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2009-09-30


Jump(ジャンプ)は、アルバム「Confessions On A Dance Floor」からの4枚目のシングルである。歌詞からして、ポジティブ志向であるポップなダンスソング。

概要 [編集]

  • B面に、お蔵入りとなっていたHistoryを収録。
  • PVは、マドンナ自身初となる東京での撮影を敢行。2006年9月、「Confessions Tour」のための滞在中に極秘に撮影されたものである。ダンサーは歌舞伎町や渋谷、横浜等で撮影。マドンナは、新宿のネオン街をイメージしたセットで激しく踊る。
菊池凛子


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磯 達雄さんと浜田 由美さん [日記]

写真2-ブログ.jpg

次回のアートスタディーズは、11月2日、
京橋のINAXです。
ゲストの先生2人との、
打ち合わせに行って来ました。
1980年〜1989年です。

ゲストは、

磯達雄さんと、浜田由美さんです。


 講師  磯 達雄 (建築ライター)

        サブテーマ「磯崎新/つくばセンタービル−ラディカルな折衷主義」   

    講師  浜田 由美(建築研究者) 

        サブテーマ「木島安史の時館『堂夢の世界』


 



9月29日・火曜の15時から、

東麻布の磯さんの事務所でに伺いました。


左にいるのは、アートスタディーズの事務局長をお願いしている

アーティストの伊東直昭‎さんです。

打ち合わせが終わっての記念写真です。


写真3ブログ.jpg

こちらの写真の方が後ろののっぽのビルが写っていますが、
細い隙間に建った長いビルが、磯さんのオフィすです。

   

さてこの写真を見ると、私、彦坂尚嘉の顔が、やたらに幸せそうに写っています。
この能天気な顔は、どうしてなのでしょうか?。

写真1ブログ.jpg

 

 

酒も飲んでいないのに、この顔です。
多幸症ではないのか?
と思えるこの幸せそうな顔は、何なのでしょうか?
自分でも不思議に思えます。

本人は気がつきませんが、
この顔で、始終いるとの事です。






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昨日 [日記]

昨日の建築会館は、
面白かった。

Twitterによる実況中継と会場の映像配信が行われ、

最大800人を超す人がアクセスしてくれたとの事。


実験として行われたのだが,

従来のシンポジウムを変革する試みと言えます。


2次会は、五十嵐太郎さんの教授就任祝い。



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フロアイベント1969年/1976年(写真追加改題) [アート論]

彦坂尚嘉フロアイベント1969年ブログ用.jpg

上の写真は、1969年の多摩美術大学のバリケードの中で開かれた、
造型作家同盟展で、彦坂尚嘉が、
床に、透明ビニールを、ただ敷いた作品です。
これがフロアイベントという、私の作品シリーズの第1回目です。

大きさのサイズは、キャンバスのF100号の大きさですので、1621×1303ミリです。

建物は、東京の世田谷区上野毛にある多摩美術大学の新館校舎です。
床はコンクリートです。

この後、1970年に自宅の8畳間にラッテクスを流すフロアイベントになります。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

彦坂尚嘉フロアイベント・ビ.jpg

上の写真は、1976年に、再び100号F大のビニールをただ敷く作品を、
再びやったものです。
場所は、銀座の村松時計店の地下にあった時期の村松画廊です。
これは『史律におけるプラクティス』という題名で、
自分の初期の作品を、その1976年時点で再制作して反復したものです。
この時、たしか6点作っているうちの1つです。


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情報漏洩/こたつ問題の往復メール(改題) [建築]

