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西芳寺/夢窓国師の庭1

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たとえば自然というのは美しいですが、鑑賞構造を持っていません。

自然は人間が鑑賞することを目的につくられたものではないからです。

しかし、言うまでもなく、人間は大自然を鑑賞するのです。

鑑賞構造というのには《瞑想》《驚愕》《対話》《愛玩》《キッチュ》
《民芸》などの複数の種類があって多様なのですが、
庭園というものの多くは、《対話》という鑑賞構造を組み込んだ自然なのです。

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つまり野山にある自然と、庭園に見られる自然の差の中に、
《対話》的鑑賞構造の有無の差があるのです。

幾何学的デザイン性の強いフランス式庭園やイタリア式庭園などの
整形式庭園に対して、
広大な苑池から構成されるイギリス風景式庭園や和風庭園が
いくら自然の景観美を追求した自然性を持っていても、
ここには鑑賞構造という人工性があるのです。

手を加えない無垢の自然が《第6次元 自然領域》でしかないのに対して、
草取りをはじめとした手入れを必要とする優れた自然美の庭園の多くは
《第一次元 社会的理性領域》であるのです。

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《第1次元 社会的理性領域》の多い日本庭園の中にも、
《超一流》の《超次元》の庭園があります。

そのひとつが西芳寺の苔庭です。

夢窓疎石(夢窓国師)がつくった名園です

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西芳寺庭園

彦坂尚嘉責任による芸術分析

 

《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》

 

 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

 

 

《シリアス・アート》。
《ハイアート》。
シーニュの表現。
理性脳の表現。
【A級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》
《世間体のアート》の全てがある。

 



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直接性からはなれて [状況と歴史]

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先日の京都建築学生の会に呼ばれて、
鈴木 謙介氏とご一緒して、印象的であった事があります。

150作品くらいの学生の卒業制作の建築プランを見たのですが、
鈴木 謙介氏は、視覚では判断できないといわれて、
文章というか、建築プランにつけられているコンセプトを読んで、
判断する方法をとられていた事です。

私のように美術家、それも画家の系譜の人間ですと、
コンセプトで判断するよりも、視覚で判断することを優先します。

この違いは、何なのだろうか?
と考えます。

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比喩で言います。
たとえば電車の中で、乗客が暴行事件を起こして、
警察に連行されたとします。

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そうすると、警官が、事件の事情を聞いて、
調書を作ります。

この調書を、検察に送って、
検事が、この調書だけを読んで判断します。

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つまり
第1次世界・・・・暴行事件の当事者の直接体験。
第2次世界・・・・現場に立ち会っていない警官による調書の作成。
第3次世界・・・・調書だけを読んで判断する検察官の次元。

つまり現実に起きた暴行事件の直接性は、
調書という文字に置き換えられて、間接化しただけではなくて、
事件の直接の取り調べもしないで、文字だけに判断する検察官の
判断にゆだねられるのです。
もちろん、送検されて裁判になれば、さらに間接化されて、
裁判劇が展開するのです。

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鈴木 謙介さんは、社会学者ですが、
現実を、検察のように、文字化された調書で判断する立場にいる
ように見えました。

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建築模型というものに対しても、その視覚的判断を直接にする
のではなくて、
文字による間接化した調書のような次元でないと判断できない、
というのは、しかし、鈴木 謙介さんだけではなくて、
今日の社会の仕組みの基本を指し示しているようにも
思えました。

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美術作品も、その作品のコンセプトで評価すると、
たとえば松井冬子さんの作品は、
コンセプトの提示がうまいので、良い作品になります。
ところが現実の絵画は、視覚の芸術作品としての組み立てが
弱くて、彦坂尚嘉の判断は低いものになります。

つまり美術作品も、調書で評価するのか、
直接の視覚で鑑賞して判断するのかで、微妙に判断が変わります。

私が言おうとしているのは、実は作品以前の社会の構造の問題です。

社会というのは、この警察がつくり、検事が判断する調書のように、
現実世界から間接化した調書=文字の世界で、社会が判断される
かたちで、組み立てられているのです。

つまり直接生きている現実世界ではなくて、
警察官という官僚によって文字に置き換えられた調書で成立する
秩序の世界が、文明という次元なのです。

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エジプト文明が成立するためには、
夜に星の動きを観察して暦をつくることが、先ず重要でした。
つまり天体の動きを観測して、その記録で天体の調書をつくり、
そこに周期を発見して、暦をつくるということをしないと、
ナイル川の洪水の起きる周期を見いだし、予測する事が、
出来なかったのです。

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ナイル川の氾濫を予測しないと、農業が出来なかったのです。

この記録=調書を基盤として、
文明が起きます。
つまり書き文字の登場というのは。
このような調書による直接性の次元からの間接化という作業だった
のです。

農業というのは、こうした文字世界の間接性があって、
実現したものなのです。

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「木」という文字ひとつとっても、
現実の直接性の世界における木の多様性を、極度に間接化したのが、
「木」という文字なのです。

杉の木も「木」であり、
つつじの木も「木」であり。
柳の木も「木」であり、
木の机も「木」であり、
天井の板も「木」であり、
木の箸も「木」であるのです。

文字の次元というのは、直接性の次元を間接化する機能の面において、
大変にすぐれていたのです。

しかし文字が成立すると、
人間は、直接性の世界で、直接に判断するという能力が弱くなります。


文字だけで世界の多様性は捕まえられないのですが、
文字だけを信じる人びとが、官僚として、そして知識人として、
登場してくるのが、文明という世界なのです。

直接性の感覚を重視して生きて行く生き方をとるのか、
それとも書き文字を使う事で、現実の調書をつくって、
その文字という間接性で物事を判断するのか?

つまり人間は、直接性の世界と、
文字による文明の世界との2つの次元を往復して
生きて行く事が必要になるのですが、
この2つの世界を往復する事が、実はむずかしかったのです。

ある種の人びとは、本を読まないで、直接性の世界だけに
生きようとします。

逆にある種の人びとは、鈴木 謙介さんのように、
文字だけで判断して、直接性では判断できなくなります。

そしてある種の人びとは、
現実の直接性を測定して、言葉に置き換えて、
現実と文字の世界を往復することを重視するのです。

この分裂によって、世界と社会はなおさら複雑になったのです。

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写真の登場は、実は問題をさらに複雑します。
写真は文字ではなくて映像であって、直接性をもっていると
受け取られます。
しかし実は多くの事は写真には、写りません。

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例えば臭いです。
阪神淡路大震災の時の写真やテレビ映像と現実の違いがあって、
そのひとつは現場をおおう臭いでした。

映像というもの、あるいは漫画のような絵の情報も、
直接性があるのですが、しかしそれは現実そのものの直接性とは
違う感性性やバーチャル性をもっているのです。

視覚情報が増えてくると、この視覚情報による直接性を、
第一次現実の直接性と混同してしまうという事態になるのです。

「おたく」と呼ばれる人びとは、
漫画を含む画像や、音情報の直接性に、過度に適応した人びとです。

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つまり複製技術によるバーチャルな感覚を、第一次現実世界の
直接性であるかのように受け取って、そのバーチャルな次元を
リアルに生き始めた人間の登場です。

