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バサラの系譜/糸崎公朗との対話(3)【最後に加筆】(加筆2画像大幅増加2) [アート論]

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フェニミズムに対する敵意が生むバサラ的な表現

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日産バサラBASSARA) ミニバン型の乗用車である。
「バサラ」はサンスクリット語の「ヴァジャラ」
(魔人を降伏させるダイヤモンドの意)から付けられた。

今回はバサラの問題を書きます、
糸崎公朗さんとの対話の3回目です。

バサラは、室町時代から日本の下層への文化の還元として
出現して来ていますが、
今日の情報化社会の中で、
文化を最下層に還元解体する運動として、主流を形成してきています。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(糸崎公朗さんのコメントです。)


返信が遅れましたが、再び興味深い記事をありがとうございます。

>この辺のところが、興味の違いだと言えます。
>私から見ると、デシャンの作品集が『トランクの中の箱』ですので、少なくとも、糸崎公朗の作品集として糸崎版トランク・レプリカ美術館を作って、エディション制作をして欲しかったのです。

ここも興味の違いと言うより「正反対」であって、そのこと自体が興味深いです。

そうですね、正反対なのかもしれません。

以前はぼくも「糸崎版トランク・レプリカ美術館」の制作を考えてことはありますが、それはデュシャンの作品に大して「シニフィエ連鎖(意味内容の連鎖)」になるだろうと思います。
横浜美術館で開催されたデュシャン点のカタログを見ると、「フルックスキット」をはじめとするデュシャンへのオマージュ作品が出展されてましたが、それらは全て「シニフィエ連鎖」によるものと考えています。
オマージュは「アート」として制作され、元となる作品もアートであり、そのように同じ意味が連鎖しています。

それに対しぼくが置いた「リカちゃんハウス」は意味内容的には「おもちゃ」であって、それはデュシャンのアートに対する「シニフィエ連鎖(記号表現の連鎖)」として提示したつもりです。
つまり「似たイメージ」に反応すると言うことは、イメージを記号表現として捉えることであり、だから「イメージの連鎖」は一種の「シニフィアン連鎖」ではないかと思うのです。
ただ、同じ要素に対し何を「シニフィアン」と捉えて何を「シニフィエ」と捉えるかは人によって(その人が採用する価値体系によって)異なるはずです。
だからおそらく、デュシャンへのオマージュアートに「シニフィアン連鎖」を読み取ることも出来るでしょうし、あるいはぼくが提示した「シニフィアン連鎖」が彦坂さんには全く通用しないのも、当たり前だとも言えます。
もちろん、ぼくが示したつもりの「シニフィアン連鎖」に何らかの妥当性はあるのか?という問題もあります。

なるほど。
ご説はごもっともと思います。

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糸崎さんのおやりになったことに「バサラ」を感じます。

上林澄雄の「日本反文化の伝統」(エナジー叢書、一1973年)は、
日本社会に歴史的に存在する流行性集団舞踏狂の流を指摘し分析したものでした。

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上林氏は、大きな権力移動が起きる前に、
民衆の中に狂舞が繰り返し発生してきたことを発見し、
そのの分析をとおして、日本の文明構造の二元的な亀裂を
明らかにしています。

日本文化には、《文明》対《原始世界》という、重要な対立構造が潜在して
いるのです。

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外国から高度の人工的な新文明が日本に入ってきて、それを輸入し
喜んで学び、支配者たちはこの《輸入文明》、例えば仏教や、
あるいは西洋文化を背景にして民衆を支配するのですが、
支配される民衆の中には、文明以前の、狩猟採取文化、
つまり野蛮な文化が脈々と流れていて、上級の《輸入文明》に対して、
常に反抗的な姿勢があるというのです。しかし問題が複雑なのは、反抗的な姿勢が屈折していることです。

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反抗自体が《輸入文明》に触発され、反発しつつ、にもかかわらず模倣
し、なぞりつつ解体し、伝統的な野蛮文化のボキャブラリーの中に
還元し、あざ笑うことに表現を見いだしていくという、複雑な摂取と
解体の流れがあり、これが「ばさら」とか「かぶく」とか
言われる美意識となります。

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「ばさら」「かぶく」という言葉を、辞書でひいてみると次のようにあります。
 
