住吉大社の美しさ/大竹伸朗(大幅加筆2画像追加校正1) [アート論]
ユミさんというかたから、
住吉大社の美しさについて、次のようなコメントをいただいていました。
むずかしい質問なので、お答えが遅くなって申し訳なかったですが、
ご返事致します。
さて、ハーマン・マイヤー・ノイシュタットの作品「マジックシアター」を、
<超1流>のパーフェクトな作品と分析なさっておられますが、
それは「<住吉大社>の文化的記憶」をも、踏まえてのことでいらっしゃるのでしょうか?
まったく、考えていませんでした。
ただ、原理としては、ノイシュタットの作品と、
住吉大社の比較は、無理です。
比較について
住吉大社そのものは、前近代の宗教建築であって、
ノイシュタットの作品は、建築らしいものではありますが、
建築ではなくて、美術作品です。
しかもドイツ人の作家のものなのです。
比較して考える場合には、
基本は、類似品を比較するという、原則があります。
つまり離れているものは、比較してはいけないという、
規範があります。
この規範は、学問的なものです。
しかしこの規範は、完全には固定はされていないので、
何かを介在させれば可能になる場合もあります。
私の『アートの格付け』で、
一度格をつけてから、その同一性をあげるということは、
その方法で、成立していると、彦坂尚嘉は考えていると言うものです。
例えば、小林幸子の歌が《第21次元》であって、同時にコールハースの建築を《第21次元》と言う場合がそうです。
原理的には、小林幸子の演歌と、コールハースの建築は比較できません。
しかし両者が、
《第2次元》という技術領域の倒錯領域である《第21次元》である
という《言語判定法》による芸術分析の結果を介して、
比較できないものが、
実は《第21次元》という同一次元に存在しているという指摘を、
彦坂尚嘉の責任の範囲ですが、出来ると言っているのです。
この場合は、《第21次元》というディメンションが存在しているという
分析性なのです。
こういう操作には、ですからいくつかの手続きと、
限定があるのであって、
単純素朴な類推では、出来得ないのです。
つまり比較するには、ある程度の手続きが必要なのです。
ノイシュタットの作品と、住吉大社を比較する事は、
比較という方法の原則に照らした場合、
基本としては、無理な事です。
私は、「三つの筒が縦並び」という「マジックシアター」の形体画像を見た瞬間に、<住吉大社様式>との類似が浮かんだもので、たしかに「きれい」ではありますが、彦坂さんの分類におかれましては、これは<宗教次元>に属するものではないのか、と、やや疑問に思われました。
ユミさんの連想は、個人的には起きえる現象です。
人間は、知らなかったものを見ると、
自分の知っているものに関連づけて見るという、行動をとる者なのです。
私のアメリカの友人の父親が日本に来て、
日本見物をした時に付き合ったのですが、
日本の何を見ても、自分の知っているアメリカのものに関連づけて、
「何々みたいだ」ということを連発していました。
このような連想の現象には、意味はあるので、
ユミさんが、ノイシュタットを見て、住吉大社を連想された事は、
分かります。
しかし
そのことが、ユミさん個人を超えて、文化的な次元として
一般性をもって語り得るかという次元は、別の水準なのです。
ノイシュタットのものは、普通の意味で、宗教建築ではないし、
伝統的な、つまり前近代建築ではないのです。
ですから、住吉大社と比較して語る事はできません。
全人類の美術史
そして限界について
>人間が作れる限界の高さに近づいた名品だと思います
「いつの<人間>か」とか、または「どういうタイプの<人間>か」を、前提においての、『限界の高さ』なのか等も、加えてご説明いただければ幸いです。
このご質問は、ごもっともです。
私の前提にしているのは、全人類史ですので、
ご質問の「いつの<人間>か」とか、
または「どういうタイプの<人間>か」という限界は、
ありません。
もちろん、全人類の歴史という概念が、成立しえるのか?
という疑問はもたれるとは思いますが、
少なくとも美術に関しては、
全人類の歴史の中で見て行く事が、ほぼ普通にできるのです。
少なくとも大きな美術全集は、そのレベルで編纂されています。
言い換えると、美術全集の知識を前提に考えているレベルが基盤で
全人類の歴史というものを考えています。
『限界の高さ』というのも、重要な視点です。
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザという作品は、
そうした限界に達している作品です。
そうした作品の場合に、
このモナリザを下敷きに制作すると、
かならず、作品が、モナリザよりも低くなるという現象に結果します。
別の例を挙げると、
ジャニス・ジョップリンという歌手の登場を、
同時代的に、私は見て来たのですが、
ジャニスの歌は、『限界の高さ』に達しているもので、
ジャニスの死後、彼女を超える、ああいうタイプの歌唱は、
出て来ていません。
シュビッターズ
《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現
《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)の美術
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
それに対して、
クルト・シュビッターズのメルツェの絵画は《第1次元 社会的理性領域》作品で、
これの影響を受けてラウシェンバーグが、
コンバイング・ペインティングを展開して
《超次元》の作品を制作しています。
ラウシェンバーグ
《想像界》の眼で《超次元〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現
《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)の美術
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】
つまりシュビッターズの作品は、美しいものではありますが、
《第1次元 社会的理性領域》であったがゆえに、
『限界の高さ』には達していなかったのです。
だからラウシェンバーグが、下敷きに使う事ができたのです。
そして《超次元》の『限界の高さ』を、
ラウシェンバーグが、達したのです。
シュビッターズ ラウシェンバーグ
《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》《想像界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》 の《真性の芸術》《象徴界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》 の《真性の芸術》《現実界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ 《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ 気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ
《シリアス・アート》《ハイアート》 《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)の美術 シニフィアン(記号表現)の美術
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