SSブログ

ヒノギャラリーの新装オープン [日記]

w01.jpg

hinoギャラリーが、移転して、1年ぶりにオープンしました。

中上清氏の個展です。

nakagami.jpg

中上清氏は、私のふるい友人で、
1972年のデビューが一緒で、
その時の美術手帖の展覧会批評欄にも、一緒に載っています。

このオープニングに行って、
2次会にも出ました。

作品論で言えば、中上清氏の作品は《想像界》だけの作品で、
固体美術で、《第6次元 自然領域》のものです。
最近の作品は、芸術的には《世間体のアート》だけになっています。
そういう意味では芸術的には評価はしません。

しかし中上清氏は、職業美術家として、アルバイトも拒否して、
美術制作だけで押し通して来た、私の数少ない友人なのです。

技法は工芸的で、そういう意味でも商品性はあって、
パリにも上陸していて個展を開いていますし、
鎌倉近代美術館でも回顧展を開いています。
その頑張りは驚異的で、根性の有る人物です。

そして《世間体のアート》というものの本質を考える上でも、
興味深い作家であります。

オープニングには1970年代の古い美術界の多くが集まり、
まるで同窓会のようであり、
そしてまたタイムスリップのようでありました。

厳しい時代ですが、
hinoギャラリーには、頑張ってもらって、
1970年代美術の最後の砦として機能してもらえればと思います。
オーナーの山本孝さんには、息子さんも娘さんもいて、
画廊経営に参加しているので、
生き残るエネルギーはあると思います。

さて、2次会の居酒屋でのスナップ写真です。

中上.jpg
左が中上清氏 正面に須賀昭初氏、となりが芝章文氏

多和.jpg
左が 鉄彫刻の多和圭三氏

山本.jpg
hinoギャラリー オーナーの山本孝氏

松下.jpg
左の黄緑の方が楠本正明氏、正面が松下和歌子と栃原比比奈氏

林.jpg
右が、森美術館の林牧人氏

藍子.jpg
山本藍子氏と日本画家・内田あぐり氏

藤枝.jpg
左が美術評論家・藤枝晃雄氏、山本孝、ネオダダの田中信太郎氏

高見沢.jpg
左が内田あぐり氏、美術家の高見沢文雄氏、美術評論家の峯村敏明氏

谷2.jpg
左が宇都宮美術館館長の谷新氏、山本藍子氏

谷.jpg
正面奥が国立近代美術館の松本透氏


ここには写真で写っていない方々もたくさんいて、
久しぶりに多くの旧知の方々にお会いしました。




nice!(3)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

2010-03-09



糸崎公朗さんから、高松市美術館での展示作品の画像と、
個人メールをいただきました。

s-16.jpg

 


彦坂さま


このたびは高松市美術館に来ていただきまして、ありがとうございました。

アルテさんのついでであったとしても、高松まではそれなりに距離がありますので、京都から回って大変だったことと思います。

展示に関しては批判的なことは残念ですが、しかし丁寧で真摯な評論をしていただいたことに感謝します。

非常に興味深く、また刺激的な内容であり、有意義なものです。

ところで、ブログの返信にも書きましたが、高松市美術館での展示画像をお送りしますので、これを記事にお使いいただけますでしょうか。

特に「トランクの中の箱」と「リカちゃんハウス」については、展示に使用した双方とも「より似ているバージョン」を提示しないと、第三者に意味が伝わりづらいのではないかと思われます(たとえぼくが提示しようとする意味が間違っていようとも、です)。

お手数おかけして申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします。

彦坂さんのリアクションを待って、あらためてブログに返信させていただきます。


糸崎公朗


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


s-17.jpg


糸崎公朗の作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で
《第8次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》《象徴界》の2界をもつ表現。

              《現実界》《サントーム》は無い。

固体の表現気体/液体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。

《気晴らしアート》である。《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》である。《ハイアート》性はない。
シニフィエ(記号内容)である。シニフィアン(記号表現)性は無い。

理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。

《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

糸崎公朗さんの作品には、芸術鑑賞構造性は無い。

《記録》を骨董を見る視覚で愛でている擬似的な鑑賞作品。

 


s-15.jpg


糸崎さんの作品は、何なのか?

と考えると、紙づくりのジオラマとの類似性です。


bantam_s.jpg
bronko sdkfz221_s.jpg
n_gage2.jpg
table.jpg
diorama.jpg
n_gage2.jpg

sakurei_s.jpg

紙のジオラマに対する彦坂尚嘉責任による芸術分析

 

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント

 

《想像界》の表現。

液体の表現

 

《気晴らしアート》である。
《ローアート》である。
シニフィエ(記号内容)である。

 

 

理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】

 

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。

《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ジオラマには鑑賞構造性はあって、それは《愛玩》という構造です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

糸崎公朗さんの作品と並べてみます。


sakurei_sのコピー.jpg
鑑賞構造は無い。          鑑賞構造は《愛玩》
《記録》/骨董                     

ペーパージオラマと、糸崎公朗さんの作品は、
良く似ていて、
大きな違いは、糸崎公朗さんの作品の《想像界》が、
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
であるということです。
もうひとつは、ペーパージオラマが、液体美術=近代美術であのに、
糸崎公朗さんの作品は固体美術=前-近代美術であることです。

つまり糸崎公朗さんの作品を成立させている要素で大きいのは、
レトロ感覚と言う、骨董を愛でる鑑賞性なのです。

だからといって、芸術作品としての鑑賞性があるのではないのです。

糸崎公朗さんの作品が立つ基盤は、《記録》性で、記録というのは
芸術の鑑賞構造ではないのです。

鑑賞構造性が無いにも関わらず、それが骨董というレトロになることで、
擬似的な鑑賞性を持っているのです。

このように、鑑賞構造を持たないものを、あえて愛でるという、
擬似的な鑑賞ゲームをして楽しむという遊び性が、糸崎公朗さんの
作品の魅力であるのではないでしょうか。

それは糸崎公朗さんの作品が《気晴らしアート》であることと
深く結びついています。

このことは、糸崎公朗さんと似ている作品として、
ジョージ・シーガルを思い出してみると、良く分かります。

Segal.jpg

シーガルの作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析

 

《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》

 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現

液体の表現固体/気体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。

 

《シリアス・アート》
《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)性の作品。

 

 

理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】

 

《原芸術》《芸術》《反芸術》

《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》の全てがある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鑑賞構造としては《驚愕》性で成立している。


シーガルと糸崎公朗さんの作品を並べてみます。

糸崎Segal.jpg
鑑賞構造は無い。          鑑賞構造は《驚愕》
《記録》/骨董                     

                   糸崎ジオラマSegal.jpg
鑑賞構造は無い。      鑑賞構造は《愛玩》 鑑賞構造は《驚愕》
《記録》/骨董                           
     

糸崎公朗さんさんの作品の軽さとか、ペラペラの薄さ感は、
素材が紙であるというだけではなくて、
鑑賞構造の有無の問題でもあるのです。

実は、糸崎公朗さんの作品と、デュシャンの作品は、
この鑑賞構造の無いということで、深い関連があるのです。
このことを論じるのは、次回ということで、お楽しみに。   

 

 



s-10.jpg
s-11.jpg

 



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。