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日本画出身の豚絵画/山本藍子個展(加筆2画像追加5) [気体分子ギャラリー]

Press Release


気体分子ギャラリー/彦坂尚嘉責任企画第4弾


『日本画出身の豚絵画
 /山本藍子新作個展+玄牝展』

 

    

       ピッギー・ペインティングと初期日本画回顧展


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このたび気体分子ギャラリーの彦坂尚嘉責任企画として

若手アーティスト山本藍子の個展を開催したします。


会場は2会場で、ひとつがマキイマサルファインアーツ

もうひとつが藤沢市の六会日大前にある気体分子ギャラリーです。


新作個展;2010年5月21日(金)〜6月01日(火)

                            マキイマサルファインアーツ

                      
    〒111- 0053 東京都台東区浅草橋1-7-7
 ☎03-3865-2211

初期日本画回顧展;2010年6月04日(金)〜6月29日(火)

                         気体分子ギャラリー

        〒252-0813神奈川県藤沢市亀井野3-23-11

        ☎0466-21--8898/090-1040-1141



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山本藍子の日本画は、豚の頭を描いています。

それは同時にレースを手描きで描いていくという花の絵でもあります。

花と毒の組み合わせが、新しい

日本絵画の地平を示しているのです。

たとえば新作の絵画は、

『豚さんの肖像(大阪の鶴橋商店街にて

購入した茹で豚)』という題名が示しているように、豚を描いた

絵画なのです。茹でた豚の頭のグロテスクさは、描き込まれた

レースで覆い隠されていて、不用意に見れば気がつかないもの

なのです。この豚という現実を直視しながら、しかもなお、

それをレースの美しさで覆い隠して描くというところに、

芸術というもののダブルバインド性が自覚的に展開されているのです。

つまり芸術というのは、事実を隠して、透かして見る事なのです。


茹で豚を買った「大阪の鶴橋商店街」というのは、在日朝鮮人の町として

有名なところで、しかも戦後のて土地財産の不法占拠が多発した地域です。


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しかし山本藍子に、豚を描く政治的なメッセージや意図があるのか?

というと、そういうものは、まったくないのです。

むしろ在日朝鮮人や部落解放運動といった現実を絵画で覆い隠していく

ものです。あくまでも政治ではなくて芸術であり、そしてリアルな現実

ではなくて、それを覆い隠す絵画の成立なのです。




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山本藍子を考える時に、重要なのは父親の山本直彰の存在です。

近代絵画が、純粋美術を追い求め、そしてそれは抽象絵画への道行きであったので、日本画の到達点もまた抽象画であったのです。山本藍子の父親である山本直彰は、抽象画を日本画で追求した異端児であり、日本画の極北を極めた画家でした。

 


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 山本直彰は1950年横浜市生まれ。1975年に愛知県立芸術大学大学院修了。創画会でデビューして、1992年には文化庁在外派遣研修生としてプラハ滞在しています。さらに2004年に練馬区立美術館で開かれた『超日本画宣言――それは、かつて日本画と呼ばれていた』に出品しています。さらに2009年には平塚市美術館で『山本直彰展 ―帰還する風景― 』を開催、そして2010年位は芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しているのです。

 

 こうした抽象画家としての日本画家を父として生まれたのが山本藍子という日本画家なのでした。父の山本直彰が、近代日本画家であったのに対して、娘の山本藍子は、村上隆のポスト日本画を引き継ぐポスト村上隆世代の新人の日本画家なのです。

 山本直彰は、現代美術の画廊であるコバヤシ画廊でたびたび発表しているので、筆者も見て来ている同時代の作家でありました。つまり筆者にとっても、山本藍子は娘の世代の画家のデビューに立ち会っている事なのです。しかもこの山本直彰の娘の藍子には、父の異端性と反骨性を引き継いだ面白さがあって、私の興味をひくのです。

