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マライア・キャリーとニルバーナ/1991年 [状況と歴史]

1991年にソヴィエトが崩壊して、冷戦構造は終結します。
しかし冷戦構造そのものは、実は1975年にアメリカが、
ベトナム戦争に敗れた時に、半身が終わっていたのであって、
この1991年というのは、最終的な終焉として、
特筆すべき年となります。

この冷戦構造の崩壊という時代の破綻を、
見事に体現したバンドとして、
ニルバーナが出現してきます。
そしてあっという間に1000万枚を越える大ヒットになります。


スメルズ・ライク・ティーン・スピリット(Smells Like Teen Spirit)

まるでティーン・スピリットの匂いのような 

まず銃を調達して そして
友達を連れてこいよ 
楽しいよ 見失って
ふりをして 
彼女はこんなに退屈しても 
こんなに頑ななままじゃないか 
おれ ひどい言葉 
思いついた 

よう 最低だな?

明かりを消したほうが危険は少ない 
さあおれたちはここだ 
楽しませてくれよ 
ばからしさと移ろいやすさしか感じないよ 
おれたちはいま着いたんだ 
楽しませてくれよ 
ムラート 
アルビノ 
モスキュート 
リビドー 


物事をうまくこなすことが下手くそなんだ 
このすばらしい才能に祝福された気分になるのさ 
おれたちの仲間はいつもそんなんだったし 
きっと最後までこのままなのさ 

よう 最低だな?

明かりを消したほうが危険は少ない 
さあおれたちはここだ 
楽しませてくれよ 
ばからしさと移ろいやすさしか感じないよ 
おれたちはいま着いたんだ 
楽しませてくれよ 
混血児 
白子 
蚊 
欲動 


そして おれは忘れたのさ 
なぜ味わいたいのかを 
そう たぶん笑いたかったんだろう 
まったく 難しかったよ 
たかがそんなことが とても 
でもいいや どっちみち まるで気にしない 

よう 最低だな?

明かりを消したほうが危険は少ない 
さあおれたちはここだ 
楽しませてくれよ 
ばからしさと移ろいやすさしか感じないよ 
おれたちはいま着いたんだ 
楽しませてくれよ 
混血児 
白子 
蚊 
欲動 
否定 
拒絶 
否定 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ニルバーナはしかし、ある意味で古い時代の最後の終わりという面を
持っていたのではないのか?

1994年にリーダーのカートコバーンが自殺したという事もありますが、
1991年にWWWが成立してインターネット時代になって、実は、
まったく新しい時代が出現してくるのです。
それがこのブログで最近言いだしているプラズマの時代です。

時代が、近代の液体の時代から、液体が蒸発した気体の時代に変わり、
さらに温度が上がって、気体の分子は電離して荷電粒子を含む気体
であるプラズマになりますが、こういう変化を、
ニルバーナは持っていないのです。

プラズマ化した音楽としては、この1990年にビックヒットした
マライア・キャリーが、このプラズマ化した時代の音楽性を持っていたのです。





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EUのメトルダウン? [状況と歴史]

私は、もともとEUの経済統合には、疑念の眼を向けていました。
今回の世界金融危機の勃発によって、ユーロの実力に限界がある事は
露呈して、ドルに代わる基軸通貨になれないことがはっきりとしたのです。
さらに、今年は2番底があるのではないかと言う、懸念は、
次第にリアルになってきています。

http://markethack.net/archives/51362591.html
Market Hack(外国株ひろば Version 2.0)

01:41




EUは既にメルトダウン局面に入っている
先週はオバマ大統領の一般教書演説、ベン・バーナンキFRB議長の再任投票、AIG救済に関する議会での公聴会、アップルのiPad発表、相次ぐ決算発表など、材料が目白押しでした。

この忙しさに紛れて比較的注目されなかったけど、先週、EUの危機は一層深刻なステージに入りました

下のチャートはスペインのサンタンデール銀行(STD)です。このチャートは何か重大な異変が起きている事を絶叫しています。
STD
現在、EUで起こっている事で最重要な点は世界の機関投資家がもはやギリシャのレトリックを信じなくなってしまったことです。

ギリシャは財政赤字を12.7%から2013年までに3%に圧縮すると公約しています。

これはとても立派な目標なのですが、残念ながら誰も信用していません。(ギリシャ政府自身も出来っこないと思っている筈です。)

だからどんなに美辞麗句を並べ立てても投資家の心は動かないのです。

ギリシャの財政立て直しプランが説得力を持たない理由は、それを実施しても国民が甞める経済的辛苦が深まるだけで、どうやって成長を導きだすか?というロードマップが無いからです。

