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訃報 山口光子さん(加筆2校正削除改稿1) [状況と歴史]

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ギャラリー山口のご主人の山口光子さんが、
15日、亡くなられました。
スタッフの方から昨日お電話をいただき、驚いた次第です。
すでにこのブログでも書きましたように、
ギャラリー山口が経営不審で倒産し、今月いっぱいで閉鎖するという
そういう状況での死であって、
誠に痛ましく、
謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

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訃報:山口光子さん67歳=ギャラリー山口社長

 山口光子さん67歳(やまぐち・みつこ=ギャラリー山口社長)15日死去。葬儀は親族で済ませた。

連絡先は東京都中央区京橋3の5の3のギャラリー山口(03・3564・6167)。

 80年、東京・銀座に現代美術専門のギャラリーとして開廊。95年、現在地へ移転した。画家の野見山暁治さんや篠原有司男(うしお)さん、堀浩哉(こうさい)さんらベテラン作家の個展を数多く開催。若手アーティストも積極的に紹介してきた。同ギャラリーは今月末で閉廊が決まっていた。

毎日新聞 2010年1月19日 21時14分(最終更新 1月19日 22時54分)


昨年の村松画廊の閉廊につづいて、
ギャラリー山口の山口光子さんの死と続いて、
2つの老舗の貸し画廊の終わりは、
ひとつの時代の終わりという感慨を持たざるを得ません。

貸し画廊というものが、
単なる空間のレンタルであることを超えて、
美術史の生産の場所として機能した時代に陰りが出てきたのです。
貸し画廊を支えていた基盤は、実は高度成長を遂げていた
日本の経済的な繁栄であったのです。
しかし1998年に日本のGDPがマイナスになり、急降下していく
時代になると、高額のレンタル料を支払って
売れもしない作品を展示する展覧会のシステムは衰弱せざるを
得なくなったのです。
とは言っても、実は貸し画廊自体の数は多くあるのであって、
今後も継続するものっです。
にもかかわらず、日本の戦後美術史は、
2008年の世界金融危機を境にして、
本当の意味で終わったというべき段階になって来ています。。

窮すれば変じ、変じれば通ず、と言います。
時代は変わるのです。
画廊主が亡くなられましたが、
1月25日から30日のギャラリー山口での
気体分子ギャラリー・栃原比比奈展は、予定通り開催するつもりです。

現在、東京現代美術画廊会議の10画廊のみなさんや、
ギャラリー山口のスタッフ、元スタッフの皆さんが
助けに来て下さっているようで、
画廊活動は続いています。

山口光子さんのご不幸を乗り越えて、
気体分子ギャラリーは、2010年代の新しい時代の作家ギャラリー/ネットギャラリーとして、果敢に次世代のアーティストをマネージメントをして、情報化社会に於ける《新芸術》の運動体として、2010年代を戦いたいと思います。栃原比比奈の新作には、新しい時代のアートがあります。古い弱い美術業界は死に滅んでも、新しい日本美術の生命は、新しい息吹をもって立ち上がってくるのです。この残酷なまでの世代交代を実現して行きたいと思います。



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奈良美智の作品 [アート論]

たまたま眼にした奈良美智の作品を、
芸術分析してみます。
最近の分析が複雑になって来ているので、
確認のためで、それ以上ではありません。

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彦坂尚嘉による《言語判定法》での芸術分析

《原芸術》は無い
《芸術》は無い
《反芸術》は無い
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は有る
《無芸術》は有る
《世間体のアート》は無い

《想像界》の眼で《第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》の《真性の芸術》

《想像界》だけの表現
気体だけの表現

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術
《原始平面》『ペンキ絵』
【B級美術】


奈良美智の作品は、《形骸》というものではなくて、
《非芸術》と《無芸術》の作品でした。
つまりデザイん性と、装飾的な官能性で成立しているのです。
気体美術だけというとろが、今日性と洗練性を生み出しています。。

《気晴らしアート》であることも、人気を成立させる重要なものなのでしょう。

分析をしてみて面白いと思ったのは、
《世間体のアート》が無いという事。
この事が、ある意味ではモダンアートの継続性を示している、
つまりモダンアートというのは、実は《世間体のアート》を否定して
いたからです。

奈良美智の作品は、
芸術分析的には、部分的にですがボナールの作品に似ているのです。

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彦坂尚嘉による《言語判定法》での芸術分析

《原芸術》は無い
《芸術》は無い
《反芸術》は無い
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は有る
《無芸術》は有る
《世間体のアート》は無い

《想像界》の眼で《超次元》から《第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》から《第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》から《第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》
《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《透視画面》オプティカル・イリュージョン
【A級美術】

ボナールは、『アートの格付け』的には、素晴らしいのですが、
しかし《非芸術》《無芸術》だけしかないという、
奈良美智との共通性があるのです。

ここで、マティスと比較すると、
マティスは、《原芸術》性をもっていることで、
ボナールよりも、
マティスの方が、芸術的偉大性を持っていると言えるのです。

つまり奈良美智的な《第6次元 自然領域》の作品で、
《原芸術》性をもっている作品というものも、
あり得るということです。

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彦坂尚嘉による《言語判定法》での芸術分析

《原芸術》がある
《芸術》は無い
《反芸術》は無い
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》は有る
《無芸術》は有る
《世間体のアート》は無い

