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瀬戸内海へ/武士の一分 [日記]

昨日の作品の撤去には、
このトリエンナーレのボランティア部隊の中でも
最強集団である男4人が投入されてきました。
武田さんと私を含む、男6人の果敢な作業で、ほぼ6割が終わりました。

こういう手配をしてくださる奥野恵さんという担当には、
深く感謝します。
この10年、奥野恵さんとの連携が、
一度も破綻する事無く展開されてきて、
私の作品は成立してきたのです。

彦坂の悪口を言う人々は多いのですが、
しかし、現在もそうですが、私の活動に共感し、
支えてくれる人も多くいるのです。
悪口を言う人は、このことをどう考えるのでしょうか。

越後妻有トリエンナーレの中で、私の作品は地味ではありますが、
しかしアートフロントの最初期からの幹部であり、
最強のアートディレクターの奥野恵さんとの信頼関係の中で、
10年の制作が実行されているのです。

多くの人に嫌われ、孤立し、そして誰もいなくなっても、
私は奇跡のように、優れた人に出会い、
新たな展開を遂げてきています。
それは何故なのか?

このことを新聞に書いたのは、
針生一郎氏でした。
それも1972年という昔の毎日新聞です。
1頁使って、フロアーイベントを書いてくれたのですが、
そこで針生一郎氏がコメントを寄せているのです。
行き詰まってつぶれると思って見ていると、
彦坂は魔法のように、切り抜けて
次の展開を切り開いていくというのです。

何故に、それができるのか。
基本としての人間としてのモラルを守ることと、
正確な認識を追究している事、
そして自分を批判し、自分を殺す事をいとわないからです。

とは言っても、常識は破るし、
とんでもない実行力を示す。

モラルも、細部では、ひどい事をする。
170キロのスピード違反で走るし、パトカーに追いかけられた事は、
数知れない。
にもかかわらず、63歳まで今のところ死んではいないし、
免許は失っていないし、
前科は無い。

基本的に善を追究しますが、
争うと成れば、犬死にもいとわない激しさで争う。

しかし基本は無私で、無欲であるのです。

まあ、この無私で無欲である事で、
多くの人に嫌われてきているのですが、
この私を嫌う気持ちはわかります。

今回も田麦の作品を見に来て、私の作品に伝言を書くということを
した小柳幹夫さんという作家は、
1971年に、私が『美術史評』という同人雑誌を立ち上げる直前に、
「止めたい」といって離脱し逃亡した男です。
こういう風に、離脱したり、裏切ったり、去っていく人を、
私は許容してきたしました。
去る者は追わないし、非難もしませんでした。

作家としては小柳氏は低迷し、
彦坂は、展開してきたのです。
私から見ると、小柳氏は、
自分のタコ壷にこもって、
自分の世界を探求し続けてきていて、
それはそれで良いと思うのです。

人間の多くは、
自分のタコ壷にこもりつづけて、死ぬのです。
自分のタコ壷が棺桶になるのです。
生まれて、動かず、自らのタコ壷を棺桶にして、
燃えて消えるのです。
その人々は、何よりも安全であるし、
良き人々なのです。

そして、タコ壷の外に出続けようとする彦坂は、
悪人であるのです。
おぞましい存在であり、
悪口を言うべき存在であるという事です。

さて、そういうわけで、
常にタコ壷から出続けようとする彦坂は、
新しい展開として瀬戸内海へ、向かいます。

今回のボランティアの中に、
瀬戸内国際芸術祭2010の香川県のお役人のAさんがいました。
このAさんは、実はお目にかかるのは3回目です。
一回目は、丸亀のこんぴらアートの打ち上げのパーティの席でした。
面白い方で、このAさんを交えて、数人の方と、真剣に話をしています。

2回目は、先日のギャラリーARTEのグループ展『明けワタシ』での
シンポジウムで、これを聞きにきてくださった。
ありがたい事です。

というわけで、このAさんとの度重なる3回の出会いも、
ご縁のあることでして、私のエネルギーになります。

自分という人間に関しては、私もうんざりとしますが、
他人との出会いは、常に新しい可能性を秘めています。

どこまでできるか分かりませんが、
越後妻有の経験を、本島という島へ、持ち込んでみたいと思っています。
ギャラリーARTEの梅谷幾代さんが、丸亀の沖にある本島に本格的に
関わってきているのです。
このブログでも紹介していますが、
本島は、超一流の美しさを持っています。

越後妻有での田麦という村は、山村でしたが、
本島は、小さな島です。
この対比の中で、日本という私の生きてきた風土を、
視点を変えて考えてみたいのです。
2010年代の10年間を、この島と、東京、
そして海外をつないで開いていくことを、
気体分子ギャラリーの活動を重ねてやってみたく思います。

上岡誠二さんの東京FATに対しては、
梅谷幾代さんも評価が高くて、興味を示しているので、
本島に参加してもらえないかと思っています。

・・・・・・・・・

今日も、これから田麦の撤去の作業をします。
今日は奥野恵さん自らと、若い女性のボランティア数人が参加して
くださいます。

そしてトラックを運転して帰って、
間伐材をおろすのを、伊東さんと山口さんが手伝ってくださいます。

このように彦坂は、
多くの人との関係と助力で動いているのであって、
単独者ではないのです。

人間は単独では生きていないのです。
単独では制作もできません。
デカルト的な《近代》個人主義は、
もはや限界を超えたのであって、
情報化社会は、気体分子状態に、個人がばらばらになっているからこそ、
マイノリティが、匂いを嗅ぎ分けて、
つながり、個人を超えた展開をしていく必要があるのです。
そのつながりは、一期一会で、はかないかもしれませんが、
だからこそ、それを真摯に誠実に生きていく。

しかし何故に彦坂は、悪口を言われるのか?

