ジョン・ゾーン [音楽の頂点]
《マイノリティの結合》が社会を変える/情報縁による71,314の《島》を創出せよ!(訂正加筆2) [生きる方法]
大きな社会
アメリカという社会は、
ヨーロッパでいじめられた人々が、
逃げて作った社会です。
ですので、国家をつくる最初の段階で、
マイノリティがいじめられない社会を、どのようにしたら
つくりえるのか?
という議論をしています。
その時に、大きな社会を作った方が、
多様な人々が、共存できるのだという、
結論が出ます。
「アメリカ」という名称の中には、
こうした自由を基盤にした社会と言う、
そういう共同幻想があります。
ロック/ファンクの歌のなかで、
たとえば、プリンスやジェームス・ブラウンが、
「アメリカ」と歌うときの意味は、
こうしたマイノリティがいじめられない、自由の世界への希求と
しての「アメリカ」があります。
同時に1975年にアメリカがベトナムに敗戦した以降、
「リエンジニアリング」という社会再編が吹き荒れますが、
その時に、ブルーススプリングスティーンが歌った、
「アメリカに生まれて」という歌は、
ベトナム戦争で戦った兵士たちが、帰還後、
アメリカでいじめられて行く失望が、歌われます。
同じテーマは、
『ランボー』シリーズの1で描かれた帰還兵にも言えます。
アメリカにおいても、弱者やマイノリティは、いじめられるのです。
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マイノリティの結合
マイノリティの中でも、ホモセクシュアルな人々に対する社会的ないじめは、
過酷を極めます。
ホモセクシュアルな人々の中でも、男性同性愛者による社会への抵抗
と、表現の自由への希求は、
過激で過剰なものとなって、
社会を変革して行くのです。
その頂点のひとつがジョン・ウォータース監督の
「ピンク・フラミンゴ」です。1972年製作。
それともうひとつがピエル・パオロ・パゾリーニ監督の
「ソドムの市/サロ、或いはソドムの120日」です。
1975年に製作されています。
これらの映画は、スカとリジーに至ったものです。
こうしたスカトロジーの出現は、
実は1975年というアメリカの敗戦によって、
《近代》という《象徴界》の強い抑圧の時代が終焉して、
価値再編の時代になったことを象徴する、
そうした時代への象徴をなしたもので、
重要な結節点であり、
表現の自由の、ある臨界点であったのです。
男性同性愛者の人々は、
何よりも少数者であるために、
ナイフを使った傷害事件を起こすのを、
私は学生時代に、間接的ですが、知っています。
私の身の回りには男性同性愛者も、
女性同性愛者も多くて、
私自身は、これらホモセクシュアルな人々を差別する意識は無いか、
あるいは弱いものです。
つまり男性同性愛者の場合、昔は、恋人を見つける事が困難なので、
別れ話になると、ナイフを使って刺すということになるのです。
インターネットの出現は、こうしたマイノリティが結びつく事を、
可能にする、有効な方法になります。
マイノリティという次元では、まったく別ですが、
障害児を持つ親たちが結びつくのにも、
インターネットは、有効なものの様です。
私の場合には、弟が重度の脳性麻痺で、
浜松の天竜厚生会という私設に入っているので、
そういう問題は当事者の位置に居ます。
学術的な結びつきとか、
高度な芸術的な趣味判断の結合、
たとえば現代音楽のCDやDVDの購入のためのネットの形成なども
また、ある意味でのマイノリティの問題で、
インターネットは有効なのです。
さらには老人たちの結合、
さらには疲弊した地方どおしの結合など、
マイノリティが結びつく事で、お互いの苦痛の軽減をはかり、
助け合うことが、可能になったのです。
そういう意味で、インターネットの出現は、
孤立したマイノリティを結合させ、
新たな社会勢力と、市場形成を可能にして、
未来の社会の再編を形成する重要な新しい環境なのです。
木村静さんの地域起こしのテレビ活動も、
地域の中での関係の再編を、インタネットで、
進めようというものです。
山本育夫氏の、AWや、
富井玲子氏の、ポンジャなどは、
そのメーリングリストでの代表です。
平井玄氏らの地下大学の運動や、
上岡誠二氏らの東京 F.A.T.も、そうした文化再編の運動です。
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《近代》とは、
《村》の解体であった
《近代》という時代は、何であったのか?
そのひとつの答えは、《村》の解体運動であったという事です。
江戸時代に日本には、7万1千の《村》がありました。
正確には71,314です。
これが現在は、1,760の市町村に合併併合されているのです。
明治の大合併、昭和の大合併、そして平成の大合併の、3回を中心に、
私たちの生活世界の基本的な枠組みが再編されて、
大きな社会への変貌して来ているのです。
こういう環境の変化の中で、
「環境圧」というべきものが変わって、
家族関係も、友人関係も、そして恋人関係も激変して来ました。
つまり人間の関係というのは、実は環境が持つ圧力の中で形成されて
いるので、この「環境圧」の変化で、大きく変わるのです。
江戸時代に比べて、40分の1になった《村》の数は、
私たちの社会を変貌させ、そしてリアルな人間関係をも激変させて
来ているのです。
では、環境の圧力が、40分の1にまで、激減した時に、
何が起きなのか?
かつての《村》は、鎮守の森を中心にした神道が生きている世界でした。
《村》の解体は、同時に鎮守の森の解体であり、
神道の解体に結果したのです。
現在の日本の農村には、アメリカのファンダメンタリズムの
キリスト教である、ものみの塔などが、入り込み、
徘徊しているのです。
日本の農村が、アメリカ化して来ているのです。
神道の衰弱化は、同時に社会的なモラルの衰弱になっています。
それは一人一人の生きる意味のあいまいか、理想の喪失、そして
生きる目的の喪失に結果して行きます。
それは同時に男の衰弱化でもあります。
鎮守の森を中心とした社会規範がある事で、
男たちは、「男」である事の意味を教えられ、
「男に成る」ことができたのです。
「男である」ということは、実は生物学的な生理ではなくて、
「社会的・文化的な性のありよう」の問題であり、
ジェンダーでありました。
鎮守の森と、神道の崩壊は、
同時に「男」という文化事象=ジェンダーの崩壊であり、
男は、鎮守の森を失うことで、フォルスを屹立させる契機を
失ったのです。
その結果として、「女の腐ったような男」たちが大量に出現します。
それは同時に、鎮守の森からの女たちの解放でもありました。
解放された女たちは、小さなペニスであるクリトリスを勃起させて、
かつての男たちのようにタバコを吸い、東南アジアに男を買いに
売春ツアーに参加するようになります。
こうして《村》を解体された日本社会は崩壊して行きます。
GDPは、急降下して、日本の経済力は衰弱し、国際競争力も失い、
日本は、沈没したのです。
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