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三位一体論の崩壊 [生きる方法]

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川上さんから、次のようなコメントをいただきました。
むずかしい事なので、簡単にですが
私の考えをお答えいたします。

(前略)

私は、キリスト教の神学者です。
神学者は、物事を三位一体論的に考える癖をもちます。
「三位一体論的」というのは、
「多」と「一」が矛盾しつつ統合される動的視点です。

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この三位一体論の統合の視点が可能であったのは、
産業革命以前の農業化社会においてなのです。

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産業革命以後は、
この三位一体の状態は、
解体されているのです。

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《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を語るラカンは、
実は体質が固体の人で、
つまり前近代的な古い体質の人であるからこそ、
3界のモデルを語ったのでした。
現実には、この3界は、
三位一体のようには、ラカンにおいても統合されていないのです。

261.jpg

つまり人間の精神は、三位一体として統合されていなくて、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界に分裂しているのです。
こういう分裂の把握がラカンであると言えるのです。

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ジャック・ラカンというのは、
デカルト以来の、《近代》の個人主義的な自我の解体者なのです。



三位一体論的な視点からすると、
「3界の分離」という理解の困難さと重要さのご指摘は、
極めて大切で適切だと思われました。
その理解こそ、「迷信」と戦う足がかりになる。
本当に、そう思います。

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ただ、気になるのは、

「分離」と同時に、「統合」についても、
考えられなければならないのではないか、
ということです。

川上さんが、考え違いをなさっているのは、
この統合が可能だとする、その希求性です。
統合は不可能です。
一方的に、解体だけが進んで行くのです。

分離、分裂を認める事が重要なのです。

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つまり、「サントーム」の問題です。

サントームというのは、統合ではありません。
分離/分裂したままでの、関係の形成なのです。

私は、ラカンについては門外漢です。
内田樹さんと斎藤環さんのお仕事から、
長年、その魅力に引き寄せられつつあったのですが、
まだ、「敬して遠ざけて」いる状態です。
ですから、間違えているかもしれません。

私の理解では、サントームとは、
「3界」を「人為(art=als)で統合する第4界」です。
そう思うと、彦坂様の「格付け」も、理解できるような、
そんな気がしているからです。

統合という言葉の意味や、使い方ですが、
今日において、
昔の意味での統合や、結合や、再統合は、
あり得ないのです。

あるのは、ただバラバラに拡散して行く事です。

この状態を不可避のものとして認めつつ、
再度の新たな弱い関係性の形成が、サントームです。

私の質問は、
「3界」と「第四界であるサントーム」のつなぎ目は何か?
ということです。

この質問は、彦坂様の「ナウシカ」批判によって引き起こされたものです。

漫画版「ナウシカ」は、確かに、破綻した物語です。
でも、それは、その破綻の中に、重要な価値をもっている。
私はそう思っています。
なぜなら、その破綻においてこそ、
《想像界》の限界性が(期せずして)体現され、
その「先」への欲望を、読者に強烈に与えるものとなっている、
そう思うからです。
その意味で(のみ)、
漫画「ナウシカ」は、高く評価されると思っています。

私見を申し上げれば、
「先」というのは、
「ナウシカ」では、常に先送りされて行く構造であって、
それは万華鏡のように繰り広げ得られるものであって、
際限の無い、戯れに過ぎません。
そこには意味が無いのです。

この「ナウシカ」的な次元の世界では、
「死んでしまえばおしまい」であって、
死が意味構成をすることがないのです。


この、「ナウシカ」をめぐる評価の違いに、
彦坂様の理論への疑問が、生じました。

漫画「ナウシカ」は、
確かに「先送り」でお茶を濁しているのですが、
しかしその「先」は、
《現実界》《象徴界》となっているのではないか?

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彦坂の私見では、そのようにはなりません。
次元そのものが違うのです。

彦坂理論では、《想像界》の偶像崇拝性を
全面否定した時に、《象徴界》が出現するのです。

それがモーゼが、金の牛を壊す事であり、
十戒を確立する事なのです。

《現実界》の出現も同様であって、
《象徴界》を全面否定しないと出現しません。

《想像界》に終始する漫画という枠組の中で、
《他の次元の不在》を露骨に示すこと。
そのようにして、
却って、《他の次元への渇望》を
呼び起こすことができるのではないか?
そして、その渇望の中にこそ、
《他の次元》は生起してくるのではないか?

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このように、お考えになりたいお気持ちは分かりますが、
しかし歴史的に、そのような事態の変化が出現する事実が、
過去にあったのでしょうか?

いわゆる「改心」というのは、あると思いますが、
フロイト/ラカン的には、外部、つまり父が禁止するから、
《想像界》が否定されて、
《象徴界》が出現するのです。

彦坂理論では、それは人類史の中では、
地球の寒冷化による窮乏が必要でした。
その中で《書き言葉》の出現や、定住、農業の開始、
そして戦争の開始があって、
《想像界》が全面否定されたのでした。

そのような外部からの激変ないと、
《想像界》の否定は出現しないと思います。

個人史的には、不幸が必要です。

圧倒的な不幸に打ちのめされることによって、
《象徴界》を受け入れる心的な展開があるのであって、
普通の延長では起き得ない事ではないでしょうか。

一つの次元に閉じ込められることで、
その次元の底にある破れを示し、
そのようにして、読者の内部に《サントーム》を萌させる、
それも、芸術の価値ではないだろうか。

まず、誤解なさっているのは、
『風の谷のナウシカ』は、すばらしい《超一流》の作品ですが、
それは芸術ではなくて、デザイン的エンターテイメントです。
それ以上のものではないのです。

しかも《シリアス・アート》ではなくて、
あくまでも《気晴らしアート》にすぎないのです。
ここには《象徴界》も《現実界》もありません。
ましてや《サントーム》は、ひとかけらもありません。

