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文明様態選択の自由(加筆2) [状況と歴史]

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コメントをいただいている 川上直哉さんへのお返事です。
長いので省略して、
中央部分だけにお返事します。
後半ば、別の機会に書ければと思います。

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しかし、三位一体論は、もちろん、
西欧に農業革命が起こる前から、存在しました。
それは、「唯一神」を「父・子」に分ける理論から始まり、
「聖霊」の理論によって、無限に分化することに至ります。
その背景には、古代ローマの「古代的資本主義」というべきものがある。
それは決して中世西欧的「農業社会」を背景に作られたものではない。
この点は、重要かと思われます。

上記の論理は、私の組するところではありません。

古代ローマの「古代的資本主義」というのは、すでに農業革命後の
事象です。

彦坂尚嘉の理論的枠組みは、《全人類史》というものですので、
人類が農業を始めて以降に、世界宗教と言われるものが始まるので
あって、それは西欧と古代ローマを区分しては考えないのです。

川上さんは、古い西欧中心主義に捕われています。
一度その枠組みを外して、《全人類史》でお考えになってみる
ことも、お薦めします。

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「農業社会」的トマスの「三位一体論」以外のうち、
現代において私が有効であると思われるのは、
「関係の類比」と呼ばれるものです。
それは、無限分化する全体が、
関係性において一体性を保つという理解です。
その概念は、「農業社会」においては異端視されるものです。
しかし、近代以降、K・バルト以降の現代に至るまで、
「関係の類比」としての三位一体論は、
世界を説明する原理として、有効性を有していると思われます。

カール・バルトの理論枠が古いとすれば、
それは「言における神の啓示」という正論をいっていることです。

《近代》というのは、実は数式によって言葉そのものの否定によって
物理自然科学が成立したからです。
数式を基礎とするリテラシーによって単純系自然物理学が成立して、
同時に言語が否定されたが故に「神の《死》」が出現して、
ニーチェの言ったニヒリズムの時代になったのです。

カール・バルトによる「言における神の啓示」によっては、
言語を否定して数式で成立する単純系物理科学を超える事は出来ない
のであり、ニヒリズムも超える事は出来ないのです。

実際にカール・バルトは、1968年に亡くなっているので、
1975年にアメリカがベトナム戦争に敗れて以降の、
《近代》の崩壊の出現を、彼は見ていないのです。

つまり私たちが今、議論している現代という状況は、
1975/1991年という《近代》の崩壊以降の爆発的な状況なのです。
この爆発的な状況は、数式による単純系自然物理科学の限界化を超えた、
複雑系情報理論によって生み出されたと言えます。

複雑系情報科学が、単純系自然物理科学とニヒリズムを否定して、
超えたのです。
複雑系情報科学のリテラシーを基盤として、
ニヒリズムを超えたサントーム/マネージメントの時代になったの
が、現在のプラズマ化したグローバリゼーション/新ローカリゼーションの
時代なのです。
繰り替えますが、ここではニヒリズムと、近代個人主義は乗り越え
られているのです。

哲学者でいえば、たとえば少なくともボードリヤールの
『透きとおった悪』(1990年)が素描したような状況です。

いわゆるポストモダン状況ですが、
これは今日ではボードリヤールの素描した状況は、さらに進化して
いるのです。
実際ボードリヤールは2007年に死んでしまっています。

ご指摘の「関係の類比」というのは、
情報科学が、ビットという概念で組み立てられている事の内に
組み込まれています。
ビットというのは、差異の最小限化という考えです。

この情報理論の内に「関係の類比」という構造が組み込まれてしまった
という事態は、これだけで起きたではありません。

《近代》においては重要であった「抽象」という概念の有る一面は、
情報化社会でのレイヤーとか、過防備都市(セキュリティ)等々に
組み込まれてしまって、まったく違う様相になっています。

つまり《近代》にあった重要な概念や価値枠は、
情報化社会では、部分化してしまって、違う次元に組みこまれた
のです。

それと同時に、《近代》にあった重要な関係構造が解体されて
きています。

ベルトコンベアー型生産のラインとか、終身雇用制、年功序列、
デパート、新聞社、 マスコミュニケーション。定価。
地震予知、天気予報の中期予報、
核家族、近代個人主義、国民皆兵、官僚、ジェンダ、学校、
純文学/大衆文学の区分、
純粋芸術、純粋主義、前衛美術、抽象美術、平面絵画、立体作品、
画廊/画商、評論家/批評、
本、レコード、2D映画、

産業革命が成立して、教会が支配する時代が終わって、
科学の時代になっても、バチカンが崩壊しなかったように、
情報革命が成立して、多くの《近代》の産物が終わっても、
《近代》は残って続くのは確かです。

新聞社にしても、大手のいくつかは倒産するでしょうが、
それでもいくつかは生き残って、小さくなって継続します。
それはそうなのですが、
しかし確実に、時代は変わって、《近代》は古く小さくなるのです。

それは神学が古くなったように、哲学も古くなるのです。
モダンペインティングが古くなり、近代小説は古くなるのです。

恐竜の時代が終わっても、は虫類は小型化して、
トカゲは今も生き残っているように、
宗教も小型化して生き残るし、
哲学も小型化します。
近代小説も小型化するのです。
吉本ばななは、トカゲなのです。

近代芸術も小型化して生き残るのです。
奈良美智が示しているのは、そうした近代絵画のトカゲ化なのです。

松井みどりが示した「マイクロ・ポップ」というのは、
現代美術の小型化であり、トカゲ化なのです。

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《全人類史》で、考えると、区分は単純化します。
時代によって、その時代を支配している知的構造が変化するのです。

自然採取時代・・・・・呪術魔術   占い/まじない
農業化社会・・・・・・世界宗教 神学/ギリシア・インド・中国思想
産業化社会・・・・・・物理科学 科学思想/近代哲学
情報化社会・・・・・・情報科学 マネージメント/サントーム

この変化の比喩の根底にあるのは、
水(H2O)の比喩で、温度が上がると様態が変化するという
かたちでの説明です。

時代によって、文明の様態が固体→液体→気体→プラズマ
と変化すると、それに伴って、知的構造も変化するのです。


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自然採取時代
絶対零度で、空気まで凍り付いていて、動きません。
アボリジニは、5万年同じ生活をしていたと
言われますが、歴史がほとんど流れないのです。
         
呪術魔術が支配し、占い/まじないが、知的な構造
なのです。この世界が《想像界》なのです。
《想像界》というのは、魔術や呪術が支配し、
偶像崇拝が行われている知的世界です。
これは現在も現在も継続しているのです。

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農業化社会/文明
農業をするようになると、社会の温度はあがって、
氷は氷河となって、ゆるやかに動き始めます。
歴史が流れ始めるのです。氷河の跡は明確で、
この時代は歴史は理解しやすいものなのです。
ゾロスター教、ユダヤ教、キリスト教などの
世界宗教 神学/ギリシア・インド・中国思想
が、登場します。
私見では、この時代の古典文化こそがシーニュで
あり、基本なのです。その後の《近代》や、《現代》は、これらの
脱構築にすぎません。農業化社会の古典文化の拡散化としてしか、
今日の文化は生産され得ないという、極端な考えを私は持っています。

