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鑑賞構造とは何か?/糸崎公朗の対話(2) [アート論]

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糸崎公朗さんが、コメントを2つ書いて来て下さいました。
これへのご返事を書きながら、芸術の鑑賞構造の有無を書いて行こうと思います。

お送りした画像は差し替えではなく、新しい記事として書いていただいたんですね、ありがとうございます。

いろいろ考えたのですが、この記事は画像はそのままで価値があると思いますので、そのままにしていただければと思います。
メールにも書きましたが、展示について批判的なのは残念ですが、真摯で非常に興味深いご意見をいただいけたと思っております。

批判をする意思そのものは、あまりないのです。
正直な感想が基盤にあります。
1975/1991年の《近代》の崩壊以来、起きて来たのは、
古い近代芸術の崩壊と、新しいアートへの移行です。
こうした2つの潮流の混在する複雑な渦の状況の中に、糸崎公朗さんも
私もいるわけです。
その中で、糸崎さんは、真摯に問題を考えておられて尊敬できます。
ですから、私の感想は批判を目的に書いたものではないのです。
できるだけ正直に書こうとしているだけだと言えます。

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ぼくがもっとも興味深いと感じたのは、彦坂さんの

>一番ひどいのは、デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」(1941)に対して、その展示の形態への類似から、リカちゃん人形のボックスセットを対置しているものです。
>解釈は自由ですから、かまいませんが、馬鹿馬鹿しく私には見えてしまいました。

という意見です。
ぼくはこのデュシャンの『トランクの中の箱』と「リカちゃんハウスの」比較を「最大の自信作」として出展してますから、全く正反対の意見です。

そうですね。
この辺のところが、興味の違いだと言えます。
私から見ると、デシャンの作品集が『トランクの中の箱』ですので、少なくとも、糸崎公朗の作品集として糸崎版トランク・レプリカ美術館を作って、エディション制作をして欲しかったのです。

そもそもぼくは「非人称芸術」というコンセプトによって、いわゆる「一人称芸術」に対してある意味「正反対」の価値体系を提示してるつもりです。
ですからぼくの「最大の自信作」を彦坂さんが「一番ひどい」と捉えられることは、非常にまっとうな反応だとおもいます。

「非人称芸術」という価値観は、20世紀の前衛芸術の中のひとつの側面としてあって、デザインへの還元への欲望として、続いています。私の考えでは、この事実性は認めますが、もともと「非人称芸術」というのは《ローアート》のことであって、民衆芸術や伝統芸術には、備わっているものだと考えます。《ローアート》への回帰の欲望を、理解は出来ますし、評価は出来ますが、しかし《ハイアート》の面白さを、私は評価する立場です。
 音楽も、映画も、私は《ローアート》も《ハイアート》も両方を見ますが、《ローアート》のつまらなさというのも、分かっているのです。この《ローアート》のつまらなさは、糸崎公朗さんの作品にもつきまとっています。



また彦坂さんが同じ比較について「馬鹿馬鹿しい」と感じられたことも、興味深いです。
ぼく自身の「非人称芸術」の価値体系の中では、芸術家、美術館、アートマーケット、などの存在は基本的には「馬鹿馬鹿しい」と感じられるからです。この意味でも、彦坂さんとぼくの価値体系は「正反対」を示しているのではないかと思います。

糸崎公朗さんのご意見は理解できますが、現実に糸崎さんが美術館で展覧会をしていることも事実ではあります。
私自身は、美術制度の存在そのものはまず、認めます。何よりも、美術館に行くのが好きです。美術史も好きですし、個別研究者から美術研究の話を聞くのも、美術書を読むのも好きです。そして美術について考えるのが好きなのです。

ただし最近の自分は、「非人称芸術」という価値体系だけに閉じ籠もることをやめて、それとは「正反対の価値体系」を尊重しながら理解しようと試みています。
「価値体系」とはパソコンのOSのようなもので、MacのパソコンにWindowsをインストールし、その二面性を使い分けると言うことです。
この試みはまだ始めたばかりで、どのような成果に結びつくのか不明なのですが、その一環として彦坂さんに意見を伺ったり、デュシャンの本を読んだりしてるのです。
ですので、

