論は、童貞の男がセックスの話をするようなものです。
バカバカしくて、聞いていられないのです。
美術家のプロなら、プロらしく、実物を見てくる事です。
その中に、デュシャンが画商行為をして買い集めた美術品も展示してあります。
デュシャンの眼の良さを良く表しています。
そのデュシャンの買った中でも、カリグラフィーになってからの初期のミロの作品群や、
マティスの作品の凄さは、たいしたものであります。
ニューヨークには、たくさんのコレクションがありますが、
メトロポリタンの前のフィリックコレクションは凄いものですが、
とくに最後の部屋のレンブラントのコレクションは圧巻であります。
美術評論家の峯村敏明さんも優れたコレクターでありますが、
私の滞在中にアメリカに来た時に、
誘ったのですがバーンズファンデーションを見ようともしませんでした。
他人のコレクションを見て、学ぶというタイプの人ではないのです。
正確には峯村敏明氏と奥様のコレクションですが、
しかし峯村氏の自己証明になってしまっているという印象があります。
峯村敏明という評論家にとって重要なのは、何よりも自分自身なのです。
つまり作家の代表作や、時代の代表作というものではなくて、
峯村敏明という個人の感性の眼の証明になっている。
それはそれで良いのですが、
その感性が優れていると、他人が評価するものなのか?
という疑問があります。
ここからは、私自身ができない、無理難題を言っているのですが、
コレクションとして、きれいな、そのくせダイナミズムのある
コレクションが作りたい。
コレクターが、コレクションを形成しながら他者に出会わないで、
作品だけを自分に合わせて集めても、それはナルシズム以外ではないのです。
作品も作家も、他者なのです。
この他者との出会いや格闘を形成していかないと、
コレクション成立のドラマが生まれません。
コレクションをきちんと作る事とは、何なのか?
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