ここで「芸術」と言っていますのは、
もちろん、近代以来のfine artに限定されません。
宗教や政治や科学を含む、「人為」全てを意識しています。
artはもともと、alsと表記された昔、
そのようなもの、だったのですから。

そういう意味では、
おっしゃるように
『風の谷のナウシカ』は、
彦坂的には《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はあります。

たとえば科学について。

ほんとうに科学を突き詰めるなら、
人は「無」の問題と向き合わなくてはならなくなる。

彦坂の私見では、科学は、《現実界》であって、
突き詰めなくても、もともと無の上に据えられているのです。


そして、「その先」を、科学の外に、求めなければならなくなる。
でも、それは自己否定をしなければ、進めない。
そのギリギリの場所で、破綻を体現してみせること、
たとえば、近年のドーキンスの仕事は、
そういう意味で、尊敬に値するものだと思っています。

ドーキンスは、凡庸な知性にすぎません。
《第6次元 自然領域》の直接性に過ぎないのです。

また、逆に、そうした自己否定に恐怖を覚えて立ちすくむ、
そんな似非専門家が、「迷信」を広めて自己を守る。
そこに、「自己愛性人格障害」的状況が生じているのだと、
本当に、そう思います。

たぶん、川上さんと私の立っている理論の次元が違うのです。
ドーキンスの「神は妄想である」という主張は、
《現実界》から見る限り正しいのですが、
それ以上では無いという事です。

たとえば、川上さんは、ご自身の顔を、
直接には見る事が、できないのです。
鏡か、写真などによって、間接的に、自分自身を把握しています。
この自己把握の厳密な適中性は、
科学によって、どのように証明できるのですか?
ラカンが言うのは、この自分自身の自己把握が、
妄想であるということです。
神が出現するのは、ここにおいてなのです。

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1950年代に似て、新しい体制が出来上がろうとしている今、
彦坂様がご指摘になっている通り、
大崩壊が始まろうとしているのだと思います。
そして、その中で、ニヒリズムが、
やはり1950年代と同様、これから、大問題になるのではないか。
(その時、「情報」という言葉が、キーワードになりそうです。
 その意味で、西垣通さんの書籍のご紹介は、有難いことでした。)

時代把握が、違うと思います。
今日起きている事は、1950年代に似てはいないのです。
普通に言われるように、1929年に似ているのです。

それとニヒリズムに対する理解が違います。
単純系の科学がニヒリズムであったのです。

今日の問題はニヒリズムではありません。
今日におけるニヒリズムは、問題にならないのです。
なぜなら二ヒリスムに満ちているのであり、
全ての人の中で80%がニヒリストとすら言えるような
全体的な状況だからです。
言い換えると、今日では全体化している故に
ニヒリズムはもはや古い過去なのです。

虚無主義と、どう向き合うか。
それを否定する強い言説を彦坂様から頂き、
それに感銘を受けつつ、考えています。
虚無主義を「取り込む」ことは、できないのだろうか。

川上さんの思考は、ワンサイクル遅れているのです。
虚無主義を否定する私の思考というのは、
徹底的な分離と分解を認めている中に出現しているのです。

聖書でも、「無」が語られることがあります。
それは、パウロが言っているのですが、
「被造物は虚無に服した、それは、新しい命への待望として・・・」
という思想です(ローマ書に出てきます)。
「無」というものは、実は、「サントーム」的な、
人為(art=als)としてのみ、意味をもつ。
そのようにしたとき、「無」は、
究極の人為として、非常に重要なものとなる
・・・とは、言えないでしょうか。

言う事はできます。
なんでも言えるからですが、
しかし「無」というのは《現実界》にしか出現しないのです。
しかし《現実界》は、現実ではないのです。

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誤読に耐えて [日記]

最近3つ、誤読事件が起きた。

私の書いた文章を、自分のことを書かれたと思って、
傷つく人が現れのです。
次のようなメールが来ました。

彦坂様



お疲れ様です。

たびたびのメールを申し訳ありません。



昨日もツイッター更新されていたのですね。

今日になって拝読しました。



思い過ごしかもしれないけれど、「これはわたしのことかなあ」と思い、

反省をしているところです。


この誤読に対して、私は次のようにメールを返しています。


○○○まる様


まったく、違います(笑)。

「次郎物語」の1節を使いながら、

自分の娘を思い出しながら書きました。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


もうひとつは、

電話がかかってきて、

「私のことか」と聞かれたのです。

次のような文章です。


ギャラリーのSさんも、
「彦坂さん、死んでしまえばおしまいですよ」という様な事を
何回も言っていました。



このSさんは、ギャラリー手の杉山旭さんで、

昔から、こういう言い方を良くしていた方なのです。


他にもこの手の被害者が出ていて、

考えさせられますが、

しかし、こちらの考えもしない波及なので、

具体的な対処は、私は考えません。


そもそもで言うと、コミュニケーションというものは、

誤解において成立しているので、

人間関係は誤解を避けがたいのです。

ですから、私は誤解されても、それはそのままにしておきます。


それと文章というものは、書くと回りの人間関係を傷つける

ものなのです。

これも原理的なものであって、もともと書き言葉というものが、

人工的なものであって、自然性を引き裂いて行くものなのです。

つまり無文字社会こそが、人間の自然性ですから、

文字で書かれると、多かれ少なかれ、人は傷つきます。



人間関係にあまりに配慮すると、文章は面白く無くなって

いきます。

私は、ですから、その辺は諦めています。

まったく配慮しないわけではありませんが、

できるだけ、配慮しないように努力しているのです。


ですから、傷ついた方には、お詫び申しあげますが、

その多くは、誤解です。

人間の鏡像関係というのは、

多くの妄想と誤解と恐怖を生み出すのです。


それが《想像界》なのであって、

それは逃げ切れるものではないのです。


 





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本島/招へい芸術家募集要項(応募締め切りの部分に変更) [告知]

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アーティスト・イン塩飽本島

             ~晴れに耕す。そしてアート

招へい芸術家募集要項

 

