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ベネトン再論 [アート論]

トスカーニが様々な場で発言してきた「人間の血は赤く、尿は黄色い、青い液体など使うべきではないし、もっと現実に目を向けるべきだ」という彼の広告制作の基本姿勢をストレートに表現するものでもある。

トスカーニの主張には、
共感するけれども、しかし、人間は現実や、真実を見ようとはしないものなのです。

人間は、自分の見たい物しか見ないと言う事実の中で、
トスカーニのような広告は、広告というよりは、反-広告というべきものと言えます。

私は実はイタリアのベネトンが作っているアートの学校を見に行っています。
建築は安藤忠雄です。
そこには日本人の学生もいました。
一緒に行った人たちは「すばらしい」と賞賛していましたが、
私は、黙っていました。

ベネトンのファッションは、実をいうとあまり好きではありません。
きちんと芸術分析をする意欲もないのですが、
確か《3次元・コミュニケーション領域》であったと思います。

《3次元・コミュニケーション領域》というのは、
キースへリングも同じで、そういう領域、
つまりポップスなのです。

答えは無いと言えますが、
デザインとアートの遺伝子を組み換えるという様な言い方で言えば、
ベネトンの広告を、ある時期、それを象徴する出来事でありました。
それの最良のものを、高く評価する事には賛同します。




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読者からの質問/ベネトンの真実(加筆2改稿1写真追加3校正3) [アート論]

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さて、ベネトンです。
中野輝也さんから、次の様なコメントをいただいています。

辛辣なバッシングを受け続けても、発信を止めないでいられる人間はほんの一握りです。そのようなクリエイターの精神には「他者」を感じるし、畏怖します。バッシングを受け、社会現象になることを狙ったオリビエーロ・トスカーニの広告キャンペーンを想起しました。よろしければ、オリビエーロ・トスカーニの広告の芸術分析をお願いします。

オリビエーロ・トスカーニによるベネトンの広告 
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/benettonad.htm

ベネトンの広告
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/benetton.htm

Oliviero Toscani /
http://www.youtube.com/watch?v=gGRcy-59TAU

by 中野輝也 (2009-09-08 04:45)  



オリビエロ・トスカーニのこうした広告作品は、たいへんにすぐれたものとは思いますが、その表現の範囲を、広い視野で、考えないと、理解する事はできません。
広告としては、掲載を拒否された地域が広いので、失敗ではないか? とかんがえることも出来ますが、しかし拒否された事で、かえってその広告の存在意義は増えているので、ベネトンという会社の知名度をあげ、さらに付加価値や企業姿勢への評価を上げている効果は、通常の広告を超えるものがあったと言えると思います。

彦坂尚嘉は、あくまでもアーティストであり、芸術分析という視点で見ているので、まず、広告としての評価ではなくて、ひとつの絵画、あるいは写真作品として、このトスカニーニの作品を芸術分析してみます。
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Priest and Nun 1991
愛にタブーはないというメッセージの込められたポスター。カトリック教会から不謹慎だとして批判され、イタリアやフランスなどでは、広告の掲載拒否やポスターの撤去となった。
出典:http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/benettonad.htm

 

彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《超次元〜第41次元》デザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》デザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》デザイン的エンターテイメント
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

 

《気晴らしアート》《ローアート》


《実体的》であるので、デザイン的エンターテイメント

 

 

シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【B級美術】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

この白黒の対比の美しい作品は好きなのですが、

芸術作品としてみると、決して芸術ではなくて、デザイン的エンターテイメントであるのです。

しかし、《真性の芸術》になっている作品もあるのです。

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Bosnian Soldier 1994
ボスニア紛争で戦死した若い兵士が着ていたシャツとズボンを撮影したもの。ユーゴスラビアの内戦の激しかった時期に、国連と共同で反戦と難民の救済を呼びかけ、そのキャンペーンポスターとして使用された。出典:前出   
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

 

《シリアス・アート》
《ハイアート》

《非-実体性》があるので、《真性の芸術》

 

シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

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Newborn Baby 1991
「リアリティ」をテーマに制作されたポスター。へその緒がついたままの血まみれの新生児の映像はあまりにも生々しく、「小さな天使」「かわいい赤ちゃん」という耳になじんだ解釈を拒絶する。ポスターの中の新生児は、その生々しく壮絶な姿によって、ひとりの人間がこの世界に生まれてくるというのはどういうことなのか、この子が生まれてきたこの世界はどういう世界なのかという根源的な問いを見る者へ投げかける。また同時に、その生々しい姿はこれまで広告が描いてきたうわべだけの美しさや生身であることを感じさせない記号化された人間の存在に対して強烈な異議をとなえる。それはトスカーニが様々な場で発言してきた「人間の血は赤く、尿は黄色い、青い液体など使うべきではないし、もっと現実に目を向けるべきだ」という彼の広告制作の基本姿勢をストレートに表現するものでもある。この作品は美術的には高く評価され、オランダの美術館などで展示されることになった。また、トスカーニ自身もこれを重要な作品と考えているようで、自らの主宰する雑誌「Colors」創刊号の表紙にも使用している。その一方で、映像のあまりの生々しさから、公共の場への展示はふさわしくないと判断され、イギリスやフランスなどヨーロッパ各国で、町中の看板が撤去される事態となった。撮影はもちろん母親と病院の許可を得て行われている。(出典:前出)


 

彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

 

 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

 

 

《シリアス・アート》
《ハイアート》

《非-実体性》があるので、《真性の芸術》

 

 

シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

さて、これらトスカーニの代表作は、
すぐれていると思います。

以上、私の評価は、すでに社会的になされているものの追認という範囲をでません。

これらにおいて、トスカーニは、すぐれた芸術を制作したと思います。

ただ中野さんは、コメントの後半に次のように書かれています。

彦坂尚嘉さんの以前の記事を読むと、アンディ・ウォーホルはクオリティコントロールが一定しない美術家という印象を受けました。「クオリティコントロールが一定しない」という点に関しては、オリビエーロ・トスカーニもそのようなクリエイターであると思います。

私も、中野さんと同意見です。
トスカーニの場合、どうしても主題に頼っている所があって、
作品構造として、芸術を捉えていないのです。

ですので、ネガティブな主題を選ぶと芸術になるのですが、
そうでないと、良く出来たデザインワークということになりますし、
《第8次元 宗教領域》というべき作品も多くあります。

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芸術においても、デザインにおいても主題は重要ですが、
しかしそれだけではないのです。
主題とは違う次元の芸術構造というものがあるのです。
この場合の構造というのは、構造主義の構造と、それほどの違いはないと考えて下さっていいです。

あるいは、フォーマリズムであると、言っても様と思います。

会田誠さんとの座談会で良く理解できたことは、「ネタ」という言葉で表現される主題性だけで、芸術を考えて行く傾向が強くあるのです。トスカーニにもその傾向があります。

それに対して彦坂尚嘉の場合には、フォーマリズムの傾向が強いと言えます。
 
さて、このトスカーニの作品を彦坂尚嘉が改竄してみます。
あくまでも余興ですので、ご笑覧いただければ幸いです。

私の言う、芸術構造の一端を示すのが目的ですので、
著作権違反は知っていての確信犯ですので、
トツカーニへのオマージュですので、お許しください。

【続きはここをクリックして下さい】


タグ:ベネトン
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上戸彩(《非-実体性》を加筆1) [美人論]


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上戸彩は1985年、東京生まれの、女優、歌手です。

母親が沖縄県石垣島出身で、祖母が琉球民謡の歌手でしたから、
隔世遺伝で、
祖母の血が出現しているように見えます。

母親が、「全日本国民的美少女コンテスト」に応募を出している事や、
陰のマネージャーをしている事から、
典型的な、母娘癒着型のタレントです。

「全日本国民的美少女コンテスト」では、歴代の美少女の中では、
異質な顔立ちをしています。

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上戸彩が、やや異質な顔立ちをしていることが一番分かりやすいのは、
左右の目の大きさが違う事です。
こういうことから、上戸彩には美容整形の噂が、ほとんど無くて、
整形をしていない自然の美人ととらえられているようです。

