三位一体論の崩壊 [生きる方法]
(前略)
私は、キリスト教の神学者です。
神学者は、物事を三位一体論的に考える癖をもちます。
「三位一体論的」というのは、
「多」と「一」が矛盾しつつ統合される動的視点です。
三位一体論的な視点からすると、
「3界の分離」という理解の困難さと重要さのご指摘は、
極めて大切で適切だと思われました。
その理解こそ、「迷信」と戦う足がかりになる。
本当に、そう思います。
「分離」と同時に、「統合」についても、
考えられなければならないのではないか、
ということです。
つまり、「サントーム」の問題です。
私は、ラカンについては門外漢です。
内田樹さんと斎藤環さんのお仕事から、
長年、その魅力に引き寄せられつつあったのですが、
まだ、「敬して遠ざけて」いる状態です。
ですから、間違えているかもしれません。
私の理解では、サントームとは、
「3界」を「人為(art=als)で統合する第4界」です。
そう思うと、彦坂様の「格付け」も、理解できるような、
そんな気がしているからです。
私の質問は、
「3界」と「第四界であるサントーム」のつなぎ目は何か?
ということです。
この質問は、彦坂様の「ナウシカ」批判によって引き起こされたものです。
漫画版「ナウシカ」は、確かに、破綻した物語です。
でも、それは、その破綻の中に、重要な価値をもっている。
私はそう思っています。
なぜなら、その破綻においてこそ、
《想像界》の限界性が(期せずして)体現され、
その「先」への欲望を、読者に強烈に与えるものとなっている、
そう思うからです。
その意味で(のみ)、
漫画「ナウシカ」は、高く評価されると思っています。
この、「ナウシカ」をめぐる評価の違いに、
彦坂様の理論への疑問が、生じました。
漫画「ナウシカ」は、
確かに「先送り」でお茶を濁しているのですが、
しかしその「先」は、
《現実界》《象徴界》となっているのではないか?
《他の次元の不在》を露骨に示すこと。
そのようにして、
却って、《他の次元への渇望》を
呼び起こすことができるのではないか?
そして、その渇望の中にこそ、
《他の次元》は生起してくるのではないか?
一つの次元に閉じ込められることで、
その次元の底にある破れを示し、
そのようにして、読者の内部に《サントーム》を萌させる、
それも、芸術の価値ではないだろうか。
ここで「芸術」と言っていますのは、
もちろん、近代以来のfine artに限定されません。
宗教や政治や科学を含む、「人為」全てを意識しています。
artはもともと、alsと表記された昔、
そのようなもの、だったのですから。
たとえば科学について。
ほんとうに科学を突き詰めるなら、
人は「無」の問題と向き合わなくてはならなくなる。
そして、「その先」を、科学の外に、求めなければならなくなる。
でも、それは自己否定をしなければ、進めない。
そのギリギリの場所で、破綻を体現してみせること、
たとえば、近年のドーキンスの仕事は、
そういう意味で、尊敬に値するものだと思っています。
そんな似非専門家が、「迷信」を広めて自己を守る。
そこに、「自己愛性人格障害」的状況が生じているのだと、
本当に、そう思います。
1950年代に似て、新しい体制が出来上がろうとしている今、
彦坂様がご指摘になっている通り、
大崩壊が始まろうとしているのだと思います。
そして、その中で、ニヒリズムが、
やはり1950年代と同様、これから、大問題になるのではないか。
(その時、「情報」という言葉が、キーワードになりそうです。
その意味で、西垣通さんの書籍のご紹介は、有難いことでした。)
虚無主義と、どう向き合うか。
それを否定する強い言説を彦坂様から頂き、
それに感銘を受けつつ、考えています。
虚無主義を「取り込む」ことは、できないのだろうか。
聖書でも、「無」が語られることがあります。
それは、パウロが言っているのですが、
「被造物は虚無に服した、それは、新しい命への待望として・・・」
という思想です(ローマ書に出てきます)。
「無」というものは、実は、「サントーム」的な、
人為(art=als)としてのみ、意味をもつ。
そのようにしたとき、「無」は、
究極の人為として、非常に重要なものとなる
・・・とは、言えないでしょうか。
誤読に耐えて [日記]
彦坂様
お疲れ様です。
たびたびのメールを申し訳ありません。
昨日もツイッター更新されていたのですね。
今日になって拝読しました。
思い過ごしかもしれないけれど、「これはわたしのことかなあ」と思い、
反省をしているところです。
この誤読に対して、私は次のようにメールを返しています。
