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高橋堅の建築/弦巻の住宅(写真追加4加筆1校正1) [建築]

ピクチャ 8.png

ピクチャ 7.png

建築家の高橋堅氏の建築を、
東京世田谷区の弦巻まで見に行って来ました。

日本建築学会が発行している『建築雑誌 増刊 作品選集2010』の
写真では見ていました。

その時に、引きつけられたのは、不定形と言うか、
多角形の床の面白さでした。

それは単に”面白建築”というものではなくて、
知的な自由さがあって、
引きつけられたのでした。

高橋堅2.jpg
住宅専用建築
敷地面積:188.98㎡(57坪)
建築面積:89.61㎡(27.15坪)
延床面積;138.74㎡(42坪)

高橋堅1.jpg
私がアーティストとして追求して来たフォルムや構造と共鳴するものが
あって、引きつけられると同時に、
どのように作っているかと言う、
そういう方法への興味あって、高橋堅さんにお願いして、
高橋さんのご親戚の見学会に同行させていただきました。

高橋堅さんのお話を伺うと、
まず、不定形の土地が先にあって、
その土地の形を生かす形で、建築が作られています。

このことは重要で、建築というのは、
具体的な土地の地形や、地霊、周囲の景観の中に基礎づけて建てられる
ものなのです。

このことを絵画に当てはめて考えると、
絵画が矩形ではなくて、不定形のシェイブド・キャンバスの場合、
この不定形に合わせて、絵画構造が構想されるという事に対応するのです。

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屋根梁伏図を見ると分かりますが、中央の重なった3枚の大屋根が
あって、脇に3枚は、軒(のき)の屋根です。

この軒(のき)の下が、また部屋になっていて、
外観は軒(のき)の無い様に見えるコンクリート作りのような
フラットな屋根のような家に見えます。

写真高橋2.jpg

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以下、建築家の松田逹さんの批評を引用しながら、途中で書き足す形で、
示したいと思います。
情報出典:artscapeレビュー/松田達

高橋堅《弦巻の住宅》

 

 

 旗竿地の奥の不定形な敷地に、十字を崩したような形態の二層のボリュームと、それを包絡する七角形の屋根。十字のあいだの部分は庇のかかったテラスとなっている。運良く高橋氏とお施主さんに内部を案内して頂く機会があった。以前からぜひ見たいと思っていた住宅であり、大変貴重な機会であった。
 
 角度が直交座標から少しずつずれていることで、内部での経験は何とも簡単に言語化できない複雑なものであった。特に全体が見渡せる二階のLDKと子ども室を含んだ空間では、360度見えているにも関わらずプランの全体像が分からないという不思議な体験をした。


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ピクチャ 7.png

 非常に複雑な空間で、視線をさえぎる面と、ガラスで受ける面、
さらには外部に抜ける面があって、
室内は複雑で豊かで楽しい視覚空間が広がっています。
 
 このガラスは、非常に意識的に使われています。
 理想的とも言える完成度の高さと合わせて、新鮮な感動を受けました。

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写真高橋1.jpg

写真高橋3.jpg

 基本にあるのはモダニズムの矩形を基盤にしているのですが、
その内側から、生み出されたモダニズムの原則の延長での乗り越えが、
私の志向と重なっていて、なおさら感動したのです。


 こういう例を、私は、例えばポルトガルのアルヴァロ・シザ建築に
見いだします。
 モダニズムを水(H2O)の比喩で言えば 液体の様態であったのです。
たとえば、この比喩で言えばル・コルビュジェの建築は液体建築でありました。

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シザの建築は、モダニズムを、水蒸気という気体の様態に変化させた
建築でありました。

 
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 マルコ・デ・カナヴェーゼスの教会 1989年


ル・コルビュジェとシザの画像を並べてみますが、
微妙な差なので、分からないかもしれませんが、
様態の差があるのです。
ル・コルビュジェが液体建築であって、シザが気体建築なのです。
私の方法はイメージで見る《イメージ判定法》ではなくて、
《言語判定法》ですので、
おのおのに「液体」という言葉、
「気体」という言葉を投げかけてみて下さい。