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Ⅰ 概要

 

『アーティスト・イン塩飽本島 ~晴れに耕す。そしてアート~』という食とアートプロジェクトに対して、201041日~2011331日までの期間 今年度のアーティストインレジデンス活動を実施して行きます。

テーマ 「Wish You Were Here」-あなたがここにいてほしい-。
あなたとは、アーティストであり、ここに訪れる人々であり、本島の新しい島民です。島外から訪れるアーティストの新鮮なまなざしと投げかけにより、本島に対する新しい発見、異なる価値観の交流を促し、新しい発想や視点を、この小さな島にもたらしたいと思います。

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本島町笠島重要伝統的建造物群保存地区は、瀬戸内の海文化の象徴的な場所です。NPO笠島町並み保存協力会により、この地区の歴史的な町並みの保存及び公開が行われています。それに加えて旧小栗邸では、笠島地区で唯一の飲食を提供をする食堂が2006年まで運営されていました。しかし現在島の住民の高齢化が進み、お年寄りだけでは、活動が収縮し、食堂は閉鎖しています。笠島地区を訪れる観光客へのもてなしのため、さらに地区のお年寄りは、飲食の場を熱望していました。
そこで、2009年 地区住民の協力によって、保存地区内の一棟=屋号「あたらしや」をアート活動及び食堂として使用できるように提供されました。2010年は、『住民への飲食の場づくり』『土産物づくり』『本島への滞在者の誘致』などの熱い要望に応えて行こうと、アーティストの参加によるアーティスト・イン・レジデンスを実施します。
 さらにこれら、一連の活動と情報をインターネットによって配信することにより、本島という島の暮らし、島で取れる食材の豊かさを発信し、島と県の内外をつなぐ双方向な交流をつくりだし、新たな島嶼部の活性化に繫げることを目指しています。

 

 

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2つの計画【A食・野菜栽培 + Bアートの展開】によって地域の人々との交流を生み出し、地域の活力の創造を目的とするプロジェクトです。

 


募集部門 

 

[Art LoveFood」というテーマに沿った内容の創作を行うアーティストを募集します。

 

滞在中、地域の文化、環境などからアイディアを得て、創作活動を行い、新たな作品を通じて『住民への飲食の場づくり』『土産物づくり』に繫がるアクションプランを募集します。また、創作活動とともに、その成果発表や地域との交流プログラムなどを積極的に行っていただきます。

 

Ⅱ 招へい期間

 

2010年7月1日(木)から2ヶ月の期間

原則として、上記期間ですが、招へい期間(以下「期間」という。)の変更は協議の上、決定します。


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Ⅲ 募集人員

募集内容 1 食の開発提供
       野菜栽培に従事する者
     2 レジデンス作家 

2名または2グループ募集します。    

 

Ⅳ 応募資格

 

応募者は以下の条件を充たすものとします。

1.    現代美術などの分野で活動する原則18歳以上の者。

2.日本人又は期間中、日本に在留する資格を有する者

3. 日本語での日常会話ができること。

 

Ⅴ 応募条件

 

1.期間中は、原則として本島に滞在すること。なお、創作活動に伴う調査等のためスタジオを一定期間離れる場合には、事前に主催者と協議すること。

 

2.期間中、1点以上の作品を制作すること。

(作品の著作権は芸術家本人。制作された作品のうち、少なくとも1点の作品の所有権は主催者とし、商品化する場合、販売権は主宰者に帰属します。作品の選定については、協議し、決定する。)

 

3.期間中、展覧会、レクチャー、ワークショップ、地域交流プログラムなど、主催者が   実施するプログラムに参加すること。

 

4.他の芸術家や地域住民と良好な関係をもって交流ができること。

 

5.レジデンスプログラムの広報活動に協力すること。

・マスコミの取材

・期間中行われた活動に関するすべての写真・映像記録の主催者への帰属

 

6.プログラム終了時に活動実績報告書を提出すること。また、それに応じること。

 

Ⅵ 支援内容

 

1.交通費:実費(往復)

・国内の居住地の最寄駅からレジデンスまでの往復交通費を支給します。

 

2.住居

2ヶ月の滞在期間中、レジデンス内宿泊施設を無償で貸与します。

なお、食費、光熱水費、通信費は自己負担です。

 

3.制作場所

・スタジオとして使用したい場所は活動内容に応じて、協議の上で決定します。

 

4.生活費及び創作活動費

・生活費として月額3万円(税込み)および創作活動費として月額5万円(税込)を上限に、支出計画に基づき支給し、実績(使用明細)により清算します。


Ⅶ 応募方法

 

○別記応募用紙(同じ様式で作成したものでも可)にすべての必要事項を記入してください。

 

○CV(作家履歴)と、ポートフォリオを添付してください。(「応募用紙」参照)

 

○自作についての新聞や批評誌があれば添付してください。

 

○他のレジデンス事業に参加したことがある者は、実績内容を必ず添付してください。

※応募資料の返却のご希望には一切応じることはできませんので、ご了承ください。

※応募用紙、資料に不備や虚偽の記載がある場合は、応募を受け付けません。

※個人情報の取扱い:応募いただいた内容は、レジデンス事業以外の目的には使用いたしません。

※応募用紙等は、メールにお送りします。


 応募締切




2010年3月31日(水)【必着】で、応募用紙、ポートフォリオ等各1部提出してください。


○この期日を過ぎて到着した応募は受付しません。




 決定時期



2010年4月中旬


○提出された資料をもとに、(書類選考)を行います。


○書類選考通過者を対象に、聞き取りなど第2次審査を行い、招へい候補者を選定し、本人に決定通知を行います。


第2次審査 日程:2010年4月末予定  場所:丸亀市本島町(現地)


なお、面接当日の交通費は自己負担となります。

 

 

Ⅹ 応募・問合せ先

SAW 瀬戸内アートウェーブ 

代表:梅谷幾代

760-0221 香川県丸亀市本島町笠島305

ギャラリーアルテ + SAW

TEL /FAX0877-57-8255

E-mailarte@mti.biglobe.ne.jp

 