○○○まる様
まったく、違います(笑)。
「次郎物語」の1節を使いながら、
自分の娘を思い出しながら書きました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
もうひとつは、
電話がかかってきて、
「私のことか」と聞かれたのです。
次のような文章です。
このSさんは、ギャラリー手の杉山旭さんで、
昔から、こういう言い方を良くしていた方なのです。
他にもこの手の被害者が出ていて、
考えさせられますが、
しかし、こちらの考えもしない波及なので、
具体的な対処は、私は考えません。
そもそもで言うと、コミュニケーションというものは、
誤解において成立しているので、
人間関係は誤解を避けがたいのです。
ですから、私は誤解されても、それはそのままにしておきます。
それと文章というものは、書くと回りの人間関係を傷つける
ものなのです。
これも原理的なものであって、もともと書き言葉というものが、
人工的なものであって、自然性を引き裂いて行くものなのです。
つまり無文字社会こそが、人間の自然性ですから、
文字で書かれると、多かれ少なかれ、人は傷つきます。
人間関係にあまりに配慮すると、文章は面白く無くなって
いきます。
私は、ですから、その辺は諦めています。
まったく配慮しないわけではありませんが、
できるだけ、配慮しないように努力しているのです。
ですから、傷ついた方には、お詫び申しあげますが、
その多くは、誤解です。
人間の鏡像関係というのは、
多くの妄想と誤解と恐怖を生み出すのです。
それが《想像界》なのであって、
それは逃げ切れるものではないのです。
本島/招へい芸術家募集要項(応募締め切りの部分に変更) [告知]
Ⅰ 概要
2つの計画【A食・野菜栽培 + Bアートの展開】によって地域の人々との交流を生み出し、地域の活力の創造を目的とするプロジェクトです。
[「Art LoveFood」というテーマに沿った内容の創作を行うアーティストを募集します。
滞在中、地域の文化、環境などからアイディアを得て、創作活動を行い、新たな作品を通じて『住民への飲食の場づくり』『土産物づくり』に繫がるアクションプランを募集します。また、創作活動とともに、その成果発表や地域との交流プログラムなどを積極的に行っていただきます。
Ⅱ 招へい期間
○2010年7月1日(木)から2ヶ月の期間
原則として、上記期間ですが、招へい期間(以下「期間」という。)の変更は協議の上、決定します。
Ⅲ 募集人員
募集内容 1 食の開発提供
野菜栽培に従事する者
2 レジデンス作家
2名または2グループ募集します。
Ⅳ 応募資格
応募者は以下の条件を充たすものとします。
1. 現代美術などの分野で活動する原則18歳以上の者。
2.日本人又は期間中、日本に在留する資格を有する者
3. 日本語での日常会話ができること。
Ⅴ 応募条件
1.期間中は、原則として本島に滞在すること。なお、創作活動に伴う調査等のためスタジオを一定期間離れる場合には、事前に主催者と協議すること。
2.期間中、1点以上の作品を制作すること。
(作品の著作権は芸術家本人。制作された作品のうち、少なくとも1点の作品の所有権は主催者とし、商品化する場合、販売権は主宰者に帰属します。作品の選定については、協議し、決定する。)
3.期間中、展覧会、レクチャー、ワークショップ、地域交流プログラムなど、主催者が 実施するプログラムに参加すること。
4.他の芸術家や地域住民と良好な関係をもって交流ができること。
5.レジデンスプログラムの広報活動に協力すること。
・マスコミの取材
・期間中行われた活動に関するすべての写真・映像記録の主催者への帰属
6.プログラム終了時に活動実績報告書を提出すること。また、それに応じること。
Ⅵ 支援内容
1.交通費:実費(往復)
・国内の居住地の最寄駅からレジデンスまでの往復交通費を支給します。
2.住居
・2ヶ月の滞在期間中、レジデンス内宿泊施設を無償で貸与します。
なお、食費、光熱水費、通信費は自己負担です。
3.制作場所
・スタジオとして使用したい場所は活動内容に応じて、協議の上で決定します。
4.生活費及び創作活動費
・生活費として月額3万円(税込み)および創作活動費として月額5万円(税込)を上限に、支出計画に基づき支給し、実績(使用明細)により清算します。
Ⅶ 応募方法
○別記応募用紙(同じ様式で作成したものでも可)にすべての必要事項を記入してください。
○CV(作家履歴)と、ポートフォリオを添付してください。(「応募用紙」参照)