つまり今日の情報メディア世界では、第一次現実もまた、
複雑に分裂しているのです。
どれが現実なのかも、実は分からなくなっているとすら言えるほどに、
第一次直接性の次元が多様化して来ているのです。

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人間はどのように生きようが、結局は自分の脳をつかって、
脳の把握する世界と言う、
脳内リアリティでしか生きていないという、
現実が浮上して来ます。

しかも人間の脳は、道具をつかうことによって、
間接的にですが、変化しているのです。

平安時代の日本人の脳内リアリティと、
現在の日本人の脳内リアリティは、違うと推定できる
のではないでしょうか。

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平安時代の人間が、現在に突然来ても、
自動販売機で切符を買う事もできないでしょう。

人間は、文字だけではなくて、数式や、
コンピューター言語を開発する事で、
文明を多次元化するとともに、
同時に直接性の次元も多様化してきていて、
把握できないほどに複雑なものになって来ているのです。

この複雑さの中で、いかに生きるのか?

この問いの切実さが、現在の私たちにつきまとっているのです。

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「はじめにすべてあり」と言います。
現代が、どれほど複雑になっても、
文明の初期段階に、問題の本質があります。

ポンペイに古代都市を見に行くと、
今と変わらないということが実感されます。
ポンペイに行かれる事は、お薦めします。

文明の初期段階の文章や美術作品はやさしいので、
理解しやすいということがあるので、これを読む事です。

ギリシア哲学や、初期仏典、中国の諸氏百花、
そして旧約聖書、アラビアンナイトなどを読む事が、
一番重要であると考えます。

文明の本質が持つ《間接性》を理解しないと、
今日の世界の理不尽さに、圧倒されてしまうのです。

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たまたま8/大木裕之のイベント [日記]

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彦坂尚嘉(左)と映像作家・大木裕之さん

たまたま8/大木裕之のイベントに参加しています。
3月16日(火)が初日で、搬入をかねてオープニングに参加しました。

たまたま展示アクション

彦坂尚嘉/美術家、ブロガー
能勢伊勢雄(岡山PEPPER LAND主宰)/写真
半田真規/マイクロポッポ
たけむら千夏/いんど 
森美千代/ネオキュビスム写真 + 書 from 札幌
落合多武(アーティスト)/ from ニューヨーク
中島大輔/写真
悠鵜飼/写真 
北岡稔章/エロ写真
ヌケメ/ファッション 
majimaji/セッサタクマノシガイ
岡澤浩太郎/求職中
ACUTE/グラフィティ
渕上義哉/セイショクシャ from 香川
泉太郎 + 美術妙論家 池田シゲル
Aokid/Rape
鷹取雅一/変態
竹崎和征/絵画 
高橋トオル/お遊戯家
小田島等/たぶん、おもしろイラストレーター
竹田篤生/ちくわ彫刻
m2c/SPY
河口梨奈/SPICE
藤本哲明/詩
梅津庸一/ビジュアル系愛好家
東くん/ジロニアン
YUTAKA/新入社員GOGO
竹川宣彰/オオタファインアーツ
和田昌宏/JEANS FACTORY ART AWARD大賞作家
山田菜緒/東京学芸大学大学院 1年
斎藤玲児/映像
濱田公望/ from 高知沖ノ島メディアアクション
佐々木玄/北九州HANG
unko/整体
Chim↑Pom/たまたまアクション?
片山かおる(小金井市議会議員)/演説
Lala/汗と吐息~3月の8日間

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彦坂尚嘉の原爆シリーズについて

 

新潟が、原爆の投下候補地で、それを知った新潟市が、

政府の静止を無視して独自に疎開訓練をしたということを知って、始まったシリーズです。

市民の命を守ろうとした新潟市長の英断に対するリスペクトの作品です。


私が、キッチンの壁に両面テープで展示したのは原爆シリーズの
出力作品です。

 

 

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武蔵小金井アートランドというライブハウスのようなスペースでの
8日間のイベントです。
映像作家の大木裕之さんらしいアンダグラウンドぽい雰囲気でした。


大木裕之作品上映「超全体主義的性交」
2000→2006/40min/制作:ワタリウム美術館) 
という映画をみることができました。

40分という大作で、彦坂が言う気体分子映画でした。
断片化されたイメージが、万華鏡のように華麗に続くもので、
一切の意味構成を排除した過激な《第16次元 崩壊領域》映画です。




タグ:大木裕之
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バサラの系譜/糸崎公朗との対話(3)【最後に加筆】(加筆2画像大幅増加2) [アート論]

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フェニミズムに対する敵意が生むバサラ的な表現

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日産バサラBASSARA) ミニバン型の乗用車である。
「バサラ」はサンスクリット語の「ヴァジャラ」
(魔人を降伏させるダイヤモンドの意)から付けられた。

今回はバサラの問題を書きます、
糸崎公朗さんとの対話の3回目です。

バサラは、室町時代から日本の下層への文化の還元として
出現して来ていますが、
今日の情報化社会の中で、
文化を最下層に還元解体する運動として、主流を形成してきています。

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(糸崎公朗さんのコメントです。)


返信が遅れましたが、再び興味深い記事をありがとうございます。

>この辺のところが、興味の違いだと言えます。
>私から見ると、デシャンの作品集が『トランクの中の箱』ですので、少なくとも、糸崎公朗の作品集として糸崎版トランク・レプリカ美術館を作って、エディション制作をして欲しかったのです。

ここも興味の違いと言うより「正反対」であって、そのこと自体が興味深いです。

そうですね、正反対なのかもしれません。

以前はぼくも「糸崎版トランク・レプリカ美術館」の制作を考えてことはありますが、それはデュシャンの作品に大して「シニフィエ連鎖(意味内容の連鎖)」になるだろうと思います。
横浜美術館で開催されたデュシャン点のカタログを見ると、「フルックスキット」をはじめとするデュシャンへのオマージュ作品が出展されてましたが、それらは全て「シニフィエ連鎖」によるものと考えています。
オマージュは「アート」として制作され、元となる作品もアートであり、そのように同じ意味が連鎖しています。

それに対しぼくが置いた「リカちゃんハウス」は意味内容的には「おもちゃ」であって、それはデュシャンのアートに対する「シニフィエ連鎖(記号表現の連鎖)」として提示したつもりです。
つまり「似たイメージ」に反応すると言うことは、イメージを記号表現として捉えることであり、だから「イメージの連鎖」は一種の「シニフィアン連鎖」ではないかと思うのです。
ただ、同じ要素に対し何を「シニフィアン」と捉えて何を「シニフィエ」と捉えるかは人によって(その人が採用する価値体系によって)異なるはずです。
だからおそらく、デュシャンへのオマージュアートに「シニフィアン連鎖」を読み取ることも出来るでしょうし、あるいはぼくが提示した「シニフィアン連鎖」が彦坂さんには全く通用しないのも、当たり前だとも言えます。
もちろん、ぼくが示したつもりの「シニフィアン連鎖」に何らかの妥当性はあるのか?という問題もあります。