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産業化時代

産業革命で、温度が上がって、氷河は融けて水という
液体になり、川になって歴史は速度を上げて流れ始めます。時代は
急速に変わったように見えますが、しかし現実には20世紀初頭で、
革命的な変化は終わってしまって、以後は世界大戦があっても、同じ
川としての流れが続きます。
この産業革命化の社会という《近代》は、実は2つあって、
ひとつが自由主義経済の《近代》であり、
もうひとつは社会主義のソヴィエト型の計画経済による産業革命の
《近代》であったのです。
この2つの《近代》があるという冷戦構造的な2分化構造が、
《近代》の構造でした。
この2つの《近代》が激突して戦争をしたのがベトナム戦争であったの
です。ここで1975年にアメリカがベトナムに敗れる事で、
ひとつの近代が終わります。
そして1991年、ソヴィエト官僚社会が情報革命ができずに崩壊すると
《近代》は本格的に終焉したのです。
この《近代》の終焉前に、液体の水は沸騰して水蒸気に様態を
変えます。
この様態変化の沸騰の時期が、1960年代の後半と、
1980年代の後半の時代です。
ここで水は沸騰して水蒸気に様態を変え、さらに温度は上がって、
プラズマ状態になるのです。
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鑑賞構造とは何か?/糸崎公朗の対話(2) [アート論]

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糸崎公朗さんが、コメントを2つ書いて来て下さいました。
これへのご返事を書きながら、芸術の鑑賞構造の有無を書いて行こうと思います。

お送りした画像は差し替えではなく、新しい記事として書いていただいたんですね、ありがとうございます。

いろいろ考えたのですが、この記事は画像はそのままで価値があると思いますので、そのままにしていただければと思います。
メールにも書きましたが、展示について批判的なのは残念ですが、真摯で非常に興味深いご意見をいただいけたと思っております。

批判をする意思そのものは、あまりないのです。
正直な感想が基盤にあります。
1975/1991年の《近代》の崩壊以来、起きて来たのは、
古い近代芸術の崩壊と、新しいアートへの移行です。
こうした2つの潮流の混在する複雑な渦の状況の中に、糸崎公朗さんも
私もいるわけです。
その中で、糸崎さんは、真摯に問題を考えておられて尊敬できます。
ですから、私の感想は批判を目的に書いたものではないのです。
できるだけ正直に書こうとしているだけだと言えます。

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ぼくがもっとも興味深いと感じたのは、彦坂さんの

>一番ひどいのは、デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」(1941)に対して、その展示の形態への類似から、リカちゃん人形のボックスセットを対置しているものです。
>解釈は自由ですから、かまいませんが、馬鹿馬鹿しく私には見えてしまいました。

という意見です。
ぼくはこのデュシャンの『トランクの中の箱』と「リカちゃんハウスの」比較を「最大の自信作」として出展してますから、全く正反対の意見です。

そうですね。
この辺のところが、興味の違いだと言えます。
私から見ると、デシャンの作品集が『トランクの中の箱』ですので、少なくとも、糸崎公朗の作品集として糸崎版トランク・レプリカ美術館を作って、エディション制作をして欲しかったのです。

そもそもぼくは「非人称芸術」というコンセプトによって、いわゆる「一人称芸術」に対してある意味「正反対」の価値体系を提示してるつもりです。
ですからぼくの「最大の自信作」を彦坂さんが「一番ひどい」と捉えられることは、非常にまっとうな反応だとおもいます。

「非人称芸術」という価値観は、20世紀の前衛芸術の中のひとつの側面としてあって、デザインへの還元への欲望として、続いています。私の考えでは、この事実性は認めますが、もともと「非人称芸術」というのは《ローアート》のことであって、民衆芸術や伝統芸術には、備わっているものだと考えます。《ローアート》への回帰の欲望を、理解は出来ますし、評価は出来ますが、しかし《ハイアート》の面白さを、私は評価する立場です。
 音楽も、映画も、私は《ローアート》も《ハイアート》も両方を見ますが、《ローアート》のつまらなさというのも、分かっているのです。この《ローアート》のつまらなさは、糸崎公朗さんの作品にもつきまとっています。



また彦坂さんが同じ比較について「馬鹿馬鹿しい」と感じられたことも、興味深いです。
ぼく自身の「非人称芸術」の価値体系の中では、芸術家、美術館、アートマーケット、などの存在は基本的には「馬鹿馬鹿しい」と感じられるからです。この意味でも、彦坂さんとぼくの価値体系は「正反対」を示しているのではないかと思います。

糸崎公朗さんのご意見は理解できますが、現実に糸崎さんが美術館で展覧会をしていることも事実ではあります。
私自身は、美術制度の存在そのものはまず、認めます。何よりも、美術館に行くのが好きです。美術史も好きですし、個別研究者から美術研究の話を聞くのも、美術書を読むのも好きです。そして美術について考えるのが好きなのです。

ただし最近の自分は、「非人称芸術」という価値体系だけに閉じ籠もることをやめて、それとは「正反対の価値体系」を尊重しながら理解しようと試みています。
「価値体系」とはパソコンのOSのようなもので、MacのパソコンにWindowsをインストールし、その二面性を使い分けると言うことです。
この試みはまだ始めたばかりで、どのような成果に結びつくのか不明なのですが、その一環として彦坂さんに意見を伺ったり、デュシャンの本を読んだりしてるのです。
ですので、

糸崎さんのこうした探究性は、尊敬しています。
先日お会いした時にも、赤瀬川源平に対して、かなり正当な評価と批評性を示しておられて、たいしたものだと思いました。自分の論理を組み立てるだけでなくて、その外部にも興味を示されるところに、人間の精神としての正当性を見せて下さいます。なかなか、出来る者ではありません。

>糸崎さんには、デュシャンの芸術性の高さというものが見えていないように、私には見えたのです。

これも当たっているわけでして、ぼくは彦坂さんのおっしゃる「芸術性の高さ」というものに対し、意図的に目を背けてきたのかも知れません。

多くの人は、芸術を見ないで嫌っています。
それこそレオナルド・ダ・ヴィンチも、雪舟も見ないで、嫌うのです。
こういう心理を理解は出来ますが、その心理が《ローアート》の欲望と重なっています。《ローアート》と《ハイアート》の間には、人間が定住して農業を始めた時に、大きな社会を形成したという事があります。大きな社会をつくって支配者層になった人びとと、支配される側にまわって古い自然採取の文化を残そうとする人びとの分解が生じたのです。ここに《ハイアート》と《ローアート》の分裂の起源があって、それは人間が生きると言う時の、生活態度の基本的な差があるのです。その差を生み出しているのが識字問題です。つまり書き文字を媒介にして新しい精神の次元に立った人びとと、あくまでも無文字社会の伝統にたって、口承性の文化に本質を見ようとする直接性への希求をする精神の差です。
《ハイアート》の人びとの精神は、「反省」に基盤を置き、《ローアート》の人びとは、「分かる事」という了解性に基盤を置いているように、私には見えます。