もちろん、ギリシャそのものは小さい国なので「ギリシャがこけても大したことは無い」という議論もあります。

しかし既にギリシャにおける危機はスペインにも飛び火しそうになっていることは上のサンタンデール銀行の株価を見れば明白です。

スペインがおかしくなると、その影響はギリシャの比ではありません。先ずスペインの銀行セクターはECBからの「裏口支援」で800億ユーロもの支援を受けています。

スペインもギリシャ同様、自国の財政赤字を大幅に削減するプランを打ち出す必要があるし、それは公的部門での給与カットなどを意味します。さらに今後どういう経路で成長を導きだすか?という、ギリシャが直面するのと全く同じ問題に直面しているのです。

問題はスペインやギリシャにはめぼしい輸出産業は無く、直接、これらの国が中国や日本などと競争して輸出を増やすというシナリオは無理がある(というより滑稽に近い)ということです。

すると先ずドイツなど、世界に輸出する産業基盤の出来あがっている国での輸出を増やし、ドイツが景気が良くなったら、そのドイツに対していろいろな周辺的サービスや財を提供するというカタチで景気を浮揚するしかないのです。

これは言い換えればEU圏全体での問題解決法です。

そのためにもユーロは安くなければいけないのです


今年の相場のテーマは先進国で比較的経済が成熟しており、人口が増えていない国で、なおかつ大きな負債を抱えている国がソブリン・クライシスを切り抜けられるか?という問題です。

残念ながら、日本もこのグループの中に括られて、スペインなどと一緒に議論されています。

しかし僕の考えでは日本の問題はそれらの国より取り組み易いと思っています。なぜならしっかりした、競争力のある製造業のベース、輸出のベースが出来ているからです。

つまり「生まれ変わる(re-invent oneself)」ことを要求されていないのです。

逆に言えば、日本にはそういうアドバンテージがあるにもかかわらず愚鈍な円高政策でみすみす「万が一のための」財務的なバッファーを築くチャンスを逸しているのは残念でなりません。

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コメントへのお返事 [状況と歴史]

川上直哉様

初めてコメントいたします。
「建築系ラジオ」で、彦坂様のお話に惹き込まれ、
ブログで、たくさん、新しい刺激をいただいています。

こちらこそ、建築系ラジオを聞いて下さり、
さらにこのブログを読んでいただいて、ありがとうございます。

感謝しつつ、今回は、二つ、お伺いしたいことがあります。

一つは、小沢一郎氏の人格分析がなされなかったことです。

前に、簡単な形ではしています。

小沢氏は、田中角栄の継承者でありながら、
田中派のような組織を作れずに今に至っています。
二人の間の継承と断絶は、あるいは、
「戦後」日本の空気の変化を示しているのかもしれません。
彦坂様のご意見を、伺いたく存じました。

良いご質問だと思いますが、
まず、田中角栄が、いかなる政治家であったのかが、
問題なのだろうと思います。

まったくの私見を申しあげれば、
田中角栄というのは、地方からの革命であったと思います。
戦後の高度成長経済は、1970年の大阪万国博でピークを迎えるわけですが、
この高度成長経済のお金は、大都会に集中していたのです。
そのお金を地方に収奪する権力を確立すべく台頭したのが、
田中角栄であったのではないでしょうか。

日本列島改造計画というのは、
日本の高度成長経済の延長性を含みながらも、
富を地方に還流させようと言う意味で、
地方の権力奪取の革命であったのです。

田中角栄の金権政治というのは、
中央のお金を地方に行こうさせる時に、
その見返りとして献金させると言う、バックマージン的なもので
あったのです。

つまり道路やトンネルを造る工事のお金を中央から持ってくる見返りに、
地方の土建屋から、バックマージンを返させたのです。


問題なのは、その結果としての新潟の改造が至りついた状態です。
越後妻有トリエンナーレの経験から言えば、
道路とトンネルができると、若い人々は都会に出て行ってしまい、
地方は衰弱したのです。

さて、この田中角栄の金権政治的な体質は、
実は民主党の政治家が引き継いで、自民党は引きつがなかったのです。
小沢一郎にしても、鳩山由紀夫首相にしても、
お金の問題が浮上してくる理由は、
いろいろあるにしても、田中角栄的な体質の系譜だからだろうと
思います。

もうひとつは、「野蛮」と「アルコール依存」の問題です。
「インディアンやエスキモーの人々がアルコール中毒になる」
「自然人はアルコールに対して、依存しやすい」
等といった表現は、
大切な問題を見えなくさせるように思われました。