 例えば学生時代に描いた魚の絵があるのですが、それは海の中を泳いでいる魚の絵なのですが、その魚が干物なのです。干物が泳いでいる魚の絵というのは、どこか魚の図鑑のような若冲の絵画の系譜を感じさせるのですが、若冲の絵画が《第6次元 自然領域》でしかないのに対して、山本藍子の絵画は《第41次元 戦争領域》のまがまがしさがあるのです。つまり山本藍子には、絵画そのもののありように対する画家特有の批評性が見えるのです。

 それはショートケーキを描いた絵画や、パンツを丸出しにして座るヒロミックスのような自画像や、片岡珠子の面構えのパロディのようなおひな様の絵画にも言えます。

 絵画が絵画でありながら、絵画を批評し、そして絵画に毒を盛り込んだような日本画なのです。そして父親の山本直彰が、『超日本画宣言――それは、かつて日本画と呼ばれていた』に出品していたように、娘の山本藍子もまた、初期の膠と岩彩をつかった日本画から、アクリル絵の具を使ったポスト日本画へと移行して行きます。脱ー日本画は、新生の日本絵画への出発であると言えると思います。かつて加藤周一は、日本の絵画が、洋画と日本画に分裂していて、日本絵画が失われていると嘆きましたが、今日私たちが見ているのは、この分裂を克服して、統一としての日本絵画を描く新人たちの登場なのです。

 今回の彦坂尚嘉のプロデュースでは、初期の日本画を気体分子ギャラリーに展示することで、現在のプラズマ化して、世界先端の絵画シーンを目指す山本藍子のピッギーペインティングの芸術的根拠を示す試みをします。

 2010年代のアートシーンに重要な役割をするだろう新人日本絵画の新星を、応援して下さる事を、心からお願いする次第であります。


山本藍子

2004年  武蔵野美術大学日本画科卒業
2006年  ギャラリー繭蔵(青梅・東京)
2008年  第44回神奈川県美術展 美術奨学会賞受賞
2009年  Butsuzo展 (マキイマサルファインアーツ・東京)
    Shock The Pig  山本藍子+元木みゆき(「深川ラボ」)

    

 



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2010-03-28




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ニヒリズム以後の世界(加筆1) [状況と歴史]

 
川上直哉 (2010-03-13 06:20)さんのコメントの後半への
お返事です。
 
第三の点は、第二の点の展開です。

1950年代以降を今と弾き比べる時代感覚の錯誤が、指摘されました。
これは、重要な指摘だと思います。

私も、1930年代こそ、今と比べるべき時代だというご指摘に、
賛成します。
しかし、それだからこそ、
1950年代に目を向けている、つもりなのです。

日本の1930年代は、いつ、終わったか。
それは、各方面でずれがあると思いますが、
少なくとも日本のキリスト教界(新教に限る)では、
1950年代に、やっと、おわります。

つまり、1930年の問題としておっしゃっているのは、
日本のキリスト教が、戦争協力したという問題だろうと
思うのです。

日本のキリスト教組織は、
少数の例外の人びと殉教者を除いて
大政翼賛会に賛同して戦争協力の道を選んだのです。

それは、そもそもは日本のキリスト教と、
国家神道としての近代天皇制の矛盾に根があったのだろうと、
思います。
その意味では、キリスト教を圧倒した国家神道というものの重要性を、
再認識する必要があるのです。

日本を神国としてとらえる考え方は、
実は仏教からの圧力と、元寇という外圧の中で生じたと言われます。
私の私的な感覚では、仏教に対する抵抗が日本の根底に存在している
という問題です。

神道そのものをアニミズムと考える考え方が一般的ですが、
しかしもしもアニミズムならばアフリカの黒人彫刻のような
偶像崇拝物が、神道文化としてあって良いと思うのですが、
寡聞にしてそういうものをあまり知りません。

お隣の韓国に行くと、アフリカかと見間違えるような
原始的な彫刻や仮面が多くあります。
しかし私が見て来た限り日本の神社文化の中には、
原始彫刻はありません。

ですので私は神道をアニミズムではないものと考えています。
日本にある言魂信仰というものに注目すると、
神道は、実は呪術ではなくて、世界宗教の一変形ではないかとすら
考えます。

