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文化は学習の連鎖である(校正2) [生きる方法]

この世の中には、学習が出来ない人がいます。

普通の意味で、勉強のできない人という範囲を超えて、

学習の出来ない人が沢山います。

学習というのは、他人の思考を学び、それを吸収する事です。

ですから、学習した人の頭の中には、他人の思考が入っているのです。

 
しかし自己愛性人格障害の人は、他者排除をしますから、

学習ができません。

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そもそも言語自体が、自分の造ったものではありませんから、

他者のものを使って考えるのです。

言語の他者性というのは、重要なものです。

他人の本を読まない人は、文章を書けません。
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私は今も読書会をしますが、

読書会に参加しないタイプの人がいるのです。

五十嵐太郎さんも、学生時代から沢山の読書会をして来ていますが、

私も大学時代から読書会をくり返して来ています。

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文章を書くためには、人の文章を7倍は読まなければなりません。
私の基本は、キルケゴールと、フッサールです。

フッサールの後に、ジャック・ラカンを読んで来ています。

日本人でいうと、まず内村鑑三です。それに今道友信、谷川雁。

こうした人々の思考をくぐって、考えているのであって、

それは普遍的なものです。

ラカンでいえば、ソシュールの言語学の用語であるシニフィエ、シニフィアンという

言葉を借用しつつ、意味内容を変形しています。

こういう用語の借用と、意味のずらしや、変形は、多くの哲学者や思想家に見られる

ものです。

私の使う、現実界や、サントームという用語の使い方は、

ラカンの用語の借用ですが、内容はずいぶん違ってきていますので、

そのことは、繰り替し断りを書いてきています。

 ラカンのように、造語することも重要ではありますが、

他人の用語を使い、変形して行く事も、文化をつくる基本であり、

重要な事なのです。

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村八分に耐える事は、日本的な処世術ではない(削除書き換え) [生きる方法]

私自身は、中学生から、村八分にされて、生きて来ているのです。

私はそれに耐えて来ているのです。

いまでも、私の悪口は沢山あるのであって、

それを平然と耐えて生きて来ているのです。

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建築家の南さんに誘われてmixiに入りましたが、

書かなくなったのは、村的で、読者の顔が見える様になるからです。

顔が見える関係になると、その人に遠慮して、批評とか言論は成立しなくなるのです。

 
多くの人は言論が、血によって書かれて来ている事を知りません。

言論人は、殺されるのです。

殺される覚悟で、書いているのです。

美術というのは命のかかっている職業なのであって、

当事者にとっては遊びではありません。

ギャラリー山口さんはお亡くなりになりましたが、

美術家でもゴッホをはじめとして、多くのアーティストが自殺しています。

美術家というのは、命がけなのです。

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私は日本の村の外に出続ける人間です。

ラカンの読書会に来ている人は分かっていると思いますが、

私の人間関係は、移動や、循環は早いのです。

激しく入れ替わって行きます。

固定的な村や島をつくることは、目指していません。

美術史家の富井玲子さんは「彦坂は、移動する標的だ」と書きましたが、

私自身は、脱-領土化をしつづける人間ですから、

みなさんが考えるような固定的なグループを形成してはいません。

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私はこのブログを無償の行為で書いているのです。

ブログの記事で壊れる人間関係は、沢山あります。

それに絶えて書いているのであって、

無料のブログですから、

読者に読む事をしいているものではありません。

嫌なら、読まないで下さい。

これは日本的な処世術ではありません。

この場合、私のイメージしているテキストは、安岡 正篤の本です。

陽明学者として尊敬はしますが、

私のやっていることは、彼の考え方の外部なのです。

私の方法は日本処世術の外部を生きるところにあります。


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批評されない作品は、幸福なのか? [アート論]

批評というものが、衰弱しているのが、

ポストモダンな世界なのです。

これが一般の状況です。

 こうした中で、作品をつくって発表しても、

何も批評されず、無視されるという状況は沢山あります。

こういう状況が、作品にとっても、作家にとっても幸せなのでしょうか。

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こういうことを書いている理由は、

私の芸術分析が、作品を不幸にしているという批判のコメントを受けたからです。

私を批判する事自体は良いと思います。

私はむかし、縁があって『ミュージックマガジン』で、音楽批評を書きましたが、

何回か、ミュージッシャンに呼び出されて殴られました。

私からみると、それは音楽批評の不成立ということに過ぎません。

ニューヨークの美術評論家が、やはり殴られたという話を読んだことが

ありますが、この場合も、殴りたければ殴れば良いし、殺したければ殺せば良い

のですが、批評というものは、殺されても書くものなのです。

殺されても書くというのが、ソクラテスから、エックハルト、

内村鑑三、レニーブルース を経由して流れて来ている批評の思考の流れなのです。

私は、高校生の時代から、繰り返し弾圧されながら書き続けて来ているのであって、

いまさら止める気はないのです。

私の文章を不快に思う人たちがいる事は良く知っていますが、

その人たちから、私は お金を取っていないのですし、

読む事を強制はしていないのです。

その範囲内でのお付き合いに限定させて下さい。

私には、私の自由があるのです。

それに私は、みなさんが考えている以上に、

作品や作家を大切にして、敬意をもって接しているのです。

問題があれば、具体的に箇所を指定してご指摘下さい。

私のミスがあれば、謝罪いたします。

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シャネルのウインドー・ショッピング [アート論]

 

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 レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザの中に

《第41次元》を見つけた時に、

続けて見つけたのは、シャネルが広告で《第41次元》を
使っている事でした。

銀座のシャネルビルの、ビルを全面につかった証明アートも
《第41次元》で、美しいと思いました。
 
 
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シャネルは、広告 では41流を使いますが、
売っている商品は超一流なのです。
 
久しぶりに銀座のシャネルビルのショーウインドーを見て、
撮影して来ました。
 
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ここには原芸術、芸術、反芸術、非藝術、無藝術、世間体アート
すべてがあって、彦坂の言語判定法で見る限り、真性の芸術の構造に似ているのです。
 
違いがあるとすると、まず、実体的であって、非実体性がありません。
 
それに合法的であって、非合法性や、退化性といった、
芸術を成立させ重要な要素がありません。
 
その意味ではシャネルもデザインに過ぎないのです。
 
しかしにもかかわらず、高度な芸術性を有しているのです。
 
 
 
 



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