なるほど。
ご説はごもっともと思います。

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糸崎さんのおやりになったことに「バサラ」を感じます。

上林澄雄の「日本反文化の伝統」(エナジー叢書、一1973年)は、
日本社会に歴史的に存在する流行性集団舞踏狂の流を指摘し分析したものでした。

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上林氏は、大きな権力移動が起きる前に、
民衆の中に狂舞が繰り返し発生してきたことを発見し、
そのの分析をとおして、日本の文明構造の二元的な亀裂を
明らかにしています。

日本文化には、《文明》対《原始世界》という、重要な対立構造が潜在して
いるのです。

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外国から高度の人工的な新文明が日本に入ってきて、それを輸入し
喜んで学び、支配者たちはこの《輸入文明》、例えば仏教や、
あるいは西洋文化を背景にして民衆を支配するのですが、
支配される民衆の中には、文明以前の、狩猟採取文化、
つまり野蛮な文化が脈々と流れていて、上級の《輸入文明》に対して、
常に反抗的な姿勢があるというのです。しかし問題が複雑なのは、反抗的な姿勢が屈折していることです。

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反抗自体が《輸入文明》に触発され、反発しつつ、にもかかわらず模倣
し、なぞりつつ解体し、伝統的な野蛮文化のボキャブラリーの中に
還元し、あざ笑うことに表現を見いだしていくという、複雑な摂取と
解体の流れがあり、これが「ばさら」とか「かぶく」とか
言われる美意識となります。

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「ばさら」「かぶく」という言葉を、辞書でひいてみると次のようにあります。
 
 「ばさら【婆裟羅】室町時代の流行語。
 ①遠慮なくふるまうこと。乱暴。 
 ②はでに飾り立てて、いばること。だて。
 ③しどけなく乱れること」

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 「かぶく【傾く】
 ①頭がかたむく。かしぐ。
 ②はでで異様なふるまい・みなりをする。」
         (日本語大辞典 講談社 一九八九年)

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 つまり日本の中には乱暴で、はでに飾り立てて、
しどけなく乱れる表現の系譜があるのですが、
これが室町時代に「ばさら」とか「かぶく」というような言葉で
姿をあらわし、それはしかし不自然なものであり、異様で、派手で、
エキセントリックで、
《異端の系譜》の源流とも言うべきものになるのです。

これを戦後日本美術の中で分かりやすく言えば、
それは敗戦後の岡本太郎によって唱えられた縄文主義であり、
対極主義であり、あのどぎつい派手な色合いの絵画であり、
岡本太郎の「芸術は爆発だ」と力んでみせる歌舞伎の見栄を切る
ようなパフォーマンスなのです。

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岡本太郎の作品が芸術的には優れていないのは、
「バサラ」に還元する表現でしかないからです。

つまり「バサラ」への還元だけでは、
野蛮への退化しか意味していなくて、
文化ではなくて、
反文化でしかないのです。

野蛮に退化することだけでは、芸術的には無意味なのです。

糸崎公朗さんの、リカちゃん人形には、
デシャンの作品に触発され、反発しつつ、にもかかわらず模倣し、
なぞりつつ解体し、伝統的な野蛮文化のボキャブラリーの中に還元し、
あざ笑うことに表現を見いだしていくという、
複雑な摂取と解体の流れである「バサラ」を感じます。

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私自身は、こういう「バサラ」の系譜作品を多く見て来ているので、
正直に言って、「またか」と思ったのです。
つまり、外国の高度な作品を、摸倣しつつおとしめて、
低俗な自分たちの文化に基礎づけて行く系譜なのです。

コンプレックスゆえの表現です。
野蛮な人たちの、高度な文明に対するコンプレックスが生むこうした
表現に意味が無いわけではありませんが、疲れます。

その代表は、篠原有司男さんや0次元の加藤好弘の表現です。

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第2次世界大戦に破れて以降の日本現代美術は、
こうした「ばさら」の系譜に満ちています。
最近で言えばシンディシャーマンと森村泰昌さの関係です。
森村泰昌のやっていることは「ばさら」です。

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そして会田誠とフェニミズムの関係も「バサラ」です。

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会田誠さんの作品は、今日の《ローアート主義》と《バサラ主義》の
本質が体現されているとお思います。
ここで会田誠論を書くわけにもいかないので、
反フェニミズム系の作品の図版だけを選びました。

会田誠さんの作品集に書かれている方法は、
「美術は、世界を浅い表面的な捉え方で見ることで、
制作で出来る」とする主張です。

会田誠さんのご両親や親戚には教育者が多くて、
この身近からの文化的抑圧に対する反撃という心性があるようです。

世界を表面の先入観だけで捉えるので良しとする居直りに、
美術の根拠を見いだしているのですが、
乱暴に結論ずければ、
それは日本の下層にある反文化的な野蛮な心性に通ずるものが
あるのです。

>もともと「非人称芸術」というのは《ローアート》のことであって、民衆芸術や伝統芸術には、備わっているものだと考えます。《ローアー ト》への回帰の欲望を、理解は出来ますし、評価は出来ますが、しかし《ハイアート》の面白さを、私は評価する立場です。
>音楽も、映画も、私は《ローアート》も《ハイアート》も両方を見ますが、《ローアート》のつまらなさというのも、分かっているのです。この《ローアート》のつまらなさは、糸崎公朗さんの作品にもつきまとっています。

これも非常に興味深い指摘です。
ぼくの「非人称芸術」は「既存のアートの価値体系の破壊」でもあったのですが、それは彦坂さんのおっしゃる《ハイアート》の否定であり、その必然的な結果として既存の《ローアート》になってしまったとしたら、それは納得できる話です。

「既存のアートの価値体系の破壊」というのは、
しかし糸崎公朗さんがやったことではないでしょう。
糸崎さんのやられていることは、
「既存のアートの価値体系の破壊」を糸崎さん以前にしてきた
反芸術系の系譜の既存の仕事の流れにのって、さらにその末端に
位置しようとされてきている。
赤瀬川原平のイデオロギーや「トマソン」もまた《バサラ》ですが、
こうしたもののなぞりに、意味を見いだして来ておられる。

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そして一方では、自分につきまとう《ローアート》のつまらなさを、鬱陶しいと感じてもいるのです。もちろん、結果的に《ローアート》であることのおかげで得をしていることの方が多いのですが、これは「両刃の剣」です。