○自作についての新聞や批評誌があれば添付してください。
○他のレジデンス事業に参加したことがある者は、実績内容を必ず添付してください。
※応募資料の返却のご希望には一切応じることはできませんので、ご了承ください。
※応募用紙、資料に不備や虚偽の記載がある場合は、応募を受け付けません。
※個人情報の取扱い:応募いただいた内容は、レジデンス事業以外の目的には使用いたしません。
※応募用紙等は、メールにお送りします。
応募締切
2010年3月31日(水)【必着】で、応募用紙、ポートフォリオ等各1部提出してください。
○この期日を過ぎて到着した応募は受付しません。
決定時期
2010年4月中旬
○提出された資料をもとに、(書類選考)を行います。
○書類選考通過者を対象に、聞き取りなど第2次審査を行い、招へい候補者を選定し、本人に決定通知を行います。
第2次審査 日程:2010年4月末予定 場所:丸亀市本島町(現地)
なお、面接当日の交通費は自己負担となります。
Ⅹ 応募・問合せ先
○SAW 瀬戸内アートウェーブ
代表:梅谷幾代
〒760-0221 香川県丸亀市本島町笠島305
ギャラリーアルテ + SAW
TEL /FAX:0877-57-8255
E-mail:arte@mti.biglobe.ne.jp
参考までに
□宿舎(平屋)
ホームステイとなります。エアコンはありません。
※滞在中の食事は、個人負担で食堂の利用。自炊希望の場合は、別途協議して対応します。
□買い物 島内にはコンビニ マーケットはありません。
【続きは下記をクリックして下さい】
マドンナによるマイケル・ジャクソン追悼演説(加筆1) [状況と歴史]
現地時間2009年9月13日(日)ニューヨークで開催。オープニングに登 場したのはマドンナ。マイケル・ジャクソンへの心からのトリビュ ートを送り、急逝したキング・オブ・ポップへの深い哀悼の意とと もに、VMAは幕を開けた。
《現実界》の否定として情報化社会(加筆2校正1) [状況と歴史]
コメント 1こんにちは。
いつも、たくさん学ばせていただいております。
川上直哉と申します。
死をめぐる考察、静かに拝読いたしました。
まずは何よりも、お見舞いを申し上げます。
すこし、考えを整理して、一つの質問をさせてください。
共観福音書(マタイ・マルコ・ルカの福音書)の共通した記載によると、
“神は生きている者の神だ”というのが、
イエスの思想であったようです。
このイエスの思想の特殊なのは、
「神は生けるものの神だ」という発想から、
「死=無化」という発想を退ける方向へ、
論理を進めた点にあります。
「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」と、
そのようにその名を呼ぶところのユダヤの唯一神は、
生ける者の神である、
だったら、アブラハム・イサク・ヤコブは生きている。
それが、福音書に残されたイエスの死生観の展開でした。
「死=無」という概念は、ギリシャ哲学においても大問題で、
たとえば、デモクリトスのアトム論は、
「アトム=分けられないもの」を、世界の構成原理としました。
でも、それは、キリスト教が支配した中世西欧において、
完全に退けられました。
それは、上記のような福音書の思想の枠内に、
人々の思考が支配されていたからでした。
さらにそれは、トマス・アクイナスが、
アリストテレス哲学をキリスト教に大胆に導入して、
神学全体のが理論的補強を施された、結果でした。
トマスが用いたアリストテレスこそ、
アトム論に反対した代表者の一人だったからです。
こうした状況は、17世紀に逆転します。
17世紀に、真空が発見されたことが、
大きなきっかけになります。
背景には、
16世紀の宗教改革=宗教の破綻を受けて、
論理と数学と実証に支えられた科学が、
人々の思考を新しく展開し始めていたことがある。
そのような背景と発見に押し出されて、
アトム論は、17世紀に復活します。
アトム論は、ライプニッツのモナドとして、洗練を加えられます。
「モナドロジー」は、現代の思考の先取りとして読めます。
こうして、アトム論は、実に、現代を支配する思想となりました。
アトム的・モナド的枠組みが出来上がることで、
現代の機械論的世界観が生まれる。
それは、「死=無」とすることを、
自明のこととして疑わない世界観です。
フジ子・ヘミング(加筆2) [音楽から考える美術論]
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》だけの表現
プラズマ状態だけの表現
《気晴らしアート》