コルビジェシザ.jpg
液体建築              気体建築


モダニズムを基礎にして、その内側からモダニズムを乗り越えている
という意味では、高橋堅の住宅はシザの気体建築をさらに前に押し進めて、
新しい次元=プラズマ化の次元に引き上げた作品と言えます。

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私自身が、シザや高橋堅の仕事に興味を示す理由は、
私自身が、実はモダニズムの内側からの乗り越えを目指して来たからです。

morrisinstallgreengal61hq.jpg
ロバートモリス 1963
1968年に
ミニマル・アートの早いアーティストであるロバート・モリスの
影響を受けて、私はミニマリズムの作品を試みています。

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彦坂尚嘉 板壁 1969年



さらに1977年からのウッドペインティングのシリーズの中で、
モダニズムの内側からの越境を試みて来たのです。

それは同時に、絵画の支持体としての建築を制作する事でも
あったのです。
かつては建築の壁面に絵画を描いて来たのに、
絵画は建築から追放されたので、
私は逆に、絵画の支持体としての建築を作り出す必要があったのです。
それが到達したのが、絵画都市というシリーズでした。

彦坂尚嘉/絵画都市.jpg

こういう試みは、しかし日本の美術界では孤立し、
その孤立性に私は苦しむようになります。
その隘路を超える道を求めて、
私は建築家との交流に向ったのです。

さてそういうわけで、シザにも興味を持ったし、
そして今回の高橋堅氏の建築にも、
モダニズムの内側からの乗り越え作品として、
深い共感を持ったのです。

高橋堅1.jpg

基本は、3隅にある矩形で、この矩形が重なっている中央部分に不定形
のような空間が生まれています。
この空間は3次元の空間です。
さらにその外部に形成されている軒(のき)の下の空間に包まれて、
4次元目というべきようなような空間が作られています。
さらにその外部の屋外の借景空間があって、その異次元の空間を、
仮に5次元空間とよんでおきます。
3重の空間の重なりの中で、複雑な5次元空間の重なりが生まれ、
その空間を見る空間感覚の新鮮な多様性の享受を生み出しているのです。

高橋堅の建築は、
2重の異質な外部空間を重ね持つことで、
それはリサ・ランドールの主張するような異次元論と
重なるものがあるのです。


リサ・ランドールの5次元の皮膜論というのは、
実は東洋遠近画法の、木枠に絹を張って透視するという画法を
想起させます。
これを現在の絵画の領域に還元して語れば、
5次元というのは
3層に重なったレイヤーで作られて深さの絵画であると言えます。
レイヤーによる多層絵画が新しい時代を指し示しているのです。

松田達氏の文章を続けます。

 高橋はこの住宅に関して「円環するパースペクティブ」という論考を書いている。われわれは空間において焦点を同時に一つの場所にしかあわせることができないのに、その視点や焦点距離を動かし、また被写界深度を変えることで、空間全体を把握しているかのように認識している。それはパースペクティブ(透視図法)という制度に従っているからだという。しかし高橋はそこから「パースペクティブによる空間」に対して疑いをかける。おそらく彼は、パースペクティブという制度に抵抗する空間をつくろうとしているのであろう。弦巻の住宅は、複数のパースペクティブを順に円環させる仕掛けを内包させた住宅であり、彼の論考はそれについて触れたものだと言える。

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ファエロ アテネの学堂

 私は画家なので、西洋遠近画法の成立過程を知っているのです。
それが実はギリシアとアラビアの光学であって、しかも十字軍によって
ヨーロッパに輸入されたのです。
しかも建築空間を描く事で発展したのであって、
実は建築の外部に出て、自由な空間を描く事は、
当初は出来なかった事を知っているのです。

角度や焦点の絶妙なずれが、複数のパースペクティブ間を運動させる原動力となっているようであるが、同時にそれによってつくられる空間体験の効果が、正確なプラン(ここでは平面図に加え、計画を組織する二次元的な図面全般の意味で用いている)を決して想起させないという点についても重要に思われた。プランとは決して現実に見ることのできない視点による図面表記であるのだから、われわれが感じる空間体験を本来プランとして理解することは難しいはずである。同様にプランによって本来的な空間体験を記述しつくり出すことも難しいはずである。平面や断面など二次元的な表現の組み合わせによって到達できないはずの、空間がもつ本来の可能性に彼は挑戦しようとしている。