《想像界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》だけ《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》だけ《真性の芸術》
《現実界》の眼で第1次元 社会的理性領域》だけ《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》
《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《透視画面》オプティカル・イリュージョン
【A級美術】

繰り返しになりますが、
『アートの格付け』だけで見ればボナールの方が、
圧倒的に重厚で、偉大な表現です。
つまりマティスは《第1次元 社会的理性領域》だけで、
産業ロック的な売り絵に過ぎないのです。

そころが芸術分析的には、
マティスは、《原芸術》性を持っている事で、
《原芸術》性を欠いているボナールよりも、
芸術的な本質性を持っているのです。

そして奈良美智は、《原芸術》性を欠く事で、
ボナール的なのです。



タグ:奈良美智
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人格の《形骸》と政治(加筆改稿1) [状況と歴史]



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人間には、人格があると考えられます。

しかし、長いあいだ人間と付き合うと、
人間というのも、たいへんなもので、理解できない人に
たくさん会います。

首相である鳩山由紀夫氏も、不思議な人という評価があって、
「宇宙人である」とする本も出版されています。

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最近の小沢問題での鳩山首相の発言も、
宇宙人的な水準で、奇妙な感慨を持つのです。

小沢氏が潔白説明…「私も信じる」鳩山首相

 鳩山首相は16日、民主党の小沢幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる政治資金規正法違反事件で、同党の石川知裕衆院議員が逮捕されたことについて、「大変驚いている。国民の皆様に心配、ご迷惑をおかけしていることに遺憾の意を表明したい。捜査中の話なので推移を見守っていくしかない」と述べた。


 首相は、同日午前に小沢幹事長と会談した内容について、「小沢幹事長は『身の潔白を、自らを信じている』とのことだった。私もそれを信じる。それについて党大会で私もしっかり申し上げる」と述べた。

 首相公邸前で、記者団の質問に答えた。

(2010年1月16日13時02分  読売新聞)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
首相というのは、国家権力の中枢であって、
同時に検察という警察権力もまた、国家権力の中枢なのです。
ここに分裂と権力闘争が生じていて、
小沢一郎と検察の激突というのは、そういう権力闘争なのです。
日本という国家の中枢の瓦解に私たちは立ち会っているのですが、
そういう劇的な問題を、鳩山首相の物言いは、
どこかピントがずれているのです。
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この傀儡性をどのように私たちは了解して行くのか?

この鳩山由起夫首相の顔を、
彦坂尚嘉が《言語判定法》を使って、
最近開発の《芸術》分類を敷衍して、
人格分類で、判断してみます。

人格分類というのは、次のようなものです。

《原人格》
《人格》
《反人格》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非人格》
《無人格》
《世間体人格》

芸術分析に使った、《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》、
《原芸術》《世間体のアート》という6種類の概念を、
人格に、転用したものです。

『アートの格付け』ということと、「人格」ということは、
日本語においては、ともに「格」という言葉が出てくるものです。

「人格」とは何か?
という問いがむずかしいのは、
「芸術とは何か?」という問いと同様に、むずかしいのですが、
その理由は、要素が多くて、単純ではないという、
複雑系のものであるところにあります。



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彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による
        鳩山由紀夫首相の人格分析
《原人格》が無い。
《人格》が無い。
《反人格》が無い。
《非人格》が無い。
《無人格》が無い。
《世間体人格》が無い。

したがって人格の《形骸》である。

つまり鳩山由紀夫氏の人格は、
彦坂尚嘉が言うところの《形骸》であるということになります。
つまり人格の《形骸》という領域の人物だと言う事です。

首相の人格が《形骸》であるというのも、
恐ろしいものです。
しかし、それはあくまでも彦坂尚嘉の人格分類での判断ですので、
その限定付きでしか有りません。

そこで、別の検討をしてみたいので、
従来の『アートの格付け』でも見てみます。
そうすると違った結果が出て来ます。

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《想像界》の眼で《超次元》だけデザイン的人格
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的人格
《現実界》の眼で《超次元》だけデザイン的人格

《想像界》だけの人格
気体だけの人格

《シリアス・アート的人格》
《ハイアート的な人格》

シニフィエ(記号内容)的人格

《原始画面的人格》


《象徴界》が、本質を示すものとして重要だと私は思いますが、
その《象徴界》が、《第8次元 信仰領域》の
デザイン的人格であると言う事と、
先の分析で出て来た《形骸》ということが、連動していると
考えられます。

鳩山由紀夫という首相を理解しようとする時に、
《形骸》という視点で見ることで、いろいろの不思議を、
理解する事のできる事も多く有るように思います。

さて、続いて前首相の麻生太郎の顔を見てみます。

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彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による
        麻生太郎前首相の人格分析
《原人格》が無い。
《人格》が無い。
《反人格》が無い。
《非人格》が無い。
《無人格》が無い。
《世間体人格》が無い。

したがって人格の《形骸》である。

つまり彦坂尚嘉の視点で見ると、
麻生太郎前首相も、現在の鳩山由紀夫首相も、
人格分析的には、人格的な《形骸》なのです。

人格の《形骸》として理解できる人々が存在しているのです。

人間の人格を考える時に、
実は、「人格の《形骸》」という領域があるという発見は、
重要なものです。

いままで、人間関係での不可思議さが、
「人格の《形骸》」を持つ人々が多数いると考えると、
納得の行くものになるからです。

では《形骸》とは何か?