《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の表現
原始脳の表現
《原始音楽》『ペンキ絵的音楽』【B級音楽】
《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》が無い。
《世間体のアート》だけがある。
フジ子・ヘミングは、1932年生まれのピアニストです。
父親はロシア系スウェーデン人の画家・建築家の
ジョスタ・ジョルジ・ヘミング。
母親は、日本人ピアニストの大月投網子。
フジ子・ヘミングは、耳に障害をもっているピアニストです。
フジ子・ヘミングの演奏については、批判もすでにたくさんされていて、
そのミスタッチの多い演奏は、問題をもっているのです。
そのことを私が繰り返す興味が無いのですが、
ひとつ面白いと思うのは、そういうミスタッチだらけの演奏でも
成立する《世間体のアート》という基盤の面白さであります。
《世間体のアート》というのは、非常に強烈だと言えます。
そこにはNHKのあいかわらずのお涙物語が好きという趣味が働いていて、
NHKの番組が人気の火をつけたのでした。
もうひとつは、このミスタッチに関連して、
この音楽が、プラズマ化した表現であるということです。
耳に問題があって、今は少し回復したとも言われますが、
聴覚障害者の演奏であるという欠如感と、ミスタッチのひどさが、
音楽そのものを、ある種の脱構築状態に改変しているのです。
フジコヘミングの音楽がひどいにも関わらず、
多くの人を魅了しているのは、
プラズマ化と無縁では無いだろうと思います。
さて、画家の娘ということもあって、
フジ子ヘミングは、絵も描きます。
無は存在しません [生きる方法]
思い出してくれる人が無くなったときに、存在は消えてゆくのですね。
私も亡くなった祖父や祖母や父のことを思い出したり、語るとき、彼らは
まだ存在しています。私が死んだとき、彼らは本当に消えてしますのだと
思っています。
心よりお悔やみ申し上げます。
ルーカスの死 [日記]
長く飼っていたラブらドールのルーカスが、
1月15日に死んだ。
この日は実はギャラリー山口の山口光子さんが亡くなった日でもあって、
ちょっとブログに書く気にならなかった。
ルーカスの晩年は、遺伝病で後ろ足2本がだめになって、
しかも一本を自分でかじる習慣がついてしまって、
介護はかなり大変だった。
普通は安楽死をさせる状態だったのですが、
目がしっかりしていて、生きる意欲はあって、
食欲も衰えなかったので、医者とも相談して、
安楽死は先延ばしをした。
後ろ足2本だめと言う不自由な足で、前足2本だけの力で、
後半身を引きずって
驚くべきもかなりのスピードで遠距離を移動した。
油断すると道路に出てしまって、
近所の人が通報するので、3回警察が来るという騒ぎになった。
足をかむ癖が出来て、いろいろなことをしたが、止められなかった。
首にカラーをしても、最初は良いのだが、そのうちにカラーを超えて、
首を出して、後ろ足をかじって、ついには骨まで出てきてしまった。
医者に連れて行って、短期入院させて、一度はなおったのだが、
また同じことを繰り返す。
麻痺しているので、かじっても痛くないようで、
かじるのを止めるために、ガムテープでカラーの前をがんじがらめにして、
鉄仮面のようにすると、しばらくは良かったのだが、
なにしろ頭も良くて鉄仮面を突破する方法を、
根気良く編み出してしまう。
そこで私の長靴を後ろ足にはかせるという方法をとった。
これもしばっらくは良かったが、いつのまにか脱ぐコツを覚えてしまって、
最後は、この長靴を脱いで、足を噛んで、動脈を切って、
血が水道の蛇口柄出るように流れでて、血の池をつくった。
気が付いたときは手遅れで、止血はしたけれども、
急速に意識を失って、眠るように死んだ。
自殺と言うべきかどうかは判断が難しいけれども、
とにかくこの1月15日は、二人の知人が亡くなったのです。
死者というのは、亡くなって無くなるのですが、しかし記憶の中では生きていて、
繰り返し思い出されてくる。
人間は死者と一緒に生きていくのであって、
死んだら御仕舞いというものではない。
祖母も、母も、義父も、そして私の長男も死んだが、
しかし私は彼らと一緒に生きているのであって、
無ではないのです。
ルーカスのことも、山口光子さんのことも繰り返し思い出しています。
ドゥッチョとチマブ−エ/ゴシック期の絵画 [アート論]
以前ドゥッチョの作品に対する彦坂さんのご意見を書かれていたと思うのですが、ジョットやチマブエの作品に対してはどのようなご評価なのでしょうか?
