文明様態選択の自由(加筆2) [状況と歴史]
西欧に農業革命が起こる前から、存在しました。
それは、「唯一神」を「父・子」に分ける理論から始まり、
「聖霊」の理論によって、無限に分化することに至ります。
その背景には、古代ローマの「古代的資本主義」というべきものがある。
それは決して中世西欧的「農業社会」を背景に作られたものではない。
この点は、重要かと思われます。
現代において私が有効であると思われるのは、
「関係の類比」と呼ばれるものです。
それは、無限分化する全体が、
関係性において一体性を保つという理解です。
その概念は、「農業社会」においては異端視されるものです。
しかし、近代以降、K・バルト以降の現代に至るまで、
「関係の類比」としての三位一体論は、
世界を説明する原理として、有効性を有していると思われます。
言われますが、歴史がほとんど流れないのです。
呪術魔術が支配し、占い/まじないが、知的な構造
なのです。この世界が《想像界》なのです。
《想像界》というのは、魔術や呪術が支配し、
偶像崇拝が行われている知的世界です。
これは現在も現在も継続しているのです。
鑑賞構造とは何か?/糸崎公朗の対話(2) [アート論]
いろいろ考えたのですが、この記事は画像はそのままで価値があると思いますので、そのままにしていただければと思います。
メールにも書きましたが、展示について批判的なのは残念ですが、真摯で非常に興味深いご意見をいただいけたと思っております。
批判をする意思そのものは、あまりないのです。
正直な感想が基盤にあります。
ぼくがもっとも興味深いと感じたのは、彦坂さんの
>一番ひどいのは、デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」(1941)に対して、その展示の形態への類似から、リカちゃん人形のボックスセットを対置しているものです。
>解釈は自由ですから、かまいませんが、馬鹿馬鹿しく私には見えてしまいました。
という意見です。
ぼくはこのデュシャンの『トランクの中の箱』と「リカちゃんハウスの」比較を「最大の自信作」として出展してますから、全く正反対の意見です。
そうですね。
この辺のところが、興味の違いだと言えます。
そもそもぼくは「非人称芸術」というコンセプトによって、いわゆる「一人称芸術」に対してある意味「正反対」の価値体系を提示してるつもりです。
ですからぼくの「最大の自信作」を彦坂さんが「一番ひどい」と捉えられることは、非常にまっとうな反応だとおもいます。
「非人称芸術」という価値観は、20世紀の前衛芸術の中のひとつの側面としてあって、デザインへの還元への欲望として、続いています。私の考えでは、この事実性は認めますが、もともと「非人称芸術」というのは《ローアート》のことであって、民衆芸術や伝統芸術には、備わっているものだと考えます。《ローアート》への回帰の欲望を、理解は出来ますし、評価は出来ますが、しかし《ハイアート》の面白さを、私は評価する立場です。
また彦坂さんが同じ比較について「馬鹿馬鹿しい」と感じられたことも、興味深いです。
ぼく自身の「非人称芸術」の価値体系の中では、芸術家、美術館、アートマーケット、などの存在は基本的には「馬鹿馬鹿しい」と感じられるからです。この意味でも、彦坂さんとぼくの価値体系は「正反対」を示しているのではないかと思います。
糸崎公朗さんのご意見は理解できますが、現実に糸崎さんが美術館で展覧会をしていることも事実ではあります。
私自身は、美術制度の存在そのものはまず、認めます。何よりも、美術館に行くのが好きです。美術史も好きですし、個別研究者から美術研究の話を聞くのも、美術書を読むのも好きです。そして美術について考えるのが好きなのです。
ただし最近の自分は、「非人称芸術」という価値体系だけに閉じ籠もることをやめて、それとは「正反対の価値体系」を尊重しながら理解しようと試みています。
「価値体系」とはパソコンのOSのようなもので、MacのパソコンにWindowsをインストールし、その二面性を使い分けると言うことです。
この試みはまだ始めたばかりで、どのような成果に結びつくのか不明なのですが、その一環として彦坂さんに意見を伺ったり、デュシャンの本を読んだりしてるのです。
ですので、
>糸崎さんには、デュシャンの芸術性の高さというものが見えていないように、私には見えたのです。
これも当たっているわけでして、ぼくは彦坂さんのおっしゃる「芸術性の高さ」というものに対し、意図的に目を背けてきたのかも知れません。
多くの人は、芸術を見ないで嫌っています。
それこそレオナルド・ダ・ヴィンチも、雪舟も見ないで、嫌うのです。
こういう心理を理解は出来ますが、その心理が《ローアート》の欲望と重なっています。《ローアート》と《ハイアート》の間には、人間が定住して農業を始めた時に、大きな社会を形成したという事があります。大きな社会をつくって支配者層になった人びとと、支配される側にまわって古い自然採取の文化を残そうとする人びとの分解が生じたのです。ここに《ハイアート》と《ローアート》の分裂の起源があって、それは人間が生きると言う時の、生活態度の基本的な差があるのです。その差を生み出しているのが識字問題です。つまり書き文字を媒介にして新しい精神の次元に立った人びとと、あくまでも無文字社会の伝統にたって、口承性の文化に本質を見ようとする直接性への希求をする精神の差です。