大切な問題、というのは、
適応/不適応、という問題です。

「自然人」は、自然の中においては、
依存症になりにくいのではないか。
「人格」者は、「形骸」社会において、
アルコールその他に依存しやすいのではないか。

今、時代の節目にきている、ということを、
彦坂様の言説を刺激として、強く感じています。
「これまで」とは違う時代が来つつ、ある。
「これまで」に適応してきた大多数は、
次第に、追いつめられることでしょう。
そして、「これまで」に不適応であった人々が、
生き残っていく可能性を広げている。
ただ、「これまで」の世界において、
「不適応だった人」のもっていた創造的役割を、
私は、忘れないようにしたいと思っています。
だから、「自然人」の価値は、
10年後に、きっとはじめて、
今とは全く違う形で、輝いてくるかもしれない。
それはちょうど、今のネイティヴ・アメリカンのように・・・
(イメージは、AKIRAの『COTTON100%』です)。

そう考える私は、
「自然人=依存しやすい」という表現に、
鋭い引っかかりを覚えました。

長文となりましたこと、
論点がずれているかもしれないこと、
どうぞ、お赦しください。

それでは失礼します。

川上直哉 
by 川上直哉 (2010-01-24 06:42)  

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訃報 山口光子さん(加筆2校正削除改稿1) [状況と歴史]

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ギャラリー山口のご主人の山口光子さんが、
15日、亡くなられました。
スタッフの方から昨日お電話をいただき、驚いた次第です。
すでにこのブログでも書きましたように、
ギャラリー山口が経営不審で倒産し、今月いっぱいで閉鎖するという
そういう状況での死であって、
誠に痛ましく、
謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

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訃報:山口光子さん67歳=ギャラリー山口社長

 山口光子さん67歳(やまぐち・みつこ=ギャラリー山口社長)15日死去。葬儀は親族で済ませた。

連絡先は東京都中央区京橋3の5の3のギャラリー山口(03・3564・6167)。

 80年、東京・銀座に現代美術専門のギャラリーとして開廊。95年、現在地へ移転した。画家の野見山暁治さんや篠原有司男(うしお)さん、堀浩哉(こうさい)さんらベテラン作家の個展を数多く開催。若手アーティストも積極的に紹介してきた。同ギャラリーは今月末で閉廊が決まっていた。

毎日新聞 2010年1月19日 21時14分(最終更新 1月19日 22時54分)


昨年の村松画廊の閉廊につづいて、
ギャラリー山口の山口光子さんの死と続いて、
2つの老舗の貸し画廊の終わりは、
ひとつの時代の終わりという感慨を持たざるを得ません。

貸し画廊というものが、
単なる空間のレンタルであることを超えて、
美術史の生産の場所として機能した時代に陰りが出てきたのです。
貸し画廊を支えていた基盤は、実は高度成長を遂げていた
日本の経済的な繁栄であったのです。
しかし1998年に日本のGDPがマイナスになり、急降下していく
時代になると、高額のレンタル料を支払って
売れもしない作品を展示する展覧会のシステムは衰弱せざるを
得なくなったのです。
とは言っても、実は貸し画廊自体の数は多くあるのであって、
今後も継続するものっです。
にもかかわらず、日本の戦後美術史は、
2008年の世界金融危機を境にして、
本当の意味で終わったというべき段階になって来ています。。

窮すれば変じ、変じれば通ず、と言います。
時代は変わるのです。
画廊主が亡くなられましたが、
1月25日から30日のギャラリー山口での
気体分子ギャラリー・栃原比比奈展は、予定通り開催するつもりです。

現在、東京現代美術画廊会議の10画廊のみなさんや、
ギャラリー山口のスタッフ、元スタッフの皆さんが
助けに来て下さっているようで、
画廊活動は続いています。

山口光子さんのご不幸を乗り越えて、
気体分子ギャラリーは、2010年代の新しい時代の作家ギャラリー/ネットギャラリーとして、果敢に次世代のアーティストをマネージメントをして、情報化社会に於ける《新芸術》の運動体として、2010年代を戦いたいと思います。栃原比比奈の新作には、新しい時代のアートがあります。古い弱い美術業界は死に滅んでも、新しい日本美術の生命は、新しい息吹をもって立ち上がってくるのです。この残酷なまでの世代交代を実現して行きたいと思います。



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人格の《形骸》と政治(加筆改稿1) [状況と歴史]



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人間には、人格があると考えられます。

しかし、長いあいだ人間と付き合うと、
人間というのも、たいへんなもので、理解できない人に
たくさん会います。

首相である鳩山由紀夫氏も、不思議な人という評価があって、
「宇宙人である」とする本も出版されています。

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最近の小沢問題での鳩山首相の発言も、
宇宙人的な水準で、奇妙な感慨を持つのです。

小沢氏が潔白説明…「私も信じる」鳩山首相

 鳩山首相は16日、民主党の小沢幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる政治資金規正法違反事件で、同党の石川知裕衆院議員が逮捕されたことについて、「大変驚いている。国民の皆様に心配、ご迷惑をおかけしていることに遺憾の意を表明したい。捜査中の話なので推移を見守っていくしかない」と述べた。