参考までに

□宿舎(平屋)

 ホームステイとなります。エアコンはありません。

※滞在中の食事は、個人負担で食堂の利用。自炊希望の場合は、別途協議して対応します。

 

□買い物 島内にはコンビニ マーケットはありません。

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タグ:本島
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マドンナによるマイケル・ジャクソン追悼演説(加筆1) [状況と歴史]



現地時間2009年9月13日(日)ニューヨークで開催。オープニングに登 場したのはマドンナ。マイケル・ジャクソンへの心からのトリビュ ートを送り、急逝したキング・オブ・ポップへの深い哀悼の意とと もに、VMAは幕を開けた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

マドンナのしゃべりというのは、
昔から良くて、音楽雑誌などでインタヴューを読んでいて、
たびたび感心させられた。

マイケルジャクソンについては、私も前に書いているが、
終始敬意をもって書いて来ている。

だからと言って、実はマイケルジャクソンの音楽を、
それほど良いとは思っていなくて、
そのことはそのこととして、いつか、ブログでも書きたいと思っています。

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《現実界》の否定として情報化社会(加筆2校正1) [状況と歴史]

《無》について再論します。

川上直哉さんという方から、長文のご質問が来ています。
最後にそのご質問を再録してあります。

ご質問には直接はお答えしないで、
彦坂尚嘉の基本的な考えを述べておきます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

もともとは《死》の話からはじまりました。

ギャラリーのSさんも、
「彦坂さん、死んでしまえばおしまいですよ」という様な事を
何回も言っていました。

死んでしまえば、無に帰するというような常識が、蔓延しています。
しかし山口光子さんが死んでも、無には帰さないのです。

まず、彼女のつくった負債の3000万円は未処理で残ります。

ギャラリー山口の30年間の活動で、そこで発表した作家の経歴に、
ギャラリー山口の名前は残って行きます。

たとえば大浦信行 の『遠近を抱えて』という作品は、
ギャラリー山口で最初に発表されたものです。

普通に回顧すれば、篠原有司男さんを擁護したギャラリーとして、
記憶に残ります。

我田引水でいえば、彦坂尚嘉も『フェイク・デス』という
良い作品を発表しています。

等々、山口光子さんの人生67年が生み出した様々な波紋は、
今後も継続するのです。

死んだからといって、無にはならないのです。

今のギャラリー関係者は、
常識としての科学的な考えを基盤に生きているように思いますが、
それは厳密さを欠いているのです。

科学的な《現実界》の眼で世界を見ると、
《無》ということが現れます。
しかしそれは虚偽なのです。

そこで無と死が連動して、今日の常識を形成します。
その常識そのものが、虚偽なのです。

《現実界》というのは、意味構成をしないので、
人生の意味も、芸術の意味も解体されてしまうのです。
解体する事自体は良いと思いますが、
そのことが、実は事実を隠して行くのです。
つまり山口光子さんの死の後にも、
多くの事実は連動して動いてくと言う事実を見ない事に、
しているのです。


こういう世界観とか、人生観というのは、
日本だけとは言いませんが、
世界的に見ると、世界常識とは違うところもあります。

たとえば韓国は、朝鮮戦争をくぐって、たくさんの死を経験してから
キリスト教が強くなって、韓国キリスト教は、
日本への布教も果敢に展開しています。
私が今教えている立教大学もキリスト教の大学で、教会があります。
その教会の牧師さんのトップは、韓国人です。

韓国に限らす、キリスト教は世界中でまだ生きています。

もちろんアメリカはキリスト教が強くて、
現在も多くの葬儀は、土葬でなされています。
最後の審判のあとに、復活するために、土葬で埋葬された墓が、
多いのです。

こうしたキリスト教の宗教観というのは、
ラカン的を下敷きにした彦坂流の考えで言えば、
《象徴界》的な価値観が支配している見方であると言えます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

つまり人間の精神は、《想像界》《象徴界》《現実界》そして
《サントーム》という4つの次元があるので、
《死》について考えたり、《無》について考えたりする時でも、
どこで考えているかで、微妙に内容が違うのです。

科学的に考えるという事は、
《現実界》で考えるという事であって、
それには、実は限界と古さがあるという事です。

ここからは彦坂尚嘉の独特の考えですが、

人類の歴史を見ると、
初期は、自然採取の原始時代でありました。

書き文字も無い無文字社会であったのです。
この時代を主導したのは呪術的な思考で、
これが《想像界》です。

今日の漫画の世界というのは、
この《想像界》を基盤としたものであって、
現代という文明世界の中に出現した野蛮文化なのです。

そこの原理は偶像崇拝です。
キャラクターというのは、この偶像崇拝の原理で作動するのです。

村上隆や奈良美智の描くキャラ芸術というのは、
この野蛮主義の復活と連動した美術の動きなのです。
近代芸術が、野蛮なものへと退化する動きだったのです。

《想像界》の特徴は、『アキラ』や、漫画版の『ナウシカ』が
指し示したように、先送りの戦闘世界で、
それは万華鏡のようにきらびやかで面白いのですが、
最後まで行くと、何もないのです。

《想像界》というのは、意味構成をしないのです。
とりとめもない万華鏡的な戯れの世界です。
同時に心的には、ラカンの明らかにした鏡像世界であって、
私たちの心理的な愛憎や、執着、絶望、苦悩の大半が、
この《想像界》で展開され、それは今も続いているのです。

この《想像界》を否定して抑制したのが《象徴界》なのです。

《象徴界》というのは書き文字の出現で可能になったのです。
書き文字が、法をつくり、そして聖書や仏教教典、コーラン。。
諸子百家の思想、さらにギリシア哲学を形成します。