ですので彦坂さんに言われて、さすがにすぐにフィラデルフィアには行けませんでしたが、東大の「大ガラス・東京バージョン」だけは何とか見てきました。
その他にもいろいろヒントを与えていただきましたが、じっくりといろいろ考えさせていただきます。
by 糸崎 (2010-03-10 13:15) お送りした画像とともに、新しい記事を書いていただいてありがとうございます。

美術作品には、キリスト教美術というのが、ありますが、キリスト教そのものは、美術ではありません。キリスト教と美術がくっついたのが、キリスト教美術です。

同じように、仏教美術というものがあります。仏教そのものは美術ではありませんが、仏教と美術が接合したものが、仏教美術です。

つまり宗教美術というのは、宗教そのものは美術ではないのですが、宗教と美術が接合すると宗教美術が生まれるのです。

同様の事は静物画にもいえます。静物そのものは、絵画ではありません。静物と絵画が接合すると静物画がうまれます。同様に風景画というのも、風景そのものは絵画ではないのですが、風景と絵画が接合すると風景画が生まれます。人物画も同様です。人物そのものは絵画ではないのですが、人物と絵画が接合すると人物画が生まれるのです。

こういう仕組みで、呪術と美術が接合すると、呪術美術が生まれます。
狂人と美術が接合すると、アールブリュットが生まれます。
子供と美術が接合すると、子供の美術が生まれます。

つまり美術というのは、美術ではないものと自由に接合して、○○美術という新種を次々に生み出すという折衷構造なのです。

そういう中で科学と接合した科学美術が、《近代》という時代の中に生み出されます。印象派が、光がプリズムで分解されるという科学的な事実に根拠を見いだしたのは、こうする事で、科学美術が成立するからです。立体派にしても、未来派にしても、抽象美術にしても、基本にあるのは、こうした科学美術という、科学的な思考への接合の構造だと考える事も出来るのです。

つまり糸崎公朗さんの「非人称芸術」というのは、非人称性と、芸術が接合したものなのです。そういう視点で見ると、非人称せいというのは、非人称性であって、芸術とは別のものです。
《非人称》ということをもって、芸術そのものや、美術そのものを説明は、なし得ないのです。

それは仏教美術において、《仏教》ということをもって、美術や絵画、芸術を説明や定義できないのと同様なのです。

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>糸崎さんの作品は、何なのか?
>と考えると、紙づくりのジオラマとの類似性です。

彦坂さんが示されたのは、紙の模型ではなく、プラモデルですね。
彦坂さんの論旨から外れるかも知れませんが、私見ではペーパーモデルとプラモデルは性質がちょっと異なっています。
ぼくは子供の頃プラモデルを作ってましたが、これは改造して精密に作り込むほど「良く」なってきます。
ところがペーパーモデルの方は、あまり精密にすると紙という素材の限界が見えてしまいますので、むしろうまく省略してデフォルメする方が「らしく」見えたりするのです。
これはぼくの「好み」でしかないのかも知れませんが・・・ともかく「フォトモ」は工作的には省略を心がけ、精密さは写真の描写に負ってるのです。

プラモデルではありません。
ペーパージオラマですよ。
http://www.kamizukuri.jp/

糸崎さんが、工作的には省略を心がけておられるのは、正当ですね。
芸術というのは省略なのですよ。
「芸術的節約」というのは、芸術制作において、重要なものなのです。


>糸崎公朗さんの作品が立つ基盤は、《記録》性で、記録というのは芸術の鑑賞構造ではないのです。

これは自分でもそのつもりですので、同意できます。

《記録》性を重視するというのも、実は科学美術の性格のひとつ
と言えます。
科学というのは、観察や記録に於いて成立します。
だから記録美術というのは、
記録と美術が接合したものなのです。
こでも、しかし記録は記録であって、美術では無いのです。
問題なのは、記録は記録ですが、美術は美術であるのかどうかです。

美術とはなんであるのか?

美術そのものを対象化する事無しには、
分からない事があるのです。

私見を申し上げれば、美術に2種類のものが存在するという事です。
この美術の分類を問題にする思考を抜きにしは、
芸術論は成立しないと思います。

では2種類の美術とは、何か?
それは素人の美術と、玄人の美術です。

喧嘩にも、素人の喧嘩のやり方と、
玄人の喧嘩のやり方があります。
玄人の喧嘩は、例えば空手です。

素人の殴り方と、
空手の有段者の殴り方は、根本的に違います。

同じように、絵画も素人と、玄人の差があるのです。

具体的に言えば、素人の色の使い方と、
玄人の色彩のコントロール技術は違います。

こういう2種類の差があるのです。

この2種類の美術の差を前提にして、
芸術を論じないと、議論は空転します。

>鑑賞構造性が無いにも関わらず、それが骨董というレトロになることで、
>擬似的な鑑賞性を持っているのです。

しかしながら、以前にも同様な指摘がありましたが、ぼくは自分の作品に「骨董」とか「レトロ」という価値を当てはめられることに違和感を持ち、もっと言えば反発を感じてしまいます。
自分としては、レトロや骨董は異なる「価値」を提示しているつもりなのです。
とは言え、「骨董やレトロに見えてしまう」という客観的事実は否定できないわけでして、そのように見える作品ばかり作る自分にもその責任の一端はあるわけです。
デュシャンは芸術における「趣味的判断」を否定しましたが、その意味でぼくは自分の「趣味的判断」から自由ではなく、この問題をどのように考えるかは今後の課題です。
自分としては、結果として「古びたもの」をモチーフにするのは、デュシャンの以下の言葉と関係しているような気がします。
__

同時代人が、自分たち固有の時代に対して今判断を下したところで、その判断の最小限の価値すら持たないと思います。われわれは近すぎるのです。そこでは距離をとらなければいけません。

マルセル・デュシャン

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距離を取るという事の結果、「「古びたもの」をモチーフにする」ということになっているというのは、理解は出来ます。
まあ、日本の場合、レトロは、実は強いのです。
ついに、書けませんでしたが、芸術の鑑賞構造を理解できないために、骨董の視覚性をもって、代用しているのです。
デュシャンには骨董性がないわけではありませんが、糸崎さんのように生に骨董性が出て来てはいません。つまりデュシャンとは関係のない理由で、糸崎公朗さんの作品につきまとう骨董性があるのです。


まぁぼくの場合、距離がまだまだ近すぎるのかも知れませんが・・・
もしくは、ぼく自身のつもりと鑑賞者の不可避的なズレが「擬似的な鑑賞構造」と言うことかも知れません。

これも、この文章で書けませんでしたが、日本の現代美術/現代アートが、擬似的な鑑賞性に依拠しているのは、実は美術市場と深く連動しています。糸崎公朗さん個人を超えた、大きな問題があるのだと思います。