リークというのは、日本語で言えば情報漏洩(じょうほうろうえい)
ということです。
内部の機密情報などが外部に漏れてしまうことを言います。

2000年以降、特に個人情報漏洩が社会的な問題となっています。

さて、ここで、私はリークをしするかどうか考えていています。
それは建築系ラジオの内部情報です。

建築系ラジオの人々との人間関係と、信用問題で言えば、
リークをしない方が、私の立場の保身としては良いと思います。

私自身は、ブログで、マズい事を暴露的に書いているように思われて
いますが、実は多くの事について沈黙しているのであって、
書いていない事実は、多いのです。

多弁な人間は、実は重要な事は沈黙する事で成立しています。

美術業界の醜悪さや矮小な事実は、実は知っていても、
それほど書いていないのです。

その意味で私のブログは『噂の真相』を目指していません。
実際『噂の真相』という雑誌も1度しか買った事がありません。

私自身は、美しい事が好きで、汚いものを、出来れば見たいとは、
思わない保守的な人間なのです。

しかし、にもかかわらず事実は事実として直視して行かないと、
アーティストとしては成立しません。
芸術の根幹にはリアリズムの精神があるのです。

さて、長い前置きと、言い訳の後でリークするのは、
明日の建築会館で催される会に関係する内部情報です。

リークする事が、モラルに反する事を知ってはいますが、
情報公開する事が、今回のこたつ問題に関して公共的利益に合致する
と、考えるからです。

こたつ問題の当事者の社会的責任と、その主体の闇の部分を、
生な情報で見る事が、今回の問題と正面から見る上で重要だと
考えます。
闇といっても、それは《優しさ》の問題です。

モラルに反するにしても、
当事者たちの、柔らかな《優しさ》の部分を、
出来るだけ直接に知っておかないと、
枝葉だけが増殖してしまいます。

結果ではなくて、原因そのものの根っこを、
直に見る努力が、
物事には必要なのです。

さて、以下は、その非公開の私信メールです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

From:    ta2@tke.att.ne.jp

Subject:  [Fwd: Re: 御無沙汰しております。]

Date:  2009913 16:13:12:JST

To:    core-member@radio., 彦坂尚嘉



 

金曜日の夕方に、

こういうメールをこたつ問題の二人に

出しています。


最初に東大での彼らの先生だった鵜飼さんから

メールを出してもらい、その後に、

僕からメールを出しているのですが、

今のところ返事はありません。


何か動きがあった段階で、

またご連絡します。


松田

 

 

-------- Original Message --------

Subject:  Re: 御無沙汰しております。

Date:  Fri, 11 Sep 2009 16:18:43 +0900

From:  Tatsu Matsuda

To: pop-up-tokyo

CC:  Tetsuya UKAI 


 

 


Tatsu Matsuda さんは書きました:

大杉哲也 様、伊藤友隆 様

cc: 鵜飼哲矢 様


はじめまして。

松田達と申します。

鵜飼さんからお二人の連絡先を教えて頂き、

メールいたします。


もしかしたらご存知かもしれませんが、

東大では、生研の方にいました。

99年に修士を出ているので、

学年はかなり離れているかと思います。


現在、鵜飼さんや五十嵐太郎さんとともに、

建築文化事業委員会の委員をしているのですが、

そちらでカルチベートトークというイベントがあり、

9月28日に、アーティストの彦坂尚嘉さんという人をお招きして、

建築会館にて下記のようなトーク&ディスカッションイベントを

行います。

http://news-sv.aij.or.jp/jnetwork/scripts/view30.asp?sc_id=2372


お二人の作品を様々な媒体や

越後妻有トリエンナーレにて拝見しまして、

おそらく、若い世代の建築家を代表しているところもあると思い、

お話を伺ってみたいと思いました。

お忙しいかと思いますが、特に後半のディスカッションにおいて、

お二人にゲストとして、議論に加わって頂ければと思っていますが、

いかがでしょうか。


彦坂さんは、現代美術でこたつを用いた作品を

最初につくったアーティストとして、

「こたつ」を通した40年について語るという意味でも、

お二人に来てほしいと思っています。


また、五十嵐太郎さんとは、建築系ラジオという

ネットラジオの試みを昨年から行っており、

聞き苦しい点もあるかもしれませんが、お二人の作品を

取り上げさせて頂きました。

おふたりの作品の制作過程の大変だったところなど、

語って頂ければと思います。

http://radio.tatsumatsuda.com/


僕個人としては、こたつの作品に投影された

現代建築の状況そのものを、語るという展開に

できればと思っています。


いろいろと思われることはあるかもしれませんが、

お二人とお話しできることを楽しみにしておりますので、

ご検討頂ければ幸いです。御返事お待ちしています。


松田達・建築文化事業委員会委員



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


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《第1次元 社会的理性領域》 の倒錯/中川信夫の東海道四谷怪談 [映画]

