SSブログ

内藤礼/現代美術の《形骸》(加筆3画像多数追加) [アート論]


内藤礼の個展を、鎌倉近代美術館で見ました。

h1.jpg

3_l.jpg

内藤礼の作品/彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント

 

《現実界》の作品、ただし《想像界》《象徴界》《サントーム》が無い。
気体の作品。ただし絶対零度/液体/固体の3様態が無い表現
《シリアス・アート》ただし《気晴らしアート》はない。
《ハイアート》ただし《ローアート》はない。

シニフィエ(記号内容)の表現。ただしシニフィアン(記号表現)がない。

理性脳の美術ただし原始脳の美術がない。
《原始立体》《原始平面》
【A級美術】

 

 

《原芸術》《芸術》《反芸術》
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》のすべてが無い。
つまり【芸術の形骸】である。

 

上にあげた大きなくらい部屋のインスタレーションも、
大きい割には、つかみどころの無いものです。
展示用のショーケースの中に、入れるのですが、
それに入るために、多くの人が並んでしました。

2_l.jpg

このライトのインスタレーションのひとつの細部は、
次のようなものです。

1_l.jpg

小さなライトと、中近東のような布が使われていて、
きれいそうで、何か雰囲気があります。

写真でみても、実物でも、確かに何かがあるように見せています。

しかし、驚くほどに内容がない。

私自身はたくさんのインスタレーションも見て来ました。
ダン・フレイヴィンや、ナムジュンパイクから、
名前を忘れてしまったアーティストを含むライトアートも見て来ています。
1968年の東京都美術館の毎日現代美術展は、
全館が暗くなって、ライトアートの数々が並びましたが、
私は、それを見て来ている世代なのです。

ディアセンターでの本格的なインスタレーションのライトアートの
作品も、いくつか見て来ています。
アメリカのように、仕込みにお金をかけられないのは分かりますが、
ライトアートの歴史からみても、内藤礼の作品は、芸術的に貧しいのです。

そういう、多くの作品を見て来ている経験からは、
あまりにも、薄い、《第8次元 信仰領域》の作品にしか見えないのです。


内藤礼の作品は、人気があるそうです。
彦坂尚嘉の《言語判定法》による芸術分析ですと、
《現実界》の作品で、《第8次元 信仰領域》の作品。

良いと思う人には、良いと思える作品だが、
しかし良いとは思えない人には、良いとは思えない作品。

人気があるといっても、
良いと思わない人の人数も、日本中でも世界中でもたくさんいるのです。
同意しない人々の存在もまた、重要であるように思います。

06052318.DSCF0251.JPG.jpeg

17549620.jpg

「イワシの頭も信心から」と言いますが、
その意味は、イワシの頭のようなつならないものでも、信仰すれば、
非常にありがたいものに見えることから、信仰の不思議さをたとえた
ことわざです。

新興宗教に対して皮肉の意味で使われます。

内藤礼の作品は、私にとっては、
実につまらない現代美術の《形骸》に見えてしまうものなのですが、
《第8次元 信仰領域》の作品であることで、
良い作品で、深い意味があると信じる人には、
ありがたい意味のあるという作品なのです。

そういう信仰領域の作品で、
新興宗教のような作品です。

とは言っても《現実界》の作品なので、
宗教と言っても《象徴界》の宗教ではなくて、
禅宗系ですね。
禅宗がアートという名前になったのです。

105touhaku_zensyusosi.jpg
禅宗祖師図 南寺天授庵蔵 等伯 南泉斬猫図


禅の言う、「空」とか「無」といった作品。
日本人は「空」とか「無」というものに、深い意味を見ますが、
実際には、雲ひとつ無い青空であって、何の意味も無いものです。


DSCF1883_500.jpg

禅宗というのは、ニヒリズムであって、無意味です。
無意味というのは、意味を構成しないという事です。

内藤礼の作品も、実は何も無い《無意味性》の作品です。

8_l-1.jpg

ビーズ?をつかった紐の内藤礼の作品/彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
 
《現実界》の作品。

気体の作品。

《シリアス・アート》。

《ハイアート》。

シニフィエ(記号内容)の表現。

理性脳の美術

《原始立体》

【A級美術】
 
 
《原芸術》《芸術》《反芸術》
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》のすべてが無い。
つまり【芸術の形骸】である。