つまり天皇の天が指し示すもの、
さらには北斗信仰の問題などから、
実は北極性に基盤を置く世界宗教と同根性をもつ宗教として、
神道があるだろうと私は考えています。
こう考えると、キリスト教と国家神道がぶつかった時に、
国家神道が圧倒したという事も、理解できるのです。

国家神道の源泉は、
伊勢神道の外宮の度会神道から、
本地垂迹説に対する反撃として始まっています。

本地垂迹説というのは、仏教と神道を統合しようとする時に、
仏教を上に置いて統一する考え方です。

これに対して度会 家行(わたらいいえゆき)は、
神が主で仏が従うと考える神本仏迹説を唱えて、
これが度会神道(わたらいしんとう)になります。

この度会 家行が北畠親房(きたばたけちかふさ)に影響を与えて、
『神皇正統記』という歴史書になります。

ここに、日本を神国とする考え方の重要な源泉があるのです。
これをどのように考えるかです。

私自身は、この度会 家行や、北畠親房に対する評価があります。

明治維新後に、この神国主義が国家神道に変貌し、
ある種のカルトになります。
日本の近代のキリスト教の大半は、
この天皇を神とする神国主義との対決を回避してしまいます。


近代という時代は、もともと国民国家の時代であり、
国家という枠組みが、強烈に強かった時代です。
この国民国家と天皇制が重なった大日本帝国下にあって、
日本のキリスト教は、教義的にも、矛盾を抱えてしまうのです。

もともとローマ帝国の支配の下で抵抗したキリスト教徒は、
たくさんの殉教者という犠牲者を出しながら、
彼らの屍の上に自らの信仰を築き上げて来たのです。
強大なローマ帝国の帝国権力に徹底抗戦をすることで、
キリスト教は成立したのです。

しかし日本のキリスト教が、殉教者の屍の上に立つ事、
つまり自らもまた、死を賭して信仰を確立しようとするものと
しては、近代日本のキリスト教は、充分ではなかったのです。

それは歴史の順番と言うか、ボタンのかける順番が、欧米とは
違っていたのであって、仕方がない事であったと、
私は思います。

1950年代になるまで、
1930年代の思想を引き継いだ1940年代の指導者が、
相変わらず、平然と、日本のキリスト教界に君臨していました。
そのことを総括するのは、1950年代になってからなのです。

私見を申し上げれば、
近代社会というのは、国民国家という形で、
《原-社会》の基盤を確立したのです。

この《原-社会》の確立以前に、宗教の基盤を確立していないと、
宗教教団としては普遍性を持ち得なくなるのです。

つまり近代社会の《原-社会》の確立以後の宗教は、
新興宗教になってしまって、
そこでは世界宗教としての普遍性を確立できない。
明治以降の日本のキリスト教は、徹底抗戦をしない限り、
普遍性を獲得できないのです。

それがささやかであっても、
死をとしての徹底抗戦においてはじめて、
普遍的価値が出現するのです。
ささやかでも良いというのは、
たとえば内村鑑三や、手島郁郎に対する私の評価は、
このささやかな徹底抗戦に対するものです。

大本教や、創価学会、そしてオウム真理教が、
日本国家の権力を奪取しようと試みた事のうちに、
この宗教的普遍性が、近代国家の《原-社会》性と激突する構造を
持っていることが示されています。

大本教の出口ナオや出口 王仁三郎に対する評価は、
私の中にあります。

創価学会の場合、1969年の「言論出版妨害事件」によって、
1970年には池田大作が正式に謝罪し、
教義から「王仏冥合」、「仏法民主主義」などの仏教用語を削減したことで、
創価学会の宗教性は、実は本質を失い、新興宗教のカルト性に収斂させられたと
私は思います。
その意味で、創価学会は、国家権力との対決において、挫折したのです。
しかし近代国家の根底に《原-社会》が措定された以降は、
近代宗教によっては、国家権力に対峙する事は、原理的に出来ないのだと、
私は思います。