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中川信夫の東海道四谷怪談は、
昔の新東宝のBクラス映画として、伝説的に評価の高い映画です。

私は、1968年に映画館で見ていますが、
心に残る名作でした。

改めて、『アートの格付け』をしてみると、
《第31次元》の映画でした。

《第31次元》というのは、《第1次元 社会的理性領域》の
反転領域です。


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中川信夫の約90本もの映画の評価が高くなっています。
それは《第1次元 社会的理性領域》の映画の丁寧さが生み出す。
《愛》の問題です。
《第1次元 社会的理性領域》の表現は、
人々が深く愛するのです。

そして《第1次元 社会的理性領域》が、倒錯して反転すると、
中川信夫の評価の高い怪談映画の《第31次元》世界が出現します。

その数は、わずか8本、9本という意見もありましたが、
全作品の1割りなのです。

もしも見ていない方は、
ぜひ、《第31次元》の和製ホラーの名作を味わってみて下さい。

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こたつ問題・再考 [建築]

上岡誠二さんから、次の様なコメントをいただいた。


ボクは最初の計画のこたつの方がつまらなく感じます。
あくまでもそれはこたつなのです。

こたつの脚は決まって一本壊れていて、
「あぁっ、その角に肘のせたらだめっ」とか、
親戚が集まったとき、こたつやらちゃぶ台やら並べて、
その段差で鍋の汁とかこぼしたり
そんなところからコミュニケーションが深まったりするもので、
「こたつ問題」というコミュニケーションも生まれたわけですから、
その辺のみんなが認める建築物より
よほど面白いものになっています。

『「みんなのこたつ」の制作プロセス』ブログを削除したのは、
批判されたからでは無いとボクは読み取っています。

かえって言い訳のように感じたからではないでしょうか?

あるがままで良いという潔ささえ感じます。

問題点があるとすれば、「この若い」無しの、
『建築家たち』の弱さではないでしょうか?

もちろん、削除しない方が良かったということについては
同意見なのですが、、、
とにかく、彦坂さんの追求心にはいつも感服しています。

by 上岡誠二 (2009-09-25 05:18)  

 

上岡誠二様
良いコメントをありがとうございます。

 


本来は、最初のアイディアでしかない、

つまりシニフィエであるものが、現実の制約や、

いろいろな事情の中で具体化して行って、

物質性をもったシニフィアンになって行く形で、

作品は成立するのです。


おっしゃるように、こたつ作品も、4つに割ったもの、

つまり普通のこたつのイメージを超えたものになって、

それを面白いと評価する上岡さんの視点は、

正統であると思います。


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2人の若い建築家が、そのように積極的に考えて、

 

図面にあるように、

4つのパネルを開けて会場に展示していれば、

今回のような批判は起きなかったでしょうね。

 


また、最初の普通のこたつのイメージに戻すかの様な展示を

 

してしまったために、

あまりにも稚拙な破綻に見えてしまったのです。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


この2人の弱さが問題になっていますが、

それだけではありませんでした。


建築系ラジオに対する批判も出て来たので、

ラジオ側が、シンポジウムに招待をして発言を求めたのですが、

逃げたり、書き込みを消したりした人が出てしまったのです。


今の若い人々に、本質的な弱さが生まれているように見えます。


この弱さについては、ボドリヤールが、

自己免疫性の衰弱化という予言をしていました。


つまり環境や文明の中から、醜悪さや、汚濁、悪徳の部分が

隠されたり、排除されて清潔になった現代文明の中に育つと、

自己免疫性が弱くなってしまうと言うのです。



by ヒコ (2009-09-25 08:24)  

 


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マーティン・クリード(改稿2) [アート論]


いつも興味深く拝見しております。
最近目にした2人の作家について彦坂様のご意見を是非おうかがい致したく、不躾ながらメール致しました。
作家名ですが、マーティン・クリード(Martin Creed)氏と泉太郎(いずみたろう)氏です。
このお二方について彦坂様からどのようなお言葉を頂けるのか楽しみにしております。
どうぞ宜しくお願いいたします。 
by ヒトエ (2009-08-12 02:22)  

コメントありがとうございます。
マーティン・クリードについて、とりあえず、お返事します。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