糸崎さんのこうした探究性は、尊敬しています。
先日お会いした時にも、赤瀬川源平に対して、かなり正当な評価と批評性を示しておられて、たいしたものだと思いました。自分の論理を組み立てるだけでなくて、その外部にも興味を示されるところに、人間の精神としての正当性を見せて下さいます。なかなか、出来る者ではありません。

>糸崎さんには、デュシャンの芸術性の高さというものが見えていないように、私には見えたのです。

これも当たっているわけでして、ぼくは彦坂さんのおっしゃる「芸術性の高さ」というものに対し、意図的に目を背けてきたのかも知れません。

多くの人は、芸術を見ないで嫌っています。
それこそレオナルド・ダ・ヴィンチも、雪舟も見ないで、嫌うのです。
こういう心理を理解は出来ますが、その心理が《ローアート》の欲望と重なっています。《ローアート》と《ハイアート》の間には、人間が定住して農業を始めた時に、大きな社会を形成したという事があります。大きな社会をつくって支配者層になった人びとと、支配される側にまわって古い自然採取の文化を残そうとする人びとの分解が生じたのです。ここに《ハイアート》と《ローアート》の分裂の起源があって、それは人間が生きると言う時の、生活態度の基本的な差があるのです。その差を生み出しているのが識字問題です。つまり書き文字を媒介にして新しい精神の次元に立った人びとと、あくまでも無文字社会の伝統にたって、口承性の文化に本質を見ようとする直接性への希求をする精神の差です。
《ハイアート》の人びとの精神は、「反省」に基盤を置き、《ローアート》の人びとは、「分かる事」という了解性に基盤を置いているように、私には見えます。

ですので彦坂さんに言われて、さすがにすぐにフィラデルフィアには行けませんでしたが、東大の「大ガラス・東京バージョン」だけは何とか見てきました。
その他にもいろいろヒントを与えていただきましたが、じっくりといろいろ考えさせていただきます。
by 糸崎 (2010-03-10 13:15) お送りした画像とともに、新しい記事を書いていただいてありがとうございます。

美術作品には、キリスト教美術というのが、ありますが、キリスト教そのものは、美術ではありません。キリスト教と美術がくっついたのが、キリスト教美術です。

同じように、仏教美術というものがあります。仏教そのものは美術ではありませんが、仏教と美術が接合したものが、仏教美術です。

つまり宗教美術というのは、宗教そのものは美術ではないのですが、宗教と美術が接合すると宗教美術が生まれるのです。

同様の事は静物画にもいえます。静物そのものは、絵画ではありません。静物と絵画が接合すると静物画がうまれます。同様に風景画というのも、風景そのものは絵画ではないのですが、風景と絵画が接合すると風景画が生まれます。人物画も同様です。人物そのものは絵画ではないのですが、人物と絵画が接合すると人物画が生まれるのです。

こういう仕組みで、呪術と美術が接合すると、呪術美術が生まれます。
狂人と美術が接合すると、アールブリュットが生まれます。
子供と美術が接合すると、子供の美術が生まれます。

つまり美術というのは、美術ではないものと自由に接合して、○○美術という新種を次々に生み出すという折衷構造なのです。

そういう中で科学と接合した科学美術が、《近代》という時代の中に生み出されます。印象派が、光がプリズムで分解されるという科学的な事実に根拠を見いだしたのは、こうする事で、科学美術が成立するからです。立体派にしても、未来派にしても、抽象美術にしても、基本にあるのは、こうした科学美術という、科学的な思考への接合の構造だと考える事も出来るのです。

つまり糸崎公朗さんの「非人称芸術」というのは、非人称性と、芸術が接合したものなのです。そういう視点で見ると、非人称せいというのは、非人称性であって、芸術とは別のものです。
《非人称》ということをもって、芸術そのものや、美術そのものを説明は、なし得ないのです。

それは仏教美術において、《仏教》ということをもって、美術や絵画、芸術を説明や定義できないのと同様なのです。

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>糸崎さんの作品は、何なのか?
>と考えると、紙づくりのジオラマとの類似性です。