今回の本題とはズレるのですが、西洋絵画の変遷を見ていく際の参考にさせていただければと思い、質問させていただきます。
不適切なコメントでしたら削除してください。
by あいざわさとし (2010-02-18 01:59)
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
固体だけの表現
《シリアス・アート》
《ハイアート》
シーニュの表現
理性脳の表現
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
《原芸術》が有る。
《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》は無い。
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》だけの表現
絶対零度の表現
《シリアス・アート》
《ハイアート》
シーニュの表現
理性脳の表現
《原始平面》『ペンキ絵』【A級美術】
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》が有る。
大森南朋の顔/麿赤兒/土方巽(校正加筆1) [美人論]
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》だけの表現
固体だけの表現
《気晴らしアート》
《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の表現
原始脳の表現
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》は無い。
《世間体のアート》だけがある。
上のイラストは、私の学生時代に登場したもので、
女優は浅丘ルリ子で、女優として旬でありました。
こうしたイラストで横尾忠則が成功したのは確かですが、
芸術分析的には、すぐれたものではないのです。
むしろすぐれていなかったから、大成功をしたのです。
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン顔
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン顔
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン顔
《想像界》だけの人格
固体だけの人格
《気晴らしアート的人物》
《ローアート的人物》
シニフィエ(記号内容)の人格
原始脳の人物
《原人格》、《人格》、《反人格》は無い。
《非人格》《無人格》《世間体人格》は有る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大阪万国博に向けて、日本中が未来主義になって舞い上がったいる時に、
横尾忠則は、反《近代》の固体美術=前近代美術と言う、
古いものを作ったのです。この後ろ向きさが受けたのです。
実はこういう成功のパターンは日本にはいくつもあって、
この時代に出てくる山田洋次の『男はつらいよ』(1969年)も
同様に後ろを向いた追憶の映画でありました。
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン
《想像界》だけの表現
固体だけの表現
《気晴らしアート》
《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の表現
原始脳の表現
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
《原芸術》、《芸術》、《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体アート》は有る。
杉本博司、石内都、やなぎみわ、遠藤利克という現代美術の
作家たちも、共通して固体美術であって、それ故にこそ、
受けるのです。
それは明治期の日本美術院の中で、唯一固体美術を展開した
下村観山が、良く売れたという事にまでさかのぼるものです。
現在もそうですが、多くの人は、芸術と骨董の区別がつかなくて、
鑑賞芸術というものは、固体美術という前近代の骨董性を持つもの
に、深い意味を見るのです。
ちなみに、芸術に歴史があるのではなくて、歴史が芸術であるとして、
骨董化こそが、芸術であると論じたのは中原佑介で、
これは1965年頃の荻窪画廊の『眼』という機関誌に書かれた
文章です。
じかし事実は、骨董は芸術ではないのです。
蒸気機関車が骨董になっても、蒸気機関車は芸術にはなりませんでした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大森南朋のお父さんの麿赤兒というのは、
何であったのか?
そのことを考える時に、ひとつは、土方巽というのは、
何であったのか?
という問いにぶつかります。
時間が無いのではしょりますが、
土方巽には、1971年に世田谷の等々力の暗黒舞踏派の道場に
私は訪ねて行って、話したことがあります。
さて、結論だけを言えば、少なくともデビューしたての土方巽の
舞踏は、気体化した舞踏で、圧倒的に、この時代としては
新しかったのです。
土方巽の気体化それに対して、麿赤兒は、冷たくて氷状態です。
それは絶対零度で、凍てついているのです。
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》
《現実界》だけの人格
絶対零度だけの人格
《シリアスアート的人物》
《ハイアート的人物》
シニフィアン(記号表現)の人格
原始脳の人物
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》は有る。
《世間体人格》は無い。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
麿赤兒は、つまり文明の中の野蛮であって、
横尾忠則以上に、古く原始的なのです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
麿赤兒には、大森南朋の他に、もう一人息子がいます。
映画監督の大森 立嗣(おおもり たつし)です。
《想像界》の眼で《第1次元〜第31次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第1次元〜第31次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第1次元〜第31次元》の《真性の人格》
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な人格
プラスマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な人格
《シリアスアート的人物》
《ハイアート的人物》
シニフィアン(記号表現)シニフィエ(記号内容)の同時人格
原始脳/理性脳の同時人格
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《原人格》《人格》《反人格》
《非人格》《無人格》《世間体人格》の全てが有る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大森南朋の顔は、彦坂尚嘉の《言語判定法》で見る限り、
素晴らしい理想的な現代の人格構造を示しています。
新しい人類の誕生と言って良い総合性を持っているのです。
こういう新しい日本人の誕生は、日本の新しい未来を切り開く
原動力になって行くでしょう。
日本の未来は、決して暗いだけのものでは無いのです。
若い人びとと一緒に、未来を切り開く必要があるのです。