 「ばさら【婆裟羅】室町時代の流行語。
 ①遠慮なくふるまうこと。乱暴。 
 ②はでに飾り立てて、いばること。だて。
 ③しどけなく乱れること」

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 「かぶく【傾く】
 ①頭がかたむく。かしぐ。
 ②はでで異様なふるまい・みなりをする。」
         (日本語大辞典 講談社 一九八九年)

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 つまり日本の中には乱暴で、はでに飾り立てて、
しどけなく乱れる表現の系譜があるのですが、
これが室町時代に「ばさら」とか「かぶく」というような言葉で
姿をあらわし、それはしかし不自然なものであり、異様で、派手で、
エキセントリックで、
《異端の系譜》の源流とも言うべきものになるのです。

これを戦後日本美術の中で分かりやすく言えば、
それは敗戦後の岡本太郎によって唱えられた縄文主義であり、
対極主義であり、あのどぎつい派手な色合いの絵画であり、
岡本太郎の「芸術は爆発だ」と力んでみせる歌舞伎の見栄を切る
ようなパフォーマンスなのです。

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岡本太郎の作品が芸術的には優れていないのは、
「バサラ」に還元する表現でしかないからです。

つまり「バサラ」への還元だけでは、
野蛮への退化しか意味していなくて、
文化ではなくて、
反文化でしかないのです。

野蛮に退化することだけでは、芸術的には無意味なのです。

糸崎公朗さんの、リカちゃん人形には、
デシャンの作品に触発され、反発しつつ、にもかかわらず模倣し、
なぞりつつ解体し、伝統的な野蛮文化のボキャブラリーの中に還元し、
あざ笑うことに表現を見いだしていくという、
複雑な摂取と解体の流れである「バサラ」を感じます。

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私自身は、こういう「バサラ」の系譜作品を多く見て来ているので、
正直に言って、「またか」と思ったのです。
つまり、外国の高度な作品を、摸倣しつつおとしめて、
低俗な自分たちの文化に基礎づけて行く系譜なのです。

コンプレックスゆえの表現です。
野蛮な人たちの、高度な文明に対するコンプレックスが生むこうした
表現に意味が無いわけではありませんが、疲れます。

その代表は、篠原有司男さんや0次元の加藤好弘の表現です。

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第2次世界大戦に破れて以降の日本現代美術は、
こうした「ばさら」の系譜に満ちています。
最近で言えばシンディシャーマンと森村泰昌さの関係です。
森村泰昌のやっていることは「ばさら」です。

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そして会田誠とフェニミズムの関係も「バサラ」です。

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会田誠さんの作品は、今日の《ローアート主義》と《バサラ主義》の
本質が体現されているとお思います。
ここで会田誠論を書くわけにもいかないので、
反フェニミズム系の作品の図版だけを選びました。

会田誠さんの作品集に書かれている方法は、
「美術は、世界を浅い表面的な捉え方で見ることで、
制作で出来る」とする主張です。

会田誠さんのご両親や親戚には教育者が多くて、
この身近からの文化的抑圧に対する反撃という心性があるようです。

世界を表面の先入観だけで捉えるので良しとする居直りに、
美術の根拠を見いだしているのですが、
乱暴に結論ずければ、
それは日本の下層にある反文化的な野蛮な心性に通ずるものが
あるのです。

>もともと「非人称芸術」というのは《ローアート》のことであって、民衆芸術や伝統芸術には、備わっているものだと考えます。《ローアー ト》への回帰の欲望を、理解は出来ますし、評価は出来ますが、しかし《ハイアート》の面白さを、私は評価する立場です。
>音楽も、映画も、私は《ローアート》も《ハイアート》も両方を見ますが、《ローアート》のつまらなさというのも、分かっているのです。この《ローアート》のつまらなさは、糸崎公朗さんの作品にもつきまとっています。

これも非常に興味深い指摘です。
ぼくの「非人称芸術」は「既存のアートの価値体系の破壊」でもあったのですが、それは彦坂さんのおっしゃる《ハイアート》の否定であり、その必然的な結果として既存の《ローアート》になってしまったとしたら、それは納得できる話です。

「既存のアートの価値体系の破壊」というのは、
しかし糸崎公朗さんがやったことではないでしょう。
糸崎さんのやられていることは、
「既存のアートの価値体系の破壊」を糸崎さん以前にしてきた
反芸術系の系譜の既存の仕事の流れにのって、さらにその末端に
位置しようとされてきている。
赤瀬川原平のイデオロギーや「トマソン」もまた《バサラ》ですが、
こうしたもののなぞりに、意味を見いだして来ておられる。