つまり私の言いたいのは、
日本のキリスト教は、明治維新以前の殉教者の上に、
自らの基礎を築くべきであったと、私見では考えるという事です。

同様に、戦前の戦争協力の問題も、
協力しないで、殉教していったキリスト者の屍の上に、戦後の復興を成立
させるべきだったと考えます。
朝鮮では、多くのキリスト教徒が神道に対して抵抗して、
50名が殉教し、2000名が投獄され、200の教会が日本政府によって、
閉鎖されているのです。
だから韓国のキリスト教は強いのです。
その強さを、日本のキリスト教は欠いているのです。


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獄死した小山 宗祐

日本のキリスト教徒でも、ホーリネス弾圧事件や、美濃ミッション事件で
激しい弾圧を受け、投獄や殉教者を生んでいます。
私は、こうした抵抗と殉教の上に日本のキリスト教は成立するのであって、
そのことを直視しないと、宗教そのものの精神性は成立しないと思います。

キリスト教関連の思想においては、
ニヒリズムが、1950年代の大問題でした。
それは、キリスト教以外の思想圏との連動もあります。
しかし、ニヒリズム克服の運動の中で、
1930年代を総括したことは、事実です。

文学では、椎名麟三が、新教を代表しています。
そして、椎名に連携している神学者たちが、
私の研究対象となっています。

椎名麟三を私は読んでこなかったので、
この辺りは不勉強であります。
しかし私見では、この国家神道をキリスト教の、
教義の対決は、日本キリスト教の敗北というのが、
基本であったのではないでしょうか。

その神学者たちは、
1940年代の顛末を振り返り、
自分たちに欠けているものを見据えます。
そして、その欠損故に起こってくる待望にこそ、
1930年代を克服する足がかりを見出したのでした。

私は、これから、1930年代の暗黒が迫るのだと思います。
その今、1930年代を克服しようとした1950年代に学ぶこと。
それは、まず第一に過去の失敗に学ぶことを目指すものですが、
同時にまた、「新しい生産」の可能性を模索することにも、
つながるかもしれません。
エールをいただきましたこと、ありがとうございました。

問題は、近代の終焉以後にこそあって、
ひとつは天皇をいかに位置づけるのかという事です。
現代の情報化社会で、
天皇の祈りという行為を、どのように位置づけて行くのか?

もうひとつは、情報化社会に於いては、
聖なるものは再び、別の次元で、
つまり国家神道や、日本キリスト教の次元とは別の位相で、
蘇ってきているという事です。

このありようを捉える事は重要ですが、
このことが日本の近代の内部にある日本のキリスト教の
不徹底さとか、国家神道による敗戦とかとは、
一応、別の次元であって、
そこには、非連続性もあるように思えるという事です。

そして、もうひとつ。
原題は、虚無主義が全体を覆っている、とうのは、事実です。
しかし、私は、教師として考えます。
若者たちは、世界を見渡すことができるようになって、
皆、押し並べて、ショックを受けているようです。
それは、おっしゃる通り、
虚無主義が跋扈している現状を知って、
「こんなはずではなかった」というショックです。
私は、教養の教師ですから、
世界の実相を伝えなければならない。
その時、常に、
新しく虚無主義と向き合わされる若者たちと共に、
虚無主義と、戦わなければならない。
そうした私にとって、
1950年代に、学ぶことが多くあると思っているのです。

私の考えでは、すでにニヒリズムは終わっているのであって、
たいした問題ではないと思うという事です。

現実にはニヒリズムも、近代個人主義も大勢を占めていますが、
それは古い《近代》の風化形態であって、
問題としては、解決できない事です。

それは自然淘汰が結論を生み出して行くのではないでしょうか。

川上直哉さんの立場からは、自然淘汰にゆだねるわけにはいかない
でしょうが、《近代》そのものの風化は、避けがたいのであって、
この風化そのものは、私の立場からは手の打ちようの無い問題なのです。