ですので彦坂さんに言われて、さすがにすぐにフィラデルフィアには行けませんでしたが、東大の「大ガラス・東京バージョン」だけは何とか見てきました。
その他にもいろいろヒントを与えていただきましたが、じっくりといろいろ考えさせていただきます。
by 糸崎 (2010-03-10 13:15) お送りした画像とともに、新しい記事を書いていただいてありがとうございます。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
>糸崎さんの作品は、何なのか?
>と考えると、紙づくりのジオラマとの類似性です。
彦坂さんが示されたのは、紙の模型ではなく、プラモデルですね。
彦坂さんの論旨から外れるかも知れませんが、私見ではペーパーモデルとプラモデルは性質がちょっと異なっています。
ぼくは子供の頃プラモデルを作ってましたが、これは改造して精密に作り込むほど「良く」なってきます。
ところがペーパーモデルの方は、あまり精密にすると紙という素材の限界が見えてしまいますので、むしろうまく省略してデフォルメする方が「らしく」見えたりするのです。
これはぼくの「好み」でしかないのかも知れませんが・・・ともかく「フォトモ」は工作的には省略を心がけ、精密さは写真の描写に負ってるのです。
>糸崎公朗さんの作品が立つ基盤は、《記録》性で、記録というのは芸術の鑑賞構造ではないのです。
これは自分でもそのつもりですので、同意できます。
>鑑賞構造性が無いにも関わらず、それが骨董というレトロになることで、
>擬似的な鑑賞性を持っているのです。
しかしながら、以前にも同様な指摘がありましたが、ぼくは自分の作品に「骨董」とか「レトロ」という価値を当てはめられることに違和感を持ち、もっと言えば反発を感じてしまいます。
自分としては、レトロや骨董は異なる「価値」を提示しているつもりなのです。
とは言え、「骨董やレトロに見えてしまう」という客観的事実は否定できないわけでして、そのように見える作品ばかり作る自分にもその責任の一端はあるわけです。
デュシャンは芸術における「趣味的判断」を否定しましたが、その意味でぼくは自分の「趣味的判断」から自由ではなく、この問題をどのように考えるかは今後の課題です。
自分としては、結果として「古びたもの」をモチーフにするのは、デュシャンの以下の言葉と関係しているような気がします。
__
同時代人が、自分たち固有の時代に対して今判断を下したところで、その判断の最小限の価値すら持たないと思います。われわれは近すぎるのです。そこでは距離をとらなければいけません。
マルセル・デュシャン
距離を取るという事の結果、「「古びたもの」をモチーフにする」ということになっているというのは、理解は出来ます。
まぁぼくの場合、距離がまだまだ近すぎるのかも知れませんが・・・
もしくは、ぼく自身のつもりと鑑賞者の不可避的なズレが「擬似的な鑑賞構造」と言うことかも知れません。
北川フラム更迭される(大幅に加筆) [状況と歴史]
鑑賞構造とは何か?/糸崎公朗の作品 [アート論]
彦坂さま
このたびは高松市美術館に来ていただきまして、ありがとうございました。
アルテさんのついでであったとしても、高松まではそれなりに距離がありますので、京都から回って大変だったことと思います。
展示に関しては批判的なことは残念ですが、しかし丁寧で真摯な評論をしていただいたことに感謝します。
非常に興味深く、また刺激的な内容であり、有意義なものです。
ところで、ブログの返信にも書きましたが、高松市美術館での展示画像をお送りしますので、これを記事にお使いいただけますでしょうか。
特に「トランクの中の箱」と「リカちゃんハウス」については、展示に使用した双方とも「より似ているバージョン」を提示しないと、第三者に意味が伝わりづらいのではないかと思われます(たとえぼくが提示しようとする意味が間違っていようとも、です)。
お手数おかけして申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします。
彦坂さんのリアクションを待って、あらためてブログに返信させていただきます。
糸崎公朗
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
糸崎公朗の作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》《象徴界》の2界をもつ表現。
《現実界》《サントーム》は無い。
固体の表現、気体/液体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。
《気晴らしアート》である。《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》である。《ハイアート》性はない。
シニフィエ(記号内容)である。シニフィアン(記号表現)性は無い。
理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
糸崎公朗さんの作品には、芸術鑑賞構造性は無い。
《記録》を骨董を見る視覚で愛でている擬似的な鑑賞作品。
糸崎さんの作品は、何なのか?