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そして一方では、自分につきまとう《ローアート》のつまらなさを、鬱陶しいと感じてもいるのです。もちろん、結果的に《ローアート》であることのおかげで得をしていることの方が多いのですが、これは「両刃の剣」です。

なるほど、うっとうしく感じられているのですか。
でも、今までどおりで良いのではないでしょうか。

私自身は、《ローアート》を作れるつもりではいますが、
しかし作品というのは、自分自身が最初の観客として鑑賞をするので、
それに忠実になれば、自ずと限界があります。
どこまで行っても、彦坂尚嘉の作品は彦坂尚嘉の作品であり、
糸崎公朗の作品は糸崎公朗の作品なのです。
この不快感や絶望からは逃れられません。

ぼくの「非人称芸術」は、実のところシュルレアリスムの影響を受けています。
シュルレアリスムが「無意識」を重視するのであれば、それは「意識=理性」の否定であり、その思想に基づく作品は必然的に《ローアート》になるのかもしれません。個人的な「無意識」を純化させると「非人称」になるというのがぼくの理屈です。とは言え、ぼく自身シュールレアリスムについて半端な知識で語ってるのも事実で、これは今後の課題です。

私はシュールリアリストでは、アンドレ・マッソンの作品が好きですが、
彼の作品は《ハイアート》です。
無意識が入るから《ローアート》になるという事は無いと思います。

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アンドレ・マッソン

もうひとつ、ぼくの作品に彦坂さんがおっしゃる《ローアート》があらわれていることは認めますが、しかしぼく自身は《ローアート》に埋没しない、外部的な「観察者および鑑賞者」に位置しており、それをもっていわゆる≪ハイアート≫のつもりではいるのです。

なるほど。
お考えは分かりました。

つまり理性によらない《ローアート》を、理性で見る目が自分にはあるつもりなのですが、ぼくの理性自体が「理性的思考に達していない」というのであれば、それを認めることもやぶさかではありません。

いや、理性的であられると思います。

>糸崎公朗さんのご意見は理解できますが、現実に糸崎さんが美術館で展覧会をしていることも事実ではあります。

ぼくが作品や美術館を否定しながら、一方でフォトモを美術館で展示するという矛盾は、自覚しています。つまりすでにぼくの中にも、互いに反転した価値体系が存在するのです。しかし「反転」というのはひとつ価値体系の裏表というだけでなく、反転のための「蝶番」は複数存在するのではないかと、最近気づきました。「反転の反転」は元の価値体系とは異なる「反転」でありえるはずで、そのような可能性を探ろうとしてるつもりです。

>《ローアート》と《ハイアート》の間には、人間が定住して農業を始めた 時に、大きな社会を形成したという事があります。大きな社会をつくって支配者層になった人びとと、支配される側にまわって古い自然採取の文化を残そうとす る人びとの分解が生じたのです。

「自然採集」について、ぼくは彦坂さんに何も伝えてないはずですが、見事に言い当てられました。ぼくは自分をアートにおける「狩猟採集民」を自覚しており、つまりぼくにとってアートとは「野生の芸術」を指すのであり、それによって「栽培種化された芸術」を否定し、だから普通の意味での作品制作もやめたのです。ただ、先に書いたように「野生の芸術」が単に既存の≪ローアート≫でしかないとすれば、それは問題視すべきことです。先にぼくは「《ハイアート》の否定」を言いましたが、実のところぼく自身は《ハイアート》を理解した上で解体したわけではないので、これも問題なのかも知れません。

>では2種類の美術とは、何か?
>それは素人の美術と、玄人の美術です。

>この2種類の美術の差を前提にして、
>芸術を論じないと、議論は空転します。


この言い方を受けると、ぼくはいわゆる「素人の美術」を「玄人の鑑賞眼」で論じようとしているつもりなのかも知れません。ただ、ぼくが示した「2種類の美術の折衷」みたいな立場が彦坂さんの示した価値体系には存在し得ないのだとすれば、ぼくは鑑賞眼も含めて「素人の美術=ローアート」の人でしかないのかも知れません。ぼく自身がその可能性を了解しなければ、おっしゃるとおり議論は空転するでしょう。

「2種類の美術の折衷」というのは、可能だと私は思います。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示は可能だし、
重要な表現だと思います。

