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人格の《形骸》と政治(加筆改稿1) [状況と歴史]



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人間には、人格があると考えられます。

しかし、長いあいだ人間と付き合うと、
人間というのも、たいへんなもので、理解できない人に
たくさん会います。

首相である鳩山由紀夫氏も、不思議な人という評価があって、
「宇宙人である」とする本も出版されています。

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最近の小沢問題での鳩山首相の発言も、
宇宙人的な水準で、奇妙な感慨を持つのです。

小沢氏が潔白説明…「私も信じる」鳩山首相

 鳩山首相は16日、民主党の小沢幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる政治資金規正法違反事件で、同党の石川知裕衆院議員が逮捕されたことについて、「大変驚いている。国民の皆様に心配、ご迷惑をおかけしていることに遺憾の意を表明したい。捜査中の話なので推移を見守っていくしかない」と述べた。


 首相は、同日午前に小沢幹事長と会談した内容について、「小沢幹事長は『身の潔白を、自らを信じている』とのことだった。私もそれを信じる。それについて党大会で私もしっかり申し上げる」と述べた。

 首相公邸前で、記者団の質問に答えた。

(2010年1月16日13時02分  読売新聞)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
首相というのは、国家権力の中枢であって、
同時に検察という警察権力もまた、国家権力の中枢なのです。
ここに分裂と権力闘争が生じていて、
小沢一郎と検察の激突というのは、そういう権力闘争なのです。
日本という国家の中枢の瓦解に私たちは立ち会っているのですが、
そういう劇的な問題を、鳩山首相の物言いは、
どこかピントがずれているのです。
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この傀儡性をどのように私たちは了解して行くのか?

この鳩山由起夫首相の顔を、
彦坂尚嘉が《言語判定法》を使って、
最近開発の《芸術》分類を敷衍して、
人格分類で、判断してみます。

人格分類というのは、次のようなものです。

《原人格》
《人格》
《反人格》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非人格》
《無人格》
《世間体人格》

芸術分析に使った、《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》、
《原芸術》《世間体のアート》という6種類の概念を、
人格に、転用したものです。

『アートの格付け』ということと、「人格」ということは、
日本語においては、ともに「格」という言葉が出てくるものです。

「人格」とは何か?
という問いがむずかしいのは、
「芸術とは何か?」という問いと同様に、むずかしいのですが、
その理由は、要素が多くて、単純ではないという、
複雑系のものであるところにあります。



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彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による
        鳩山由紀夫首相の人格分析
《原人格》が無い。
《人格》が無い。
《反人格》が無い。
《非人格》が無い。
《無人格》が無い。
《世間体人格》が無い。

したがって人格の《形骸》である。

つまり鳩山由紀夫氏の人格は、
彦坂尚嘉が言うところの《形骸》であるということになります。
つまり人格の《形骸》という領域の人物だと言う事です。

首相の人格が《形骸》であるというのも、
恐ろしいものです。
しかし、それはあくまでも彦坂尚嘉の人格分類での判断ですので、
その限定付きでしか有りません。

そこで、別の検討をしてみたいので、
従来の『アートの格付け』でも見てみます。
そうすると違った結果が出て来ます。

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《想像界》の眼で《超次元》だけデザイン的人格
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的人格
《現実界》の眼で《超次元》だけデザイン的人格

《想像界》だけの人格
気体だけの人格

《シリアス・アート的人格》
《ハイアート的な人格》

シニフィエ(記号内容)的人格

《原始画面的人格》


《象徴界》が、本質を示すものとして重要だと私は思いますが、
その《象徴界》が、《第8次元 信仰領域》の
デザイン的人格であると言う事と、
先の分析で出て来た《形骸》ということが、連動していると
考えられます。

鳩山由紀夫という首相を理解しようとする時に、
《形骸》という視点で見ることで、いろいろの不思議を、
理解する事のできる事も多く有るように思います。

さて、続いて前首相の麻生太郎の顔を見てみます。

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彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による
        麻生太郎前首相の人格分析
《原人格》が無い。
《人格》が無い。
《反人格》が無い。
《非人格》が無い。
《無人格》が無い。
《世間体人格》が無い。

したがって人格の《形骸》である。

つまり彦坂尚嘉の視点で見ると、
麻生太郎前首相も、現在の鳩山由紀夫首相も、
人格分析的には、人格的な《形骸》なのです。

人格の《形骸》として理解できる人々が存在しているのです。

人間の人格を考える時に、
実は、「人格の《形骸》」という領域があるという発見は、
重要なものです。

いままで、人間関係での不可思議さが、
「人格の《形骸》」を持つ人々が多数いると考えると、
納得の行くものになるからです。

では《形骸》とは何か?

かなり乱暴な言い方ですが、
建築の例で言うと、
建築の《形骸》という領域に、プレハブ建築があります。

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プレハブは、それなりの機能を満たしてくれるので、
プレハブは、重要なのですが、
しかしプレハブこそが、建築の《形骸》であると、
彦坂尚嘉の視点では考えているのです。

つまり内藤礼の作品を、芸術の《形骸》であると言っているのは、
内藤礼の作品は、まるで建築で言えばプレハブのようなものだと
言っているのです。

芸術のプレハブである作品として、
彦坂尚嘉の眼には、内藤礼の作品が見えるのです。

同様に、麻生太郎や、鳩山由紀夫の政治家としての人格が、
人格のプレハブのように見えるのです。

首相という、日本国家の中枢に、プレハブが建っているのです。
この居心地のわるさというか、ペラペラの軽さというのは、
なんとも言えないものがあります。

本当は歴代首相の人格分析の必要があるのですが、
ここでは省略せざるを得ません。
執筆の時間の制約があるからです。

そこで東條英機の顔だけを見ておきます。

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《原人格》が無い。
《人格》が無い。
《反人格》が無い。
《非人格》が無い。
《無人格》が無い。
《世間体人格》が有る。

東條英機には、《世間体人格》があるので、
《形骸》ではないのです。

つまり麻生太郎や、鳩山由紀夫は、東條英機よりもひどい人格なのです。

しかし、プレハブは、現代の中では、重要なものです。

社会と言うのは、実は《形骸》領域で、支えられていて、
プレハブ的なものは、必須なのです。

人間関係においても、《形骸》の人々は重要であるのです。

だから鳩山由紀夫や、麻生太郎が、首相という最高権力者にまで
なるのです。

しかし一国の首相の人格が《形骸》であるのは、不幸な事です。

しかも2人も続いている。

だからこそ、日本が破滅へと歩んでいるのです。

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