しかし《美》というものを、人を引きつける力として考えると、
実は自然性は、人を引きつけるものではなくて、
デフォメルされた、ある種の異様さが人間を魅了し、引きつけるのです。

このことをギリシア彫刻史の中で、自然主義リアリズムへの到達が、
凡庸なものとして飽きられ、デフォルメに移行していくことを指摘して
いるBBCの美術番組があります。
How Art Made The World/芸術の罠 このシリーズの第1回目 人物像の誕生)

そういう文脈で見ると、上戸彩の顔もまた、
ある種のアンバランスがあって
この異化効果が生み出している魅力だと言えるかもしれません。

上に掲載した「全日本国民的美少女コンテスト」の中では、
小田茜が《第1次元 社会的理性領域》の美人で、後は
《3次元・コミュニケーション領域》の美人と、
《第6次元 自然領域》の美人です。

この中で上戸彩だけが、
実は《3次元・コミュニケーション領域》と《第1次元 社会的理性領域》という2領域のミックスチャー美人なのです。

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上戸彩は、2001年に出演した『3年B組金八先生』(TBS)第6シリーズで、
性同一性障害という問題を抱えた中学生を演じて、
一躍有名になります。

ここでも男と女がミックスした性同一性障害という、
デフォルメされたイメージが、
人々を魅了したのです。

このことは、情報化社会の特性ともいえるもので、
伝統的な男女の区分が解体されて、
性そのものが、子供を作ると言う生殖性を喪失し、
多形倒錯化したものとして、社会の表面をおおうという傾向の一端を、
上戸彩は体現して見せたのです。

つまり性においても、デフォルメされたものが、
人間を魅了するのです。

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《想像界》の眼で《第3次元〜第41次元》の《真性の美人》
《象徴界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》の《真性の美人》
《現実界》の眼で《第3次元〜第41次元》の《真性の美人》

《現実界》の人格
気体人間
《シリアス人間》《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。
『真実の人』

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詳しく芸術分析を、《言語判定法》を使ってしてみると、
《3次元・コミュニケーション領域》〜《第41次元・崇高領域》を、
《想像界》と《現実界》で持っているという、重層的な人格をしています。

しかも《象徴界》は、《第1次元 社会的理性領域》だけをもっているという、
特異な人格を、上戸彩はしています。

《第1次元 社会的理性領域》だけというのは、
渋谷陽一の言った産業ロックの構造で、
《第1次元 社会的理性領域》だけのロックは、非常に売れるのです。
そう言う意味で、《象徴界》が《第1次元 社会的理性領域》で、
産業化している上戸彩は、社会的に成功しているのは当然なのです。

しかも《想像界》《現実界》では、
《超次元》から《第41次元》までの多様性を持っている。
なんと素晴らしい才能でしょうか!
感心します。

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もうひとつ上戸彩という美人で特徴的なのは、
《現実界》だけの人格であるということです。

《現実界》だけの人格が、実は増えて来ているように思えるのですが、
彦坂尚嘉の理論では、子供は《想像界》であって、
文字を覚え、高度の文学や哲学書を学び、社会ルールとしてのモラルを
習得することで、人間は《象徴界》を獲得するはずなのです。
そして最後に、こうした文字の知識を否定したり、
あるいは科学的思考を学んだりして、《現実界》の精神が生まれるはずなのです。
しかしこうした図式は、あくまでも想定であって、
現実を観察する必要があります。
現実は、どうも違うのです。

上戸彩の子供時代の写真を分析してみようと思います。

以下の写真の出典:整形していない芸能人の証拠画像

上戸彩は、かなり早い幼い時から、《現実界》だけの眼を持っている子供なのです。

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幼い上戸彩

《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的子供
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的子供
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的子供

《現実界》の人格
絶対零度の人間


何故に、上戸彩は、かなり早い幼い時から、《現実界》だけの眼を持っている子供なのでしょうか? 上に掲載した写真は、心持ち憂鬱で、陰があります。

その理由は分かりませんが、家庭環境には、少しですが不自然さがあります。
上戸彩は、3人兄妹の末っ子でしたが、2歳年上と16歳年上のがいるのです。
2歳上の兄がいるのは自然ですが、16歳上の兄というのは,不自然です。この兄弟関係と、それにまつわる父母関係が、もしかすると、上戸彩の表情に陰を与えただけでなくて、《現実界》だけの人格性を付与したのかもしれません。