 首相は、同日午前に小沢幹事長と会談した内容について、「小沢幹事長は『身の潔白を、自らを信じている』とのことだった。私もそれを信じる。それについて党大会で私もしっかり申し上げる」と述べた。

 首相公邸前で、記者団の質問に答えた。

(2010年1月16日13時02分  読売新聞)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
首相というのは、国家権力の中枢であって、
同時に検察という警察権力もまた、国家権力の中枢なのです。
ここに分裂と権力闘争が生じていて、
小沢一郎と検察の激突というのは、そういう権力闘争なのです。
日本という国家の中枢の瓦解に私たちは立ち会っているのですが、
そういう劇的な問題を、鳩山首相の物言いは、
どこかピントがずれているのです。
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この傀儡性をどのように私たちは了解して行くのか?

この鳩山由起夫首相の顔を、
彦坂尚嘉が《言語判定法》を使って、
最近開発の《芸術》分類を敷衍して、
人格分類で、判断してみます。

人格分類というのは、次のようなものです。

《原人格》
《人格》
《反人格》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非人格》
《無人格》
《世間体人格》

芸術分析に使った、《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》、
《原芸術》《世間体のアート》という6種類の概念を、
人格に、転用したものです。

『アートの格付け』ということと、「人格」ということは、
日本語においては、ともに「格」という言葉が出てくるものです。

「人格」とは何か?
という問いがむずかしいのは、
「芸術とは何か?」という問いと同様に、むずかしいのですが、
その理由は、要素が多くて、単純ではないという、
複雑系のものであるところにあります。



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彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による
        鳩山由紀夫首相の人格分析
《原人格》が無い。
《人格》が無い。
《反人格》が無い。
《非人格》が無い。
《無人格》が無い。
《世間体人格》が無い。

したがって人格の《形骸》である。

つまり鳩山由紀夫氏の人格は、
彦坂尚嘉が言うところの《形骸》であるということになります。
つまり人格の《形骸》という領域の人物だと言う事です。

首相の人格が《形骸》であるというのも、
恐ろしいものです。
しかし、それはあくまでも彦坂尚嘉の人格分類での判断ですので、
その限定付きでしか有りません。

そこで、別の検討をしてみたいので、
従来の『アートの格付け』でも見てみます。
そうすると違った結果が出て来ます。

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《想像界》の眼で《超次元》だけデザイン的人格
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的人格
《現実界》の眼で《超次元》だけデザイン的人格

《想像界》だけの人格
気体だけの人格

《シリアス・アート的人格》
《ハイアート的な人格》

シニフィエ(記号内容)的人格

《原始画面的人格》


《象徴界》が、本質を示すものとして重要だと私は思いますが、
その《象徴界》が、《第8次元 信仰領域》の
デザイン的人格であると言う事と、
先の分析で出て来た《形骸》ということが、連動していると
考えられます。

鳩山由紀夫という首相を理解しようとする時に、
《形骸》という視点で見ることで、いろいろの不思議を、
理解する事のできる事も多く有るように思います。

さて、続いて前首相の麻生太郎の顔を見てみます。

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彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による
        麻生太郎前首相の人格分析
《原人格》が無い。
《人格》が無い。
《反人格》が無い。
《非人格》が無い。
《無人格》が無い。
《世間体人格》が無い。

したがって人格の《形骸》である。

つまり彦坂尚嘉の視点で見ると、
麻生太郎前首相も、現在の鳩山由紀夫首相も、
人格分析的には、人格的な《形骸》なのです。

人格の《形骸》として理解できる人々が存在しているのです。

人間の人格を考える時に、
実は、「人格の《形骸》」という領域があるという発見は、
重要なものです。

いままで、人間関係での不可思議さが、
「人格の《形骸》」を持つ人々が多数いると考えると、
納得の行くものになるからです。

では《形骸》とは何か?

かなり乱暴な言い方ですが、
建築の例で言うと、
建築の《形骸》という領域に、プレハブ建築があります。

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プレハブは、それなりの機能を満たしてくれるので、
プレハブは、重要なのですが、
しかしプレハブこそが、建築の《形骸》であると、
彦坂尚嘉の視点では考えているのです。

つまり内藤礼の作品を、芸術の《形骸》であると言っているのは、
内藤礼の作品は、まるで建築で言えばプレハブのようなものだと
言っているのです。

芸術のプレハブである作品として、
彦坂尚嘉の眼には、内藤礼の作品が見えるのです。

同様に、麻生太郎や、鳩山由紀夫の政治家としての人格が、
人格のプレハブのように見えるのです。

首相という、日本国家の中枢に、プレハブが建っているのです。
この居心地のわるさというか、ペラペラの軽さというのは、
なんとも言えないものがあります。

本当は歴代首相の人格分析の必要があるのですが、
ここでは省略せざるを得ません。
執筆の時間の制約があるからです。

そこで東條英機の顔だけを見ておきます。

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《原人格》が無い。
《人格》が無い。
《反人格》が無い。
《非人格》が無い。
《無人格》が無い。
《世間体人格》が有る。