>ついに、書けませんでしたが、芸術の鑑賞構造を理解できないために、骨董の視覚性をもって、代用しているのです。

これはぼく自身のことと理解してよろしいでしょうか?早い話、ぼくが「芸術」と思っていたものは実は「骨董」でしかなかった・・・と。仮にぼくがこれに反論するなら、まず「骨董」について説明しないといけないのですが、実のところ「骨董とは何か?」をあまり考えたこともなく、また≪ハイアート≫もわからないのであれば、論じようなく、申し訳ないです・・・。

以上、彦坂さんのご指摘の全てに返信できたわけではありませんが、ともかく彦坂さんのおかげでいろいろ「開眼」させられましたので、自分なりにいろいろ努力してみます。 
by 糸崎 (2010-03-13 17:51)  


糸崎公朗さん真摯な思考態度には驚かされます。
しかし《ローアート》で良いのではないかと思います。

今日の沈没崩壊する日本国の中では、
《ローアート》の成立しか
出来ないというのが社会的な現実ではあるのでしょう。

日本全体が「トマソン」化してしまうでしょう。

そうすると糸崎公朗さんが作れる対象物は増えると思います。

日本全体を衛星写真からフォトモ化できるのも、
近未来では可能なのではないでしょうか。

すでに日本の過半が骨董化しつつあるのです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

【最後に加筆】

これは余計な話です。
《ハイアート》の視点で言うと、
糸崎公朗さんの作品を金属板で制作したくなります。

現在の紙ですと楽ですが、しかし《ハイアート》とは言えません。
金属で作るのです。

しかし、実際にはたいへんです。



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第31回「ラカンと美術読書会」 [告知]

皆様
ラカンと美術読書会連絡係りの加藤 力と申します。
ご案内させていただきます
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
第31回「ラカンと美術読書会」のご案内

日時3月31日(水)18時30分 〜 2時間程度
場所 立教大学(池袋) 6号館 6106研究室

29回、30回と彦坂尚嘉アトリエで行われておりましたが、
今回より通常の立教大学研究室に戻ります。
お間違えの無いようにご注意下さい。
宜しくお願いいたします。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「ラカンと美術読書会」とは下記の2人が共催する読書会です。

彦坂尚嘉(日本ラカン協会幹事、立教大学大学院特任教授、日本建築学会会員、
美術家)
武田友孝(元・東京スタデオ、インデペンデント・キュレーター)

ラカン『無意識の形成物〈上〉』と、
月代わりで選出される美術本の読書会です。

2007年8月より月一回のペースで開かれています。
ごくごく初歩的な読書会で何方でも参加できます。
どうぞお気軽にご参加下さい。

テキスト
     ◎ラカンは『無意識の形成物〈上〉』 (岩波書店)
     ●美術は R.H.ロークマーカー 著 由水常雄 訳
       「現代美術と文化の死滅」(すぐ書房)

  参加費 無料(コピー代のみ実費で頂きたくお願いいたします)
     テキストは特に準備なさらなくても、こちらでコピーを用意いたします。

※ 研究会終了後、懇親会を予定しております。
 お時間に余裕のある方は、こちらの方にもご参加ください。
 なお、懇親会は、持ち寄りのパーティー形式で行いたいと思いますので、
 希望者の方は、あらかじめアルコールとつまみを
 適当に用意して来て頂ければ幸いです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
立教大学への一番楽な道

池袋駅西口方面へ
西口の階段は登らずに、
地下商店街の通路を歩きC3出口から立教通りへ
駅から歩いて行くと、左手に立教大学の正面のツタの生えたたてものの
正門が見えます。
右手にも、立教大学の門があります。
それを通り過ぎて、最初の小さな道を右に曲がると、
左手に6号館の建物の門があります。
建物に入ると守衛の部屋があるので彦坂の所に行くと言って下さい。
研究室は6号館の6106です。

分からなければ、彦坂の携帯に電話して下さい。
090-1040-1445
研究室の電話
03-3985-6106

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
詳しい行き方は以下よりお願いします
立教大学のサイト
http://www.rikkyo.ac.jp/
一番上のバーに交通アクセスがあります。

ページ中程に池袋キャンバスへの道順が、あります。
http://www.rikkyo.ac.jp/access/pmap/ikebukuro.html

キャンバスマップがあります。
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/index.html
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
申込・問合せ先:加藤 力(美術家、臨床美術士)
           E-mail:riki-k@mc.point.ne.jp
           FAX:0467-48-5667


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