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この幼い上戸彩は、子供ですから自然領域の《第6次元》性を示しているのは、当然なのです。

この幼い時が、人格がデザイン的であるというのは、つまり自然であったということです。
自然は、デザインなのです。

それは「神が自然をデザインした」という言い方にも現れています。

「自然はデザインである」というのは、常識には反しているかもしれませんが、例えば、我々の目をとってみても、網膜、角膜、水晶体など、非常に高度な、少なくとも人間には創造することができそうにないほどの、機能を有する器官があります。

デイヴィッド・ヒュームという18世紀おスコットランドの経験論的な哲学者は、高度な世界を設計しデザインした高位の知性があり、それが神だという議論を問題にしました。

それは、家を設計しデザインした人がいるように、複雑で精密な自然世界を設計し、デザインしたのは神であると言う論理の吟味なのでした。

こういう自然神学的証明というものが正しいかはともかくとして、自然はデザインであり、そして家を設計する事もまたデザインであって、それは同じようにデザインと呼ぶ考えはあるのです。そして子供は、自然であり、自然であるが故に神のデザインであると、彦坂尚嘉も考えています。

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小学生時代の上戸彩

《想像界》の眼で《3次元・コミュニケーション領域》のデザイン的子供
《象徴界》の眼で《3次元・コミュニケーション領域》のデザイン的子供
《現実界》の眼で《3次元・コミュニケーション領域》のデザイン的子供

《現実界》の人格
固体人間

人格が成長して《3次元・コミュニケーション領域》に展開しています。
絶対零度という原始時代が終わって、固体人間=前近代人になっています。

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上戸彩の小学生時代

《想像界》の眼で《3次元〜第6次元》のデザイン的子供
《象徴界》の眼で《3次元〜第6次元》のデザイン的子供
《現実界》の眼で《3次元〜第6次元》のデザイン的子供

《現実界》の人格
気体人間
《シリアス人間》《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。
『真実の人』


さらに人格は成長して、《3次元〜第6次元》という重層的な構造になっています。
気体人間=情報化時代の人間に飛躍しています。

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上戸彩の高校時代

《想像界》の眼で《3次元〜16次元》の《真性の美人》
《象徴界》の眼で《16次元〜3次元》の《真性の美人》
《現実界》の眼で《3次元〜16次元》の《真性の美人》

《現実界》の人格
気体人間
《シリアス人間》《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。
『真実の人』

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

小さい時から、《現実界》だけの眼をもつ子供であったのが、上戸彩だったのですが、高校時代になると、《第16次元》という崩壊領域にまで、人格の重層性を増加させています。なぜ、崩壊領域までに人格を拡張させえたのか? 高校生で、ここまでに人格的に成長するというのが、特別なことなのか、どうかは、私には観察例が少なくて判断は出来ませんが、たぶん、めずらしい例だろうと思います。何かの事情で、《第16次元 崩壊領域》を獲得しているのでしょうが、その理由は、分かりません。


しかも。高校生の時点で、デザイン的な、つまり自然的な人格を脱して、
私性を持った《真性の美人》になっています。
つまり自然的な人格を卒業して、私的な自我を、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界にわたって確立している早熟な少女であったのです。

しかし、この高校生では、
《第3次元》から《第16次元》までであって、
現在のような《第41次元》にまで至重層的な人格は形成されていませんし、
そして《象徴界》の人格も《第1次元 社会的理性領域》性になっていません。

その後,すでに述べたように、《第41次元》にまでの重層性を持つ美人になるのです。《第41次元》というのは、戦争や処刑といった領域です。こういう地獄領域までに人格を拡張させ得た理由も、興味深いものです。

以上見て来たように、上戸彩は、急速な人格的な成長があった女性なのです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

