糸崎公朗/(京都/本島)高松と駆け足旅行【4】(改題1改稿1加筆2画像追加) [日記]
「非人称芸術」のコンセプトを提唱し,写真を素材とした立体作品「フォトモ」などを製作。
今回は「変身は言葉から-デュシャンと対話するフォトモ」と題し,美術館コレクションと自作を組み合わせた展示を自らキュレーションする。
正直言って、私にはつまらなかったのです。
デュシャンと並べると、デュシャンの作品の良さばかりが見えてしまった。
図式すると次のような構造です。
糸崎公郎 デュシャン
《原芸術》が無い。 《原芸術》が有る。
《芸術》が無い。 《芸術》が有る。
《反芸術》が無い。 《反芸術》が有る。
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《非芸術》が有る。 《非芸術》が無い。
《無芸術》が有る。 《無芸術》が無い。
《世間体のアート》が有る。 《世間体のアート》が無い。
【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】
糸崎さんの作品は、《ローアート》であって、
あくまでも《世間体のアート》であるに過ぎないのです。
糸崎さんには、デュシャンの芸術性の高さというものが
見えていないように、私には見えたのです。
一番ひどいのは、デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」(1941)
に対して、その展示の形態への類似から、リカちゃん人形の
ボックスセットを対置しているものです。
解釈は自由ですから、かまいませんが、馬鹿馬鹿しく
私には見えてしまいました。
デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」を展示する開帳の形は、
この作品の本質ではないからです。
本質は、自分の作品のレプリカで、小型のレプリカコレクションを
つくって、美術館と称して、美術制度の外に出ている事です。
しかしあらためてデュシャンの作品を見直す機会としては、
刺激的であったのです。
特にデュシャンの作品に、鑑賞構造がないという事です。
糸崎公朗さんのフォトモには、《愛玩》という鑑賞構造があります。
鑑賞構造がない作品というのは、日本人ではすでに何人か見つけて
いますが、そういう作品の系譜というものを、改めて考えたく
思いました。
少なくともネオダダのラウシェンバーグや、ジャスパー・ジョーンズ
には、鑑賞構造はありますし、コスースにもあります。
シンディシャーマンにも、ジェフクーンズにもあります。
鑑賞構造を放棄するという制作論が、現代美術の主流を形成して
来たようには見えないからです。
これについてはもう少し考えて、改めて書きたいと思います。
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糸崎さんの作品について考えようとすると、
どうしても《世間体のアート》とか、《骨董》性とかにぶつかります。
それについて考えようとすると、
思考的には出来ますが、厳しいのです。
《世間体のアート》論というのは、むしろミケランジェロとか、
ティツアーについて論じる形がよいのです。
おそらく糸崎公朗さんを論じるには、別の視点が必要な
なのだろうと思います。
作品的には論じなくても面白さがストレートに
伝わってしまうからです。
そういう直接性が、糸崎公朗さんの作品の魅力です。
デュシャンはまったく逆でありまして、論じないと、
何がなんだかわからない作家であるのです。
その意味で、2人の組合わせは、ミスマッチの企画だったのです。