こういうインスタレーションは、
実は1960年代の後半に登場してくる作品に良く似ています。
もっとも材料としては、ビーズは、当時は使っていませんが、
しかし40年まえの芸術動向の今日的な焼き直しと言えます。

6_l.jpg

これもビーズの紐がぶら下がっている作品。

5_l.jpg

下のこけしの彫刻は別の人の作品で、
内藤礼の作品は、上からぶら下がっているビニール紐の作品。
日本の紐が、風に揺られているのです。

《無意味性》の作品を、見る方がかってに深い意味を
深読みで見ているような作品なのです。

20091216161949.jpg

9_l.jpg

内藤礼作品

水も多くの現代美術の作家が使って来ていますが、
その焼き直しを、特にすぐれた工夫も無く、やっています。

ぎりぎりのところまで、水の表面張力をつかった作家も
実はたくさんいるのです。

こういう焼き直しの手法で、
深い意味があるように暗示している作品です。

見る方が勝手にというよりも、内藤礼自身が、
その深い意味をレクチャーで語っているようなのです。

今回の神奈川近代美術館の題名も、
題名そのものから、深い意味があるように語られいています。

内藤 礼 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」

「水の中に水がある」という言い方は、
トートロジー(同義反復)ですが、
これも、1960年代の末にはやったものです。
これを焼き直している。

「すべての動物は」というところは、現代的であって、

東 浩紀の「動物化するポストモダン」という本を下敷きにしている

ように見えます。




巫女さんですね。
内藤礼のご神託の言葉によって、深い意味があるかのように錯覚されて成立する作品です、
それは何故か?

中島誠之助という古美術鑑定家がいます。

nakamura_image.jpg


彼の著書に「ニセモノはなぜ、人を騙すのか?」(角川書店)
という本があります。

ピクチャ 1.png

その中に次のようにあります。

印刷物に頼ろうとするとひっかかる

日本人は勤勉な民族で、知識欲が旺盛だから、つい印刷物やマスコミの報道に頼りがちになる。鵜呑みにしやすいことが、ひっかかってしまう要因のひとつである。

新聞や出版物に掲載されていたのと、あるいは報道番組で取り上げられていたことをそのまま信用してしまうひとが実に多い。そこが日本人の欠点だと思う。

中島誠之助氏が指摘しているように、印刷物や出版物、そして美術館という権威があると、日本人は騙されて、現代美術の《形骸》にすぎないデザイン的エンターテイメントを、《真性の芸術》作品と思って、騙されるのです。

内藤礼の作品は、
この作品が、砂漠に埋まっていたら、ただのゴミとして埋もれて行く物です。

ミロのビーナスの発見のように、断片でも見つかれば意味を見いだすような、そういう性格ではないのです。

作品がきちんと作られているというものではないのです。

断片が砂漠に埋まっていても、意味の有る作品と分かるような作品の事を、意味を有している作品という意味で、フッサールは《有意味的表現》という言葉を使っています。
しかし内藤礼の作品は《有意味的表現》では無いのです。逆であって《無意味的表現》なのです。

それを補うかのように、たくさんの印刷物、つまり作品集が出版される事で、中島誠之助氏が指摘しているような詐術が成立するのです。内藤礼の《無意味的表現》が、あたかも深い意味を有する自律した名作のように振る舞うのです。

作品集 

  • 『直島・家プロジェクト第3弾きんざ/「このことを」内藤礼』(ベネッセアートサイト直島
  • 『内藤礼作品集』(筑摩書房
  • 『地上にひとつの場所を』(筑摩書房
  • 『世界によってみられた夢』(ちくま文庫)
  • 『内藤礼〈母型〉』(聞き手・中村鐵太郎、左右社、神戸芸術工科大学レクチャーブックス)



しかし内藤礼の作品と、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を比較すれば、
レオナルド・ダ・ヴィンチの方がすぐれているのです。

vin_101.jpg

そして《現実界》の作品という意味で、セラと比較しても、セラの方が
すぐれているのです。

splashing.jpg

imgRichard Serra3.jpg



にもかかわらず、内藤礼の作品に感銘を受ける人は、
いかにして、感銘を受けているのか?

