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内藤礼の《形骸》2/仏像史からの考察(加筆5画像多数追加) [アート論]

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内藤礼展で、明確になったのは《形骸》という領域でした。
これには驚きがありました。

つまり《形骸》化した芸術というものではなくて、
「芸術の《形骸》」という領域が存在するのです。

私の目的は、内藤礼という個人のアーティストを卑しめようという
ものではありません。
そうではなくて1960年代末から1970年の現代美術が、
《形骸》として出現してくると言う、
表現の歴史の大きな構造を問題にしているのです。

さて、そのことを、仏像の歴史を振り返る事から、
再確認してみたいと思います。

仏像の歴史を振り返る事で読み取れる変化が、
現代美術にも、起きて来ていて、
現代美術は、デザイン化し、装飾/官能化し、
さらに《形骸》に至ったのではないのか?

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そういう反省をするために、
現代美術を一度離れて、仏像を見る事で、
歴史のダイナミズムを理解して欲しいのです。

■《原芸術》としての仏像

まず、《原芸術》としての仏像を見てみましょう。

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如来座像、2~3世紀、 ガンダーラ

彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による芸術分析

《想像界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》 の《真性の芸術》

                  《超次元》と《第2次元〜第41次元》は無い。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
                    《サントーム》は無い。

           

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術

《透視立体》
【A級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》が有る。
《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》が無い。



この2から3世紀のガンダーラの仏像は、いろいろありますが、ここで《原芸術》としての仏像が形成されたと考えられます。「はじめにすべてあり」という原則からも、この《原芸術》としての仏像は、極めて重要なものです。

■仏像のデザイン化


《芸術》としての仏像は、名品がたくさんありますが、
これについてはここでは省略して、
《非芸術》という仏像のデザイン化を見ておきましょう。


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6世紀中国の雲崗石窟を代表する第20窟の露坐の大仏

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》 のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》 のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》 のデザイン的エンターテイメント

           《超次元から第5次元》と《第7次元〜第41次元》は無い。

《想像界》だけの表現であって、
        《象徴界》《現実界》《サントーム》の3界は無い。
                    
固体表現だけであって、絶対零度/気体/液体は無い。

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィアン(記号表現)の美術

《原始立体》
【A級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》が無い
《非芸術》《世間体のアート》が有る。

仏像が、精神性の問題ではなくて、中国の王朝の政治的意図による
巨大なデザイン的なモニュメントに変貌したのです。

仏像のデザイン化

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《非芸術》=デザイン化              《原芸術》





■仏像の装飾/官能化

仏像は、様々に変貌して行きますが、
装飾/官能化もしたのです。
これを見て下さい。


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中国の敦煌にある莫高窟 第275窟(北涼)の本尊交脚菩薩

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》 のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》 のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》 のデザイン的エンターテイメント

           《超次元から第7次元》と《第9次元〜第41次元》は無い。

《想像界》だけの表現であって、
        《象徴界》《現実界》《サントーム》の3界は無い。
                    
固体表現だけであって、絶対零度/気体/液体は無い。

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィアン(記号表現)の美術

《原始立体》
【A級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》が無い
《無芸術》《世間体のアート》が有る。



仏像の装飾/官能化

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《無芸術》=装飾/官能化               《原芸術》



■仏像の《形骸》化


こうして仏像が、《原芸術》から始まって、《非芸術》《無芸術》と様々に展開して行くと、《形骸》にまで達するのです。

仏像の《形骸》と、彦坂尚嘉に見えるものを紹介しておきます。現在上野の森美術館で開催されているチベット展に出ている仏像です。


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ダーキニー立像
                           銅造、彩色、トルコ石、珊瑚、骨 / チベット・17-18紀
総高33.5cm / ノルブリンカ

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第16次元 崩壊領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第16次元 崩壊領域》 のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第16次元 崩壊領域》 のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の表現
           

絶対零度(原始的な)の表現

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術

《原始立体》
【B級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》のすべてが無い。
仏像の《形骸》

《第16次元》という崩壊領域と思っていた次元で、
このような仏像が制作されていることに、驚きはありますが、
もっと驚かされるのは、これらが、芸術としての分析言語に
対応しないのです。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》
《世間体のアート》のすべてが無いのです。
仏像の《形骸》であるのです。

仏像の精神性が、完全に失われて、
彫刻としてのかたまり性も消えて、
《形骸》として輝いているのです。


仏像の《形骸》化


仏像の形骸化.jpg

《形骸》化           《原芸術》



フィギュアと仏像の《形骸》

今日のフィギュアというものが、何であるのか?