Martin Creed
1968年、イギリス、ウェークフィールド生まれ。
2001年、ターナー賞受賞

主な展覧会に、1998年の第11回シドニービエンナーレ。2005年の第8回リヨン・ビエンナーレ。2007年、。5月23日からは広島現代美術館にて個展。


クリードは、2001年にはターナー賞を受賞しています。

クリードのターナー賞受賞作品は、『作品番号227、ライトが点いたり消えたり』というものです。

それは展示室の照明が5秒毎に点滅しているだけのものです。


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彦坂尚嘉責任による《言語判定法》での芸術分析
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品気体美術

《気晴らしアート》《ハイアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。
【B級美術】


このクリードの作品は、
2重の意味で、《アートの倒錯性》を示していて、
面白いものです。

おさらいをすると、
先日の「結論」というブログで書いたように、
情報化社会における芸術というのは、
倒錯形態において成立するのです。

それは芸術だけではなくて、
ほぼすべてが、倒錯してしまったのです。

それは、かつては不良が頭を金髪に染めていたのですが、
その茶髪が,日常的なお洒落になったのは、
私たちの社会が、実はすべて不良になったからです。
だから役人も不良のように不正をするし、
起業や有名料亭も不良行為をするようになってしまったのです。

かつては厳しく禁止されていた猥褻性のある性器の露出も、
インタネットのエロ画像として一般化し、
社会全体が猥褻化したのです。
その結果として、セックスは、
リアルに子供を作るためのものではなくなり、
快楽を追求するためだけのものになってしまった。
その結果、子供の誕生が減って行って、
少子化の中で、日本人は、未来では、
今のアイヌやインディアンのように少数民族になるかのようです。
最終的には日本人は一人もいなくなって、絶滅するのでしょうか?

つまり情報化社会においては、
家族も、社会も、文化も、すべてが倒錯領域に転倒してしまったので、
いままでの生活世界の常識がくつがえされるようになったのです。
芸術もまた、倒錯したものとして現れます。

一番簡単な芸術の倒錯は、
デザインが、芸術の名において、
《芸術倒錯》として、アート扱いを受けるようになったのです。

クリードの作品に典型定にあらわれているのは、
この《倒錯芸術》としてのデザインワークの乱用です。

もうひとつは、オリジナルの芸術という創造性を倒錯させて、
模倣と焼き直しというシュミレーションとしての
アートの成立をねらっている事です。

ターナー賞をとった空虚の部屋に、ライトが点滅するというものも、
芸術史的には、
イブ・クラインの作品の焼き直しと模倣です。

イブ・クラインは、1958年にはパリのイリス・クレール画廊で、
全く何も展示しない『空虚』展を開催しています。
物画廊の中は何もない真っ白であったのです。

情報化社会では、文化は倒錯していますから、
クリードの作品が、このイブ・クラインの模倣性において、
倒錯芸術としての評価が得られるのです。
そこで、ターナー賞を受賞している。

昔は、模倣や盗作は、厳しく禁じられたのですが、
今日では逆転して、
模倣作品や盗作作品が、それ故に、
情報化社会の芸術として高く評価されるのです。
盗作の薦めです。
ですから今日の芸術界は模倣や盗作作品ばかりになったのです。

 そのクリードの活動1989年から始まっています。

そこにあるのは、デザインと模倣盗作、
そして馬鹿馬鹿しさです。
それらを面白さとして見ないと、古いということになります。


Group Exhibitions 1989
The Black Bull, London, GB (curated by Tess Jaray)


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Work No. 3
Yellow painting
1986
Acrylic on canvas
12" x 12"


《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品気体美術

《気晴らしアート》《ハイアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】



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Work No. 12: Double object
1989
Solid brass and chrome plate
2.75" x 2" diam

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品気体美術

《気晴らしアート》《ハイアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。
《原始立体》デザイン物【B級美術】



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Work No. 54
Four paintings
2000
Brass, chrome, primer, size and metal polish on canvas
4 parts; each part 6" x 6

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品気体美術

《気晴らしアート》《ハイアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。
《原始立体》手芸物【B級美術】

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Work No. 78: as many 2.5cm squares as are necessary cut from 2.5cm Elastoplast tape and piled up
adhesive sides down, to form a 2.5cm cubic stack
1993
Elastoplast tape
2.5 x 2.5 x 2.5 cm