上戸彩に見られるように、人間の人格は、成長し、多重化して行けるものなのです。決して単なる自然に過ぎない《第6次元 自然領域》に止まることが、身の丈の人生として素晴らしいのではありません。

《第6次元 自然領域》を超えて、より高次で、多層的な人格を形成して行く事が、生きる事の目的なのです。
高度な、成熟した人格に向けて成長して行く事が人生の目的であり、善なのです。

子供のままの《第6次元 自然領域》に止まり、身の丈に満足することは、原始に止まる事であり。成長の努力を放棄する怠惰であって、それは人生の意味を冒涜する悪なのです。

高度で、重層的な人格を形成して行くとき、芸術は、深い姿を現します。

人格を成長させるというのは、文明のリテラシーを認めて、自分自身を疎外し、抑圧して、苦痛に耐えて行く事なのです。この苦痛と空虚を癒し、慰めてくれるものとして、《超1流》/《41流》の芸術が立ち現れます。それは、かけがえのない、決して繰り返さない存在である私性そのものの姿を、神を超える高貴さと、痛々しさとして表現し、他者への出会いを生み出すものであるのです。

私性こそ,神と格闘し、神をねじ伏せ、死ぬものとしての自らを、はかない瞬間の輝きとして獲得する証しなのです。芸術とは私性において、神=自然というデザイナーを超えることなのです。

上戸彩に見られるように,情報化社会のタレントと、その表現は、《第7次元》〜《第41次元》という倒錯領域を含むものであって、それは人類史上、今までに無い総合性と重層性を持つものなのです。

この多様性と重層性を獲得した人格と、その歌を聞いて下さい。それは伝統的なポップスを超えて、倒錯し欺瞞を生きるしか無い人間の錯誤に満ちて輝く真実を示します。

たかがしれたポップスのように聴こえながら、《非-実体性》を持ち、それは《真性の芸術》であるのです。近代の《大文字の芸術》は終わったのですが、情報化社会では、まったく構造を変えて、《ハイアート》と《ローアート》の区別を超える《真性の芸術》の出現を、ここにも見ることが出来ます。
【続きは下記をクリックして下さい】

【続きはここをクリックして下さい】


タグ:上戸彩
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こたつ問題シンポジウム [告知]

彦坂のトーク(45分くらい)+討議(70分)の形式です。


こたつ問題の徹底討論を後半やります。


 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「カルチべートトーク」(第4回)

主 催:建築文化事業委員会

テーマ:アーティストの彦坂尚嘉さんと語る、

    こたつ問題19702009/建築と美術のあいだ

 

主 旨:

時流とは関係なく本当に聞きたいこと、必要とされる知識、いま聞いておかなければ聞けなくなってしまいそうな話などを、少人数でもよいからそんな文化を共有・継承したい、という主旨で始まった日本建築学会建築文化事業委員会の委員が運営するトークシリーズの4回目です。

 1946年生まれの彦坂尚嘉は、1969年に美共闘を結成し、床にラテックスをまくフロアイベントや幾何学的なフレームをもつウッドペインティングなどを手がけ、ヴェネチアビエンナーレやサンパウロビエンナーレにも出品した作家である。各種の展覧会や美術論の著作などによっても、戦後日本美術史において重要な位置を与えられている。そして彦坂は、建築の分野にも強い関心を抱き、近年は皇居美術館空想のプロジェクトや越後妻有トリエンナーレを通じて、美術を越境するような活動を展開している。そこで40年の活動の軌跡を通じて、美術と建築の関係について語っていただく。

 また彦坂はアーティストとしては珍しく、歴史を重視する立場をとり、歯に衣をきせぬ美術評価の物言いでも知られている。おそらく、それは10年程度のパースペクティブだけで議論を構築したり、耳障りのいい言説しか知らない若年層に対しても、破壊的な批評力をもつだろう。後半は、建築と美術が参加する越後妻有トリエンナーレ2009の出品作を素材にして、両分野の現在について検証し、批評とメディアの状況もあぶりだす。また通称「こたつ問題」と言われるトピックについても触れて、参加者からの意見もいただきながら、幅広く、討議を展開したい。彦坂のフロアイベント(1970-75)は、現代美術としては初めて畳やこたつを含む家具を用いた作品であり、会田誠のこたつ派などの事例も挙げながら、建築と美術のあいだを考えていく。