東條英機には、《世間体人格》があるので、
《形骸》ではないのです。

つまり麻生太郎や、鳩山由紀夫は、東條英機よりもひどい人格なのです。

しかし、プレハブは、現代の中では、重要なものです。

社会と言うのは、実は《形骸》領域で、支えられていて、
プレハブ的なものは、必須なのです。

人間関係においても、《形骸》の人々は重要であるのです。

だから鳩山由紀夫や、麻生太郎が、首相という最高権力者にまで
なるのです。

しかし一国の首相の人格が《形骸》であるのは、不幸な事です。

しかも2人も続いている。

だからこそ、日本が破滅へと歩んでいるのです。

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ペルー:フジモリ元大統領/《象徴界》の追跡 [状況と歴史]


ペルー:フジモリ元大統領、

   禁固25年が確定 市民虐殺で

2010年1月3日 20時35分 更新:1月3日 21時5分

ペルーのフジモリ元大統領
ペルーのフジモリ元大統領

 【メキシコ市・庭田学】1990年代にペルーで起きた市民虐殺事件をめぐり殺人罪などに問われた元大統領、アルベルト・フジモリ被告(71)の上訴審で、最高裁特別刑事法廷は3日、禁固25年の1審判決を支持することを決めたと発表した。裁判は2審制で、これにより実刑が確定する。元大統領の政治生命はほぼ絶たれたといえる。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

私自身は、アルベルト・フジモリの強権政治に対しては、

極めて強い批判があったので、この判決には喜びと追悼の念で

接しました。

それはフジモリという日系に虐殺された人々への追悼の気持ちが、

私には強くあるからです。

詳しく書きたいのですが、書くとまた長くなるので、

別の機会にゆずります。

これも後付けなので、たいした意味が無いですが、

確認したくて自分のためにやったことなので、

フジモリの顔の分析をしておきます。

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アルベルト・フジモリの顔の分析
《想像界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》デザイン的人格
《象徴界》の眼で《第16次元 崩壊領域》のデザイン的人格
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》《真性の人格》

《現実界》の人格
固体人間=前近代人
《シリアス人間》
《ハイアート的人間》

シニフィアン(記号表現)的人間。
『真実の人』

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

まず、固体人間で、前近代の、封建的な人なのですね。

強権政治を敷いたそもそもの原因は、ここにあります。

しかも《現実界》の人ですから、情もモラルもなかったのです。

だから、抵抗する反対勢力を殺し尽くす方法をとった。

過酷な武断政治です。

《象徴界》が、《第16次元 崩壊領域》であるのは、
あまりにも、当てはまり過ぎていて、怖くなります。

モラルのかけらも無いのです。

壊れている人です。

しかし《現実界》では、《第8次元 信仰領域》の人で、
ここにこの人の真実があります。

かれはこの殺戮を正しいと信じて断行したのです。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


秘密裏に左翼ゲリラ掃討を担当していた軍の暗殺組織「コリーナ部隊」が、91年に8歳男児を含む住民15人を殺害したバリオスアルトス事件と、92年に学生ら10人を誘拐・殺害したラカントゥタ事件などについて、当時大統領だったフジモリ被告の罪が問われた。

 フジモリ被告は「コリーナ部隊の作戦に関与していない」などとして無罪を主張。しかし、1審判決は最高権力者である大統領が部隊を指揮した「間接主犯」と認定し、有罪を言い渡した。同被告は他の事件でも有罪判決を受けているが、ペルーでは最も重い刑期が適用され、禁固25年となる。

 日系2世で90年に大統領に就任したフジモリ被告は、左翼ゲリラの鎮圧や経済立て直しで成果をあげ、ペルーの功労者として依然、根強い人気がある。一方、92年に憲法を大統領が自ら停止するなど、強権的な政治手法から「独裁者」と批判されてきた。

 側近の汚職を引き金に3期目就任直後の00年に失脚。日本に事実上逃亡してからも大統領復帰を目指し05年11月にチリに渡ったが、拘束されてペルーに引き渡された。既に4年余りの拘束生活を送っている。

 一方、フジモリ派は11年の次期大統領選に元大統領の長女ケイコ・フジモリ国会議員(34)を擁立する見通しだ。地元ラジオ局RPP(電子版)によると、同派スポークスマンのラフォ国会議員は3日、「11年の選挙で我々が勝利することで、この判決をペルー国民が認めないことになるだろう。政治的勝利によってアルベルト・フジモリの名誉回復を目指す」と語った。