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北川フラム更迭される(大幅に加筆) [状況と歴史]

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北川フラム氏が新潟市美術館館長を更迭されました。
もともと北川フラム氏の根本にあるものは、学問やアカデミズムと
いった蓄積型のフォーマルなものではありませんでしたので、
こうした破綻は、予想し得るものであって、私には驚きはありません。

北川フロム氏の館長としての運営を批判する『新潟市美術館を考える会』
の運動も、この更迭に大きな力を発揮しています。
詳しくはこのブログの後半部をご覧ください。

興味深いのは、この『新潟市美術館を考える会』の住所が、
新潟にあるのではなくて、東京にある事です。
そして東京でなじみのある人びとが多く入っています。
最後にリストを載せていますのでご覧ください。
新潟県内の政治闘争というよりも、東京での2つの勢力の激突という
印象すらがあります。

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『新潟市美術館を考える会』の批判は当然だと私は思います。
むしろ北川フラム氏は、破天荒なやり方で、良く、ここまで頑張って
こられたのと私は思っています。
ご苦労様でした。
ゆっくり休んで下さいと、北川フラム氏には申しあげたいと思います。

2000年代は越後妻有アートトリエンナーレの時代でしたが、
その背景には、アメリカの根拠なき熱狂がありました。
これが破綻して、新しい時代が始まるという2010年代であって、
この更迭は、こういう時代の変化と、無縁ではありません。

芸術的な根拠無き熱狂の時代は終わったのです。
芸術を厳密な学問として成立させることを努力する人びとの時代が
再開する事を、祈念します。




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以下に引用するのは、新潟市美術館を考える会のマニフェストです。


─提言、あるいはマニフェストとして─
 
 新潟市美術館は今、“瀕死”の状態にあります。否、見方によっては“頓死”してしまった、と言えるでしょう。
 
 わたしどもの新潟市美術館は、1985年開設以来凡そ20年間、“市民に開かれた美術館”を目指して鋭意運営に努めて参りました。そのためまず「みる・つくる・語る」の3つのテーマを課題とし、これに基づき郷土作家をはじめ内外の優れた美術作品の収集、おなじく内外の内容豊かな各種企画展の実現、また講演会、講座、実習、広報による教育普及活動を行ってきました。幸い、わたしどもの健全かつ真摯な運営と展観活動並びに作品収集の実績は、地元新潟市民はもとより、わが国の美術関係者の注目と信頼を集め、高い評価を得ることができました。但し、この実績と声価はあくまで過去のものにすぎません。事態は一変しました。
 
 2007年4月、新潟市美術館の館長に、株式会社アートフロント・ギャラリー代表の北川フラム氏が就任したのです。同氏はまた新潟市美術企画監という前例のない役職に就き、2008年4月からは、同市新津美術館長をも兼務するという、これまた異例の人事が市の行政によって行われました。
 
 実は、北川館長就任に至るまで過去3年間に3人の館長の異動が行われていたのです。2代目の斉藤修館長が2004年3月退任後、新潟大学名誉教授、久保尋二氏が同年4月、3代目館長に就任しましたが、2006年3月退任、次いで新潟市職員の大科俊夫氏が館長に就任したのも束の間、僅か1年で退任、そして、北川フラム氏の館長就任と相成った次第です。3年間に3人も館長が変わる、という前代見聞の人事を市の美術行政が行った訳ですが、考えようでは、北川氏を館長にするための、これは布石であり、先任者たちはいわば露払い、あるいは真打ち登場までの前座の役を担った、と言えましょう。北川氏は、さらにまた2009年7月から新潟市が企画した「水と土の芸術祭」の開催に際して同祭実行委員会のディレクターにも就任しました。市当局の北川氏への絶大な信頼の証(あかし)であり、瞠目すべき厚遇と言う他ありません。
 
 しかしながら、市当局の美術行政は、北川氏の館長就任に際し入れ替わりに、美術館開設当初から館運営に尽力してきた学芸員を異動させ、館長就任後には全員の異動を敢行したのであります。市美術館の収集作品の来歴、知識、管理、保存、展示に精通するこれらベテラン学芸員たちが不在となった新潟の美術文化発信の拠点は、今やアートに名を借りた、やたら金のかかる文化祭のイベント会場と化した観があります。そして最近、ついにその成果(?)が現れました。本来なら自然環境の中で配置・展示すべき「水と土」の作品を、こともあろうに美術館の展示室に設置するという、あってはならない珍事が出来したのです。
 
 北川フラム氏は、ご存知「大地の芸術祭」越後妻有アート・トリエンナーレの総合ディレクターとして、関係の作家、評論家、ジャーナリストの評判も良く、その辣腕には見るべきものがあります。この度新潟市美術館の館長に就任して真っ先に企画、プロデュースしたのが「水と土の芸術祭」だったのは、おそらく越後妻有アート・トリエンナーレの“新潟バージョン”の実現を狙ったものと思われるのです。
 
 新潟市側は市美術館の“旧体制”(?)を打破するための改革者として北川氏を破格の厚遇で迎えましたが、改革には、改悪と改善の両極が孕まれるものです。もし従前の市美術館が旧態然として運営されていたならば、その古い革袋に新しい酒を盛ることも可能なのです。しかし、どうやら、古い革袋を捨て去り、新しい酒は新しい革袋に盛ろうと意図しているようであります。
 
 ともかくも、今、新潟市美術館は健全に機能していません。北川氏が館長に就任以来、これまで同館と連携、協力してきた市民、作家、関係者、研究者、美術館、博物館、画廊、そして報道関係者(北川氏をもてはやす一部報道記者を除き)からは、現状を疑問視し、危機感を抱く声が聞かれるようになっています。
 
 さて、新潟市美術館で、今、何が起きているのか、何処へ向かおうとしているのか、事態急変かつ不可解きわまる現状について、これまで同館に少なからず関わり、何かとご助力ご支援くださった有志の方々にお集まり願い、《新潟市美術館を考える会》の名の下に、真剣に語り合いたく、ここに一文を草した次第です。これによって《新潟市美術館を考える会》設立の趣意書、またマニフェストといたします。
 
2009年8月6日
 
林 紀一郎 (前・新潟市美術館顧問、初代館長)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 会員

2010年2月24日現在  (18名)
代表
林 紀一郎
美術評論家、初代新潟市美術館館長

本江 邦夫
多摩美術大学教授

名古屋 覚
美術ジャーナリスト

笹木 繁男
現代美術資料センター主宰

金澤  毅
美術評論家、成安造形大学名誉教授

岡崎 球子
岡崎球子画廊主宰、アートプランニング集団「オカザキラブ」「地球分室」主宰

木村 希八
木村希八版画工房主宰、美術作家

平岡ふみを
アートウォッチャー

日夏 露彦
美術評論家


青木  茂
文星芸術大学特任教授、元町田市立国際版画美術館館長


市橋 哲夫
美術作家、元新潟市美術館学芸係長 

倉田 久男
美術作家

小林 直司
新潟工業短期大学名誉教授 [法律学]、美術作家


佐藤やよい
美術作家

鈴木  力
美術作家

中川セツ子
美術作家


西村  満
美術作家

長谷川朝子
新潟美術学園園長、美術作家

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

情報出典:http://rencam.info/wp/
     新潟市美術館を考える会

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鑑賞構造とは何か?/糸崎公朗の作品 [アート論]