 なお、今回は会場にて、Twitterを使っての議論の参加も歓迎する。

 

担当:建築文化事業委員会委員:五十嵐太郎

 

 

講  師:彦坂尚嘉(アーティスト)

期  日:2009928日(月)

時  間:18:0020:00

場  所:建築会館会議室(東京都港区芝5-26-20

定  員:30名(申込先着順)

参 加 費:1000

申込方法:E-mailで「①氏名、②所属、③連絡先電話番号、④第4回カルチベートトーク参加希望」と明記のうえ、お申込ください。

問合せ先:日本建築学会事務局 出版・普及事業グループ 鎌田

TEL 03-3456-2056 E-mail kamata@aij.or.jp


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木村静と斉藤ちさと [生きる方法]



フリー・メディア・アーティストの木村静と、斉藤ちさと(写真家 /アーティスト)を、彦坂尚嘉がインタビュー。2009年9月3 日、清澄白河で、やのまき が運営するM7で収録



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斉藤ちさと [気体分子ギャラリー]



2009年8月 気体分子ギャラリーで個展を行ったアーティスト斎藤ちさとのイン タビュー2 企画・制作 彦坂尚嘉(気体分子ギャラリー) 撮影・編集 木村静 2009年9月3日 清澄白河にあるギャラリー「M7」にて撮影 気体分子ギャラリー http://www.kitaibunshi.com/ MAQUIARTO(M7) http://yanomaki.jp/MAQUIART...
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カメラの歴史/斉藤ちさとインタビュー(加筆1) [気体分子ギャラリー]

2009年8月 気体分子ギャラリーで個展を行ったアーティストである
斎藤ちさとのイン タビューです。



インタビューの中に出て来た
カメラの歴史が、ギリシアからはじまっていることについて、
補足をしておきます。


私たちが使っているカメラの直接の祖先は、
1824年に、ニセフォール・ニエプスというフランス人のつくった
「ヘリオグラフィ」という携帯型カメラです。

ニエプスという人は、たいへんに重要な人で、
彼が、この小型カメラと、さらに感光材料としての写真を、
初めて作り出したのです。

ニエプスは、石版画に関心を持もっていて、
カメラ・オブスクラがつくる光の像によって化学変化を起こして、
新しい印刷法を作ることをめざしました。
そこから初めての写真が生まれたのです。

ですから、ニエプスで、小型カメラと感光材料が交差していますから、
私たちは、写真とカ小型メラが別のものである事を忘れてしまっています。

しかしカメラの歴史は、実は、少なくともギリシアまでさかのぼるもので、
本当はもっと古代から知られていたのではないかと言われています。

それに対して、
写真といいう感光材料の歴史は、18世紀に、
銀とチョークの混合物に光を当てると黒くなるということを、
ヨハン・シュルツが1724年の発見して、
ここから、はじまっている新しいものなのです。

ですからカメラの歴史はその前からありました。
カメラ・オブスクラという箱形の巨大カメラが存在
していたのです。
カメラ・オブスクラというのは、ラテン語で暗い部屋という意味です。

カメラ・オブスクラを使って、15世紀のルネッサンスの画家が絵を描いていて、
レオナルド・ダ・ヴィンチはアトランティコ手稿の中で、
カメラ・オブスクラを描いています。

こういうとカメラを作ったのはヨーロッパ人であると思いますが、
そうではありません。

カメラ・オブスクラと、それに付随する科学的な光学理論を作ったのは、
アラブ人イブン・アル=ハイサムだったのです

10世紀に始まるヨーロッパによるイスラム世界への攻撃である十字軍で、
アラビアで発明されていたカメラオブスクラを、ヨーロッパ人が学んで、
一緒にイブン・アル=ハイサムの光学理論が輸入されて、
西洋遠近画法が生み出されたのです。

