批評されない作品は、幸福なのか? [アート論]
批評というものが、衰弱しているのが、
ポストモダンな世界なのです。
これが一般の状況です。
こうした中で、作品をつくって発表しても、
何も批評されず、無視されるという状況は沢山あります。
こういう状況が、作品にとっても、作家にとっても幸せなのでしょうか。
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こういうことを書いている理由は、
私の芸術分析が、作品を不幸にしているという批判のコメントを受けたからです。
私を批判する事自体は良いと思います。
私はむかし、縁があって『ミュージックマガジン』で、音楽批評を書きましたが、
何回か、ミュージッシャンに呼び出されて殴られました。
私からみると、それは音楽批評の不成立ということに過ぎません。
ニューヨークの美術評論家が、やはり殴られたという話を読んだことが
ありますが、この場合も、殴りたければ殴れば良いし、殺したければ殺せば良い
のですが、批評というものは、殺されても書くものなのです。
殺されても書くというのが、ソクラテスから、エックハルト、
内村鑑三、レニーブルース を経由して流れて来ている批評の思考の流れなのです。
私は、高校生の時代から、繰り返し弾圧されながら書き続けて来ているのであって、
いまさら止める気はないのです。
私の文章を不快に思う人たちがいる事は良く知っていますが、
その人たちから、私は お金を取っていないのですし、
読む事を強制はしていないのです。
その範囲内でのお付き合いに限定させて下さい。
私には、私の自由があるのです。
それに私は、みなさんが考えている以上に、
作品や作家を大切にして、敬意をもって接しているのです。
問題があれば、具体的に箇所を指定してご指摘下さい。
私のミスがあれば、謝罪いたします。
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