つまり《近代》の《現実界》だけにニヒリズムが成立するのです。
人間は《現実界》だけで生きているのではないので、
ニヒリズムには限界が存在するのです。

つまり、今日、複数の人間が協力して活動するという、
マネージメントの場において、それが資本主義の起業/起業であろうが、
アートの現場であろうが、宗教教団の活動であろうが、
マネージメント/サントームの次元では、
ミッション=目的、使命、任務が存在するのであって、
そこにはニヒリズムは克服されているのです。
つまり《現実界》の外部である《サントーム》においては、
二ヒリスムは克服されているのです。

今日のコンピューターを使った労働においては、
基本的にはニヒリズムは克服されているのです。
つまりニヒリズムは、原理的に単純系科学の次元だけで成立していた
のであって、今日の複雑系科学の場においては、
ニヒリズムは成立しないのです。

このブログもそうですが、ニヒリズムにおいては、
書き続き得ないのであって、
ここではすでにニヒリズムは克服されているのです。

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能面・伎樂面 [作品と展示]

雪の小面グジャグジャシリーズ.jpg

 

能面(雪の小面)グジャグジャシリーズ


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伎樂面グジャグジャシリーズ


能面や伎樂面などの仮面や、書、そして中規模の絵画の多くは、

《対話》という鑑賞構造で作られています。

 能面では、何と言っても秀吉が愛した「雪の小面」が美しいですが、
他にも般若面や、翁面、そして狂言面に《超一流》があります。

それと伎樂面にもすぐれた《超一流》の面があって、
皇居美術館に収蔵展示されています。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

こういう制作の基本にあるのは、
著作権の制約です。

私の現在の制作が、著作権をクリアーしているかどうかは、
法的には正確には分かりませんが、
本人は、クリアーするように制作しています。

つまりビドロや、プリンスの段階ではもはや制作できないのです。

今、制作時に使っているのは、次のような
芸術の階梯表です。

《原芸術》
《芸術》
《反芸術》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》
《無芸術》
《世間体のアート》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《社会》
《原-社会》

このところ集中的に考えて来たのは、
《原-社会》ということです。
《原-社会》を意識する事で、作品は変わったと言えます。


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山本藍子 [気体分子ギャラリー]

日本画の豚絵画/山本藍子個展


Press Release



『日本画出身の豚絵画
   /山本藍子新作個展+玄牝展』

 

    

       ピッギー・ペインティングと初期日本画回顧展


このたび気体分子ギャラリーの彦坂尚嘉責任企画として

若手アーティスト山本藍子の個展を開催したします。


会場は2会場で、ひとつがマキイマサルファインアーツ

もうひとつが藤沢市の六会日大前にある気体分子ギャラリーです。


新 作 個  展;2010年5月21日(金)〜6月01日(火)

                            マキイマサルファインアーツ

                      
    〒111- 0053 東京都台東区浅草橋1-7-7
 ☎03-3865-2211

初期日本画回顧展;2010年6月04日(金)〜6月29日(火)

                         気体分子ギャラリー

        〒252-0813神奈川県藤沢市亀井野3-23-11

        ☎0466-21--8898/090-1040-1141


山本藍子の日本画は、豚の頭を描いています。

それは同時にレースを手描きで描いていくという花の絵でもあります。

花と毒の組み合わせが、新しい

日本絵画の地平を示しているのです。


たとえば新作の絵画は、

『豚さんの肖像(大阪の鶴橋商店街にて

購入した茹で豚)』という題名が示しているように、豚を描いた

絵画なのです。茹でた豚の頭のグロテスクさは、描き込まれた

レースで覆い隠されていて、不用意に見れば気がつかないもの

なのです。この豚という現実を直視しながら、しかもなお、

それをレースの美しさで覆い隠して描くというところに、

芸術というもののダブルバインド性が自覚的に展開されているのです。

つまり芸術というのは、事実を隠して、透かして見る事なのです。


茹で豚を買った「大阪の鶴橋商店街」というのは、在日朝鮮人の町として

有名なところで、しかも戦後のて土地財産の不法占拠が多発した地域です。

しかし山本藍子に、豚を描く政治的なメッセージや意図があるのか?