かなり乱暴な言い方ですが、
建築の例で言うと、
建築の《形骸》という領域に、プレハブ建築があります。

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プレハブは、それなりの機能を満たしてくれるので、
プレハブは、重要なのですが、
しかしプレハブこそが、建築の《形骸》であると、
彦坂尚嘉の視点では考えているのです。

つまり内藤礼の作品を、芸術の《形骸》であると言っているのは、
内藤礼の作品は、まるで建築で言えばプレハブのようなものだと
言っているのです。

芸術のプレハブである作品として、
彦坂尚嘉の眼には、内藤礼の作品が見えるのです。

同様に、麻生太郎や、鳩山由紀夫の政治家としての人格が、
人格のプレハブのように見えるのです。

首相という、日本国家の中枢に、プレハブが建っているのです。
この居心地のわるさというか、ペラペラの軽さというのは、
なんとも言えないものがあります。

本当は歴代首相の人格分析の必要があるのですが、
ここでは省略せざるを得ません。
執筆の時間の制約があるからです。

そこで東條英機の顔だけを見ておきます。

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《原人格》が無い。
《人格》が無い。
《反人格》が無い。
《非人格》が無い。
《無人格》が無い。
《世間体人格》が有る。

東條英機には、《世間体人格》があるので、
《形骸》ではないのです。

つまり麻生太郎や、鳩山由紀夫は、東條英機よりもひどい人格なのです。

しかし、プレハブは、現代の中では、重要なものです。

社会と言うのは、実は《形骸》領域で、支えられていて、
プレハブ的なものは、必須なのです。

人間関係においても、《形骸》の人々は重要であるのです。

だから鳩山由紀夫や、麻生太郎が、首相という最高権力者にまで
なるのです。

しかし一国の首相の人格が《形骸》であるのは、不幸な事です。

しかも2人も続いている。

だからこそ、日本が破滅へと歩んでいるのです。

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建築系ラジオ 第二期始動 公開収録のお知らせ [告知]

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建築系ラジオ 第二期始動

 公開収録のお知らせ


・不慮の事故で山田幸司さんが亡くなりましたが、

 新しいメンバーを加えて、

 2010年1月から第二期が始動します。


 その発表をかねた公開収録では、

 まず前段としてこれまでのおすすめ番組をふりかえってもらい、

 全体討議では1月に刊行される五十嵐太郎の新刊をめぐって語ります。

 http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1475-5.html

 全体が四部構成になっていることから、

 各パートごとにトピックを分けて、建築の過去から現在を論じます。


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建築はいかに社会と回路をつなぐのか

五十嵐太郎 著
A5判 / 286ページ / 並製
定価: 2200 + 税
ISBN978-4-7791-1475-5 C0052
[2010年01月 刊行

 


・17時15分〜45分

「第一期の番組をふりかえる」


・18時〜19時20分

 全体討議

/五十嵐太郎新刊『建築はいかに社会と回路をつなぐのか』

(彩流社)をめぐって


・本の説明(編集者:出口綾子)

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・共同体と他者(歴史編 第一部)=倉方俊輔×五十嵐×メンバー

・建築家と他者(歴史編 第二部)=南泰裕 ×五十嵐×メンバー

・都市の記憶 (現代編 第一部)=天内大樹×五十嵐×メンバー

・都市の変容 (現代編 第二部)=松田達 ×五十嵐×メンバー


・19時20分〜

 メンバーの関連本 サイン会(五十嵐太郎、南泰裕、倉方俊輔らの単著・編著)


*日時 2010年1月18日 南洋堂 4階




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栃原比比奈の完成品と7点目の入札 [気体分子ギャラリー]

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栃原比比奈「花」

2009〜2010年
キャンバスに油彩 653×530㎜

彦坂尚嘉責任による芸術分析

 

《想像界》の眼で《第41次元》〜《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元》〜《超次元》の《真性の芸術》

 

 

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現

 

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示。

 

《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示
《透視画面》と《原始平面》の同時表示
『オプティカル・イリュージョン』と『ペンキ絵』の同時表示
【A級美術】と【B級美術】の同時表示

 

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》のすべてが有る。

定価
:450,000円
最低入札価格
:40,000円
現在の入札最高額 40,000円

この作品は、うまく完成しました。たいへん、きれいです。
実物を見て欲しいですが、入札のあった作品は、
ギャラリー山口には展示しませんので、
六会日大前のアトリエの展示で見て下さい。




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第29回「ラカンと美術読書会」のご案内 [告知]

皆様
新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しお願い申し上げます。
ラカンと美術読書会連絡係りの加藤 力と申します。

今回の読書会は、通常読書会行っている立教大学の授業が
終了しているため、藤沢(六会)の彦坂尚嘉アトリエで行われます。
ご注意下さい。

ご案内させていただきます
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
第29回「ラカンと美術読書会」のご案内