糸崎公朗さんから、高松市美術館での展示作品の画像と、
個人メールをいただきました。

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彦坂さま


このたびは高松市美術館に来ていただきまして、ありがとうございました。

アルテさんのついでであったとしても、高松まではそれなりに距離がありますので、京都から回って大変だったことと思います。

展示に関しては批判的なことは残念ですが、しかし丁寧で真摯な評論をしていただいたことに感謝します。

非常に興味深く、また刺激的な内容であり、有意義なものです。

ところで、ブログの返信にも書きましたが、高松市美術館での展示画像をお送りしますので、これを記事にお使いいただけますでしょうか。

特に「トランクの中の箱」と「リカちゃんハウス」については、展示に使用した双方とも「より似ているバージョン」を提示しないと、第三者に意味が伝わりづらいのではないかと思われます(たとえぼくが提示しようとする意味が間違っていようとも、です)。

お手数おかけして申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします。

彦坂さんのリアクションを待って、あらためてブログに返信させていただきます。


糸崎公朗


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


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糸崎公朗の作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で
《第8次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》《象徴界》の2界をもつ表現。

              《現実界》《サントーム》は無い。

固体の表現気体/液体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。

《気晴らしアート》である。《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》である。《ハイアート》性はない。
シニフィエ(記号内容)である。シニフィアン(記号表現)性は無い。

理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。

《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

糸崎公朗さんの作品には、芸術鑑賞構造性は無い。

《記録》を骨董を見る視覚で愛でている擬似的な鑑賞作品。

 


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糸崎さんの作品は、何なのか?

と考えると、紙づくりのジオラマとの類似性です。


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紙のジオラマに対する彦坂尚嘉責任による芸術分析

 
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
 
《想像界》の表現。
液体の表現
《気晴らしアート》である。
《ローアート》である。
シニフィエ(記号内容)である。
 
 
理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】
 
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ジオラマには鑑賞構造性はあって、それは《愛玩》という構造です。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

糸崎公朗さんの作品と並べてみます。


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鑑賞構造は無い。          鑑賞構造は《愛玩》
《記録》/骨董                     

ペーパージオラマと、糸崎公朗さんの作品は、
良く似ていているのですが、
一番根本的な差異は、ジオラマが《愛玩》という鑑賞構造で成立して
いるのに対して、糸崎公朗さんの作品は、鑑賞構造を持っていないのです。

しかし糸崎公朗さんの作品の《想像界》が、
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
であるということにおいて、優れていて、芸術になり得ています。

もうひとつは、ペーパージオラマが、液体美術=近代美術であのに、
糸崎公朗さんの作品は固体美術=前-近代美術であることです。



つまり糸崎公朗さんの作品を成立させている要素で大きいのは、
レトロ感覚と言う、骨董を愛でるという擬似鑑賞性なのです。

つまり糸崎公朗さんの作品に、鑑賞構造があるのではないのです。

糸崎公朗さんの作品が立つ基盤は、《記録》性で、記録というのは
芸術の鑑賞構造ではないのです。

鑑賞構造性が無いにも関わらず、それが骨董というレトロになることで、
擬似的な鑑賞性を持っているのです。

このように、鑑賞構造を持たないものを、あえて愛でるという、
擬似的な鑑賞ゲームをして楽しむという遊び性が、糸崎公朗さんの
作品の魅力であるのではないでしょうか。

それは糸崎公朗さんの作品が《気晴らしアート》であることと
深く結びついています。

人間が作り出すものには、鑑賞構造を持っているものと、
持っていないものがあります。


このことは、糸崎公朗さんと似ている作品として、
ジョージ・シーガルを思い出してみると、良く分かります。

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シーガルの作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析
 
《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
液体の表現固体/気体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。
 
《シリアス・アート》
《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)性の作品。
 
 
理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】
 
《原芸術》《芸術》《反芸術》
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》の全てがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鑑賞構造としては《驚愕》性で成立している。


シーガルと糸崎公朗さんの作品を並べてみます。

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鑑賞構造は無い。          鑑賞構造は《驚愕》
《記録》/骨董                     

                   糸崎ジオラマSegal.jpg
鑑賞構造は無い。         鑑賞構造は《愛玩》    鑑賞構造は《驚愕》
《記録》/骨董                           
     

糸崎公朗さんさんの作品の軽さとか、ペラペラの薄さ感は、
素材が紙であるというだけではなくて、
鑑賞構造の有無の問題でもあるのです。

実は、糸崎公朗さんの作品と、デュシャンの作品は、
この鑑賞構造の無いということで、深い関連があるのです。
このことを論じるのは、次回ということで、お楽しみに。   

 

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ヒノギャラリーの新装オープン [日記]

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hinoギャラリーが、移転して、1年ぶりにオープンしました。

中上清氏の個展です。

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中上清氏は、私のふるい友人で、
1972年のデビューが一緒で、
その時の美術手帖の展覧会批評欄にも、一緒に載っています。

このオープニングに行って、
2次会にも出ました。

作品論で言えば、中上清氏の作品は《想像界》だけの作品で、
固体美術で、《第6次元 自然領域》のものです。
最近の作品は、芸術的には《世間体のアート》だけになっています。
そういう意味では芸術的には評価はしません。

しかし中上清氏は、職業美術家として、アルバイトも拒否して、
美術制作だけで押し通して来た、私の数少ない友人なのです。

技法は工芸的で、そういう意味でも商品性はあって、
パリにも上陸していて個展を開いていますし、
鎌倉近代美術館でも回顧展を開いています。
その頑張りは驚異的で、根性の有る人物です。

そして《世間体のアート》というものの本質を考える上でも、
興味深い作家であります。

オープニングには1970年代の古い美術界の多くが集まり、
まるで同窓会のようであり、
そしてまたタイムスリップのようでありました。

厳しい時代ですが、
hinoギャラリーには、頑張ってもらって、
1970年代美術の最後の砦として機能してもらえればと思います。
オーナーの山本孝さんには、息子さんも娘さんもいて、
画廊経営に参加しているので、
生き残るエネルギーはあると思います。

さて、2次会の居酒屋でのスナップ写真です。

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左が中上清氏 正面に須賀昭初氏、となりが芝章文氏

多和.jpg
左が 鉄彫刻の多和圭三氏

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hinoギャラリー オーナーの山本孝氏

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左の黄緑の方が楠本正明氏、正面が松下和歌子と栃原比比奈氏

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右が、森美術館の林牧人氏

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山本藍子氏と日本画家・内田あぐり氏

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左が美術評論家・藤枝晃雄氏、山本孝、ネオダダの田中信太郎氏

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左が内田あぐり氏、美術家の高見沢文雄氏、美術評論家の峯村敏明氏