そういう人と話すと良いのですが、実は、そういう人々は、現代美術をあまり見て来ていない人たちなのです。

たとえば1970年の東京ビエンナーレを見てはいないのです。内藤礼の作品は、実に良く、昔の1970年頃の美術と似ているのですが、あの時は不評であったこの1970年の美術が、風化して広がり、今日ではその形骸化した作品が、喝采をあびて迎えられているのです。

『人間と物質のあいだ』という中原佑介氏がキュレーションした1970年の東京ビエンナーレは、今でこそ評価の非常に高い美術展でしたが、しかし当時は非常に不評であって、観客は入らないで、失敗した美術展であったのです。

そういう40年も前の東京ビエンナーレの風化が、日本の普通の人々に達した波紋のように、私には見える美術展が、今回の内藤礼の展覧会なのです。

当時の『美術手帖』の特集号のキャッチをそのまま使えば、「これでも芸術なのか!」という驚きがあるべき展覧会なのです。しかし現在の事態は、「これこそが芸術だ・・・」という人気であるのです。この40年をかけた時代の推移は、興味深いものがあります。その驚きはあります。

繰り返しますが、内藤礼の作品の特徴は、現代美術の形骸化です。それは今日では《第8次元 宗教領域》のデザイン的エンターテイメントになっているのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

驚いたのは、彦坂尚嘉的に言うと、
内藤礼の作品には、何も無い事です。

《原芸術》は無い。
《芸術》も無い。
《反芸術》性も無い。
《無芸術》性も無い。
《非芸術》性も無い。
《世間体のアート》性も無い。

まったく、何も無いのですね。

では、何なのか?

《形骸》なのです。

Cimg3395.jpg

彦坂尚嘉の《言語判定法》で、言葉を探すと、《形骸》という言葉に
対応するものになります。
芸術の《形骸》です。

img_996031_24042864_0.txt.jpg


《形骸》がもつ《死》の魅力に、人々が魅了されているのです。

つまり重要なのは、美術館という芸術の制度性の中での美術展ですが、
芸術的には何も無くて、芸術の《形骸》が展示されているのです。

kai10_02_genba01_2309_050030406A.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
内藤礼を美術館がやるのですから、
内藤礼の個人史をきちんと研究し、その成果を展示して欲しかったのです。

武蔵野美術時代の初期作品や、最初のテント作品。
そして林容子氏プロデュースの最初のニューヨーク展の作品、
その批評など、作家研究をして、
学問的な検証と、研究の成果を展示して欲しかったのですが、
そういう実証的な学問性は、無い展覧会でした。

私見を申しあげると、初期のテントを使った作品は、
今のような昔の現代美術を焼き直し路線とは、違っていただろうと、
私は思います。
初期作品には、内藤礼という女性作家が登場してくる、
もっと本質的な魅力があったはずなのです。
私はそれを見たかったのです。

多くの作家を見て来た経験で類推すれば、
初期作品が、展開できなくなった閉塞が経験されて、
現在の古い現代美術を下敷きにした《形骸》の作品になったのではないのか?

その転回の話を聞いてみたく思います。

私は、真面目な作家研究の美術展を見たかったのです。
アメリカの美術館では、普通に見られるそういう学術性のある美術展が、
日本では見る事ができなくなりました。

つまり、形骸化しているのは作品だけではなくて、
日本の美術館の学芸員の学問的な研究も《形骸》になっているのです。

monoibe2.jpg

学問性においては《形骸》となった日本の美術館の中に、
芸術の《形骸》が展示されて、
経済的にも社会的にも没落し、崩壊して行く日本の人々の喝采を
集めているのです。
なんとも空虚な美術展でした。

PICT0284.JPG.jpeg





タグ:内藤礼
nice!(5)  コメント(8)  トラックバック(1) 
共通テーマ:アート

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。