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彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》 のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》 のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第21〜30次元 愛欲領域》  のデザイン的エンターテイメント

           《超次元から第20次元》と《第31次元〜第41次元》は無い。

《想像界》だけの表現であって、
        《象徴界》《現実界》《サントーム》の3界は無い。
                    
気体表現だけであって、絶対零度/気体/液体は無い。

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術

《原始立体》
【B級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》のすべてが無い。
小さな彫刻の《形骸》


【続きは下記をクリックして下さい】
今日のフィギュアというものが、何であるのか?
といった時に、ハーバード・リードの彫刻論的に言えば、
それはアミュレット=護符という、小さな彫刻であると言う事に
なります。
その代表のひとつは土偶です。
土偶には《原芸術》性があります。
つまり私たちが芸術について考える時のルーツのひとつなのです。

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遮光器土偶(青森県つがる市亀ヶ岡遺跡出土)重要文化財 東京国立博物館蔵

彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による芸術分析

《想像界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》 の《真性の芸術》

                  《超次元》と《第2次元〜第41次元》は無い。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
                    《サントーム》は無い。

           

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術

《透視立体》
【A級美術】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原芸術》が有る。
《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》が無い。


アミュレットの《形骸》化


shakoukiのコピー.jpg
《形骸》化            《原芸術》


しかし今日のフィギュアの商業化したものの多くは、
このブログで問題にしている視点で言えば、
それは小さな彫刻の《形骸》だという定義になります。

このフィギュアと、チベットの仏像の《形骸》を並べて見ましょう。


《形骸》の類似性

フィギュアと仏像.jpg

チベットの仏像は、彦坂尚嘉の用語では絶対零度の美術、
つまり文明の中の野蛮美術なのです。
そして今日の日本のフィギュアは、気体美術=情報化社会の美術ですので、
ずいぶんと違うものなのですが、驚くほどに似ています。
両方共に《形骸》であるのです。

つまり前近代にも、《形骸》としてのフィギュア的なものはあったのであり、
今日の現代のフィギュアの《形骸》というのは、決して情報化社会特有の現象では
ないのです。

前-近代にも、近代にも、現代にも、《形骸》は生まれて来ているのです。

つまり言いたいのは、
内藤礼の作品として出現して来ている《形骸》というのは、
情報化社会の特有な表現ではなくて、
《原芸術》から始まって、コピーを繰り返し、焼き直しをし続けると
出現してくる表現の劣化としての《形骸》の問題なのです。

コメント欄に、ロンドン帰りさんから、次のような書き込みがありました。

お久しぶりです。

内藤氏が海外デビューには当時親密であったある作家の後ろ盾があったことは有名な話ですが、ここでは触れません。形骸といえば海を撮影して有名になった写真家も同様の位置にいる作家です。はからずも同じ画廊に所属しているところが面白い。また内藤展が行われた美術館が不人気のトリエンナーレのディレクターのいる館ですね。

日本の美術界は作家もキュレーターももっと科学してほしいですね。これでは高学歴な専門家による妙なお遊びにしかすぎません。それ以上に税金の無駄遣いでしょう。 
by ロンドン帰り (2010-01-13 09:40) 

私の聞き取り調査では、武蔵野美術大学の学生を終わるか終わらない段階で、突然にニューヨークでデビューしたのは、コロンビア大学を卒業して帰って来ていた林洋子氏の、アートプロデュースによるものです。直に林氏から聞いています。裏は取っていない情報です。

ロンドン帰りさんの指摘している「当時親密であったある作家の後ろ盾」ことは、私も噂では聞いていて、それは河原温氏との同棲しているという噂でした。これも事実かどうかは確認がとれているわけではありません。

個人のプライバシーとしての河原温との関係ではなくて、公的な芸術史・美術史上の影響関係の問題として考えたいのです。芸術史的に重要なのは、現在の内藤礼の表現が、1960年代末期の美術の焼き直しをしめしていて、コピー表現特有の《形骸》化を示している事です。この焼き直しを生み出した影響関係は、河原温からではないのか。

ですから、私としては、デビュー時の内藤礼のテントの作品を見たかったのです。
テントの初期作品と、たぶん河原温からの影響で学んだ1960年代末期のトートロジー的な美術の影響を受けた現在の作品は、違いが大きくあるのではないか? と推察しているのです。

誤解されているかもしれませんが、
私は、《形骸》を、いけないと否定しているのではないのです。


《原芸術》
《芸術》
《反芸術》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非芸術》
《無芸術》
《世間体のアート》


上記のような芸術分析の構造の、外部があるのです。

外部が、実はこの芸術分類を支えているのです。

その外部が、何であるのか?