なるほど、うっとうしく感じられているのですか。
でも、今までどおりで良いのではないでしょうか。

私自身は、《ローアート》を作れるつもりではいますが、
しかし作品というのは、自分自身が最初の観客として鑑賞をするので、
それに忠実になれば、自ずと限界があります。
どこまで行っても、彦坂尚嘉の作品は彦坂尚嘉の作品であり、
糸崎公朗の作品は糸崎公朗の作品なのです。
この不快感や絶望からは逃れられません。

ぼくの「非人称芸術」は、実のところシュルレアリスムの影響を受けています。
シュルレアリスムが「無意識」を重視するのであれば、それは「意識=理性」の否定であり、その思想に基づく作品は必然的に《ローアート》になるのかもしれません。個人的な「無意識」を純化させると「非人称」になるというのがぼくの理屈です。とは言え、ぼく自身シュールレアリスムについて半端な知識で語ってるのも事実で、これは今後の課題です。

私はシュールリアリストでは、アンドレ・マッソンの作品が好きですが、
彼の作品は《ハイアート》です。
無意識が入るから《ローアート》になるという事は無いと思います。

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アンドレ・マッソン

もうひとつ、ぼくの作品に彦坂さんがおっしゃる《ローアート》があらわれていることは認めますが、しかしぼく自身は《ローアート》に埋没しない、外部的な「観察者および鑑賞者」に位置しており、それをもっていわゆる≪ハイアート≫のつもりではいるのです。

なるほど。
お考えは分かりました。

つまり理性によらない《ローアート》を、理性で見る目が自分にはあるつもりなのですが、ぼくの理性自体が「理性的思考に達していない」というのであれば、それを認めることもやぶさかではありません。

いや、理性的であられると思います。

>糸崎公朗さんのご意見は理解できますが、現実に糸崎さんが美術館で展覧会をしていることも事実ではあります。

ぼくが作品や美術館を否定しながら、一方でフォトモを美術館で展示するという矛盾は、自覚しています。つまりすでにぼくの中にも、互いに反転した価値体系が存在するのです。しかし「反転」というのはひとつ価値体系の裏表というだけでなく、反転のための「蝶番」は複数存在するのではないかと、最近気づきました。「反転の反転」は元の価値体系とは異なる「反転」でありえるはずで、そのような可能性を探ろうとしてるつもりです。

>《ローアート》と《ハイアート》の間には、人間が定住して農業を始めた 時に、大きな社会を形成したという事があります。大きな社会をつくって支配者層になった人びとと、支配される側にまわって古い自然採取の文化を残そうとす る人びとの分解が生じたのです。

「自然採集」について、ぼくは彦坂さんに何も伝えてないはずですが、見事に言い当てられました。ぼくは自分をアートにおける「狩猟採集民」を自覚しており、つまりぼくにとってアートとは「野生の芸術」を指すのであり、それによって「栽培種化された芸術」を否定し、だから普通の意味での作品制作もやめたのです。ただ、先に書いたように「野生の芸術」が単に既存の≪ローアート≫でしかないとすれば、それは問題視すべきことです。先にぼくは「《ハイアート》の否定」を言いましたが、実のところぼく自身は《ハイアート》を理解した上で解体したわけではないので、これも問題なのかも知れません。

>では2種類の美術とは、何か?
>それは素人の美術と、玄人の美術です。

>この2種類の美術の差を前提にして、
>芸術を論じないと、議論は空転します。


この言い方を受けると、ぼくはいわゆる「素人の美術」を「玄人の鑑賞眼」で論じようとしているつもりなのかも知れません。ただ、ぼくが示した「2種類の美術の折衷」みたいな立場が彦坂さんの示した価値体系には存在し得ないのだとすれば、ぼくは鑑賞眼も含めて「素人の美術=ローアート」の人でしかないのかも知れません。ぼく自身がその可能性を了解しなければ、おっしゃるとおり議論は空転するでしょう。

「2種類の美術の折衷」というのは、可能だと私は思います。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示は可能だし、
重要な表現だと思います。

>ついに、書けませんでしたが、芸術の鑑賞構造を理解できないために、骨董の視覚性をもって、代用しているのです。

これはぼく自身のことと理解してよろしいでしょうか?早い話、ぼくが「芸術」と思っていたものは実は「骨董」でしかなかった・・・と。仮にぼくがこれに反論するなら、まず「骨董」について説明しないといけないのですが、実のところ「骨董とは何か?」をあまり考えたこともなく、また≪ハイアート≫もわからないのであれば、論じようなく、申し訳ないです・・・。

以上、彦坂さんのご指摘の全てに返信できたわけではありませんが、ともかく彦坂さんのおかげでいろいろ「開眼」させられましたので、自分なりにいろいろ努力してみます。 
by 糸崎 (2010-03-13 17:51)  


糸崎公朗さん真摯な思考態度には驚かされます。
しかし《ローアート》で良いのではないかと思います。

今日の沈没崩壊する日本国の中では、
《ローアート》の成立しか
出来ないというのが社会的な現実ではあるのでしょう。

日本全体が「トマソン」化してしまうでしょう。

そうすると糸崎公朗さんが作れる対象物は増えると思います。

日本全体を衛星写真からフォトモ化できるのも、
近未来では可能なのではないでしょうか。

すでに日本の過半が骨董化しつつあるのです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

【最後に加筆】

これは余計な話です。
《ハイアート》の視点で言うと、
糸崎公朗さんの作品を金属板で制作したくなります。

現在の紙ですと楽ですが、しかし《ハイアート》とは言えません。
金属で作るのです。

しかし、実際にはたいへんです。



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第31回「ラカンと美術読書会」 [告知]

皆様
ラカンと美術読書会連絡係りの加藤 力と申します。
ご案内させていただきます
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第31回「ラカンと美術読書会」のご案内

日時3月31日(水)18時30分 〜 2時間程度
場所 立教大学(池袋) 6号館 6106研究室

29回、30回と彦坂尚嘉アトリエで行われておりましたが、
今回より通常の立教大学研究室に戻ります。
お間違えの無いようにご注意下さい。
宜しくお願いいたします。
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「ラカンと美術読書会」とは下記の2人が共催する読書会です。

彦坂尚嘉(日本ラカン協会幹事、立教大学大学院特任教授、日本建築学会会員、
美術家)
武田友孝(元・東京スタデオ、インデペンデント・キュレーター)

ラカン『無意識の形成物〈上〉』と、
月代わりで選出される美術本の読書会です。

2007年8月より月一回のペースで開かれています。
ごくごく初歩的な読書会で何方でも参加できます。
どうぞお気軽にご参加下さい。

テキスト
     ◎ラカンは『無意識の形成物〈上〉』 (岩波書店)
     ●美術は R.H.ロークマーカー 著 由水常雄 訳
       「現代美術と文化の死滅」(すぐ書房)