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左が宇都宮美術館館長の谷新氏、山本藍子氏

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正面奥が国立近代美術館の松本透氏


ここには写真で写っていない方々もたくさんいて、
久しぶりに多くの旧知の方々にお会いしました。




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2010-03-09



糸崎公朗さんから、高松市美術館での展示作品の画像と、
個人メールをいただきました。

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彦坂さま


このたびは高松市美術館に来ていただきまして、ありがとうございました。

アルテさんのついでであったとしても、高松まではそれなりに距離がありますので、京都から回って大変だったことと思います。

展示に関しては批判的なことは残念ですが、しかし丁寧で真摯な評論をしていただいたことに感謝します。

非常に興味深く、また刺激的な内容であり、有意義なものです。

ところで、ブログの返信にも書きましたが、高松市美術館での展示画像をお送りしますので、これを記事にお使いいただけますでしょうか。

特に「トランクの中の箱」と「リカちゃんハウス」については、展示に使用した双方とも「より似ているバージョン」を提示しないと、第三者に意味が伝わりづらいのではないかと思われます(たとえぼくが提示しようとする意味が間違っていようとも、です)。

お手数おかけして申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします。

彦坂さんのリアクションを待って、あらためてブログに返信させていただきます。


糸崎公朗


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


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糸崎公朗の作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で
《第8次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》《象徴界》の2界をもつ表現。

              《現実界》《サントーム》は無い。

固体の表現気体/液体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。

《気晴らしアート》である。《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》である。《ハイアート》性はない。
シニフィエ(記号内容)である。シニフィアン(記号表現)性は無い。

理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。

《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

糸崎公朗さんの作品には、芸術鑑賞構造性は無い。

《記録》を骨董を見る視覚で愛でている擬似的な鑑賞作品。

 


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糸崎さんの作品は、何なのか?

と考えると、紙づくりのジオラマとの類似性です。


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bronko sdkfz221_s.jpg
n_gage2.jpg
table.jpg
diorama.jpg
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紙のジオラマに対する彦坂尚嘉責任による芸術分析

 

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント

 

《想像界》の表現。

液体の表現

 

《気晴らしアート》である。
《ローアート》である。
シニフィエ(記号内容)である。

 

 

理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】

 

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。

《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ジオラマには鑑賞構造性はあって、それは《愛玩》という構造です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

糸崎公朗さんの作品と並べてみます。


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鑑賞構造は無い。          鑑賞構造は《愛玩》
《記録》/骨董                     

ペーパージオラマと、糸崎公朗さんの作品は、
良く似ていて、
大きな違いは、糸崎公朗さんの作品の《想像界》が、
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
であるということです。
もうひとつは、ペーパージオラマが、液体美術=近代美術であのに、
糸崎公朗さんの作品は固体美術=前-近代美術であることです。

つまり糸崎公朗さんの作品を成立させている要素で大きいのは、
レトロ感覚と言う、骨董を愛でる鑑賞性なのです。

だからといって、芸術作品としての鑑賞性があるのではないのです。

糸崎公朗さんの作品が立つ基盤は、《記録》性で、記録というのは
芸術の鑑賞構造ではないのです。

鑑賞構造性が無いにも関わらず、それが骨董というレトロになることで、
擬似的な鑑賞性を持っているのです。

このように、鑑賞構造を持たないものを、あえて愛でるという、
擬似的な鑑賞ゲームをして楽しむという遊び性が、糸崎公朗さんの
作品の魅力であるのではないでしょうか。

それは糸崎公朗さんの作品が《気晴らしアート》であることと
深く結びついています。

このことは、糸崎公朗さんと似ている作品として、
ジョージ・シーガルを思い出してみると、良く分かります。

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シーガルの作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析

 

《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》

 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現

液体の表現固体/気体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。

 

《シリアス・アート》
《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)性の作品。

 

 

理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】

 

《原芸術》《芸術》《反芸術》

《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》の全てがある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鑑賞構造としては《驚愕》性で成立している。


シーガルと糸崎公朗さんの作品を並べてみます。

糸崎Segal.jpg
鑑賞構造は無い。          鑑賞構造は《驚愕》
《記録》/骨董                     

                   糸崎ジオラマSegal.jpg
鑑賞構造は無い。      鑑賞構造は《愛玩》 鑑賞構造は《驚愕》
《記録》/骨董                           
     

糸崎公朗さんさんの作品の軽さとか、ペラペラの薄さ感は、
素材が紙であるというだけではなくて、
鑑賞構造の有無の問題でもあるのです。

実は、糸崎公朗さんの作品と、デュシャンの作品は、
この鑑賞構造の無いということで、深い関連があるのです。
このことを論じるのは、次回ということで、お楽しみに。   

 

 



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文明様態選択の自由 [生きる方法]

コメントをいただいている 川上直哉さんへのお返事です。
長いので省略して、
中央部分だけにお返事します。
後半ば、別の機会に書ければと思います。

しかし、三位一体論は、もちろん、
西欧に農業革命が起こる前から、存在しました。
それは、「唯一神」を「父・子」に分ける理論から始まり、
「聖霊」の理論によって、無限に分化することに至ります。
その背景には、古代ローマの「古代的資本主義」というべきものがある。
それは決して中世西欧的「農業社会」を背景に作られたものではない。
この点は、重要かと思われます。

上記の論理は、私の組するところではありません。

古代ローマの「古代的資本主義」というのは、すでに農業革命後の
事象です。

彦坂尚嘉の理論的枠組みは、《全人類史》というものですので、
人類が農業を始めて以降に、世界宗教と言われるものが始まるので
あって、それは西欧と古代ローマを区分しては考えないのです。

川上さんは、古い西欧中心主義に捕われています。
一度その枠組みを外して、《全人類史》でお考えになってみる
ことも、お薦めします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「農業社会」的トマスの「三位一体論」以外のうち、
現代において私が有効であると思われるのは、
「関係の類比」と呼ばれるものです。
それは、無限分化する全体が、
関係性において一体性を保つという理解です。
その概念は、「農業社会」においては異端視されるものです。
しかし、近代以降、K・バルト以降の現代に至るまで、
「関係の類比」としての三位一体論は、
世界を説明する原理として、有効性を有していると思われます。

ロランバルトの理論枠は古いのです。
実際にロラン・バルトは、1980年に亡くなっているので、
1975年にアメリカがベトナム戦争に敗れて以降の、
《近代》の崩壊の出現を見ていないからです。

つまり私たちが今、議論している現代という状況は、
1975/1991年という《近代》の崩壊以降の爆発的な状況なのです。

哲学者でいえば、たとえば少なくともボードリヤールの
『透きとおった悪』(1990年)が素描したような状況です。

いわゆるポストモダン状況ですが、
これは今日ではボードリヤールの素描した状況は、さらに進化して
いるのです。
実際ボードリヤールは2007年に死んでしまっています。

ご指摘の「関係の類比」というのは、
情報科学が、ビットという概念で組み立てられている事の内に
組み込まれています。
ビットというのは、差異の最小限化という考えです。