つまり世界宗教が書き文字という識字によって成立して、
この書き文字が《象徴界》であって、
書き文字が《想像界》の原理である偶像崇拝を否定したのです。

しかし、それは《想像界》が消えてしまう事では
なかったのです。

《象徴界》が成立してもなお、人間は《想像界》制を保持して、
《象徴界》と《想像界》の2住生活をおくります。
そして次第に《想像界》の偶像崇拝が蘇ってくるのです。

そういう中で《象徴界》を再度否定して、
違う次元を切り開くのが禅宗であり、
そして科学であったのです。

ヨーロッパで言えば、17世紀から18世紀に、
この変動が来ます。

これらが《現実界》です。
《現実界》の特徴は、書き文字を否定して、
不立文字を主張して、
科学では、数式で表現する事です。
アインシュタインの相対性理論も、数式で示されたのです。

私が言っているのは、
科学が正しいとか、間違っていると言っているのではありません。

科学のものの見方は、
人間精神の《現実界》の見方であると言う事です。
それは数式で示される世界であって、
それを「死」とか、「無」という書き言葉で示すと、
実は混乱が生じるのです。

しかしもその科学というのは、
物理科学を主体にした単純系の科学であったのです。
今日の情報理論が主導する複雑系の科学ではありません。

自然物理学を中心にした単純系科学の主導した時代が、
《近代》というものであったのです。
それと今日の複雑系の科学とは違うものなのです。
連続性はありますが、原理的に革命があったのであって、
この科学技術の革命を見損なうと、今日の科学を
理解し損ないます。

重要なことは近代の《現実界》というのは、
意味構成をしないのです。

ここからはむずかしいかもしれません。

つまり分離という考えが、なかなか、みなさんに
分かってもらえないのです。

例えば、背の高さを測ることと、
体重を量る事は、別の事なのです。
測定する時に、別々にする必要があります。

背の高い人は、体重も重いという事は、一般にはありますが、
連動して考えると、間違えるのです。
体重が100キロあるから、背の高い人であると言うような
予想は、マズいのです。
身長は低いのに、体重が極端に重い人もいるからです。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を、それぞれの
特徴をつかんで、分離しておかないと、
混乱するのです。

絵画における色の問題も、
彩度、明度、色相の3つをバラバラにして考えて、
コントロールするのが、むずかしいのです。
それなりの理論学習と、訓練と、経験をつまないとできないのです。

分離を踏まえておかないと、
「死」とか、「無」とか言う書き言葉をつかって考えると、
《現実界》と《象徴界》をミックスしてしまって、
混乱を生むのです。

《現実界》では数式で考えるのが基本で、
言語を使ってはいけないのです。

ギャラリーARTEの梅谷幾代さんの中に、
彦坂尚嘉が見ているのは、
そうした《想像界》《象徴界》《現実界》の3界が、
未分離に重なっていて、
しかも単純系の科学へと、還元する形で、
「死」とか「無」の言葉が使われていることです。

思考が団子になっているのです。

問題なのは、それが今日の日本の大多数の常識と、
重なっている事です。
常識の中で思考する事自体が、実は問題なのです。
その虚偽性は、ソクラテス以来の真理であって、
今日の日本社会の常識は、実は虚偽なのです。

今日の日本社会の常識が信じているような形では、
「死」とか「無」というのは存在しないのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

コメント 1
こんにちは。
いつも、たくさん学ばせていただいております。
川上直哉と申します。

死をめぐる考察、静かに拝読いたしました。
まずは何よりも、お見舞いを申し上げます。

すこし、考えを整理して、一つの質問をさせてください。

共観福音書(マタイ・マルコ・ルカの福音書)の共通した記載によると、
“神は生きている者の神だ”というのが、
イエスの思想であったようです。
このイエスの思想の特殊なのは、
「神は生けるものの神だ」という発想から、
「死=無化」という発想を退ける方向へ、
論理を進めた点にあります。

「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」と、
そのようにその名を呼ぶところのユダヤの唯一神は、
生ける者の神である、
だったら、アブラハム・イサク・ヤコブは生きている。
それが、福音書に残されたイエスの死生観の展開でした。

「死=無」という概念は、ギリシャ哲学においても大問題で、
たとえば、デモクリトスのアトム論は、
「アトム=分けられないもの」を、世界の構成原理としました。
でも、それは、キリスト教が支配した中世西欧において、
完全に退けられました。
それは、上記のような福音書の思想の枠内に、
人々の思考が支配されていたからでした。
さらにそれは、トマス・アクイナスが、
アリストテレス哲学をキリスト教に大胆に導入して、
神学全体のが理論的補強を施された、結果でした。
トマスが用いたアリストテレスこそ、
アトム論に反対した代表者の一人だったからです。

ここまでが、《象徴界》の主導した時代です。
この後、数式を基盤にした単純系科学の《現実界》が、
主導する時代が始まります。

こうした状況は、17世紀に逆転します。
17世紀に、真空が発見されたことが、
大きなきっかけになります。
背景には、
16世紀の宗教改革=宗教の破綻を受けて、
論理と数学と実証に支えられた科学が、
人々の思考を新しく展開し始めていたことがある。
そのような背景と発見に押し出されて、
アトム論は、17世紀に復活します。
アトム論は、ライプニッツのモナドとして、洗練を加えられます。
「モナドロジー」は、現代の思考の先取りとして読めます。

こうして、アトム論は、実に、現代を支配する思想となりました。
アトム的・モナド的枠組みが出来上がることで、
現代の機械論的世界観が生まれる。
それは、「死=無」とすることを、
自明のこととして疑わない世界観です。

現在の情報革命は、実は近代の単純系科学を、
根本において否定して、別の原理で出現して来ているのです。

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フジ子・ヘミング(加筆2) [音楽から考える美術論]

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》だけの表現
プラズマ状態だけの表現

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の表現
原始脳の表現
《原始音楽》『ペンキ絵的音楽』【B級音楽】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》が無い。
《世間体のアート》だけがある。


0201.jpg

 