  参加費 無料(コピー代のみ実費で頂きたくお願いいたします)
     テキストは特に準備なさらなくても、こちらでコピーを用意いたします。

※ 研究会終了後、懇親会を予定しております。
 お時間に余裕のある方は、こちらの方にもご参加ください。
 なお、懇親会は、持ち寄りのパーティー形式で行いたいと思いますので、
 希望者の方は、あらかじめアルコールとつまみを
 適当に用意して来て頂ければ幸いです。
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立教大学への一番楽な道

池袋駅西口方面へ
西口の階段は登らずに、
地下商店街の通路を歩きC3出口から立教通りへ
駅から歩いて行くと、左手に立教大学の正面のツタの生えたたてものの
正門が見えます。
右手にも、立教大学の門があります。
それを通り過ぎて、最初の小さな道を右に曲がると、
左手に6号館の建物の門があります。
建物に入ると守衛の部屋があるので彦坂の所に行くと言って下さい。
研究室は6号館の6106です。

分からなければ、彦坂の携帯に電話して下さい。
090-1040-1445
研究室の電話
03-3985-6106

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詳しい行き方は以下よりお願いします
立教大学のサイト
http://www.rikkyo.ac.jp/
一番上のバーに交通アクセスがあります。

ページ中程に池袋キャンバスへの道順が、あります。
http://www.rikkyo.ac.jp/access/pmap/ikebukuro.html

キャンバスマップがあります。
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/index.html
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申込・問合せ先:加藤 力(美術家、臨床美術士)
           E-mail:riki-k@mc.point.ne.jp
           FAX:0467-48-5667


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ノーマンズランド展 [建築系美術ラジオ]



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建築系美術ラジオ「No Man's Land」

フランス大使館旧庁舎で開かれた「No Man's Land」(2009.11.26-2010.
02.18)についての批評です。
美術展示が美術館の外に出てくるという、かなり以前からの美術の流れ
をうけているものの、与えられた場をそのまま受け取るのではなく、
その場の成り立ちをトータルに考えることで新たな(美術的)解を
生みだすことが重要、と彦坂さんと栃原さん。
清々しいモダニズムの建物で何も展示物を置かない方が建築としては
よかった、という五十嵐さん。
以前配信したアートフェア東京との比較や、
パリの現代美術スペース「Palais de Tokyo(パレ・ド・トキオ、
築1937)」の紹介も挟まれます。
「建築系美術ラジオ」第1回収録シリーズです。(天内大樹)


収録日時:2010年02月14日
収録場所:新丸の内ビルディング/千代田区
収録時間:21分35秒
ファイル形式:MP3形式
ファイルサイズ:9.9MB

【続きは下記をクリックして下さい】


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高橋堅の建築/弦巻の住宅(写真追加4加筆1校正1) [建築]

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建築家の高橋堅氏の建築を、
東京世田谷区の弦巻まで見に行って来ました。

日本建築学会が発行している『建築雑誌 増刊 作品選集2010』の
写真では見ていました。

その時に、引きつけられたのは、不定形と言うか、
多角形の床の面白さでした。

それは単に”面白建築”というものではなくて、
知的な自由さがあって、
引きつけられたのでした。

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住宅専用建築
敷地面積:188.98㎡(57坪)
建築面積:89.61㎡(27.15坪)
延床面積;138.74㎡(42坪)

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私がアーティストとして追求して来たフォルムや構造と共鳴するものが
あって、引きつけられると同時に、
どのように作っているかと言う、
そういう方法への興味あって、高橋堅さんにお願いして、
高橋さんのご親戚の見学会に同行させていただきました。

高橋堅さんのお話を伺うと、
まず、不定形の土地が先にあって、
その土地の形を生かす形で、建築が作られています。

このことは重要で、建築というのは、
具体的な土地の地形や、地霊、周囲の景観の中に基礎づけて建てられる
ものなのです。

このことを絵画に当てはめて考えると、
絵画が矩形ではなくて、不定形のシェイブド・キャンバスの場合、
この不定形に合わせて、絵画構造が構想されるという事に対応するのです。

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屋根梁伏図を見ると分かりますが、中央の重なった3枚の大屋根が
あって、脇に3枚は、軒(のき)の屋根です。

この軒(のき)の下が、また部屋になっていて、
外観は軒(のき)の無い様に見えるコンクリート作りのような
フラットな屋根のような家に見えます。

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以下、建築家の松田逹さんの批評を引用しながら、途中で書き足す形で、
示したいと思います。
情報出典:artscapeレビュー/松田達

高橋堅《弦巻の住宅》

 

 

 旗竿地の奥の不定形な敷地に、十字を崩したような形態の二層のボリュームと、それを包絡する七角形の屋根。十字のあいだの部分は庇のかかったテラスとなっている。運良く高橋氏とお施主さんに内部を案内して頂く機会があった。以前からぜひ見たいと思っていた住宅であり、大変貴重な機会であった。
 
 角度が直交座標から少しずつずれていることで、内部での経験は何とも簡単に言語化できない複雑なものであった。特に全体が見渡せる二階のLDKと子ども室を含んだ空間では、360度見えているにも関わらずプランの全体像が分からないという不思議な体験をした。


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 非常に複雑な空間で、視線をさえぎる面と、ガラスで受ける面、
さらには外部に抜ける面があって、
室内は複雑で豊かで楽しい視覚空間が広がっています。
 
 このガラスは、非常に意識的に使われています。
 理想的とも言える完成度の高さと合わせて、新鮮な感動を受けました。

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写真高橋1.jpg

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 基本にあるのはモダニズムの矩形を基盤にしているのですが、
その内側から、生み出されたモダニズムの原則の延長での乗り越えが、
私の志向と重なっていて、なおさら感動したのです。


 こういう例を、私は、例えばポルトガルのアルヴァロ・シザ建築に
見いだします。
 モダニズムを水(H2O)の比喩で言えば 液体の様態であったのです。
たとえば、この比喩で言えばル・コルビュジェの建築は液体建築でありました。

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シザの建築は、モダニズムを、水蒸気という気体の様態に変化させた
建築でありました。

 
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 マルコ・デ・カナヴェーゼスの教会 1989年


ル・コルビュジェとシザの画像を並べてみますが、
微妙な差なので、分からないかもしれませんが、
様態の差があるのです。
ル・コルビュジェが液体建築であって、シザが気体建築なのです。
私の方法はイメージで見る《イメージ判定法》ではなくて、
《言語判定法》ですので、
おのおのに「液体」という言葉、
「気体」という言葉を投げかけてみて下さい。

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液体建築              気体建築


モダニズムを基礎にして、その内側からモダニズムを乗り越えている
という意味では、高橋堅の住宅はシザの気体建築をさらに前に押し進めて、
新しい次元=プラズマ化の次元に引き上げた作品と言えます。

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私自身が、シザや高橋堅の仕事に興味を示す理由は、
私自身が、実はモダニズムの内側からの乗り越えを目指して来たからです。

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ロバートモリス 1963
1968年に
ミニマル・アートの早いアーティストであるロバート・モリスの
影響を受けて、私はミニマリズムの作品を試みています。