この情報理論の内に「関係の類比」という構造が組み込まれてしまった
という事態は、これだけで起きたではありません。

《近代》においては重要であった「抽象」という概念の有る一面は、
情報化社会でのレイヤーとか、過防備都市(セキュリティ)等々に
組み込まれてしまって、まったく違う様相になっています。

つまり《近代》にあった重要な概念や価値枠は、
情報化社会では、部分化してしまって、違う次元に組みこまれた
のです。

それと同時に、《近代》にあった重要な関係構造が解体されて
きています。

ベルトコンベアー型生産のラインとか、終身雇用制、年功序列、
デパート、新聞社、 マスコミュニケーション。定価。
地震予知、天気予報の中期予報、
核家族、近代個人主義、国民皆兵、官僚、ジェンダ、学校、
純文学/大衆文学の区分、
純粋芸術、純粋主義、前衛美術、抽象美術、平面絵画、立体作品、
画廊/画商、評論家/批評、
本、レコード、2D映画、

産業革命が成立して、教会が支配する時代が終わって、
科学の時代になっても、バチカンが崩壊しなかったように、
情報革命が成立して、多くの《近代》の産物が終わっても、
《近代》は残って続くのは確かです。

新聞社にしても、大手のいくつかは倒産するでしょうが、
それでもいくつかは生き残って、小さくなって継続します。
それはそうなのですが、
しかし確実に、時代は変わって、《近代》は古く小さくなるのです。

それは神学が古くなったように、哲学も古くなるのです。
モダンペインティングが古くなり、近代小説は古くなるのです。

恐竜の時代が終わっても、は虫類は小型化して、
トカゲは今も生き残っているように、
宗教も小型化して生き残るし、
哲学も小型化します。
近代小説も小型化するのです。
吉本ばななは、トカゲなのです。

近代芸術も小型化して生き残るのです。
奈良美智が示しているのは、そうした近代絵画のトカゲ化なのです。

松井みどりが示した「マイクロ・ポップ」というのは、
現代美術の小型化であり、トカゲ化なのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


《全人類史》で、考えると、区分は単純化します。
時代によって、その時代を支配している知的構造が変化するのです。

自然採取時代・・・・・呪術魔術   占い/まじない
農業化社会・・・・・・世界宗教 神学/ギリシア・インド・中国思想
産業化社会・・・・・・物理科学 科学思想/近代哲学
情報化社会・・・・・・情報科学 マネージメント/サントーム

この変化の比喩の根底にあるのは、
水(H2O)の比喩で、温度が上がると様態が変化するという
かたちでの説明です。

時代によって、文明の様態が固体→液体→気体→プラズマ
と変化すると、それに伴って、知的構造も変化するのです。


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自然採取時代・・・絶対零度で、空気まで凍り付いていて、動きません。
         アボリジニは、5万年同じ生活をしていたと
         言われますが、歴史がほとんど流れないのです。
         
         呪術魔術が支配し、占い/まじないが、知的な構造
         なのです。この世界が《想像界》なのです。
         《想像界》というのは、魔術や呪術が支配し、
         偶像崇拝が行われている知的世界です。
         これは現在も現在も継続しているのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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農業化社会・・・・・農業をするようになると、社会の温度はあがって、
          氷は氷河となって、ゆるやかに動き始めます。
          歴史が流れ始めるのです。氷河の跡は明確で、
          この時代は歴史は理解しやすいものなのです。
          ゾロスター教、ユダヤ教、キリスト教が




世界宗教 神学/ギリシア・インド・中国思想



その中で、情報化社会というのは、
温度が上がって、水(H2O)は気体分子化し、
さらに温度が上昇してプラズマ化しているという、
今日の様態の指摘です。

ですから、こういう変化の中では、神学的な立場は古くなって
いるのです。同様の事は、画家という立場にも言えて、
画家は古い骨董的な職業になっているのです。



ただ、古い意味での哲学や神学は、今日でも存在し続けて、
意味を生産はしています。そのことを私は認めます。
カソリック神学からの現代美術論もあって、私も読んでいます。
いま本が見つからなくて題名が出て来ませんが、良いものです。
ふるくはゼードルマイヤーの『中心の喪失』という名著がありました。

しかし私見では、文明の高度化は、様態をさらに変化させているので
あって、今日の情報文明をコントロールしている理論の場は、
従来の哲学ですらないところに移ってしまっていて、
ロラン・バルトも、今日の事態を把握しているとは
言いがたいように思われます。


(中沢新一さんの最近の議論は、その一形態です。
ただし、そこには、最深奥部に致命的な欠陥があるのが残念ですが。)

以上、第一の事柄として、
「三位一体論の崩壊」というご指摘に、反論いたしました。

私自身は、中沢新一の評価は低くて無視するだけですが、
私の言っている理論的な枠組みは、
人類の文明の様態変化なのです。

つまり

自然採取時代・・・・・・絶対零度の氷の様態で不動
農業化社会・・・・・・・氷河のように流れる氷状態
産業化社会・・・・・・・氷が溶けて水になって川のように
            流れる状態。
情報化社会・・・・・・・水が蒸発して気体分子状態になり、
            さらにプラズマ化した状態。

古典的な「三位一体論」というのは、あくまでも農業化社会での、
氷のような社会/人間関係の中で組み立てられています。

産業革命が波及して、文明の様態が、氷が溶けて水のような流体に
なると、人間関係では大家族が解体されて、
核家族という形態に分解されます。
ここで「三位一体論」は、核家族の父と母と子共という形態に
実体化したとも考えられます。

情報化社会になると、核家族も解体し、独り住まいが増えて行きます。
こういう中で、すでに述べたように、
「関係の類比」というような構造は、情報科学のビットという単位の
中に組み込まれ、そういう形で、解体されているのです。

神学をなさっているというお立場は尊重いたしますが、
そのスタンスに立つと、なかなか現状を把握するのがむずかしくなる
と思います。
同様の事は私にも言えて、画家という立場に固執すれば、現状把握は、
出来なくなるのです。
ですからブロガーという立場の方が、まだましだと考えています。

締め切りの仕事がなかなか終わらなくて、
遅れ込んでいるので、あまり整理して書けませんでした。

川上さんに、私の言っている文明の様態変化にともなう、
知の構造変化ということを、分かっていただけないとは思いますが、
今日の社会関係、分かりやすいところでは人間関係が、
全部ではないですが、かなりのところが気体化し、さらにプラズマ化
して来ているのです。
正確には絶対零度、固体、液体、気体、プラズマの5様態が、
現在の社会の中では混在しています。
この混在をマトリックスの図で説明は出来るのですが、
それは別の機会に譲ります。

つまり「三位一体」が解体されているのは、
全体的な状況ではなくて、固体性の残っているグループの中では、
むかし通りに生きているのです。
それは事実だと思います。

今日の一人の人間は、各自の欲望にしたがって、自由に、自分の
生きるべき文明様態を選択する事が、かなりの量できるのだと
思います。

《文明様態選択の自由》というのが、可能な時代になったのです。




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アバター(加筆1) [映画]