つまり、もともと建築が、西洋遠近画法のパースペクティブを生みだしたのであり、
だから、パースペクティブの変革というのは、
建築そのものが変化する事が必要であったのです。
高橋堅の建築は、そういう根本的な変革を試みたのです。

彼は(コルビジェの晩年の代表作の)ロンシャンの礼拝堂における空間体験が、その後に見た写真イメージによってどんどん他のものに置き換えられていく経験について語っていたことがある。写真イメージは一見三次元的であるが、一つのパースペクティブによって「空間的」に見えるだけのものであり、むしろ二次元の側に近いだろう。だからロンシャンでの豊穣な空間体験をいつの間にか捨象して、二次元的なものに置き換えていったのだ。

写真の画像しか記憶に残らない事は私も気がついていて、
だから私はあまり写真を撮らないのだ。
建築は写真に撮れない原視覚を秘めていて、
それが建築であって、建築は文章でも写真でも記述できないもの
なのです。

彼の考え方を敷衍すれば、本来の空間体験は複数のパースペクティブを移動し、またそこから逃れようとする運動によってはじめて得られるようなものである。そのような本来的な空間体験を目指したのが《弦巻の住宅》であり、「円環するパースペクティブ」という論考は理論的にその考え方を説明しようとしている。いわば弦巻の住宅は、計画化されない空間、もしくは写真に置き換えられない空間と言うこともできるだろう。2009/07/03(金)(松田達)

この住宅はすでに高い評価を受けていて、
社団法人 東京建築士会の平成20年度の住宅建築賞を得ている。
その選評は次のようなものです。

大屋根をなぞる壁と,そうでない壁。さらに複数の角度を採用することで,さまざまな空間の領域が重ねあわされたインテリアをつくりだしている。リヴィングルームを大屋根が規定する大らかな空間として捉えつつ,しかし同時にその中のコーナーをこじんまりしたスペースとしても捉えたりするように,空間の多様な読みを導くような操作が住宅全体を貫いているのだ。空間を実体として作るのではなく現象する空間を追い求めようとするとき,さまざまなディテールは意味を構築するパーツへと変化する。つまりひとつひとつが言語として研ぎ澄まされた精度を必要とするのだが,はたして作者はその洗練を手中のものとしており,全体に緊張感が漂い住宅とは思えない静謐さをもつ空間が実現していた。しかしそうした静謐さは,裏を返せば生活のリアリティから遠のいた「建築的」な実験の結果だとネガティブにも捉えることができる。その弱さが見学会では強調されてしまう結果になったのだが,沢山の生活のものにあふれていたときにこそ,この現象する多様なパースペクティブという考えは生かされるのではないかと思っている。
(乾久美子)

この選評で興味深いのは、『全体に緊張感が漂い住宅とは思えない静謐さをもつ空間が実現していた』という指摘です。
私もそのことは気がついていました。この弦巻の住宅は、鑑賞構造を持った建築であったのですが、その鑑賞構造は《驚愕》と彦坂が名づけた、多くの建築が持つ鑑賞構造ではなかったのです。それは《瞑想》と言うべき鑑賞性を持った建築であったのです。

最後に彦坂尚嘉責任の芸術分析をしておきます。

ピクチャ 8.png


彦坂尚嘉責任による芸術分析

 

《想像界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術建築》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術建築》
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術建築》

 

 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
                  しかし《サントーム》はない。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的表現

 

 

《シリアス・建築》。しかし《気晴らしアート》の同時表示は無い。
《ハイアート建築》。しかし《ローアート建築》の同時表示は無い。
シニフィアン建築。しかしシニフィエの同時表示は無い。
理性脳による建築。しかし原始脳の同時表示は無い。
《透視建築》『オプティカル・イリュージョン』【A級建築】

《原建築》《建築》《反建築》《非建築》《無建築》はある。
しかし《世間体建築》は無い。

鑑賞構造のある建築。
発見されている鑑賞構造は《驚愕》《対話》《愛玩》《民芸》
《キッチュ》などがありますが、
高橋堅の建築の鑑賞構造は《瞑想》


 