日時1月20日(水)18時30分 〜 2時間程度
場所 彦坂尚嘉アトリエ  藤沢(小田急線六会日大前)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「ラカンと美術読書会」とは下記の2人が共催する読書会です。

彦坂尚嘉(日本ラカン協会幹事、立教大学大学院特任教授、日本建築学会会員、
美術家)
武田友孝(元・東京スタデオ、インデペンデント・キュレーター)

ラカン『無意識の形成物〈上〉』と、
月代わりで選出される美術本の読書会です。

2007年8月より月一回のペースで開かれています。
ごくごく初歩的な読書会で何方でも参加できます。
どうぞお気軽にご参加下さい。

テキスト
     ◎ラカンは『無意識の形成物〈上〉』 (岩波書店)
     ●美術はブレーズ・ガラン著/小倉正史訳
  『「芸術」からの解放アール・ソシオロジックとはなにか?』(青弓社 
1997年)

  参加費 無料(コピー代のみ実費で頂きたくお願いいたします)
     テキストは特に準備なさらなくても、こちらでコピーを用意いたします。

※ 研究会終了後、懇親会を予定しております。
 お時間に余裕のある方は、こちらの方にもご参加ください。
 なお、懇親会は、持ち寄りのパーティー形式で行いたいと思いますので、
 希望者の方は、あらかじめアルコールとつまみを
 適当に用意して来て頂ければ幸いです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
六会日大前に着いたら、電話を携帯に下さい。
車で迎えに行きます。

ちなみに徒歩で行かれる場合は、
小田急藤沢江ノ島線 六会日大前下車。
東口に出てバスターミナルを突っ切り 大通りを300メートル進み
六会日大前駅入口交差点と言う大きな交差点を右折。
300メートル進むと左手にローソンがあります。
ローソン手前の細い道を左折。T字路にぶつかるまで300メートル直進。
T字路左手が彦坂アトリエです。
徒歩12分

彦坂尚嘉アトリエ
〒252-0813藤沢市亀井野3−23−11
電話:0466-21-8898
携帯090-1040-1445
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
申込・問合せ先:加藤 力(美術家、臨床美術士)
メールアドレス変わりました E-mail:sp5g7d99@axel.ocn.ne.jp
                FAX:0467-48-5667

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MUSEのライブ/《形骸》と音楽のあいだ [音楽の頂点]


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MUSE ウェンブリー・スタジアムでのギグ
彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による芸術分析

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》 のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》 のデザイン的エンターテイメント

                
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
                   ただし《サントーム》はない。
           
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現気体だけの表現。

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエの表現

【B級演奏】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原音楽》音楽《反音楽》
《無音楽》《非音楽》《世間体の音楽》のすべてが無い。

ここにあるのは音楽の《形骸》

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

MUSEのライブを、武道館で見て来ました。

東京2010.1/12(火)日本武道館
OPEN 18:00/ START 19:00 TICKET¥7,800(アリーナ:スタンディング|スタンド:指定/税込)
一般プレイガイド発売日:11月15日(日)
主催:テレビ朝日/J-WAVE/MTV 後援:tvk/MUSIC ON! TV
(問)クリエイティブマン 03-3462-6969
協力:ワーナーミュージック・ジャパン 企画・制作・招聘:
クリエイティブマン


撮影した写真が、コンピューターに移せなくて、ブログを書くのが
遅れました。

私自身は、ライブの規模が大きくなる事については、
不可避とは考えますが、
その危険性は、何度も見て来ているのです。

古くはピンク・フロイドの『ザ・ウォール』のコンサート
ブルース・プリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・U.S.A.  』のコンサート。
私の見たものとしてはプリンスの1986年の「 Parade tour 」など、頂点を極める巨大コンサートというのは、同時に崩壊へのターニング・ポイントなのです。

【YouTube画像】として貼付けたMUSEの2007年のリニューアルオープンしたロンドンのウェンブリー・スタジアムでのギグは、同様の頂点性を示しています。このライブDVDを太田丈さんにいただいて、その凄さに驚きました。いただいて感謝しています。同時にそこに私は、何度も見て来た崩壊の臭いを嗅ぎつけていたのです。

特に気になるのはマシュー・ベラミーの派手なパフォーマンスで、音楽演奏の必然性を欠いていて、エンターテイメントに堕落しています。小さなコンサート・ホールでのパフォーマンスにあった真摯さは消えて、《形骸》領域に跳躍しているのです。

すでに述べたようにウェンブリー・スタジアムでのギグは、ハイテクノロジーと組み合わさって、凄いのものではありますが、音楽的には《形骸》以外のなにものでもありません。音楽としても《芸術》としても、何も無くて《形骸》が光り輝いているのです。この輝きこそが、今日の高度消費社会とグローバリゼーションーの魔術なのです。そこにあるのは、《芸術》や文化の《形骸》だけなのです。

私たちは、この《形骸》の不可避性を受け入れなければならないし、この《形骸》性を受け入れつつ、これに巧妙に抵抗する方法や、《形骸》を逆手にとって、《形骸》から《真性の芸術》へと反転する技術を見いださなければならないのです。