彦坂さんが示されたのは、紙の模型ではなく、プラモデルですね。
彦坂さんの論旨から外れるかも知れませんが、私見ではペーパーモデルとプラモデルは性質がちょっと異なっています。
ぼくは子供の頃プラモデルを作ってましたが、これは改造して精密に作り込むほど「良く」なってきます。
ところがペーパーモデルの方は、あまり精密にすると紙という素材の限界が見えてしまいますので、むしろうまく省略してデフォルメする方が「らしく」見えたりするのです。
これはぼくの「好み」でしかないのかも知れませんが・・・ともかく「フォトモ」は工作的には省略を心がけ、精密さは写真の描写に負ってるのです。

プラモデルではありません。
ペーパージオラマですよ。
http://www.kamizukuri.jp/

糸崎さんが、工作的には省略を心がけておられるのは、正当ですね。
芸術というのは省略なのですよ。
「芸術的節約」というのは、芸術制作において、重要なものなのです。


>糸崎公朗さんの作品が立つ基盤は、《記録》性で、記録というのは芸術の鑑賞構造ではないのです。

これは自分でもそのつもりですので、同意できます。

《記録》性を重視するというのも、実は科学美術の性格のひとつ
と言えます。
科学というのは、観察や記録に於いて成立します。
だから記録美術というのは、
記録と美術が接合したものなのです。
こでも、しかし記録は記録であって、美術では無いのです。
問題なのは、記録は記録ですが、美術は美術であるのかどうかです。

美術とはなんであるのか?

美術そのものを対象化する事無しには、
分からない事があるのです。

私見を申し上げれば、美術に2種類のものが存在するという事です。
この美術の分類を問題にする思考を抜きにしは、
芸術論は成立しないと思います。

では2種類の美術とは、何か?
それは素人の美術と、玄人の美術です。

喧嘩にも、素人の喧嘩のやり方と、
玄人の喧嘩のやり方があります。
玄人の喧嘩は、例えば空手です。

素人の殴り方と、
空手の有段者の殴り方は、根本的に違います。

同じように、絵画も素人と、玄人の差があるのです。

具体的に言えば、素人の色の使い方と、
玄人の色彩のコントロール技術は違います。

こういう2種類の差があるのです。

この2種類の美術の差を前提にして、
芸術を論じないと、議論は空転します。

>鑑賞構造性が無いにも関わらず、それが骨董というレトロになることで、
>擬似的な鑑賞性を持っているのです。

しかしながら、以前にも同様な指摘がありましたが、ぼくは自分の作品に「骨董」とか「レトロ」という価値を当てはめられることに違和感を持ち、もっと言えば反発を感じてしまいます。
自分としては、レトロや骨董は異なる「価値」を提示しているつもりなのです。
とは言え、「骨董やレトロに見えてしまう」という客観的事実は否定できないわけでして、そのように見える作品ばかり作る自分にもその責任の一端はあるわけです。
デュシャンは芸術における「趣味的判断」を否定しましたが、その意味でぼくは自分の「趣味的判断」から自由ではなく、この問題をどのように考えるかは今後の課題です。
自分としては、結果として「古びたもの」をモチーフにするのは、デュシャンの以下の言葉と関係しているような気がします。
__

同時代人が、自分たち固有の時代に対して今判断を下したところで、その判断の最小限の価値すら持たないと思います。われわれは近すぎるのです。そこでは距離をとらなければいけません。

マルセル・デュシャン

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距離を取るという事の結果、「「古びたもの」をモチーフにする」ということになっているというのは、理解は出来ます。
まあ、日本の場合、レトロは、実は強いのです。
ついに、書けませんでしたが、芸術の鑑賞構造を理解できないために、骨董の視覚性をもって、代用しているのです。
デュシャンには骨董性がないわけではありませんが、糸崎さんのように生に骨董性が出て来てはいません。つまりデュシャンとは関係のない理由で、糸崎公朗さんの作品につきまとう骨董性があるのです。


まぁぼくの場合、距離がまだまだ近すぎるのかも知れませんが・・・
もしくは、ぼく自身のつもりと鑑賞者の不可避的なズレが「擬似的な鑑賞構造」と言うことかも知れません。

これも、この文章で書けませんでしたが、日本の現代美術/現代アートが、擬似的な鑑賞性に依拠しているのは、実は美術市場と深く連動しています。糸崎公朗さん個人を超えた、大きな問題があるのだと思います。

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