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まきなが『アバター』を見て来ました。
ジェームズ・キャメロン監督自らが開発した
フュージョン・カメラ・システムは、奥行きの深い3D映像を生み出し、
画期的な映画体験を味合わせてくれました。

2010年代の始まりを予告し、
そして村上隆のスーパーフラットの息の根を止めた、
モニュメンタルな3D映画です。

Avatar movie image (3).jpg

峯村敏明氏という美術評論家は、娯楽映画を見ない高尚主義者ですが、
それは間違いです。
1993年のスピルバーグの映画『ジェラッシクパーク』は素晴らしい
創造的な娯楽映画でした。
そして2001年に公開された『ロード・オブ・ザ・リング』もまた、
2000年代を表示する偉大な3部作でありました。
このジェームズ・キャメロン監督の『アバター』もまた、
2010年代を決定し、今後の3D映画を決定づけた映画史上の革新的
な作品なのです。
映画というものが3D化して、真に情報化社会の映画として生まれ変わった
のです。それはプラズマ化に成功した新しい時代の新しい映画メディアの
誕生を決定づけたものです。


これが『アバター』の舞台裏だ! 撮影風景がついに公開

今回、使われている技術は「エモーションキャプチャー」というものだそうで、俳優の体中にマーカーを付け、その動きをコンピュータに取り込み、それをベースにCG製のキャラクターを作り出す方法に「パフォーマンスキャプチャー」という技術があって、この技術を進化させたもので、体の動きだけでなく、人の表情までもを表現できる技術で、俳優の表情を、キャラクターで再現することが可能になった。こうして『アバター』で、演じている俳優とCGで作られたキャラクターの表情が連動するという画像が実現したのだそうです。
【以上の情報出典:これが『アバター』の舞台裏だ。http://news.livedoor.com/article/detail/4552191/

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映画館での上映がそろそろ終わろうとしていますので、
見ておられない方は、必見の映画ですから、
ぜひ、3D英語版の上映館でご覧になることをお薦めします。

映画を見て驚かされるのは、宮崎駿の様々な映画の影響が見られる事です。
それは映像を超えて、原始の野蛮への回帰というイデオロギーまでおも、
宮崎駿の影響として強く打ち出されている事です。
ジェームズ・キャメロン監督自身が、宮崎駿へのオマージョを公言しています。
『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『ハルルの動く城』などが垣間見えます。
押井守の『甲殻機動隊』や『イノセント』の影響も見られます。

文明の中の野蛮への回帰の流れを増幅したイデオロギー性も、
この2010年代の時代の流れを予告したものと言えます。

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糸崎公朗/(京都/本島)高松と駆け足旅行【4】(改題1改稿1加筆2画像追加) [日記]


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【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】

本島まで行ったついでに、高松まで行って、
高松市美術館での企画展を見て来ました。

コレクション+(プラス)メタモルフォーゼ!!!!! 変身アート
(高松市美術館×丸亀町アートプロジェクト連携企画)
会期  2010年2月20日(土)~3月28日(日)

糸崎公朗さんが出品なさっていたからです。

糸崎公朗 Itozaki Kimio

「非人称芸術」のコンセプトを提唱し,写真を素材とした立体作品「フォトモ」などを製作。

今回は「変身は言葉から-デュシャンと対話するフォトモ」と題し,美術館コレクションと自作を組み合わせた展示を自らキュレーションする。


 

正直言って、私にはつまらなかったのです。

デュシャンと並べると、デュシャンの作品の良さばかりが見えてしまった。

図式すると次のような構造です。


    糸崎公郎           デュシャン

  《原芸術》が無い。      《原芸術》が有る。

  《芸術》が無い。       《芸術》が有る。

  《反芸術》が無い。      《反芸術》が有る。

 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆     ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  《非芸術》が有る。      《非芸術》が無い。 

  《無芸術》が有る。      《無芸術》が無い。 

《世間体のアート》が有る。  《世間体のアート》が無い。

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【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】


糸崎さんの作品は、《ローアート》であって、

あくまでも《世間体のアート》であるに過ぎないのです。

糸崎さんには、デュシャンの芸術性の高さというものが

見えていないように、私には見えたのです。


一番ひどいのは、デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」(1941)

に対して、その展示の形態への類似から、リカちゃん人形の

ボックスセットを対置しているものです。

解釈は自由ですから、かまいませんが、馬鹿馬鹿しく

私には見えてしまいました。


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【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】

 

 

デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」を展示する開帳の形は、

この作品の本質ではないからです。

本質は、自分の作品のレプリカで、小型のレプリカコレクションを

つくって、美術館と称して、美術制度の外に出ている事です。

 


しかしあらためてデュシャンの作品を見直す機会としては、

刺激的であったのです。

特にデュシャンの作品に、鑑賞構造がないという事です。

 糸崎公朗さんのフォトモには、《愛玩》という鑑賞構造があります。


鑑賞構造がない作品というのは、日本人ではすでに何人か見つけて

いますが、そういう作品の系譜というものを、改めて考えたく

思いました。

少なくともネオダダのラウシェンバーグや、ジャスパー・ジョーンズ

には、鑑賞構造はありますし、コスースにもあります。

シンディシャーマンにも、ジェフクーンズにもあります。

鑑賞構造を放棄するという制作論が、現代美術の主流を形成して

来たようには見えないからです。


これについてはもう少し考えて、改めて書きたいと思います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

糸崎さんの作品について考えようとすると、

どうしても《世間体のアート》とか、《骨董》性とかにぶつかります。

それについて考えようとすると、

思考的には出来ますが、厳しいのです。


《世間体のアート》論というのは、むしろミケランジェロとか、

ティツアーについて論じる形がよいのです。

おそらく糸崎公朗さんを論じるには、別の視点が必要な

なのだろうと思います。

作品的には論じなくても面白さがストレートに

伝わってしまうからです。

そういう直接性が、糸崎公朗さんの作品の魅力です。


デュシャンはまったく逆でありまして、論じないと、

何がなんだかわからない作家であるのです。


その意味で、2人の組合わせは、ミスマッチの企画だったのです。



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ピンクハウス(訂正改題/誤植の訂正1) [ファッション]


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ピンクハウスのデザイン 

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ表現
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》
《世間体のアート》の全てがある。


ファッションでありながら、デザイン的エンターテイメントではなくて、

《真性の芸術》になっていることに驚きました。

しかもプラズマファッションで、サントームまであるのです。

芸術業界よりも、現実の方が凄いという

見本のようなファッションの世界です。

 

つまりこのファッションは、古いのではなくて新しかったのです。

コテコテの過剰性の美学は、ロックのMUSEを超えます。

鑑賞構造としては《愛玩》です。

ピンクハウスがブランドとして始まるのは1973年ですが、

非常にはやいポストモダンと言えます。

このファッションは古くなったのではなくて、

現在も定番化して続いています。

これはこれで1000年続きます。


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