フジ子・ヘミングは、1932年生まれのピアニストです。

父親はロシア系スウェーデン人の画家・建築家の

ジョスタ・ジョルジ・ヘミング。

母親は、日本人ピアニストの大月投網子。

フジ子・ヘミングは、耳に障害をもっているピアニストです。

フジ子・ヘミングの演奏については、批判もすでにたくさんされていて、

そのミスタッチの多い演奏は、問題をもっているのです。

そのことを私が繰り返す興味が無いのですが、

ひとつ面白いと思うのは、そういうミスタッチだらけの演奏でも

成立する《世間体のアート》という基盤の面白さであります。

《世間体のアート》というのは、非常に強烈だと言えます。

そこにはNHKのあいかわらずのお涙物語が好きという趣味が働いていて、

NHKの番組が人気の火をつけたのでした。


もうひとつは、このミスタッチに関連して、

この音楽が、プラズマ化した表現であるということです。

耳に問題があって、今は少し回復したとも言われますが、

聴覚障害者の演奏であるという欠如感と、ミスタッチのひどさが、

音楽そのものを、ある種の脱構築状態に改変しているのです。


フジコヘミングの音楽がひどいにも関わらず、

多くの人を魅了しているのは、

プラズマ化と無縁では無いだろうと思います。


0201.jpg

彼女の顔を見ても、プラズマ化は起きています。
眼の強さは、面白いと思います。
でなければ聴覚障害者が、ピアノを弾く事はできないでしょう。
ほとんどか、あるいは少し聴こえる程度で、
振動だけを頼りにピアノを弾くプロの演奏家をやって、
成功するのですから、普通ではありません。
どこか、壊れているのです。

 


さて、画家の娘ということもあって、

フジ子ヘミングは、絵も描きます。

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絵の方は、プラズマ化は起きていなくて、
普通の《第6次元 自然領域》の《想像界》だけのイラストで、
デザイン的エンターテイメントに過ぎない凡庸なものです。

 


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無は存在しません [生きる方法]

ルーカスとの日々壮絶な介護の日々だったのですね。

思い出してくれる人が無くなったときに、存在は消えてゆくのですね。
私も亡くなった祖父や祖母や父のことを思い出したり、語るとき、彼らは
まだ存在しています。私が死んだとき、彼らは本当に消えてしますのだと
思っています。

心よりお悔やみ申し上げます。 
by 梅谷です (2010-02-20 20:04)  


梅谷様

お悔やみをいただき感謝します。

私自身は、私が死んで、私の記憶が消えても、
死者たちが消えるとは思っていないのです。

私の禅宗に対する評価が厳しいのは、《現実界》に於ける思考というのは、《想像界》《象徴界》の存在を無視する事に、力点が置かれ過ぎているからです。聖書には次のようにあります。


マタイによる福音書

第一章

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。

アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、

ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、

ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、

エスロンはアラムの父、 アラムはアミナダブの父、

アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、

サルモンはラハブによるポアズの父、ポアズはルツによるオベデの父、

オベデはエッサイの父、 エッサイはダビデ王の父であった。

ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、

ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、
アビヤはアサの父、
 
アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、

ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキアの父、 

ヒゼキアはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、 

ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父
となった。

バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。
サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、
アビウデはエリヤキムの父、
エリヤキムはアゾルの父、 アゾルはサドクの父、
サドクはアキムの父、
アキムはエリウデの父、 エリウデはエレアザルの父、
エレアザルはマタンの父、
マタンはヤコブの父、 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。

このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。

だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、
ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、
そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

内村鑑三は、聖書研究の中で、こうした系譜学的思考を、
高く評価しています。

私も系譜学的思考をとるものです。だから私は歴史家であり、
遡行する事に情熱を持つのです。

消えるというふうには、考えないと言えます。


たとえば、国際的な美術展に参加すると、消防法が強い事に驚きます。

何故なのか?

火事で、多くの人が、無念の思いで焼け死んで行ったからです。

多くの人の犠牲の上で、消防法ができているから、

消防法は、強い法律なのです。

法とは、死者に上に立っているのです。

それは法だけではなくて、全ての存在が、
多くの無念の死の上に築かれているからです。

それは屠殺場で殺されて行く牛や豚までも含めて、
これらの死の上で、人びとは生きて行きます。

生物の弱肉強食の食物連鎖自体が、こうした死の連鎖の上に
築かれています。だから地球上には5回にわたる大絶滅があったのです。

最下層の弱者を滅ぼすと、食物連鎖の梯子の土台が崩れるので、

大崩壊が起きます。

今の日本に起きているのは、大崩壊なのです。

その崩壊を引き起こしているのは、弱者を死に追いやっている故に

起きる社会基盤の最下部の崩壊です。

全てのものの存在と死には意味があって、

クモの巣のように連鎖しています。

何らかの系譜があって、それは中国の大地の上で飛ぶ蝶の羽の動きが、
台風に増幅されて、カリホルニアを襲うタイフーンになるような連鎖
なのです。

それ故に、無は、存在しません。

複雑系の歴史観の中に、無は無いのです。

あるものは、この宇宙のすべてのものの連鎖と系譜の総体なのです。

この全ての関係を受け入れて生きる事。

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ルーカスの死 [日記]

長く飼っていたラブらドールのルーカスが、

1月15日に死んだ。

この日は実はギャラリー山口の山口光子さんが亡くなった日でもあって、

ちょっとブログに書く気にならなかった。

ルーカスの晩年は、遺伝病で後ろ足2本がだめになって、

しかも一本を自分でかじる習慣がついてしまって、

介護はかなり大変だった。

普通は安楽死をさせる状態だったのですが、

目がしっかりしていて、生きる意欲はあって、

食欲も衰えなかったので、医者とも相談して、

安楽死は先延ばしをした。

後ろ足2本だめと言う不自由な足で、前足2本だけの力で、

後半身を引きずって

驚くべきもかなりのスピードで遠距離を移動した。

油断すると道路に出てしまって、

近所の人が通報するので、3回警察が来るという騒ぎになった。

 