次に貼付けるのは、小さなコンサートホールでのギグです。
比べてみて下さい。
ここには《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》のすべてがあるのです


Muse - Megalomania - Live and Acoustic



彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元》から《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第41次元》から《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元》から《超次元》の《真性の芸術》

                
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
                   ただし《サントーム》はない。
           
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現気体だけの表現。

《シリアス・アート》
《ハイアート》

シニフィアンとシニフィエの同時表示

【A級演奏】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原音楽》《音楽》《反音楽》
《無音楽》《非音楽》《世間体の音楽》のすべてがある。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

お料理でもそうですが、限られた少量でお料理して美味しいもの
を作る事はできますが、大量に生産しようとすれば、
どうしても味は落ちます。

ですから現在のようなグローバルな過剰消費社会では、
《真性の芸術》は、小さな限られた中でしか生き得なくなって
来ているのです。

《形骸》化に耐えつつ、《真性の芸術》と《形骸》の両方を、
したたかに使い分ける事。
その技術とマネージメントが必要なのです。

今日のアートマネージメントは、
そうした視野が必要なのですが、
それは、かなりむずかしい事なのです。
私自身は、それに挑戦していこうと思います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

武道館でのMUSEのライブは、音楽の《形骸》と、
《真性の音楽》のミックスとして展開されました。

巨大会場でのライトアートの展開は、
特にレザー光線を客席の頭上すれすれに打ち込む過激なところは、
面白く見ました。

見て、良かったと思いました。
今日の先端の表現があるということと、
同時に、そのコントロールのむずかしさです。

MUSEは、商業主義に堕落して、
音楽への真摯でしたたかな展開を失ったように見えます。
だからこそ、ビックヒットして、バンドとして成功したのですが、
同時に崩壊と《形骸》へのカタソトロフィーへの崖崩れに入ったのでした。



タグ:muse
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ユニクロのCMは《真性の芸術》です(加筆1) [アート論]

ユニクロのCMは、《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》です。

メメヒさんから、次のようなコメントをもらいました。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

いつもblog楽しみにしています。

原芸術から焼き直しを続け、性質が変わっていき、最後には形骸になる。本質的で合点のいくお話だと思いました。
質問を書き込ませて頂きます。もし気が向けば、ご返答いただけたら嬉しいです。

・形骸からさらに変化を遂げる場合があるとは思われますか?それとも形骸は文字通り骸なのでしょうか。

・ユニクロは、CMなど「まとったイメージ」も形骸だと思われますか?UNIQLOCKは形骸という印象は私は受けませんでした。

by メメヒ (2010-01-14 20:05)




彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による芸術分析

《想像界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》 の《真性の芸術》

                  《超次元》と《第2次元〜第41次元》は無い。

《サントーム》だけの表現。
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界は無い

           
気体だけの表現。
液体/固体/絶対零度は無い。

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィアンとシニフィエの同時表示。

《透視映像》
【B級映像】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》は無い。
《芸術》は有る。
《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》が無い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ユニクロのCMであるUNIQLOCKは、
たいへんにすぐれたものですね。

《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》です。

しかも《サントーム》だけの《真性の芸術》というのは、
驚きが有ります。
今日の情報化社会の新しい芸術のエッセンスのような表現です。

ユニクロの服は、《第7次元 ビジネス領域》の《7流》ですが、
コマーシャルは《第1次元》《1流》であることで、
人々にユニクロと《1流》のイメージを重ねて買わせると言う、
詐術だと言えます。

彦坂尚嘉的に言えば、
《1流》と《7流》の同時表示だと言う事です。

映像論的に語ると長くなるので、ここでは省略しますが、
《サントーム》の映像であるというのは、
特筆すべき事です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

もうひとつの、ご質問です。


形骸からさらに変化を遂げる場合があるとは思われますか?
それとも形骸は文字通り骸なのでしょうか。


《形骸》からさらに変化をとげるということは、
原理的にはあります。
実例も見つけています。
これについては、別のブログで書きたいと思いますが、
やり損なったら、お許しください。
その時は、また、催促して下さい。

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内藤礼の《形骸》2/仏像史からの考察(加筆5画像多数追加) [アート論]

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1_l.jpg



内藤礼展で、明確になったのは《形骸》という領域でした。
これには驚きがありました。

つまり《形骸》化した芸術というものではなくて、
「芸術の《形骸》」という領域が存在するのです。

私の目的は、内藤礼という個人のアーティストを卑しめようという
ものではありません。
そうではなくて1960年代末から1970年の現代美術が、
《形骸》として出現してくると言う、
表現の歴史の大きな構造を問題にしているのです。

さて、そのことを、仏像の歴史を振り返る事から、
再確認してみたいと思います。

仏像の歴史を振り返る事で読み取れる変化が、
現代美術にも、起きて来ていて、
現代美術は、デザイン化し、装飾/官能化し、
さらに《形骸》に至ったのではないのか?

