バサラ・メモ(画像追加 加筆) [日記]
バサラであるとわかって、長年の秘密を解いた気がしています。
なぜに、ああいうペラペラの紙の小さな作品を作りえるのか?
という謎は、
高度の芸術に対するコンプレックスが強くあって、
これを摸倣しつつ、なぞり、複雑に屈折しながら、
原始的で、レベルの低い下層文化に還元して行こうと言う
情熱であったのではないでしょうか。
それが、ある意味で正直に過激に展開されたところに、
糸崎公朗さんの魅力と人気の秘密があったと、私見ですが、
思った次第です。
こういう視点で見ると、
例えば北野武の映画もバサラであったと思います。
バサラものは、最初には高度な文化を摸倣してなぞるので、
その段階は魅力があります。
しかし次第に低いものに還元して、
還元し切ると、エネルギーを失ってつまらなくなるのです。
同じ事はティムバートンにも言えて、
あれもアメリカのバサラであったと思います。
最初面白いのですが、次第につまらなくなって、
見るのも嫌になってしまう。
こういう私の私見に異議を唱える方は多いと思うので、
その異議は理解できます。
しかし北野武やティム・バートンさらにはエディ・マーフィー、
、さらにはスティヴ・マーティンなどが、次第につまらなく
なっていったという理由を説明するのには、
バサラ理論は、ひとつの回答ではあるのです。
貶める(落としメル)ことの面白さというエネルギーは、
実は限界があるのです
落としメルのには、落とすべきものの高さが必要なのですが、
その高さが、本人が成功して偉くなる事で、
次第に失われてくるのです。
糸崎公朗さんの作品も、立派な美術館で、
デュシャンと並んで展示されると、面白くは見えてこないのでした。
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しかし、文化というものは、
そもそもがバサラの部分があって、
常に落下する喜びにあるのではないでしょうか。
しかしギャクもあるのです。
下層のものが上昇して行く喜びです。
どちらにしても下降と上昇の相矛盾するエネルギーの織りなす
不可思議な渦巻きの中で芸術は生まれ、死んで行くのです。
前の記事に返信できないでますが、新たな記事をありがとうございます。
いろいろ考えてますので、必ず返信いたします。
by 糸崎 (2010-03-22 22:25)
>こういう私の私見に異議を唱える方は多いと思うので、
>その異議は理解できます。
先の記事の返信にも書きましたが、ぼく自身の「異議」や「反論」はここでは意味をなさないでしょう。
もちろん、彦坂さんの考えのすべてが正しい、などと盲信してるわけではありません。
しかし少なくとも、ぼくより彦坂さんのほうがより多くの「ことば」を知っていて、より大きな理論体系を築いておられることは事実なので、ぼくとしては「反省」して学ぶべき点は多いはずだと思っています。
>バサラものは、最初には高度な文化を摸倣してなぞるので、
>その段階は魅力があります。
>しかし次第に低いものに還元して、
>還元し切ると、エネルギーを失ってつまら なくなるのです。
理由はどうであれ、自分の作品がつまらなくなってゆく危惧は常に感じています。
その意味で、自分は今岐路に立っているように思います。
それもあって、これまでになく交流を広げようと思ってるのです。
彦坂さんの指摘のうち、コンプレックスが現在の自分の出発点になっていることは間違いないです。
ぼくは本や雑誌にもにもたびたび書いてますが、いちどはアートの道を志し美大に進学したにもかかわらず、才能が無くて挫折した経緯があります。
さらにその「美大進学」の動機も、「勉強ができないこと」へのコンプレックスがあり、さらにその根本には「世間一般からの落ちこぼれ」というコンプレックスがあります。。
ぼくの現在の表現はそのような数々の挫折の裏返しであって、その意味で「バサラ」と言えるのかも知れません。
しかし彦坂さんとの一連の対話でふと気づいたのですが、ぼくはこれまで築いてきた価値体系をすべて捨象して、「勉強もできないしアーとの才能もない自分」というすべてに絶望したかつての「ゼロ地点」に戻る必要があるのかも知れません。
この場合の「捨象」や「ゼロ地点」はあくまで方法論であって、一種のシミュレーションです。
「ゼロ地点」に戻れば「自分の価値体系」に惑わされることなく、「他人の価値体系」を知ることが出来るかもしれません。
その結果が何をもたらすのかは不明ですが・・・単なる思いつきでスイマセン。
by 糸崎 (2010-03-26 11:35)
糸崎様
コメントありがとうございます。非常に誠実な文章で感銘を受けました。お考えになっている方向は正しいと思います。
by ヒコ (2010-03-27 03:38)