というと、そういうものは、まったくないのです。

むしろ在日朝鮮人や部落解放運動といった現実を絵画で覆い隠していく

ものです。あくまでも政治ではなくて芸術であり、そしてリアルな現実

ではなくて、それを覆い隠す絵画の成立なのです。



山本藍子を考える時に、重要なのは父親の山本直彰の存在です。近代という時代の絵画が、純粋美術を追い求め、そしてそれは抽象絵画への道行きであったとすれば、近代日本画の到達点もまた抽象画としての日本画であり、そして抽象画家としての日本画家であったのです。その一人が山本藍子の父親である日本画の異端児と言われた山本直彰だったのです。

 山本直彰は1950年横浜市生まれ。1975年に愛知県立芸術大学大学院修了。創画会でデビューして、1992年には文化庁在外派遣研修生としてプラハ滞在しています。さらに2004年に練馬区立美術館で開かれた『超日本画宣言――それは、かつて日本画と呼ばれていた』に出品しています。さらに2009年には平塚市美術館で『山本直彰展 ―帰還する風景― 』を開催、そして2010年位は芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しているのです。

 こうした抽象画家としての日本画家を父として生まれたのが山本藍子という日本画家なのでした。父の山本直彰が、近代日本画家であったのに対して、娘の山本藍子は、村上隆のポスト日本画を引き継ぐポスト村上隆世代の新人の日本画家なのです。そしてこの娘の藍子には、父の異端性と反骨性を引き継いだ奇妙な面白さがあります。例えば学生時代に描いた魚の絵があるのですが、それは海の中を泳いでいる魚の絵なのですが、その魚が干物なのです。干物が泳いでいる魚の絵というのは、どこか魚の図鑑のような若冲の絵画の系譜を感じさせるのですが、それ以上に絵画そのもののありように対する画家特有の批評性なのです。それはショートケーキを描いた絵画や、パンツを丸出しにして座るヒロミックスのような自画像や、片岡珠子の面構えのパロディのようなおひな様の絵画にも言えます。絵画が絵画でありながら、絵画を批評し、そして絵画に毒を盛り込んだような日本画なのです。そして父親の山本直彰が、『超日本画宣言――それは、かつて日本画と呼ばれていた』に出品していたように、娘の山本藍子もまた、初期の膠と岩彩をつかった日本画から、アクリル絵の具を使ったポスト日本画へと移行してきています。

 今回の彦坂尚嘉のプロデュースでは、初期の日本画を気体分子ギャラリーに展示することで、現在のプラズマ化して、世界先端の絵画シーンを目指す山本藍子のピッギーペインティングの芸術的根拠を示す試みをします。2010年代のアートシーンに重要な役割をするだろう新人日本絵画の新星を応援して下さる事を、お願いする次第であります。

 


 

  
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制作に追われて(加筆1) [日記]