 ◇フジモリ元大統領をめぐる動き◇

90年7月 大統領就任

91年11月 コリーナ部隊がリマ市民15人虐殺

92年4月 「自主クーデター」で憲法停止

  7月 コリーナ部隊がリマの大学生ら10人虐殺

93年12月 新憲法が発効、民主体制に復帰

95年7月 2期目の大統領に就任

96年12月 リマで日本大使公邸占拠事件

(97年4月に軍特殊部隊が突入し、人質71人を救出)

00年7月 3期目の大統領に就任

  11月 東京から辞表。国会で罷免され日本滞在

  12月 日本政府がフジモリ氏の日本国籍確認

03年7月 ペルーが日本に身柄引き渡し要請

05年11月 東京からチリに到着、拘束される

07年7月 拘束先で日本の参院選に立候補、落選

  9月 チリからペルーに身柄引き渡し

  12月 ペルー最高裁で市民虐殺事件の審理開始

09年4月 最高裁の1審で禁固25年の有罪判決


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新しい時代の構造/コレクター入門(削除改稿3加筆3) [状況と歴史]

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

いよいよ2010年です。

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1991年がソヴィエトが崩壊して、冷戦時代が終わります。
日本では、昨年2009年自民党政権が終わって、ようやく55年体制=冷戦時代
が終わったのです。世界の情勢に18年も遅れたのです。

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日本は混乱期であり、漂流状態で、雇用情勢は悪いかもしれません。
こういう雇用状態の悪化が、美術そのものの基盤を変動させていきます。
従来のようには、たとえば銀座の貸し画廊を借りて作品を発表するというような
ことが、今の若い人には、経済的にできなくなってきているのです。

つまり日本の貸し画廊や、現代美術というものは、
戦後の高度成長経済という基盤の上で展開していていたのです。
豊かであったから、売れもしない美術作品がつくれたのです。

1970年代の、作品を売る事も考えないインスタレーション中心の
美術の展開は、高度成長経済があって成立していたのです。

現在のように日本経済が3流国、4流国、5流国、6流国へと
急降下していく時代には、日本の現代アートは大きく変貌するのです。

6流国では、少なくとも今までのようにはやれないという事です。

高額の画廊代金を払えない若いアーティストは、
一方では作家を止めるでしょう。
止められるアーティストは、アーティストを止めた方が良いのです。
それでも芸術を選択する真性のアーティストだけが、
残れば良いのです。

私のお世話になった画廊も2つ閉じました。
ギャラリー手が、昨年半ばに閉鎖されました。

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先日、貸し画廊の老舗の村松画廊が閉廊しました。

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貸し画廊の多くは、は閉鎖し、廃業していくでしょう。

すでに出現していますが、貸しスペースの画廊の時代に移行するでしょう。

もう一方では、新しい仕組みをつくって、変貌する事で、
生き残っていく貸し画廊もあるでしょう。
貸し画廊が、いかにして変身して新しい時代に対応するのか?

日本が6流国になるにしても、新しい時代が始まったのです。

この混乱期が2010年からの、とりあえず5年間です。
5年間を乗り切れば、次の2010年代の後半があります。

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大変に厳しい時代だとは思いますが、
悪い時代の方が、すぐれた作品が作られてきているというのが、
歴史の教えるところです。

1960年代や、1980年代、
2000年代という経済状態の良い時代の美術作品は、
あとから振り返ると、虚名ばかりです。

ここで1960年代論をするつもりもないのですが、
普通に信じられているようには、
芸術的に豊かな時代ではなかったのです。

実質である《真性の芸術》、あるいは《原芸術》が無いか。
弱かったのです。

例えば、作品の善し悪しと言う面だけで見ると、
アンディ・ウォーホルは、《芸術》的にすぐれていた
わけではないのです。

Andy Warhol,  Marilyn.jpg

 

彦坂尚嘉責任によるアンディ・ウォーホルの芸術分析
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント

 

《現実界》の美術
気体美術 
《シリアス・アート》
《ローアート》 
シニフィエ(記号内容)の美術
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
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《原芸術》は無い。
《芸術》、《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》がある。

 

《無芸術》という官能性のある芸術なので、
アンディ・ウォーホルを、多くの人は好きなのです。

多くの人は、《無芸術》や《非芸術》を求めているのです。

さらには《世間体のアート》を求めているのです。
こうした欲望は、無視し得ない力を持っています。



ジェフ・クーンズも村上隆、ダミアン・ハーストにも
《原芸術》はありません。
それはルノワールに似ているのです。

ルノワールには《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体アート》
はあるのですが、《原芸術》はないのです。

同じ事が、ジェフ・クーンズ、村上隆、ダミアン・ハーストに言えるのです。
つまり彼らは現代のルノワールであったのです。

そのうちにTAKASI MURAKAMI という喫茶店ができるのではないでしょうか。
喫茶店としてのルノワールは、私は好きなのです。
未来は、喫茶店TAKASI MURAKAMIでコーヒーを飲むことになるのかもしれません。