2_l.jpg

そういう反省をするために、
現代美術を一度離れて、仏像を見る事で、
歴史のダイナミズムを理解して欲しいのです。

■《原芸術》としての仏像

まず、《原芸術》としての仏像を見てみましょう。

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如来座像、2~3世紀、 ガンダーラ

彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による芸術分析

《想像界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》 の《真性の芸術》

                  《超次元》と《第2次元〜第41次元》は無い。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
                    《サントーム》は無い。

           

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術

《透視立体》
【A級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》が有る。
《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》が無い。



この2から3世紀のガンダーラの仏像は、いろいろありますが、ここで《原芸術》としての仏像が形成されたと考えられます。「はじめにすべてあり」という原則からも、この《原芸術》としての仏像は、極めて重要なものです。

■仏像のデザイン化


《芸術》としての仏像は、名品がたくさんありますが、
これについてはここでは省略して、
《非芸術》という仏像のデザイン化を見ておきましょう。


0801-26.JPG.jpeg
6世紀中国の雲崗石窟を代表する第20窟の露坐の大仏

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》 のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》 のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》 のデザイン的エンターテイメント

           《超次元から第5次元》と《第7次元〜第41次元》は無い。

《想像界》だけの表現であって、
        《象徴界》《現実界》《サントーム》の3界は無い。
                    
固体表現だけであって、絶対零度/気体/液体は無い。

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィアン(記号表現)の美術

《原始立体》
【A級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》が無い
《非芸術》《世間体のアート》が有る。

仏像が、精神性の問題ではなくて、中国の王朝の政治的意図による
巨大なデザイン的なモニュメントに変貌したのです。

仏像のデザイン化

仏像のデザイン化.jpg

《非芸術》=デザイン化              《原芸術》





■仏像の装飾/官能化

仏像は、様々に変貌して行きますが、
装飾/官能化もしたのです。
これを見て下さい。


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中国の敦煌にある莫高窟 第275窟(北涼)の本尊交脚菩薩

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》 のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》 のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》 のデザイン的エンターテイメント

           《超次元から第7次元》と《第9次元〜第41次元》は無い。

《想像界》だけの表現であって、
        《象徴界》《現実界》《サントーム》の3界は無い。
                    
固体表現だけであって、絶対零度/気体/液体は無い。

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィアン(記号表現)の美術

《原始立体》
【A級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》が無い
《無芸術》《世間体のアート》が有る。



仏像の装飾/官能化

仏像の装飾/官能化.jpg

《無芸術》=装飾/官能化               《原芸術》



■仏像の《形骸》化


こうして仏像が、《原芸術》から始まって、《非芸術》《無芸術》と様々に展開して行くと、《形骸》にまで達するのです。

仏像の《形骸》と、彦坂尚嘉に見えるものを紹介しておきます。現在上野の森美術館で開催されているチベット展に出ている仏像です。


2-2img.jpg
ダーキニー立像
                           銅造、彩色、トルコ石、珊瑚、骨 / チベット・17-18紀
総高33.5cm / ノルブリンカ

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第16次元 崩壊領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第16次元 崩壊領域》 のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第16次元 崩壊領域》 のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の表現
           

絶対零度(原始的な)の表現

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術

《原始立体》
【B級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》のすべてが無い。
仏像の《形骸》

《第16次元》という崩壊領域と思っていた次元で、
このような仏像が制作されていることに、驚きはありますが、
もっと驚かされるのは、これらが、芸術としての分析言語に
対応しないのです。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》
《世間体のアート》のすべてが無いのです。
仏像の《形骸》であるのです。

仏像の精神性が、完全に失われて、
彫刻としてのかたまり性も消えて、
《形骸》として輝いているのです。


仏像の《形骸》化


仏像の形骸化.jpg

《形骸》化           《原芸術》



フィギュアと仏像の《形骸》

今日のフィギュアというものが、何であるのか?

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彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》 のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》 のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》  のデザイン的エンターテイメント

           《超次元から第20次元》と《第31次元〜第41次元》は無い。

《想像界》だけの表現であって、
        《象徴界》《現実界》《サントーム》の3界は無い。
                    
気体表現だけであって、絶対零度/気体/液体は無い。

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術

《原始立体》
【B級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》のすべてが無い。
小さな彫刻の《形骸》


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内藤礼/現代美術の《形骸》(加筆3画像多数追加) [アート論]


内藤礼の個展を、鎌倉近代美術館で見ました。

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内藤礼の作品/彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント

 

《現実界》の作品、ただし《想像界》《象徴界》《サントーム》が無い。
気体の作品。ただし絶対零度/液体/固体の3様態が無い表現
《シリアス・アート》ただし《気晴らしアート》はない。
《ハイアート》ただし《ローアート》はない。

シニフィエ(記号内容)の表現。ただしシニフィアン(記号表現)がない。

理性脳の美術ただし原始脳の美術がない。
《原始立体》《原始平面》
【A級美術】

 

 

《原芸術》《芸術》《反芸術》
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》のすべてが無い。
つまり【芸術の形骸】である。

 

上にあげた大きなくらい部屋のインスタレーションも、
大きい割には、つかみどころの無いものです。
展示用のショーケースの中に、入れるのですが、
それに入るために、多くの人が並んでしました。