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彦坂尚嘉 板壁 1969年



さらに1977年からのウッドペインティングのシリーズの中で、
モダニズムの内側からの越境を試みて来たのです。

それは同時に、絵画の支持体としての建築を制作する事でも
あったのです。
かつては建築の壁面に絵画を描いて来たのに、
絵画は建築から追放されたので、
私は逆に、絵画の支持体としての建築を作り出す必要があったのです。
それが到達したのが、絵画都市というシリーズでした。

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こういう試みは、しかし日本の美術界では孤立し、
その孤立性に私は苦しむようになります。
その隘路を超える道を求めて、
私は建築家との交流に向ったのです。

さてそういうわけで、シザにも興味を持ったし、
そして今回の高橋堅氏の建築にも、
モダニズムの内側からの乗り越え作品として、
深い共感を持ったのです。

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基本は、3隅にある矩形で、この矩形が重なっている中央部分に不定形
のような空間が生まれています。
この空間は3次元の空間です。
さらにその外部に形成されている軒(のき)の下の空間に包まれて、
4次元目というべきようなような空間が作られています。
さらにその外部の屋外の借景空間があって、その異次元の空間を、
仮に5次元空間とよんでおきます。
3重の空間の重なりの中で、複雑な5次元空間の重なりが生まれ、
その空間を見る空間感覚の新鮮な多様性の享受を生み出しているのです。

高橋堅の建築は、
2重の異質な外部空間を重ね持つことで、
それはリサ・ランドールの主張するような異次元論と
重なるものがあるのです。


リサ・ランドールの5次元の皮膜論というのは、
実は東洋遠近画法の、木枠に絹を張って透視するという画法を
想起させます。
これを現在の絵画の領域に還元して語れば、
5次元というのは
3層に重なったレイヤーで作られて深さの絵画であると言えます。
レイヤーによる多層絵画が新しい時代を指し示しているのです。

松田達氏の文章を続けます。

 高橋はこの住宅に関して「円環するパースペクティブ」という論考を書いている。われわれは空間において焦点を同時に一つの場所にしかあわせることができないのに、その視点や焦点距離を動かし、また被写界深度を変えることで、空間全体を把握しているかのように認識している。それはパースペクティブ(透視図法)という制度に従っているからだという。しかし高橋はそこから「パースペクティブによる空間」に対して疑いをかける。おそらく彼は、パースペクティブという制度に抵抗する空間をつくろうとしているのであろう。弦巻の住宅は、複数のパースペクティブを順に円環させる仕掛けを内包させた住宅であり、彼の論考はそれについて触れたものだと言える。

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ファエロ アテネの学堂

 私は画家なので、西洋遠近画法の成立過程を知っているのです。
それが実はギリシアとアラビアの光学であって、しかも十字軍によって
ヨーロッパに輸入されたのです。
しかも建築空間を描く事で発展したのであって、
実は建築の外部に出て、自由な空間を描く事は、
当初は出来なかった事を知っているのです。

角度や焦点の絶妙なずれが、複数のパースペクティブ間を運動させる原動力となっているようであるが、同時にそれによってつくられる空間体験の効果が、正確なプラン(ここでは平面図に加え、計画を組織する二次元的な図面全般の意味で用いている)を決して想起させないという点についても重要に思われた。プランとは決して現実に見ることのできない視点による図面表記であるのだから、われわれが感じる空間体験を本来プランとして理解することは難しいはずである。同様にプランによって本来的な空間体験を記述しつくり出すことも難しいはずである。平面や断面など二次元的な表現の組み合わせによって到達できないはずの、空間がもつ本来の可能性に彼は挑戦しようとしている。

つまり、もともと建築が、西洋遠近画法のパースペクティブを生みだしたのであり、
だから、パースペクティブの変革というのは、
建築そのものが変化する事が必要であったのです。
高橋堅の建築は、そういう根本的な変革を試みたのです。

彼は(コルビジェの晩年の代表作の)ロンシャンの礼拝堂における空間体験が、その後に見た写真イメージによってどんどん他のものに置き換えられていく経験について語っていたことがある。写真イメージは一見三次元的であるが、一つのパースペクティブによって「空間的」に見えるだけのものであり、むしろ二次元の側に近いだろう。だからロンシャンでの豊穣な空間体験をいつの間にか捨象して、二次元的なものに置き換えていったのだ。

写真の画像しか記憶に残らない事は私も気がついていて、
だから私はあまり写真を撮らないのだ。
建築は写真に撮れない原視覚を秘めていて、
それが建築であって、建築は文章でも写真でも記述できないもの
なのです。

彼の考え方を敷衍すれば、本来の空間体験は複数のパースペクティブを移動し、またそこから逃れようとする運動によってはじめて得られるようなものである。そのような本来的な空間体験を目指したのが《弦巻の住宅》であり、「円環するパースペクティブ」という論考は理論的にその考え方を説明しようとしている。いわば弦巻の住宅は、計画化されない空間、もしくは写真に置き換えられない空間と言うこともできるだろう。2009/07/03(金)(松田達)

この住宅はすでに高い評価を受けていて、
社団法人 東京建築士会の平成20年度の住宅建築賞を得ている。
その選評は次のようなものです。

大屋根をなぞる壁と,そうでない壁。さらに複数の角度を採用することで,さまざまな空間の領域が重ねあわされたインテリアをつくりだしている。リヴィングルームを大屋根が規定する大らかな空間として捉えつつ,しかし同時にその中のコーナーをこじんまりしたスペースとしても捉えたりするように,空間の多様な読みを導くような操作が住宅全体を貫いているのだ。空間を実体として作るのではなく現象する空間を追い求めようとするとき,さまざまなディテールは意味を構築するパーツへと変化する。つまりひとつひとつが言語として研ぎ澄まされた精度を必要とするのだが,はたして作者はその洗練を手中のものとしており,全体に緊張感が漂い住宅とは思えない静謐さをもつ空間が実現していた。しかしそうした静謐さは,裏を返せば生活のリアリティから遠のいた「建築的」な実験の結果だとネガティブにも捉えることができる。その弱さが見学会では強調されてしまう結果になったのだが,沢山の生活のものにあふれていたときにこそ,この現象する多様なパースペクティブという考えは生かされるのではないかと思っている。
(乾久美子)

この選評で興味深いのは、『全体に緊張感が漂い住宅とは思えない静謐さをもつ空間が実現していた』という指摘です。
私もそのことは気がついていました。この弦巻の住宅は、鑑賞構造を持った建築であったのですが、その鑑賞構造は《驚愕》と彦坂が名づけた、多くの建築が持つ鑑賞構造ではなかったのです。それは《瞑想》と言うべき鑑賞性を持った建築であったのです。

最後に彦坂尚嘉責任の芸術分析をしておきます。

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彦坂尚嘉責任による芸術分析

 

《想像界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術建築》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術建築》
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術建築》

 