ルノワールを超えた芸術作品を作る事は、ですから可能なのです。
《原芸術》を入れれば良いのです。
つまり村上隆を超えた現代アートは、十分に可能なのです。

それは同時に、
真性の芸術というのは、《原芸術》を持っているものです。
マティスがすごかったのは、《原芸術》をもつ作品を作っていたからです。

同様の事がピカソに言えます。

2010年代は、良い現代アートが出てきます。
状況的には地味で、ジャーナリスティックにも受けないかもしれませんが、
《真性の芸術》作品が生まれてくるのです。そういう意味で、悪い時代だからこそ、
本当に芸術/アートをやる作家だけが頑張る時代なのです。


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リーマン・ショックが起きたのが2008年9月、
負債総額64超円という史上最大の倒産に至ります。
これがきっかけになって世界金融危機が起きたのです。
日本の株価も7000円台まで暴落したのです。
今日までつづく経済不況というのは、何であったのでしょうか?

基本的には《近代》の終焉という歴史的事態なのです。

実際には複雑ですが、単純化して言えば《近代》というのは、産業革命であります。
そして《近代》には、2つの《近代》が有り、
一つはアメリカの自由主義経済であり、
もう一つがソヴィエトの社会主義経済体制だったのです。

ソヴィエトは産業革命としては、うまく行っていたのです。
しかし情報革命ができなかった。
だからソヴィエトは崩壊したのです。

つまり冷戦構造というのは、《近代》特有の構造でありました。
自民党政権というのが、55年体制であり、55年体制は冷戦構造であり、
つまり自民党が日本の《近代》であったと、単純化できるのです。

《近代》の終焉は、したがって2つあったのです。
ひとつは1975年のアメリカのベトナム戦争での敗北です。
もう一つが1991年のソヴィエトの崩壊です。

1991年は同時にWWWが出現して、誰でもインタネットが使える時代になります。
インタネット・バブルが2000年まで続き、2001年にはじけます。
2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が起きます。
この事態で金融を緩めて、サブプライムローン・バブルが始まったのです。
そして2008年9月のリーマン・ショックに至ったのです。

こういう根拠無き熱狂という事態の根底にあったのは、
ソヴィエトの崩壊を、冷戦におけるアメリカの一人勝ちと、
誤って認識したところにあります。
アメリカはすでに1975年に、ソヴィエトよりも一足先に敗北していたのです。

ですからソヴィエトの崩壊は、冷戦構造=近代の完全終焉であって、
アメリカの一人勝ちでは無かったのです。
それなのに、一人勝ちしたと誤認したところに、
この20年間にわたるアメリカのバブルがあったのです。

このアメリカの根拠無き熱狂によるバブルで、
世界の美術は、実は展開したのです。

それが1991年、ソヴィエトの崩壊と一緒に出現した村上隆であったのです。

この1991年に椹木 野衣が、最初の評論集『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』(洋泉社)を刊行したのです。

つまり村上隆と椹木 野衣は、同じ年に出現したのであり、それはソヴィエトの崩壊と重なっていただけでなくて、アメリカの根拠無き熱狂のバブルの時代の20年と重なっていたのです。

2010年代は、この村上隆/椹木 野衣の時代が衰弱し、終演する時代なのです。


このアメリカのバブルによる過剰消費が世界の経済を牽引していたのです。
日本の新幹線の乗客まで増大したのです。
それは同時に1990年代2000年代の美術を買い支えた基本潮流だったのです。

精神科医の高橋龍太郎氏のネオトミージャパンも、
こうしたアメリカの過剰消費の産物であったのです。
そこにあるのは《非芸術》《無芸術》《世間体アート》であって、
通俗芸術に過ぎません。
《原芸術》《芸術》《反芸術》という芸術の上部構造を欠いているものが、
大半なのです。

すくなくともモダンアートを成立させた純粋芸術性や、《原芸術》という、
芸術の本質を欠いているのです。
決して眼の良いコレクションとして後世の人が尊敬するようなものではなくて、
アメリカの根拠無き熱狂を背景にした、時代のあだ花に過ぎないとされる事でしょう。

昔の『純文学』『大衆文学』と言う区分で言えば
《大衆美術》《低俗美術》《低級美術》なのです。

精神科医が、このような低俗美術に大金を使えたのも、
ご本人の芸術教養の無さと、芸術コンプレックスがあるにしても、
根本には、アメリカの根拠無き過剰消費があったのです。



高橋龍太郎氏の集めた美術作品のかなりの量は価格を
10分の1程度に暴落させるでしょう。それでも無にはなりません。
馬鹿な時代の、馬鹿アートのコレクションとして意味はあると思います。
一つの時代の証人ではあります。