と考えると、紙づくりのジオラマとの類似性です。
紙のジオラマに対する彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》の表現。
液体の表現。
《気晴らしアート》である。
《ローアート》である。
シニフィエ(記号内容)である。
理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ジオラマには鑑賞構造性はあって、それは《愛玩》という構造です。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
糸崎公朗さんの作品と並べてみます。
《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
液体の表現、固体/気体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。
《シリアス・アート》
《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)性の作品。
理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】
《原芸術》《芸術》《反芸術》
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》の全てがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鑑賞構造としては《驚愕》性で成立している。
シーガルと糸崎公朗さんの作品を並べてみます。
ヒノギャラリーの新装オープン [日記]
2010-03-09
彦坂さま
このたびは高松市美術館に来ていただきまして、ありがとうございました。
アルテさんのついでであったとしても、高松まではそれなりに距離がありますので、京都から回って大変だったことと思います。
展示に関しては批判的なことは残念ですが、しかし丁寧で真摯な評論をしていただいたことに感謝します。
非常に興味深く、また刺激的な内容であり、有意義なものです。
ところで、ブログの返信にも書きましたが、高松市美術館での展示画像をお送りしますので、これを記事にお使いいただけますでしょうか。
特に「トランクの中の箱」と「リカちゃんハウス」については、展示に使用した双方とも「より似ているバージョン」を提示しないと、第三者に意味が伝わりづらいのではないかと思われます(たとえぼくが提示しようとする意味が間違っていようとも、です)。
お手数おかけして申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします。
彦坂さんのリアクションを待って、あらためてブログに返信させていただきます。
糸崎公朗
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糸崎公朗の作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》《象徴界》の2界をもつ表現。
《現実界》《サントーム》は無い。
固体の表現、気体/液体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。
《気晴らしアート》である。《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》である。《ハイアート》性はない。
シニフィエ(記号内容)である。シニフィアン(記号表現)性は無い。
理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
糸崎公朗さんの作品には、芸術鑑賞構造性は無い。
《記録》を骨董を見る視覚で愛でている擬似的な鑑賞作品。
糸崎さんの作品は、何なのか?