イブン・アル=ハイサムは10世紀の人で、
バクダットで、科学を学んでいます。

科学と言うと、私たちはヨーロッパ人が作ったと思いますが、
そうではなくてアラビアで発達したものなのです。

このアラビアの科学の源流は、
ギリシアのアリストテレスや、タレス、ヒポクラテス、ユークリッドなどの思考です。
つまりアリストテレスの『自然学』からはじまるようなギリシアの古代科学を、
直接に正統に継承して発達させたのが、
アラビアで発達した、イスラーム科学であったのです。

このアラビア科学が、9世紀から16世紀まで発達して、
これが、後のヨーロッパ科学の基礎を作ったのです。

つまりレオナルド・ダ・ヴィンチが使ったカメラオブスクラは、
アラビア科学のハイサムが作ったものであり、
さらにギリシアのアリストテレスが論じているピンホール現象に、
その光学理論に源流があるのです。

アリストテレスは、
日蝕のとき木陰になった地面に三日月形の像が浮き上がってるのを見て、
葉と葉の小さな隙間がそれを作りだしていることに気づいたというのです。

像が倒立することを、
太陽からくる円錐状の光を想定して単純に説明しています。
円錐の頂点が孔の位置にあり、それが反対側にもうひとつの円錐を作りだし、
これが太陽の像を結ぶと考えたのです。
つまりここに光の直進性などの光学的発見の基礎があるのです。

私たちが忘れてはいけない事は、
カメラの原型であるピンホール現象というものは、
古代の自然の中に、すでにあって、そこが源流である事です。



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個展 忌野清志郎の世界 [アート論]

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自画像『冬の十字架』(1999年)

本人が考案したタイトルをそのままに──

「個展 忌野清志郎の世界」開催

 
今年5月にこの世を去った忌野清志郎氏。彼が描きためていた油彩、絵本の原画、イラ
スト、スケッチなど、未発表作をふくむ作品(200点以上)を展示する初の個展「忌野
清志郎の世界」が、8月22日(土)から9月13日(日)までラフォーレミュージアム原
宿(ラフォーレ原宿6階)で開催される。

今年8月の開催に向けて本人と水面下で進行していた展覧会が実現

多くの音楽ファンから惜しまれつつ亡くなった忌野清志郎氏が、本当に楽しみにしてい
たという本展「個展 忌野清志郎の世界」。

本人が考案したタイトルとその意思を引き継いで、ロックな清志郎も、ド派手な清志郎
も、過激な清志郎も、あたたかい清志郎も、無邪気な清志郎も、「忌野清志郎の世界」
を再現するすべてが集結する。

デビュー39周年を記念したイラスト(2009年)

会場では、彼が描きためていた油彩、絵本
の原画、イラスト、スケッチなど、未発表
作をふくむ数多くの作品を展示するほか、
阿部高之氏、有賀幹夫氏、おおくぼひさこ
氏、操上和美氏、蜷川実花氏、平間 至氏が
撮影した忌野清志郎のポートレイト、愛用
の自転車やヘルメットなどの私物、LPジャ
ケット、ステージ衣装、ポスター、ツアー
グッズ、ファンクラブ会報誌などを一堂に
展示。展覧会限定の希少性の高いスペシャ
ル映像の公開も予定している。

さらに、本展示絵画作品などを網羅した
作品集「忌野清志郎の世界」(ぴあ) が会
期にあわせて刊行され、会場では新作の
グッズなどの販売も予定されている。

一緒に仕事をしたいとオファーを受けてい
た横尾忠則氏が手がけるポスターやフライ
ヤーなどの印刷物にも注目したい「個展 忌
野清志郎の世界」。本人が望んでいた展覧
会がついに結実する。

『デイジーと菊とダリア』(1970年)
「個展 忌野清志郎の世界」
ラフォーレミュージアム原宿(ラフォーレ
原宿6F)
2009年8月22日(土)~9月13日(日)
入 場 料|一般700円 学生500円
※忌野清志郎ふぁんくらぶっ会員は100円
割引
※小学生以下およびラフォーレカード会員
は無料
11:00~20:00