人類史上、優れたコレクションはたくさんあるのですが、
その歴史の中におけば、芸術性というものがいかにコレクションにとって
重要かがわかると思います。
時間が経つと、芸術性の無い作品は、急速に色があせるのです。

アートコレクションとは何か?
どのように集めるべきなのか?
そういう学習を、日本のコレクターはしてこなかったのです。

日本の現代美術/現代アートの作家たちも、自己愛性人格障害ですが、
コレクターもまた、自己愛性人格障害です。
自己愛性人格障害者というのは、他者排除をするので、他人から学ぶという基本が
できないのです。
ですからコレクションも、先人のコレクションを検討して学ぶということを
していません。
そのようなコレクションを作れば、後世の人から尊敬されるのか?
すぐれたコレクションとは何なのか?
その基本について考えていないのです。

私が最初にアートコレクションについて学んだのは、
大阪市立美術館にかよって、大阪の商人がどのようにして、美術を買ったのかを、
見に行った時からです。
たとえば、ロダン、マイヨール、ブルーデルの3つのブロンズ像を、うまく買い集めた
コレクションは、印象に残りました。
つまり作品を買っていくというのも、創造行為なのです。

買うというのは、実に制限されている事です。
今からレオナルドの作品は買えないのです。
だから、買える作家のものを、複数うまく組み合わせながら、
自分個人の感性と趣味性という私的な感覚でコレクションを組み立てていく、
そういう私的な創造行為なのです。

大阪市立美術館には、阿倍コレクションという中国美術の大コレクションがありますが、
こういう大コレクションは、コレクターだけでは無理で、適切なアドバイスをしてくれる
美術家や美術史の専門家を必要とします。

すぐれたコレクションをつくったコレクターには、良いアドバイスをしてくれる美術家が
ついている例が多いと思います。

私が文化庁の芸術家在外研修員で留学したのはフィラデルフィアでしたので、
バーズ・ファンデーションという大コレクションがありました。
ここには毎月のように通いました。
ここの最大の特徴は、コレクションの展示にあります。
コレクターが展示を決めて、動かす事を禁止しているのです。
バーンズ・ファンデーションはすぐれているゆえに、アメリカの同時代人は
認めなかったために、バーンズ氏は怒り、戦い、そして公開を中止して死にます。
ここには壮大な他者との格闘のドラマがあります。

フィラデルフィア美術館にもすぐれたコレクションが、たくさんあります。
セザンヌの晩年の大傑作『大水浴図』、
そしてモンドリアンの格子の連作など、すぐれたコレクションがたくさんありますが、
なんといってもデュシャンの聖地であるということです。
ここを見ずして、デュシャンについて語る事はできないのです。
それほどの、すばらしいコレクションです。

先日、糸崎公朗さんのグループ展に行った時に、糸崎さんがデュシャンの話を
してきました。
しかしフィラデルフィア美術館を見るのが、先なのです。
デュシャンについて議論するなら、まず見てくる事です。
見もしないでする議論は、童貞の男がセックスの話をするようなものです。
バカバカしくて、聞いていられないのです。
美術家のプロなら、プロらしく、実物を見てくる事です。

その中に、デュシャンが画商行為をして買い集めた美術品も展示してあります。
デュシャンの眼の良さを良く表しています。
そのデュシャンの買った中でも、カリグラフィーになってからの初期のミロの作品群や、
マティスの作品の凄さは、たいしたものであります。

ニューヨークには、たくさんのコレクションがありますが、
メトロポリタンの前のフィリックコレクションは凄いものですが、
とくに最後の部屋のレンブラントのコレクションは圧巻であります。

美術評論家の峯村敏明さんも優れたコレクターでありますが、
私の滞在中にアメリカに来た時に、
誘ったのですがバーンズファンデーションを見ようともしませんでした。
他人のコレクションを見て、学ぶというタイプの人ではないのです。

正確には峯村敏明氏と奥様のコレクションですが、
しかし峯村氏の自己証明になってしまっているという印象があります。
峯村敏明という評論家にとって重要なのは、何よりも自分自身なのです。

つまり作家の代表作や、時代の代表作というものではなくて、
峯村敏明という個人の感性の眼の証明になっている。
それはそれで良いのですが、
その感性が優れていると、他人が評価するものなのか?
という疑問があります。

ここからは、私自身ができない、無理難題を言っているのですが、
コレクションとして、きれいな、そのくせダイナミズムのある
コレクションが作りたい。

コレクターが、コレクションを形成しながら他者に出会わないで、
作品だけを自分に合わせて集めても、それはナルシズム以外ではないのです。

作品も作家も、他者なのです。
この他者との出会いや格闘を形成していかないと、
コレクション成立のドラマが生まれません。

コレクションをきちんと作る事とは、何なのか?


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