鑑賞構造とは何か?/糸崎公朗の作品 [アート論]
彦坂さま
このたびは高松市美術館に来ていただきまして、ありがとうございました。
アルテさんのついでであったとしても、高松まではそれなりに距離がありますので、京都から回って大変だったことと思います。
展示に関しては批判的なことは残念ですが、しかし丁寧で真摯な評論をしていただいたことに感謝します。
非常に興味深く、また刺激的な内容であり、有意義なものです。
ところで、ブログの返信にも書きましたが、高松市美術館での展示画像をお送りしますので、これを記事にお使いいただけますでしょうか。
特に「トランクの中の箱」と「リカちゃんハウス」については、展示に使用した双方とも「より似ているバージョン」を提示しないと、第三者に意味が伝わりづらいのではないかと思われます(たとえぼくが提示しようとする意味が間違っていようとも、です)。
お手数おかけして申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします。
彦坂さんのリアクションを待って、あらためてブログに返信させていただきます。
糸崎公朗
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糸崎公朗の作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》《象徴界》の2界をもつ表現。
《現実界》《サントーム》は無い。
固体の表現、気体/液体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。
《気晴らしアート》である。《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》である。《ハイアート》性はない。
シニフィエ(記号内容)である。シニフィアン(記号表現)性は無い。
理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
糸崎公朗さんの作品には、芸術鑑賞構造性は無い。
《記録》を骨董を見る視覚で愛でている擬似的な鑑賞作品。
糸崎さんの作品は、何なのか?
と考えると、紙づくりのジオラマとの類似性です。
紙のジオラマに対する彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》の表現。
液体の表現。
《気晴らしアート》である。
《ローアート》である。
シニフィエ(記号内容)である。
理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。
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ジオラマには鑑賞構造性はあって、それは《愛玩》という構造です。
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糸崎公朗さんの作品と並べてみます。
《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
液体の表現、固体/気体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。
《シリアス・アート》
《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)性の作品。
理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】
《原芸術》《芸術》《反芸術》
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》の全てがある。
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鑑賞構造としては《驚愕》性で成立している。
シーガルと糸崎公朗さんの作品を並べてみます。
お送りした画像とともに、新しい記事を書いていただいてありがとうございます。
>糸崎さんの作品は、何なのか?
>と考えると、紙づくりのジオラマとの類似性です。
彦坂さんが示されたのは、紙の模型ではなく、プラモデルですね。
彦坂さんの論旨から外れるかも知れませんが、私見ではペーパーモデルとプラモデルは性質がちょっと異なっています。
ぼくは子供の頃プラモデルを作ってましたが、これは改造して精密に作り込むほど「良く」なってきます。
ところがペーパーモデルの方は、あまり精密にすると紙という素材の限界が見えてしまいますので、むしろうまく省略してデフォルメする方が「らしく」見えたりするのです。
これはぼくの「好み」でしかないのかも知れませんが・・・ともかく「フォトモ」は工作的には省略を心がけ、精密さは写真の描写に負ってるのです。
>糸崎公朗さんの作品が立つ基盤は、《記録》性で、記録というのは芸術の鑑賞構造ではないのです。
これは自分でもそのつもりですので、同意できます。
>鑑賞構造性が無いにも関わらず、それが骨董というレトロになることで、
>擬似的な鑑賞性を持っているのです。
しかしながら、以前にも同様な指摘がありましたが、ぼくは自分の作品に「骨董」とか「レトロ」という価値を当てはめられることに違和感を持ち、もっと言えば反発を感じてしまいます。
自分としては、レトロや骨董は異なる「価値」を提示しているつもりなのです。
とは言え、「骨董やレトロに見えてしまう」という客観的事実は否定できないわけでして、そのように見える作品ばかり作る自分にもその責任の一端はあるわけです。
デュシャンは芸術における「趣味的判断」を否定しましたが、その意味でぼくは自分の「趣味的判断」から自由ではなく、この問題をどのように考えるかは今後の課題です。
自分としては、結果として「古びたもの」をモチーフにするのは、デュシャンの以下の言葉と関係しているような気がします。
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同時代人が、自分たち固有の時代に対して今判断を下したところで、その判断の最小限の価値すら持たないと思います。われわれは近すぎるのです。そこでは距離をとらなければいけません。
マルセル・デュシャン
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まぁぼくの場合、距離がまだまだ近すぎるのかも知れませんが・・・
もしくは、ぼく自身のつもりと鑑賞者の不可避的なズレが「擬似的な鑑賞構造」と言うことかも知れません。
by 糸崎 (2010-03-10 14:11)