お問い合わせ
Tel. 03-3475-0411(ラフォーレ原宿)
http://www.laforet.ne.jp
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清志郎の個展が開かれているので、見てこようと思います。
画像で見る限り、作品そのものは《第6次元 自然領域》の
《真性の芸術》です。

音楽は《超次元》から《第41次元》の全領域、
ただし《第1次元 社会的理性領域》は無いというもので
したが、絵画は《第6次元》で、普通と言えます。
しかし《真性の芸術》であるところは、さすがです。

だがしかし、何故に《第6次元》の絵しか描けなかったのか
というところに、絵画のむずかしさと言うものがあります。
芸術が、その人の人格構造であるのなら、
清志郎の絵も、《超1流》のものになったかもしれませんが、
それが《第6次元》であるのは、
絵画を学んでいないからです。

絵画と言うのは、音楽同様に、学習をしないと、高度なものは、
成立させられないのです。

音楽家で絵を描く人は多くて、
マイルスデイビスの絵画は、私も見ています。
画像検索しましたが、見つけられませんでした。
バスキアのような絵でした。

ジョニー・ミッチェルも良い作品を作っています。
ジョニー・ミッチェルは、カナダの女性歌手、画家、写真家。
これは画像を見つけられました。

Melancholy-Reds-1000210_small.jpg

joni-mitchell--180_small_small.jpg
joni-curt-simpson_small_small.jpg

river_small.jpg


ジョニー・ミッチェルも《第6次元 自然領域》で、
《真性の芸術》ですから、
清志郎と同じタイプの絵だと言えます。

たしかアートスクール出身だったはずです。

音楽にもいろいろなレベルがあるように、
美術にもいろいろなレベルがあって、
《第6次元 自然領域》の《真性の芸術》である絵画は、
その意味で、等身大の、身の丈のアートであると言えます。

タグ:清志郎
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趣味の変化 [音楽の頂点]

最近ロックを、前ほどには聞かなくなってきて、
現代音楽が増えている。

一つはジェルジ・リゲティで、柏原孝昭さんからコピーをたくさんいただいたこともあって、はまってしまっている。

ギャラリーarteでご一緒した大木 裕之さんもリゲティが好きで、趣味が合ってしまった。

リゲティ作曲ピアノのためのエチュード/第13曲《悪魔の階段》


《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ハイアートの音楽》

シニフィアン(記号表現)の音楽。
【A級音楽】

しかし、この音楽は、
《シリアス・アート》と《ローアート》の同時表示や、
芸術と反芸術の同時表示、
さらにシニフィアンとシニフィエの同時表示はない。
もはや、一つ前の時代の音楽であって、
最先端の音ではないのです。
それでも、面白いものです。


こうした音楽と、
例えば、正反対のナパームデスの音楽と言うのは、
どういう関係にあるのでしょうか。





タグ:リゲティ
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秋の嵐(訂正1) [状況と歴史]


ドキュメンタリー映画『秋の嵐』を見て来ました。

1989年の昭和天皇崩御の時期に、
代々木の歩行者天国で、天皇批判の垂れ幕をはって、
天皇批判の音楽を演奏したロックグループが、
警察に襲われて、逮捕された事件が起きていたのです。

この事件は、以後4年に渡って闘争が展開され、
警察の不当性を訴えた裁判に、勝利します。

この事件を追った記録映像があって、
これが約1時間に編集されたものを見たのです。

地下大学の活動をしている音楽評論家の平井玄さんが、
編集や上映に努力なさっていると聞きました。

訂正します。
編集の実務をなさったのは、上岡誠二さんとその後聞きました。

私が見たのは、東京FATの上岡誠二さんが、
新宿2丁目のアートカフェで、開催した上映会です。

なかなか良い映像で《第1次元 社会的理性領域》の出来です。
感心しました。
特に警察と執拗にもみ合う「秋の嵐」のメンバーに密着して撮影している
映像は、感銘を受けました。

実はこの記事を、もっと長々書いたのですが、
ミスって消してしまいました。

この秋の嵐のメンバーは実は2人すでに死んでいて、
彼らの動きが興味深かったのです。

残念!
またチャンスを見つけて書きます。

タグ:秋の嵐
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