タグ:高橋堅
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川上直哉

川上直哉です。

建築系ラジオからこのブログへと入ってきた私にとって、
前回の「建築系美術ラジオ」の内容と、
そして今回の内容は、とても興味深いものでした。

私は神学を専門としています。
神学は、虚学そのものです。
これは、佐藤優さんが見事に言い表した定義です。

虚学は、それが純粋なものであればあるほど、
あらゆる実学に張り付くことができる。
そこに、神学の価値がると思っています。

そして、ここに、建築と美術が架橋されている。
その「橋」は、どんなものか。
とても興味深く、学んでいます。

一つだけ、お願いがあります。

今回ご紹介くださった魅力的な邸宅の、
外観は、どんな感じでしょうか。
写真など、使用可能なものがありましたら、
追加いただければ、うれしく存じます。

以上、感想とお願いでした。
(今回は、短く。)
by 川上直哉 (2010-03-16 05:38) 

ヒコ

川上様
外観も魅力的なのですが、十分な写真が手に入りません。入り口部分を追加でアップしておきます。
それと今、1930年50年代のキリスト教問題を含んだ、お返事を用意しているところです。
by ヒコ (2010-03-16 05:44) 

高橋堅

彦坂尚嘉さま

先日はご多忙にも拘わらず、「弦巻の住宅」見学会にいらしていただきありがとうございました。
またこのようなかたちでブログにもとりあげていただき、御批評を興味深く拝読させていただきました。建築を職能とする友人とは、互いにそれぞれの建築を批評し合うという機会はままあります。しかし他ジャンルのクリエイターの方に、自分が設計した建築をここまで真摯に批評していただけたのは初めてのことでした。同業種の中での一様な見立てだけでは、気付かないあいだに思考は硬直し、ともすればマニエリスムに陥ってしまうもののようにも感じています。このたび彦坂さまから様々なご指摘を戴けたことにより、自分の建築的思考にまた新たな補助線が引かれたようにも感じました。もちろん建築は、クライアントの要望を120%満足させるという過程の中にこそ懐胎するものだと考えておりますので、建築的思考だけを純粋に展開できるわけではありません。しかしクライアントの要望そのものから直接的に演繹することができないことこそが、やはり建築のおもしろみでもあるわけなので、今回頂いたコメントを奇貨として、さらに深く、建築あるいは空間について考えることが出来ればと思っています。

文中、絵画都市シリーズへの言及がありました。絵画が建築から追放されていくという歴史的経緯を鑑みて、絵画の支持体として建築的なるものが新しく召喚されたという見立てに、とても深い共感と興味を持ちました。やはりアートも文脈を理解するのと、そうではない状態で見るのでは全然印象が違いますね。
なるほどと深く共感しながらも、同時に一つ思ったことは、絵画は建築の外部ではなく建築の内部に描かれたのではなかったかということです。西欧では聖堂の壁画や天井画、日本では襖絵などがありますが、絵画都市のコンセプトを理解した後に私が思い起こしたものは、「設えの場」としての茶室の床の間でした。つまり私にとっては、絵画都市は設えの「場」と「モノ」の一体的で同時的な提示に見えたというわけです。仮にこのような見立てが可能だとするならば、絵画都市は、もう一つの可能性として絵画建築、あるいは絵画空間として提示することもできるのではないかと感じました。御提示の凸面としての意味よりも、より凹面として感じる要素を持つもの、つまりは空間性を持つものと絵画の同時的な提示であった場合、どのような現象と効果を生むのだろうかということが気になりました。まあ素人の妄想ですので聞き流してください。

こちらは今年中にもう一軒住宅が出来る予定です。今度はまるっきり条件が変わって、田園風景の中に立つ平屋建ての住宅です。もしお時間があれば是非また見学していただき、忌憚なきご意見を拝聴できればと考えております。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

高橋堅拝

by 高橋堅 (2010-03-18 22:39) 

ヒコ

高橋堅様
コメントありがとうございます。
きんいろの病院の方も、チャンスを見つけて拝見できればと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
by ヒコ (2010-03-20 07:55) 

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