と考えると、紙づくりのジオラマとの類似性です。
紙のジオラマに対する彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の表現。
液体の表現。
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ジオラマには鑑賞構造性はあって、それは《愛玩》という構造です。
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糸崎公朗さんの作品と並べてみます。
シーガルの作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
液体の表現、固体/気体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。
《原芸術》《芸術》《反芸術》
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》の全てがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鑑賞構造としては《驚愕》性で成立している。
シーガルと糸崎公朗さんの作品を並べてみます。
文明様態選択の自由 [生きる方法]
西欧に農業革命が起こる前から、存在しました。
それは、「唯一神」を「父・子」に分ける理論から始まり、
「聖霊」の理論によって、無限に分化することに至ります。
その背景には、古代ローマの「古代的資本主義」というべきものがある。
それは決して中世西欧的「農業社会」を背景に作られたものではない。
この点は、重要かと思われます。
現代において私が有効であると思われるのは、
「関係の類比」と呼ばれるものです。
それは、無限分化する全体が、
関係性において一体性を保つという理解です。
その概念は、「農業社会」においては異端視されるものです。
しかし、近代以降、K・バルト以降の現代に至るまで、
「関係の類比」としての三位一体論は、
世界を説明する原理として、有効性を有していると思われます。
ただし、そこには、最深奥部に致命的な欠陥があるのが残念ですが。)
以上、第一の事柄として、
「三位一体論の崩壊」というご指摘に、反論いたしました。
アバター(加筆1) [映画]
これが『アバター』の舞台裏だ! 撮影風景がついに公開】
糸崎公朗/(京都/本島)高松と駆け足旅行【4】(改題1改稿1加筆2画像追加) [日記]
「非人称芸術」のコンセプトを提唱し,写真を素材とした立体作品「フォトモ」などを製作。
今回は「変身は言葉から-デュシャンと対話するフォトモ」と題し,美術館コレクションと自作を組み合わせた展示を自らキュレーションする。
正直言って、私にはつまらなかったのです。
デュシャンと並べると、デュシャンの作品の良さばかりが見えてしまった。
図式すると次のような構造です。
糸崎公郎 デュシャン
《原芸術》が無い。 《原芸術》が有る。
《芸術》が無い。 《芸術》が有る。
《反芸術》が無い。 《反芸術》が有る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》が有る。 《非芸術》が無い。
《無芸術》が有る。 《無芸術》が無い。
《世間体のアート》が有る。 《世間体のアート》が無い。
【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】
糸崎さんの作品は、《ローアート》であって、
あくまでも《世間体のアート》であるに過ぎないのです。
糸崎さんには、デュシャンの芸術性の高さというものが
見えていないように、私には見えたのです。
一番ひどいのは、デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」(1941)
に対して、その展示の形態への類似から、リカちゃん人形の
ボックスセットを対置しているものです。
解釈は自由ですから、かまいませんが、馬鹿馬鹿しく
私には見えてしまいました。
デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」を展示する開帳の形は、
この作品の本質ではないからです。
本質は、自分の作品のレプリカで、小型のレプリカコレクションを
つくって、美術館と称して、美術制度の外に出ている事です。
しかしあらためてデュシャンの作品を見直す機会としては、
刺激的であったのです。
特にデュシャンの作品に、鑑賞構造がないという事です。
糸崎公朗さんのフォトモには、《愛玩》という鑑賞構造があります。
鑑賞構造がない作品というのは、日本人ではすでに何人か見つけて
いますが、そういう作品の系譜というものを、改めて考えたく
思いました。
少なくともネオダダのラウシェンバーグや、ジャスパー・ジョーンズ
には、鑑賞構造はありますし、コスースにもあります。
シンディシャーマンにも、ジェフクーンズにもあります。
鑑賞構造を放棄するという制作論が、現代美術の主流を形成して
来たようには見えないからです。
これについてはもう少し考えて、改めて書きたいと思います。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
糸崎さんの作品について考えようとすると、
どうしても《世間体のアート》とか、《骨董》性とかにぶつかります。
それについて考えようとすると、
思考的には出来ますが、厳しいのです。
《世間体のアート》論というのは、むしろミケランジェロとか、
ティツアーについて論じる形がよいのです。
おそらく糸崎公朗さんを論じるには、別の視点が必要な
なのだろうと思います。
作品的には論じなくても面白さがストレートに
伝わってしまうからです。
そういう直接性が、糸崎公朗さんの作品の魅力です。
デュシャンはまったく逆でありまして、論じないと、
何がなんだかわからない作家であるのです。
その意味で、2人の組合わせは、ミスマッチの企画だったのです。
ピンクハウス(訂正改題/誤植の訂正1) [ファッション]
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》の《真性の芸術》
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ表現
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示
《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》
《世間体のアート》の全てがある。
ファッションでありながら、デザイン的エンターテイメントではなくて、
《真性の芸術》になっていることに驚きました。
しかもプラズマファッションで、サントームまであるのです。
芸術業界よりも、現実の方が凄いという
見本のようなファッションの世界です。
つまりこのファッションは、古いのではなくて新しかったのです。
コテコテの過剰性の美学は、ロックのMUSEを超えます。
鑑賞構造としては《愛玩》です。
ピンクハウスがブランドとして始まるのは1973年ですが、
非常にはやいポストモダンと言えます。
このファッションは古くなったのではなくて、
現在も定番化して続いています。
これはこれで1000年続きます。