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品気体美術

《気晴らしアート》《ハイアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。
《原始立体》手芸物【B級美術】




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Work No. 83: a protrusion from a wall
1993
Plaster
Height of wall x 9" x 4.5"
Installation at Lisson Gallery, London

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品気体美術

《気晴らしアート》《ハイアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。
《原始立体》工作物【B級美術】




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work88b.jpg


 

 

Work No. 88: A sheet of A4 paper crumpled into a ball
1995 - 2008
Paper
Approx. 5 cm diam
Unlimited edition

白いA4用紙がくしゃくしゃに丸められている作品。

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品気体美術

《気晴らしアート》《ハイアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。
《原始立体》ゴミ【B級美術】

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住吉大社の美しさ/大竹伸朗(大幅加筆2画像追加校正1) [アート論]



ユミさんというかたから、
住吉大社の美しさについて、次のようなコメントをいただいていました。

むずかしい質問なので、お答えが遅くなって申し訳なかったですが、
ご返事致します。

「入校と執筆の完成」の方にも、コメントさせていただいた者です。

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さて、ハーマン・マイヤー・ノイシュタットの作品「マジックシアター」を、
<超1流>のパーフェクトな作品と分析なさっておられますが、
それは「<住吉大社>の文化的記憶」をも、踏まえてのことでいらっしゃるのでしょうか?

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まったく、考えていませんでした。

ただ、原理としては、ノイシュタットの作品と、
住吉大社の比較は、無理です。


比較について


住吉大社そのものは、前近代の宗教建築であって、
ノイシュタットの作品は、建築らしいものではありますが、
建築ではなくて、美術作品です。
しかもドイツ人の作家のものなのです。

比較して考える場合には、
基本は、類似品を比較するという、原則があります。

つまり離れているものは、比較してはいけないという、
規範があります。
この規範は、学問的なものです。

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しかしこの規範は、完全には固定はされていないので、
何かを介在させれば可能になる場合もあります。

私の『アートの格付け』で、
一度格をつけてから、その同一性をあげるということは、
その方法で、成立していると、彦坂尚嘉は考えていると言うものです。

例えば、小林幸子の歌が《第21次元》であって、同時にコールハースの建築を《第21次元》と言う場合がそうです。

原理的には、小林幸子の演歌と、コールハースの建築は比較できません。

しかし両者が、
《第2次元》という技術領域の倒錯領域である《第21次元》である
という《言語判定法》による芸術分析の結果を介して、
比較できないものが、
実は《第21次元》という同一次元に存在しているという指摘を、
彦坂尚嘉の責任の範囲ですが、出来ると言っているのです。

この場合は、《第21次元》というディメンションが存在しているという
分析性なのです。
こういう操作には、ですからいくつかの手続きと、
限定があるのであって、
単純素朴な類推では、出来得ないのです。

つまり比較するには、ある程度の手続きが必要なのです。

ノイシュタットの作品と、住吉大社を比較する事は、
比較という方法の原則に照らした場合、
基本としては、無理な事です。


私は、「三つの筒が縦並び」という「マジックシアター」の形体画像を見た瞬間に、<住吉大社様式>との類似が浮かんだもので、たしかに「きれい」ではありますが、彦坂さんの分類におかれましては、これは<宗教次元>に属するものではないのか、と、やや疑問に思われました。

ユミさんの連想は、個人的には起きえる現象です。
人間は、知らなかったものを見ると、
自分の知っているものに関連づけて見るという、行動をとる者なのです。

私のアメリカの友人の父親が日本に来て、
日本見物をした時に付き合ったのですが、
日本の何を見ても、自分の知っているアメリカのものに関連づけて、
「何々みたいだ」ということを連発していました。