いくつかの仕事が重なって、
仕事に追われています。
携帯で撮影した良くない写真ですが、
ご報告をかねてアップしておきます。

ひとつは、80号変形程度ですが、4点制作しています。
皇居美術館シリーズで、宗達の風神雷神図グジャグジャシリーズです。

写真7.jpg

写真.jpg

写真8.jpg

次の
も同様の皇居美術館グジャグジャシリーズで、写楽です。
サイズは20号Fで油彩とアクリルの併用です。
写真3.jpg

次も同様のシリーズで阿修羅像です。
サイズ技法は写楽と同様で20号。

写真6.jpg

あと、ウッドペインティングの20号の正方形くらいのもの。

写真5.jpg

同じくウッドペインティングの10号くらいのもの。

写真4.jpg

あと、小さなウッドペインティングです。

写真2.jpg

それと皇居美術館シリーズで、10号Fと8号Fで、8点制作しようと
しています。

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日本刀グジャグジャシリーズ

04.jpg
餓鬼草紙グジャグジャシリーズ

02.jpg
北斎グジャグジャシリーズ

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鳥獣戯画グジャグジャシリーズ

05.jpg
書道グジャグジャシリーズ

06.jpg
金閣寺グジャグジャシリーズ

07.jpg
那智の瀧グジャグジャシリーズ

08.jpg

雪村グジャグジャシリーズ

どこまで、間に合うか分かりませんが、
頑張っております。

4月2日〜4日には、有楽町の東京フォーラムのアトフェア東京に、
ギャラリーARTEから出品しますが、
皇居美術館のシリーズと、
出版の宣伝をやります。

5月10日から、
東京月島のタマダプロジェクトで、
『空想 皇居美術館』出版記念展をお願いしています。
そこでは皇居美術館シリーズをさらに増やして展示できればと思います。






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空想 皇居美術館 [告知]

皇居美術館リリース1.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
遅れ込んでできていたのですが、
今、この本の追い込みになっています。

デザインの川名潤さんが、売れっ子のデザイナーで、
彼が遅れているのと、私の部分も、川名さんに連動して遅れている
部分があって、今、他の仕事の締め切りとも重なって、
ひどい状態です。

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バサラ・メモ(画像追加 加筆) [日記]

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糸崎公朗さんの、フォトモという作品が、
バサラであるとわかって、長年の秘密を解いた気がしています。

なぜに、ああいうペラペラの紙の小さな作品を作りえるのか?
という謎は、
高度の芸術に対するコンプレックスが強くあって、
これを摸倣しつつ、なぞり、複雑に屈折しながら、
原始的で、レベルの低い下層文化に還元して行こうと言う
情熱であったのではないでしょうか。

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それが、ある意味で正直に過激に展開されたところに、
糸崎公朗さんの魅力と人気の秘密があったと、私見ですが、
思った次第です。

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こういう視点で見ると、
例えば北野武の映画もバサラであったと思います。
バサラものは、最初には高度な文化を摸倣してなぞるので、
その段階は魅力があります。
しかし次第に低いものに還元して、
還元し切ると、エネルギーを失ってつまらなくなるのです。

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同じ事はティムバートンにも言えて、
あれもアメリカのバサラであったと思います。
最初面白いのですが、次第につまらなくなって、
見るのも嫌になってしまう。

こういう私の私見に異議を唱える方は多いと思うので、
その異議は理解できます。

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しかし北野武やティム・バートンさらにはエディ・マーフィー、
、さらにはスティヴ・マーティンなどが、次第につまらなく
なっていったという理由を説明するのには、
バサラ理論は、ひとつの回答ではあるのです。

貶める(落としメル)ことの面白さというエネルギーは、
実は限界があるのです
落としメルのには、落とすべきものの高さが必要なのですが、
その高さが、本人が成功して偉くなる事で、
次第に失われてくるのです。

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糸崎公朗さんの作品も、立派な美術館で、
デュシャンと並んで展示されると、面白くは見えてこないのでした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

しかし、文化というものは、
そもそもがバサラの部分があって、
常に落下する喜びにあるのではないでしょうか。

しかしギャクもあるのです。
下層のものが上昇して行く喜びです。

どちらにしても下降と上昇の相矛盾するエネルギーの織りなす
不可思議な渦巻きの中で芸術は生まれ、死んで行くのです。



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建築・都市ブックガイド21世紀 [告知]

建築都市21世紀ガイド.jpg


建築・都市ブックガイド21世紀』(彰国社)という本が、
五十嵐太郎さんの編ででました。

定価は2100円です。

執筆者の中には、彦坂尚嘉も入っています。
私はネグリハート著『帝国』の紹介文章を2ページ書いています。

本としては、五十嵐太郎さんらしい本だと思います。
今日のブックガイドとして、目配りの良さが傑出しています。



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