 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
                  しかし《サントーム》はない。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的表現

 

 

《シリアス・建築》。しかし《気晴らしアート》の同時表示は無い。
《ハイアート建築》。しかし《ローアート建築》の同時表示は無い。
シニフィアン建築。しかしシニフィエの同時表示は無い。
理性脳による建築。しかし原始脳の同時表示は無い。
《透視建築》『オプティカル・イリュージョン』【A級建築】

《原建築》《建築》《反建築》《非建築》《無建築》はある。
しかし《世間体建築》は無い。

鑑賞構造のある建築。
発見されている鑑賞構造は《驚愕》《対話》《愛玩》《民芸》
《キッチュ》などがありますが、
高橋堅の建築の鑑賞構造は《瞑想》


 


タグ:高橋堅
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出版をめぐって/美術系ラジオ [アート論]

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天内大樹氏が作ってくたバーナーです。

建築系美術ラジオを天内大樹さんと始めようとしています。

正月に出版をめぐっての議論のラジオを、
私がアップに気がつかなくて、
遅くなったのですが、ご紹介します。

AR-美術系ラジオ
聴く: 建築系美術ラジオ「新春の集い」1
(MP3形式、8.7MB、18分31秒)

出演者:白濱雅也+栃原比比奈+彦坂尚嘉+天内大樹+南泰裕今更......の感もありますが、新春の集いです。2006年と2008年に開かれた彦坂さんと南さんによる「建築と美術のあいだ」展に併せて開かれたシンポジウム記録を、とりあえずは出版するつもりでゲラまで作成した白濱雅也さん。栃原比比奈さんの個展を行っていた彦坂さんのアトリエに関係者が集まり、編集会議を開くことになりました。さて、これを今まで通りのやりかたで「出版するか、否か──それが問題だ」。あるいは、「誰に読ませる/誰が読むのか?」。メディアがきわめて凡庸な理解のしかたを再強化するばかりになってしまった現状で、何が有効な戦略なのか? 新たなメディア「建築系ラジオ」の中で考えてみます。連載コーナーを決める前の収録でしたが、「建築系美術ラジオ」(旧称:美術系ラジオ)第0回収録シリーズとしてお楽しみ下さい。(2010年1月4日、彦坂尚嘉アトリエ=藤沢市にて)


AR-美術系ラジオ
聴く: 建築系美術ラジオ「新春の集い」2(MP3形式、7.9MB、16分55秒)
2006年と2008年に開かれた彦坂さんと南さんによる「建築と美術のあいだ」展に併せて開かれたシンポジウム記録を印刷媒体で「出版するか、否か」。電子出版(による生き残り)の可能性が様々に探られているなかで、物質としての書物を手許に引き寄せ、紙とインクという形態で長く残すという態度もあり得ます。書物をめぐる議論は、いつしかTwitterなど新たな形のメディアについての議論を通過し、書物を支えてきたはずの都市人口が全人類に占める割合(=都市人口率)という大きな話へ。「建築系美術ラジオ」第0回収録シリーズです。(2010年1月4日、彦坂尚嘉アトリエ=藤沢市にて)。


AR-美術系ラジオ
聴く: 建築系美術ラジオ「新春の集い」3(MP3形式、17.6MB、37分30秒)
本が「売れる」ために、芸術家(建築家)はどれほど「とがる」べきか。〈売れる/とがる〉、あるいは〈ハイアート/ローアート〉は、決して二項対立ではないのではないか。芸術の、あるいは建築の役割、言い換えれば芸術家や建築家の社会における役割はなにか。人々にまだ見えぬ世界を提示するのか、人々を統合するのが先か。「意識の痛点」を突く「建築」と、凡庸で退屈な日常。建築の骨組と、絵画の骨組の比較は、時間をおいて「透明性」の議論につながります。栃原さんの作品評も含め、議論が暖まってきたので、30分越えの長大番組を「建築系美術ラジオ」第0回収録シリーズからお送りします。(2010年1月4日、彦坂尚嘉アトリエ=藤沢市にて)。



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狂乱の世界 [生きる方法]

 

川上直哉 (2010-03-13 06:20)さんのコメントの後半への
お返事です。
 
第三の点は、第二の点の展開です。

1950年代以降を今と弾き比べる時代感覚の錯誤が、指摘されました。
これは、重要な指摘だと思います。

私も、1930年代こそ、今と比べるべき時代だというご指摘に、
賛成します。
しかし、それだからこそ、
1950年代に目を向けている、つもりなのです。

日本の1930年代は、いつ、終わったか。
それは、各方面でずれがあると思いますが、
少なくとも日本のキリスト教界(新教に限る)では、
1950年代に、やっと、おわります。

つまり、1930年の問題としておっしゃっているのは、
日本のキリスト教が、戦争協力したという問題だろうと
思うのです。

日本のキリスト教組織は、
少数の例外の人びと殉教者を除いて
大政翼賛会に賛同して戦争協力の道を選んだのです。

それは、そもそもは日本のキリスト教と、
国家神道としての近代天皇制の矛盾に根があったのだろうと、
思います。

日本を神国としてとらえる考え方は、
実は仏教からの圧力と、元寇という外圧の中で生じたと考えられます。

神道そのものをアニミズムと考える考え方が一般的ですが、
しかしもしもアニミズムならばアフリカの黒人彫刻のような
偶像崇拝物が、神道文化としてあって良いと思うのですが、
寡聞にしてそういうものをあまり知りません。

お隣の韓国に行くと、アフリカかと見間違えるような
原始的な彫刻や仮面が多くあります。
しかし私が見て来た限り日本の神社文化の中には、
原始彫刻はありません。

ですので私は神道をアニミズムではないものと考えています。

伊勢神道の外宮の度会神道から、本地垂迹説に対する反撃が起きます。

本地垂迹説というのは、仏教と神道を統合しようとする時に、
仏教を上に置いて統一する考え方です。

これに対して度会 家行(わたらいいえゆき)は、
神が主で仏が従うと考える神本仏迹説を唱えて、
これが度会神道(わたらいしんとう)になります。

この度会 家行が北畠親房(きたばたけちかふさ)に影響を与えて、
『神皇正統記』という歴史書になります。

ここに、日本を神国とする考え方の重要な源泉があるのです。
これをどのように考えるかです。

日本の近代のキリスト教の大半は、
この天皇を神とする神国主義との対決を回避してしまいます。


近代という時代は、もともと国民国家の時代であり、
国家という枠組みが、強烈に強かった時代です。
この国民国家と天皇制が重なった大日本帝国下にあって、
日本のキリスト教は、教義的にも、矛盾を抱えてしまうのです。

もともとローマ帝国の支配の下で抵抗したキリスト教徒は、
たくさんの殉教者という犠牲者を出しながら、
彼らの屍の上に自らの信仰を築き上げて来たのです。

しかし日本のキリスト教が、殉教者の屍の上に立つ事、
つまり自らもまた、死を賭して信仰を確立しようとするものと
しては、近代日本のキリスト教は、充分ではなかったのです。