このような連想の現象には、意味はあるので、
ユミさんが、ノイシュタットを見て、住吉大社を連想された事は、
分かります。

しかし
そのことが、ユミさん個人を超えて、文化的な次元として
一般性をもって語り得るかという次元は、別の水準なのです。

ノイシュタットのものは、普通の意味で、宗教建築ではないし、
伝統的な、つまり前近代建築ではないのです。
ですから、住吉大社と比較して語る事はできません。


全人類の美術史

そして限界について



>人間が作れる限界の高さに近づいた名品だと思います

「いつの<人間>か」とか、または「どういうタイプの<人間>か」を、前提においての、『限界の高さ』なのか等も、加えてご説明いただければ幸いです。

このご質問は、ごもっともです。

私の前提にしているのは、全人類史ですので、
ご質問の「いつの<人間>か」とか、
または「どういうタイプの<人間>か」という限界は、
ありません。

もちろん、全人類の歴史という概念が、成立しえるのか?
という疑問はもたれるとは思いますが、
少なくとも美術に関しては、
全人類の歴史の中で見て行く事が、ほぼ普通にできるのです。
少なくとも大きな美術全集は、そのレベルで編纂されています。

言い換えると、美術全集の知識を前提に考えているレベルが基盤で
全人類の歴史というものを考えています。


『限界の高さ』というのも、重要な視点です。
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザという作品は、
そうした限界に達している作品です。

そうした作品の場合に、
このモナリザを下敷きに制作すると、
かならず、作品が、モナリザよりも低くなるという現象に結果します。

別の例を挙げると、
ジャニス・ジョップリンという歌手の登場を、
同時代的に、私は見て来たのですが、
ジャニスの歌は、『限界の高さ』に達しているもので、
ジャニスの死後、彼女を超える、ああいうタイプの歌唱は、
出て来ていません。

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シュビッターズ
《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

それに対して、

クルト・シュビッターズのメルツェの絵画は《第1次元 社会的理性領域》作品で、

これの影響を受けてラウシェンバーグが、
コンバイング・ペインティングを展開して
《超次元》の作品を制作しています。

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ラウシェンバーグ
《想像界》の眼で超次元〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

つまりシュビッターズの作品は、美しいものではありますが、
《第1次元 社会的理性領域》であったがゆえに、
『限界の高さ』には達していなかったのです。
だからラウシェンバーグが、下敷きに使う事ができたのです。
そして《超次元》の『限界の高さ』を、
ラウシェンバーグが、達したのです。

Rauschenbergシュビ一ターズ.jpg

シュビッターズ                  ラウシェンバーグ
《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》《想像界》の眼で超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》 の《真性の芸術》《象徴界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》 の《真性の芸術》《現実界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ   《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ     気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ

《シリアス・アート》《ハイアート》       《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術          シニフィアン(記号表現)の美術
『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】   『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

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私的結論(加筆2) [アート論]


今日の芸術表現を考えると、何よりも倒錯領域をもった
表現であると言えるように思います。

つまり、かつてのように、
《超次元》から《第6次元 自然領域》までのものではなくて、
《第7次元 ビジネス領域》から、
《第41次元 崇高領域》までの、
すくなくともどれかの次元性を持った表現です。

たとえば村上隆は《13次元 喜劇漫画領域》で出現したから、
面白かったのであるのですが、
最近の村上隆のように《第6次元 自然領域》の作品になることは、
凡庸化であって、
今日的な性格を失っているのです。

中川晋介さんのアニメーションは、
《超次元》から《第6次元 》までの《真性の芸術》を成立させていて、
大変にきれいな作品と,高く評価します。

しかし、彼の作品よりも、
《第21次元 愛欲領域》しかないピピロッティルストの作品の
方が、倒錯領域があるゆえに、今日的であると思うのです。


倒錯性をもっているものを、
情報化社会の芸術の特徴であると定義したいのです。

つまり中川晋介さんのものは、3次元アニメーションで、
今日的であるはずなのに、
実はバッハの音楽の様な古典的な芸術観に還元されている
のです。
新しい技術を使って、古い芸術を作っているのです。
それは良くできていて、高く評価できるのですが、
しかし、コンテンポラリーアートとしては、
性格づけが弱いのです。

現実としては、倒錯性を持たない、
中川さんの作品の様なものは、たくさん作られています。
特に《第6次元 自然領域》がたくさん、あるので、
正しい定義というよりは、
私自身の私的な仮説であると言う程度のものですが、
今日の表現は、倒錯領域で成立していると考えるのです。

人格的にも、《象徴界》を
《超次元》から《第41次元》までの全領域に拡大したものであると、
彦坂尚嘉は、このいろいろなものを芸術分析してきた結果から、
結論づけます。