ひとつの言い方は「なにものでもないもの」という言葉で言えます。

さらに追いかけて言葉を探すと、《形骸》という言葉を発見したのです。

《形骸》としての芸術ではなくて、
《芸術》の形骸なのです。

《芸術》の《形骸》こそが、芸術論の外部で、私たちを支えているのです。
ですから、内藤礼展でも、チベットの仏像展でも、
多くの人々が、《形骸》に熱狂しているのです。

つまり《形骸》という自律した領域があるのです。

「なにものでもないもの」としての自律した《形骸》が、実は芸術だけでなく、この社会を支えていると考えられると、私は思います。
 実際、コンビニエンスストアーに入っても、《形骸》という言葉で言える物が大量にあるのです。
100円ショップも同様の《形骸》性に満ちていると言えます。

 H&M、ユニクロといった大衆ブランドも《形骸》です。
これらの《形骸》が私たちの生活を支えているのです。

H&Mの銀座店を視察していますが、
そのペラペラの薄さと、ファッションセンスのダサさには、
驚きが有りました。

H&Mもまた服飾の《形骸》なのです。

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そういう意味で、H&Mの《形骸》も、内藤礼の現代美術の《形骸》も、ともに極めて今日的であって、「内藤礼は、現代美術のH&M」とも言うべきものなのかもしれません。とは言っても、H&Mは《第6次元》、つまり《6流》なのですが、内藤礼は《第8次元》、《8流》なので、H&Mの方が格が高いのですが・・・・。

ブランドにも、シャネルのような高価格・高品質の高級ブランドと、 H&Mやユニクロのような大衆ブランドがありますが、内藤礼の作品は、現代美術の鑑賞体験の豊かなプロのためというよりは、あまり現代美術を見てこなかった大衆のための大衆ブランドとして、機能しているのです。そこに有るのは現代美術の《形骸》化という、巨大な大地の輝きなのです。《形骸》は、大衆の海の中で、光り輝いているのです。


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メメヒ

いつもblog楽しみにしています。

原芸術から焼き直しを続け、性質が変わっていき、最後には形骸になる。本質的で合点のいくお話だと思いました。
質問を書き込ませて頂きます。もし気が向けば、ご返答いただけたら嬉しいです。

・形骸からさらに変化を遂げる場合があるとは思われますか?それとも形骸は文字通り骸なのでしょうか。

・ユニクロは、CMなど「まとったイメージ」も形骸だと思われますか?UNIQLOCKは形骸という印象は私は受けませんでした。

by メメヒ (2010-01-14 20:05) 

NO NAME

「ダーキニー立像」のところまで読んで、日本のフィギュアっぽいな~と思っていた次の瞬間に、私が所持しているフィギュアの画像が突然眼前に現れたのでドキっとしてしまいました(笑)
日本の商業フィギュアは、男性目線にデフォルメ・誇張された肢体表現に特化していると感じるのですが、やはり芸術分析的にも類似しているのですね。
チベットの18世紀の作品にしては、現在のおみやげ人形のような印象があります。古くからこのような作風の物が有るとは意外に感じました。
「形骸」ですが、私含め大多数の日本人の目は「形骸」に慣れてしまっているように思います。
マックのハンバーガー、コンビニ弁当、菓子パン、サイゼリヤ…このような個性や手作り感の排除されたアッサリしたモノに囲まれ、それを全く普通だと思っています。
こうなると、「原芸術」には何とも重たいというか、胃のもたれるような感覚を覚えてしまいます。
by NO NAME (2010-01-15 05:21) 

ぽん

↑上記NO NAMEですが名前の入力を忘れて投稿してしまいました。
大変申し訳ありませんでした。
by ぽん (2010-01-15 05:45) 

ヒコ

メメヒ様
コメントありがとうございます。
ユニクロのCM、別のブログで取り上げます。

ぼん様
コメントありがとうございます。
《原芸術》に、重たい胃のもたれるような感覚を覚えられるというご意見は、貴重ですね。ありがとうございます。
 それもあって、《原芸術》性を含んだ表現は嫌われて、《形骸》化した作品が、大衆的な人気を取るのでしょう。
by ヒコ (2010-01-15 11:26) 

小泉晋弥

島田忠幸さんの記事を検索していてこのブログにたどりつきました。「形骸」という概念と「なにものでもないもの」という概念提示に驚いています。
 「なにものでもないもの」はティエリー・ド・デューヴが『芸術の名において』でデュシャンを論じたときの概念とほぼ同じような気がしますし、「形骸」という表現も、物質化した芸術の呼び名としてはピタリです。(しかも非難している訳ではない)いま彦坂さんの「気体」からではなく、物質のほうから芸術作品を考えようとして、ブルーノ・ラトゥールとモノを勉強しているのですが、「形骸」という概念について考えてみようと思います。
by 小泉晋弥 (2010-01-31 17:46) 

ヒコ

小泉晋弥様
「なにものでもないもの」という言葉は、1970年代初頭の私の文章のなかでは、かなりキワードで使っていたように記憶しています。
デシャンの作品、特にレディメードは、おっしゃるように「なにものでもないもの」なっていると思います。ブルーノ・ラトゥールは、面白いですね。「虚構の近代」を今、アマゾンで注文しました。
by ヒコ (2010-02-01 11:50) 

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