足をかむ癖が出来て、いろいろなことをしたが、止められなかった。

首にカラーをしても、最初は良いのだが、そのうちにカラーを超えて、

首を出して、後ろ足をかじって、ついには骨まで出てきてしまった。

医者に連れて行って、短期入院させて、一度はなおったのだが、

また同じことを繰り返す。

麻痺しているので、かじっても痛くないようで、

かじるのを止めるために、ガムテープでカラーの前をがんじがらめにして、

鉄仮面のようにすると、しばらくは良かったのだが、

なにしろ頭も良くて鉄仮面を突破する方法を、

根気良く編み出してしまう。

そこで私の長靴を後ろ足にはかせるという方法をとった。

これもしばっらくは良かったが、いつのまにか脱ぐコツを覚えてしまって、

最後は、この長靴を脱いで、足を噛んで、動脈を切って、

血が水道の蛇口柄出るように流れでて、血の池をつくった。

気が付いたときは手遅れで、止血はしたけれども、

急速に意識を失って、眠るように死んだ。

自殺と言うべきかどうかは判断が難しいけれども、

とにかくこの1月15日は、二人の知人が亡くなったのです。

死者というのは、亡くなって無くなるのですが、しかし記憶の中では生きていて、

繰り返し思い出されてくる。

人間は死者と一緒に生きていくのであって、

死んだら御仕舞いというものではない。

祖母も、母も、義父も、そして私の長男も死んだが、

しかし私は彼らと一緒に生きているのであって、

無ではないのです。

ルーカスのことも、山口光子さんのことも繰り返し思い出しています。


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ドゥッチョとチマブ−エ/ゴシック期の絵画 [アート論]

いつも興味深く拝見しています。
以前ドゥッチョの作品に対する彦坂さんのご意見を書かれていたと思うのですが、ジョットやチマブエの作品に対してはどのようなご評価なのでしょうか?
今回の本題とはズレるのですが、西洋絵画の変遷を見ていく際の参考にさせていただければと思い、質問させていただきます。

不適切なコメントでしたら削除してください。

by あいざわさとし (2010-02-18 01:59)  


あいざわさとし様
良いご質問をありがとうございます。
イタリアのシエナのゴシック画家であるドゥッチョ
(1255〜1319年頃)に対する評価は、
私の芸術分析では《超一流〜6流》の重層的芸術として高いのです。

下の作品『ルチェライの聖母は、フィレンツェのウフィツィ美術館に
あって、私も見ています。


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ドゥッチョ ルチェライの聖母  ウフィツィ美術館

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
固体だけの表現

《シリアス・アート》
《ハイアート》
シーニュの表現

理性脳の表現
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】


原芸術》が有る。

《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》は無い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

芸術分析から分かるように、ドゥッチョのゴシック絵画には、
《原芸術》があって、芸術の起源性を示している名作なのです。

しかし、チマブ−エも、区別がつかないほどに同じような宗教画を
描いていますが、《第6次元 自然領域》だけの画家であると
私は判断します。

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チマブーエ 聖母と天使たち 1270頃 ルーヴル美術館

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》だけの表現
絶対零度の表現

《シリアス・アート》
《ハイアート》
シーニュの表現

理性脳の表現
《原始平面》『ペンキ絵』【A級美術】


《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。

《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》が有る。



チマブ−エ(1240〜1302)は、
ややドゥッチョ(1255〜1319年頃)よりも時代が早いので、
チマブ−エの描いた絵画を、ドゥッチョが真似て、
真似てというよりもコピーと言って良いほどに下敷きにして、
絵画のレベルを上げたのではないでしょうか。

ドゥッチョとチマブーエ2.jpg
チマブーエ《第6流 自然領域》    ドゥッチョ《超一流 超次元》
《世間体のアート》             《原芸術》

絵画のレベルを、チマブ−エの2次元的な原始平面の表現から、
2.5次元的なピクチャー・ボックスといわれる表現へとドゥッチョは、
変えているのです。

マリア様の座っている椅子の表現を見て欲しいのですが、
2次元的な原始平面の表現と、
2.5次元的なピクチャー・ボックスの違いを見て下さい。

ドゥッチョとチマブーエ.jpg
チマブーエの原始平面     ドゥッチョの2.5次元表現
《世間体のアート》         《原芸術》

《世間体のアート》というものは、非常に強力で、
多くの人はチマブーエ的な表現の明快さが好きなのです。

《世間体のアート》は、絵画が2次元で、人間が3次元を生きる事を、
当たり前ととらえて、明快に割り切っている。

ドゥッチェには、人間が3次元世界に
生きていて、しかし絵画は2次元であるということを矛盾として
とらえて、絵画の中にそれを組み立てている。



物事を平明にとらえるのか、解決不能の矛盾を生きる事と捉えるかで、
違うのです。

その根源には、
人間が生きて、確実に死ぬ事を、当たり前と捉えるか、
解決不能の矛盾と感じるかの違いがあります。

どちらで考えるかで、生きる事の意味は違ってくるのです。




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大森南朋の顔/麿赤兒/土方巽(校正加筆1) [美人論]

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こんにちは。彦坂様
 毎日楽しくブログを拝読させていただいています。「集団から離れる」「忍者」というキーワードにある人物を関連づけてイメージしてしまったので反応して、書き込みさせていただきました。大森南朋という俳優さんですが、この方が 大きな流れからは外れる位置で活動を続けてきて、いままさに大ブレイクしているのです。この方も忍者のように、見事に自分を透明にした演技をされていて、不思議な存在感のある演技者だと思います。この方を判定していただけないでしょうか?
          