2_l.jpg

このライトのインスタレーションのひとつの細部は、
次のようなものです。

1_l.jpg

小さなライトと、中近東のような布が使われていて、
きれいそうで、何か雰囲気があります。

写真でみても、実物でも、確かに何かがあるように見せています。

しかし、驚くほどに内容がない。

私自身はたくさんのインスタレーションも見て来ました。
ダン・フレイヴィンや、ナムジュンパイクから、
名前を忘れてしまったアーティストを含むライトアートも見て来ています。
1968年の東京都美術館の毎日現代美術展は、
全館が暗くなって、ライトアートの数々が並びましたが、
私は、それを見て来ている世代なのです。

ディアセンターでの本格的なインスタレーションのライトアートの
作品も、いくつか見て来ています。
アメリカのように、仕込みにお金をかけられないのは分かりますが、
ライトアートの歴史からみても、内藤礼の作品は、芸術的に貧しいのです。

そういう、多くの作品を見て来ている経験からは、
あまりにも、薄い、《第8次元 信仰領域》の作品にしか見えないのです。


内藤礼の作品は、人気があるそうです。
彦坂尚嘉の《言語判定法》による芸術分析ですと、
《現実界》の作品で、《第8次元 信仰領域》の作品。

良いと思う人には、良いと思える作品だが、
しかし良いとは思えない人には、良いとは思えない作品。

人気があるといっても、
良いと思わない人の人数も、日本中でも世界中でもたくさんいるのです。
同意しない人々の存在もまた、重要であるように思います。

06052318.DSCF0251.JPG.jpeg

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「イワシの頭も信心から」と言いますが、
その意味は、イワシの頭のようなつならないものでも、信仰すれば、
非常にありがたいものに見えることから、信仰の不思議さをたとえた
ことわざです。

新興宗教に対して皮肉の意味で使われます。

内藤礼の作品は、私にとっては、
実につまらない現代美術の《形骸》に見えてしまうものなのですが、
《第8次元 信仰領域》の作品であることで、
良い作品で、深い意味があると信じる人には、
ありがたい意味のあるという作品なのです。

そういう信仰領域の作品で、
新興宗教のような作品です。

とは言っても《現実界》の作品なので、
宗教と言っても《象徴界》の宗教ではなくて、
禅宗系ですね。
禅宗がアートという名前になったのです。

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禅宗祖師図 南寺天授庵蔵 等伯 南泉斬猫図


禅の言う、「空」とか「無」といった作品。
日本人は「空」とか「無」というものに、深い意味を見ますが、
実際には、雲ひとつ無い青空であって、何の意味も無いものです。


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禅宗というのは、ニヒリズムであって、無意味です。
無意味というのは、意味を構成しないという事です。

内藤礼の作品も、実は何も無い《無意味性》の作品です。

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ビーズ?をつかった紐の内藤礼の作品/彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
 
《現実界》の作品。

気体の作品。

《シリアス・アート》。

《ハイアート》。

シニフィエ(記号内容)の表現。

理性脳の美術

《原始立体》

【A級美術】
 
 
《原芸術》《芸術》《反芸術》
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》のすべてが無い。
つまり【芸術の形骸】である。


こういうインスタレーションは、
実は1960年代の後半に登場してくる作品に良く似ています。
もっとも材料としては、ビーズは、当時は使っていませんが、
しかし40年まえの芸術動向の今日的な焼き直しと言えます。

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これもビーズの紐がぶら下がっている作品。

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下のこけしの彫刻は別の人の作品で、
内藤礼の作品は、上からぶら下がっているビニール紐の作品。
日本の紐が、風に揺られているのです。

《無意味性》の作品を、見る方がかってに深い意味を
深読みで見ているような作品なのです。

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内藤礼作品

水も多くの現代美術の作家が使って来ていますが、
その焼き直しを、特にすぐれた工夫も無く、やっています。

ぎりぎりのところまで、水の表面張力をつかった作家も
実はたくさんいるのです。

こういう焼き直しの手法で、
深い意味があるように暗示している作品です。

見る方が勝手にというよりも、内藤礼自身が、
その深い意味をレクチャーで語っているようなのです。

今回の神奈川近代美術館の題名も、
題名そのものから、深い意味があるように語られいています。

内藤 礼 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」

「水の中に水がある」という言い方は、
トートロジー(同義反復)ですが、
これも、1960年代の末にはやったものです。
これを焼き直している。

「すべての動物は」というところは、現代的であって、

東 浩紀の「動物化するポストモダン」という本を下敷きにしている

ように見えます。




巫女さんですね。
内藤礼のご神託の言葉によって、深い意味があるかのように錯覚されて成立する作品です、
それは何故か?

中島誠之助という古美術鑑定家がいます。

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彼の著書に「ニセモノはなぜ、人を騙すのか?」(角川書店)
という本があります。

ピクチャ 1.png

その中に次のようにあります。

印刷物に頼ろうとするとひっかかる

日本人は勤勉な民族で、知識欲が旺盛だから、つい印刷物やマスコミの報道に頼りがちになる。鵜呑みにしやすいことが、ひっかかってしまう要因のひとつである。

新聞や出版物に掲載されていたのと、あるいは報道番組で取り上げられていたことをそのまま信用してしまうひとが実に多い。そこが日本人の欠点だと思う。

中島誠之助氏が指摘しているように、印刷物や出版物、そして美術館という権威があると、日本人は騙されて、現代美術の《形骸》にすぎないデザイン的エンターテイメントを、《真性の芸術》作品と思って、騙されるのです。