それは歴史の順番と言うか、ボタンのかける順番が、欧米とは
違っていたのであって、仕方がない事であったと、
私は思います。

1950年代になるまで、
1930年代の思想を引き継いだ1940年代の指導者が、
相変わらず、平然と、日本のキリスト教界に君臨していました。
そのことを総括するのは、1950年代になってからなのです。

私見を申し上げれば、
近代社会というのは、国民国家という形で、
《原-社会》の基盤を確立したのです。

この《原-社会》の確立以前に、宗教の基盤を確立していないと、
宗教教団としては普遍性を持ち得なくなるのです。

つまり近代社会の《原-社会》の確立以後の宗教は、
新興宗教になってしまって、
そこでは世界宗教としての普遍性を確立できない。

大本教や、創価学会、そしてオウム真理教が、
日本国家の権力を奪取しようと試みた事のうちに、
この宗教的普遍性が、近代国家の《原-社会》性と激突する構造を
持っていることが示されています。

創価学会の場合、1969年の「言論出版妨害事件」によって、
1970年には池田大作が正式に謝罪し、
教義から「王仏冥合」、「仏法民主主義」などの仏教用語を削減したことで、
創価学会の宗教性は、実は本質を失い、新興宗教のカルト性に収斂させられたと
私は思います。

つまり私の言いたいのは、
日本のキリスト教は、明治維新以前の殉教者の上に、
自らの基礎を築くべきであったと、私見では考えるという事です。

同様に、戦前の戦争協力の問題も、
協力しないで、殉教していった人びとの屍の上に、戦後の復興を成立
させるべきだったと考えます。
朝鮮では、多くのキリスト教徒が神道に対して抵抗して、
50名が殉教し、2000名が投獄され、200の教会が日本政府によって、
閉鎖されているのです。
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獄死した小山 宗祐

日本のキリスト教徒でも、ホーリネス弾圧事件や、美濃ミッション事件で
激しい弾圧を受け、投獄や殉教者を生んでいます。
私は、こうした抵抗と殉教の上に日本のキリスト教は成立するのであって、
そのことを直視しないと、宗教そのものの精神性は成立しないと思います。

キリスト教関連の思想においては、
ニヒリズムが、1950年代の大問題でした。
それは、キリスト教以外の思想圏との連動もあります。
しかし、ニヒリズム克服の運動の中で、
1930年代を総括したことは、事実です。

文学では、椎名麟三が、新教を代表しています。
そして、椎名に連携している神学者たちが、
私の研究対象となっています。

椎名麟三を私は読んでこなかったので、
この辺りは不勉強であります。
しかし私見では、この国家神道をキリスト教の、
教義の対決は、キリスト教の敗北というのが、
基本であったのではないでしょうか。

その神学者たちは、
1940年代の顛末を振り返り、
自分たちに欠けているものを見据えます。
そして、その欠損故に起こってくる待望にこそ、
1930年代を克服する足がかりを見出したのでした。

私は、これから、1930年代の暗黒が迫るのだと思います。
その今、1930年代を克服しようとした1950年代に学ぶこと。
それは、まず第一に過去の失敗に学ぶことを目指すものですが、
同時にまた、「新しい生産」の可能性を模索することにも、
つながるかもしれません。
エールをいただきましたこと、ありがとうございました。

問題は、近代の終焉以後にこそあって、
ひとつは天皇をいかに位置づけるのかという事です。

もうひとつは、情報化社会に於いては、
聖なるものは再び、別の次元で蘇ってくるという事です。

このありようを捉える事は重要ですが、
このことが日本の近代の内部にある日本のキリスト教の
不徹底さとか、国家神道とかとは、
一応、別の次元であって、
そこには、非連続性もあるように思えるという事です。

そして、もうひとつ。
原題は、虚無主義が全体を覆っている、とうのは、事実です。
しかし、私は、教師として考えます。
若者たちは、世界を見渡すことができるようになって、
皆、押し並べて、ショックを受けているようです。
それは、おっしゃる通り、
虚無主義が跋扈している現状を知って、
「こんなはずではなかった」というショックです。
私は、教養の教師ですから、
世界の実相を伝えなければならない。
その時、常に、
新しく虚無主義と向き合わされる若者たちと共に、
虚無主義と、戦わなければならない。
そうした私にとって、
1950年代に、学ぶことが多くあると思っているのです。

私の考えでは、すでにニヒリズムは終わっているのであって、
たいした問題ではないと思うという事です。
現実にはニヒリズムも、近代個人主義も大勢を占めていますが、
それは古い《近代》の風化形態であって、
問題としては、解決できない事です。
それは自然淘汰が結論を生み出して行くのではないでしょうか。

川上直哉さんの立場からは、自然淘汰にゆだねるわけにはいかない
でしょうが、《近代》そのものの風化は、避けがたいのであって、
この風化そのものは、私の立場からは手の打ちようの無い問題なのです。

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レーラ・アウエルバッハ/Lera Auerbach [美人論]

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レーラ・アウエルバッハ/Lera Auerbach

1973年、旧ソ連のチェリヤビンスク生まれ。6歳でピアノの初リサイタルを開き、12歳で作曲した歌劇は旧ソ連の各地で上演されるなど、早熟の天才ぶりを発揮。91年に旧ソ連を脱出し、ジュリアード音楽院入学。ピアノと作曲で学位を取得する。さらにハノーヴァー高等音楽院で独奏者過程修了、コロンビア大学で比較文学を学ぶ。音楽活動のみならず詩と散文の著述活動も高く評価されており、ノーベル文学賞にノミネートされた経験ももつ。
これまでにロシア語による詩集が6巻出版されている。


レーラ・アウエルバッハの音楽に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析
《想像界》の耳で《超次元〜41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現
                 ただしプラズマ化はしていない。

《シリアス・アート》。ただし《気晴らしアート》はない。
《ハイアート》。ただし《ローアート》はない。


シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《原芸術》《芸術》《反芸術》がある。
ただし《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はない。

非常に良い音楽で、しかも聞きやすいので感銘を受けます。
《サントーム》があるというのも、その特徴です。
《近代》の純粋芸術の延長に、サントームを入れた音楽とでも、
言うべきものなのでしょうか。

そういう作り方はあると思います。
つまり無理して《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》を入れる
ことをしないで、古い純粋芸術の延長にサントームを入れて、
成立させる。
美術作品でつくっても、見やすい作品になるように思います。



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レーラ・アウエルバッハの顔
《想像界》の眼で《超次元》の美人。《第1次元》以下はない。
《象徴界》の眼で《超次元〜41次元》の美人
《現実界》の眼で《超次元》の美人。《第1次元》以下はない。

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》をもつ重層的人格
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人間
《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィエ(記号内容)とシニフィアン(記号表現)の同時表示人間。
『真実の人』

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