たとえば彦坂を嫌う代表を見てみましょう。
まず、高見沢文雄です。
1975年に私はパリ青年ビエンアーレに行きます。
この時、同室は田窪恭治でした。
田窪と1ヶ月以上同じダブルベットで寝て、話していて、
1975年という時代の日本現代美術に着いて話し合い
危機意識から、『東京GEIJUTU4』というグループを
結成しようと言う事に成ります。
この時に、田窪が選んだのが堀浩哉であり、
私が選んだのが高見沢文雄だったのです。
つまり、私が支持した作家が、彦坂の悪口を一番に言う存在に
転化していくのです。
何故か?

私が深く関わりすぎるからです。
距離をとらないのです。
真剣に他人の内部に入っていく。
高見沢の作品展開が行き詰まった時に、
私が、少し前のときわ画廊で、高見沢が、
石膏の固まりをつくって、固まる前に指でほじくった作品を
成立しました。
これを私が評価して、この作品を作る事を進めました。

この指でほじくった作品は、
1970年初頭のロバート・モリスのフィンガー・ペインティングの
作品をさらに押し進めた作品として、高見沢文雄の名作だったのです。
しかし高見沢は、自分のこの名作を理解しないで、
外に雨ざらしにして、駄目にしてしまいます。

場所をきちんと覚えていませんが、赤羽かどこかの、
喫茶店で話し記憶があります。
結果としては、この私のアドバイスの影響を受けた作品展開になるのですが
これが、高見沢を傷つけて、以後、私の天敵になったと、
私は思っています。

このアドバイスのことは、ここで初めて書いたのであって、
オープンにしたから、高見沢が私を憎んだのではありません。
高見沢の作品展開に踏み込んで、議論した事が、
高見沢を深く傷つけたと、私は思っています。

後悔として言えば、
あのパリで、田窪との話の時に高見沢を推薦した私の判断が、
間違っていたという事です。
高見沢という、おとなしい作家の存在を無視し、
黙殺しておくべきだったのです。

私は間違いを犯したのです。

なぜこういう事を書くかと言えば、
上岡誠二さんが、「彦坂さんは、あれほどに悪口を言われるのですから、
そうとうにひどい事をしてきたのでしょうね」と言ったので、
自分の懺悔録として、私の悪口を言う人々との関係を書いてみようと
思ったのです。

私の記憶や、私の思っている事と、
その私の悪口を言っている人の考えている事は違うとは思いますが、
私は私の記憶を書くしかありません。
それは一方的かもしれませんが、
私には、できるだけ正直に、そうするしかないのです。

こういう事を書くと、
高見沢は、さらに私を憎んで、悪口を言うでしょう。
もしかすると私を刺し殺すかもしれません。
私は刺し殺されても後悔はしないという事です。
犬死には覚悟しているのです。

人と人が争うのは過酷で愚かですが、
私は宇都宮藩の家老の末裔ですから、
武士の争いは、こうした愚劣さをもつ過激な行為であることを、
幕末の宇都宮戦争の結末を通して
知っているのです。

私は多くの作家のアドバイスをしてきていますが、
その事実をオープンにはしません。
それは作家へのモラルです。
アートは技術であり、そして歴史形成なのです。
作品はアンディウォウホールの例にあるように、
多くの他人のアドバイスや意見を吸収して作られていくのです。

私の最近のトマトや茄子を天井やガラスにつける作品は、
梅谷さんのアドバイスによっています。
他にも2シリーズあります。

作品には他人のアドバイスは必要なのです。
私は技術者として、無償の善意として多くのアドバイスをしてきています。
しかし、その善意を踏みつけにして、敵にまわれば、
私の記憶や思い込みを、正直に書いていく可能性があります。

不用意に私への悪口を言わない事です。

私はそういう、私の無償の善意への仇をする人には、
報復をするという事です。

ですから、悪口を言っている人は、悪口を抑制しなさい。

私は、私の体験のすべてを書く事はしませんが、
あまりひどい事をする人には、
命をかけて報復するという事です。
それが武士の武士の一分』(ぶしのいちぶん)なのです。

彦坂尚嘉は、武士なのです。
そのことを覚えておいてください。

これは、私の悪口を言い続ける人への警告です。

私は私の真実や事実を書く権利を有しているのです。
私は武士なのです。




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