内藤礼の作品は、
この作品が、砂漠に埋まっていたら、ただのゴミとして埋もれて行く物です。

ミロのビーナスの発見のように、断片でも見つかれば意味を見いだすような、そういう性格ではないのです。

作品がきちんと作られているというものではないのです。

断片が砂漠に埋まっていても、意味の有る作品と分かるような作品の事を、意味を有している作品という意味で、フッサールは《有意味的表現》という言葉を使っています。
しかし内藤礼の作品は《有意味的表現》では無いのです。逆であって《無意味的表現》なのです。

それを補うかのように、たくさんの印刷物、つまり作品集が出版される事で、中島誠之助氏が指摘しているような詐術が成立するのです。内藤礼の《無意味的表現》が、あたかも深い意味を有する自律した名作のように振る舞うのです。

作品集 

  • 『直島・家プロジェクト第3弾きんざ/「このことを」内藤礼』(ベネッセアートサイト直島
  • 『内藤礼作品集』(筑摩書房
  • 『地上にひとつの場所を』(筑摩書房
  • 『世界によってみられた夢』(ちくま文庫)
  • 『内藤礼〈母型〉』(聞き手・中村鐵太郎、左右社、神戸芸術工科大学レクチャーブックス)



しかし内藤礼の作品と、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を比較すれば、
レオナルド・ダ・ヴィンチの方がすぐれているのです。

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そして《現実界》の作品という意味で、セラと比較しても、セラの方が
すぐれているのです。

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にもかかわらず、内藤礼の作品に感銘を受ける人は、
いかにして、感銘を受けているのか?

そういう人と話すと良いのですが、実は、そういう人々は、現代美術をあまり見て来ていない人たちなのです。

たとえば1970年の東京ビエンナーレを見てはいないのです。内藤礼の作品は、実に良く、昔の1970年頃の美術と似ているのですが、あの時は不評であったこの1970年の美術が、風化して広がり、今日ではその形骸化した作品が、喝采をあびて迎えられているのです。

『人間と物質のあいだ』という中原佑介氏がキュレーションした1970年の東京ビエンナーレは、今でこそ評価の非常に高い美術展でしたが、しかし当時は非常に不評であって、観客は入らないで、失敗した美術展であったのです。

そういう40年も前の東京ビエンナーレの風化が、日本の普通の人々に達した波紋のように、私には見える美術展が、今回の内藤礼の展覧会なのです。

当時の『美術手帖』の特集号のキャッチをそのまま使えば、「これでも芸術なのか!」という驚きがあるべき展覧会なのです。しかし現在の事態は、「これこそが芸術だ・・・」という人気であるのです。この40年をかけた時代の推移は、興味深いものがあります。その驚きはあります。

繰り返しますが、内藤礼の作品の特徴は、現代美術の形骸化です。それは今日では《第8次元 宗教領域》のデザイン的エンターテイメントになっているのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

驚いたのは、彦坂尚嘉的に言うと、
内藤礼の作品には、何も無い事です。

《原芸術》は無い。
《芸術》も無い。
《反芸術》性も無い。
《無芸術》性も無い。
《非芸術》性も無い。
《世間体のアート》性も無い。

まったく、何も無いのですね。

では、何なのか?

《形骸》なのです。

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彦坂尚嘉の《言語判定法》で、言葉を探すと、《形骸》という言葉に
対応するものになります。
芸術の《形骸》です。

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《形骸》がもつ《死》の魅力に、人々が魅了されているのです。

つまり重要なのは、美術館という芸術の制度性の中での美術展ですが、
芸術的には何も無くて、芸術の《形骸》が展示されているのです。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
内藤礼を美術館がやるのですから、
内藤礼の個人史をきちんと研究し、その成果を展示して欲しかったのです。

武蔵野美術時代の初期作品や、最初のテント作品。
そして林容子氏プロデュースの最初のニューヨーク展の作品、
その批評など、作家研究をして、
学問的な検証と、研究の成果を展示して欲しかったのですが、
そういう実証的な学問性は、無い展覧会でした。

私見を申しあげると、初期のテントを使った作品は、
今のような昔の現代美術を焼き直し路線とは、違っていただろうと、
私は思います。
初期作品には、内藤礼という女性作家が登場してくる、
もっと本質的な魅力があったはずなのです。
私はそれを見たかったのです。

多くの作家を見て来た経験で類推すれば、
初期作品が、展開できなくなった閉塞が経験されて、
現在の古い現代美術を下敷きにした《形骸》の作品になったのではないのか?

その転回の話を聞いてみたく思います。

私は、真面目な作家研究の美術展を見たかったのです。
アメリカの美術館では、普通に見られるそういう学術性のある美術展が、
日本では見る事ができなくなりました。

つまり、形骸化しているのは作品だけではなくて、
日本の美術館の学芸員の学問的な研究も《形骸》になっているのです。

monoibe2.jpg

学問性においては《形骸》となった日本の美術館の中に、
芸術の《形骸》が展示されて、
経済的にも社会的にも没落し、崩壊して行く日本の人々の喝采を
集めているのです。
なんとも空虚な美術展でした。

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