                        by アルテ梅谷 (2010-02-11 15:22)

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大森 南朋(おおもり なお )は、1972年生まれ、現在38歳。俳優。
父親は、舞踏家の麿赤兒です。

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麿 赤兒(まろ あかじ )は1943年生まれ。舞踏家の土方巽に師事。
唐十郎とともに劇団状況劇場を立ち上げたというのだが、
状況劇場は、前身が劇団「シテュエーションの会」で1963年設立、
翌1964年に状況劇場に改名している。

唐十郎は、この時期、金粉ショーをやって資金調達をしているのだが、
麿赤兒は、今も金粉ショーをやっていて、それはこのブログでもとりあげ
ている。だからたぶん、麿赤兒が、状況劇場の創立に参加しているのは、
ほぼ間違いないだろう。

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私は、1967年の『ジョン・シルバー』を見ている。
したがって,
この芝居の中での麿赤兒も見ている。

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以上3点は、横尾忠則の1967年のデザイン

横尾忠則デザインに対する彦坂尚嘉責任の芸術分析

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で
《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》だけの表現
固体だけの表現

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の表現
原始脳の表現
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、《無芸術》は無い。

《世間体のアート》だけがある。


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上のイラストは、私の学生時代に登場したもので、

女優は浅丘ルリ子で、女優として旬でありました。

こうしたイラストで横尾忠則が成功したのは確かですが、

芸術分析的には、すぐれたものではないのです。

むしろすぐれていなかったから、大成功をしたのです。

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横尾忠則の顔に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン顔
《象徴界》の眼で
《第8次元 信仰領域》のデザイン
《現実界》の眼で
《第8次元 信仰領域》のデザイン顔

《想像界》だけの人格
固体だけの人格

《気晴らしアート的人物》
《ローアート的人物》

シニフィエ(記号内容)の人格
原始脳の人物

《原人格》、《人格》、《反人格》は無い。

《非人格》《無人格》《世間体人格》は有る。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

大阪万国博に向けて、日本中が未来主義になって舞い上がったいる時に、

横尾忠則は、反《近代》の固体美術=前近代美術と言う、

古いものを作ったのです。この後ろ向きさが受けたのです。

実はこういう成功のパターンは日本にはいくつもあって、

この時代に出てくる山田洋次の『男はつらいよ』(1969年)も

同様に後ろを向いた追憶の映画でありました。

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『男はつらいよ』第一作のポスターに対する彦坂尚嘉責任の芸術分析

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン
《象徴界》の眼で
《第8次元 信仰領域》のデザイン
《現実界》の眼で
《第8次元 信仰領域》のデザイン

《想像界》だけの表現
固体だけの表現

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の表現
原始脳の表現
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》は無い。

《非芸術》《無芸術》《世間体アート》は有る。


 

杉本博司、石内都、やなぎみわ、遠藤利克という現代美術の

作家たちも、共通して固体美術であって、それ故にこそ、

受けるのです。

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杉本博司
《第6次元 自然領域》 固体写真

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石内都
《第6次元 自然領域》 固体写真

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やなぎみわ
《第8次元 信仰領域》 固体写真

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遠藤利克
《第6次元 自然領域》 固体美術

 


それは明治期の日本美術院の中で、唯一固体美術を展開した

下村観山が、良く売れたという事にまでさかのぼるものです。

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下村観山 
《第6次元 自然領域》 固体絵画

 


現在もそうですが、多くの人は、芸術と骨董の区別がつかなくて、

鑑賞芸術というものは、固体美術という前近代の骨董性を持つもの

に、深い意味を見るのです。

ちなみに、芸術に歴史があるのではなくて、歴史が芸術であるとして、

骨董化こそが、芸術であると論じたのは中原佑介で、

これは1965年頃の荻窪画廊の『眼』という機関誌に書かれた

文章です。

じかし事実は、骨董は芸術ではないのです。

蒸気機関車が骨董になっても、蒸気機関車は芸術にはなりませんでした。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

大森南朋のお父さんの麿赤兒というのは、

何であったのか?


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麿赤兒

 

そのことを考える時に、ひとつは、土方巽というのは、

何であったのか?

という問いにぶつかります。

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時間が無いのではしょりますが、

土方巽には、1971年に世田谷の等々力の暗黒舞踏派の道場に

私は訪ねて行って、話したことがあります。

さて、結論だけを言えば、少なくともデビューしたての土方巽の

舞踏は、気体化した舞踏で、圧倒的に、この時代としては

新しかったのです。


土方巽の気体化それに対して、麿赤兒は、冷たくて氷状態です。

それは絶対零度で、凍てついているのです。

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麿赤兒の顔に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》
《現実界》の眼で
《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》

《現実界》だけの人格
絶対零度だけの人格

《シリアスアート的人物》
《ハイアート的人物》

シニフィアン(記号表現)の人格
原始脳の人物

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》は有る。

《世間体人格》は無い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 麿赤兒は、つまり文明の中の野蛮であって、

横尾忠則以上に、古く原始的なのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

麿赤兒には、大森南朋の他に、もう一人息子がいます。

映画監督の大森 立嗣(おおもり たつし)です。


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大森 立嗣

さて、麿赤兒と2人の息子の顔を比較してみます。

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大森南朋の顔に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析

《想像界》の眼で《第1次元〜第31次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第1次元〜第31次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で
《第1次元〜第31次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な人格
プラスマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な人格

《シリアスアート的人物》
《ハイアート的人物》

シニフィアン(記号表現)シニフィエ(記号内容)の同時人格
原始脳/理性脳の同時人格

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原人格》《人格》《反人格》

《非人格》《無人格》《世間体人格》の全てが有る。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

大森南朋の顔は、彦坂尚嘉の《言語判定法》で見る限り、

素晴らしい理想的な現代の人格構造を示しています。

新しい人類の誕生と言って良い総合性を持っているのです。


こういう新しい日本人の誕生は、日本の新しい未来を切り開く

原動力になって行くでしょう。

日本の未来は、決して暗いだけのものでは無いのです。

若い人びとと一緒に、未来を切り開く必要があるのです。





タグ:大森南朋
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