《超次元》〜《第6次元 自然領域》までであるのは、
それこそバッハやベートベンと同じであって、
古いとしか言いようがないと、考えるのです。

もっとも、これも、現実というよりは、
彦坂尚嘉の私的な仮説的な結論です。

この事は小沢一郎が民主党党首を辞任した時にも、
このブログで問題にしたのですが、
今日的な文化構造の変化を、人格の問題として見ると、
この倒錯領域を内包できるかどうかがかかってくるのです。
それは《パンドラの箱》が開いた、
1975年以降、
さらには1991年以降の時代の問題であるのです。

小沢一郎の、今回の選挙での民主党の勝利に結びつくような
努力の問題は評価できます。
人間の活動のひとつの側面は確かに努力の問題なのです。
努力を積み重ねる事が、全ての問題を解決するとも、
言えるかの様な事態はあります。

大竹伸朗を評価する人も、それはあの膨大な作品の制作量という、
努力を背景にあるのです。
しかしあれが全てゴミに準ずる様なものの場合,どれほどの量が
あろうとも、低いものは低いのです。

その低さを、低さと見る事が認識です。
つまり人間は、物理的な努力だけでは突破できない問題が
あるのです。

認識の透徹性も必要なのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

今日の新しさを獲得する中心部分は、
《象徴界》の全領域化であると、
私は、個人的に私的に結論づけるのです。
そういう認識を結論としてもったのです。

彦坂尚嘉という個人のアーティストの探究としては、
この結論が最後というか、限界であります。
これ以上の探究は、不可能であると判断します。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

不可能性をまえにして、

後は、残された時間、実践と努力と、勤勉さの追求だけであると
考えます。

できるだけ、《超次元》から《第41次元》までの全領域の人格を
持っている方々と知り合って、連携をして行きたいとは思いますが、
それ以外では、出来るだけ普通の社会人として、
節度と常識を持って接することに、集中をしたいと思います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

人格の中心は《象徴界》のこの全領域性であると、
彦坂尚嘉は結論づけるのです。

つまり《象徴界》の違いがある場合、
基本的には話=認識は、本質としては通じません。

このことを別の言い方をすると、
人にはそれぞれ先入観があって、
それを信じているので、
それを否定する様な認識を理解はできません。

可能なのはシニフィエ(記号内容)的コミュニケーションだけであって、
それ以上のコミュニケーションの深さ、
つまりラカンが強調したシニフィアン(記号表現)連鎖による交流は、
不可能なのです。

重要なのは、このコミュニケーションの不可能性の次元差の存在です。

つまり養老孟司が、「人間同士が理解しあうというのは根本的には不可能である。理解できない相手を、人は互いにバカだと思う」という主張を『バカの壁』という本で主張しましたが、この《バカの壁》を生み出しているのは、彦坂尚嘉の論理では、人間の《象徴界》の次元の差異なのです。次元が違えば、基本的に理解し合う事はありません。あるのは誤解しあった人間関係です。

つまり彦坂尚嘉の理論枠では、
《超次元》から《第41次元》までの42段階があるので、
それは認識の次元の多様性と言えるのです。

全ての人が、平等には認識が出来ないのです。

認識の共有化が出来ると信じたのが、
《近代》の啓蒙主義であったのですが、
今日では、共有化が不可能であるという結論が出て、
フーコーが言うように、規律社会から、管理社会に移行したのです。

彦坂理論では、意識は拡大可能で、
しかもそれは空想の中で、可能であるとするものですが、
しかし臨床例が、自分だけなので、本当かどうかは分かりません。
ですから拡大すれば、コミュニケーション領域は広がるのです。
しかし、こうした意識の拡大の方法を広めようとすれば、
それは人格改造講座のようになってしまうのであって、
他人のプライバシーに介入する事は、
避けて行きたいと思います。


認識は共有できることが、共通の次元性に限られていると認めると、
実は、認識の共有は、実は、社会の問題ではないのかもしれません。

社会的な分裂は、避け得ないのです。

彦坂の認識からは、社会的には、
認識の分裂状態が恒常的であるのであって、
それを超えるもの、つまり認識の差を超えるサントームだけが共有の
可能性を示すことになります。

このように、考える事は、
認識による探究では、他者との連携は出来ないという事です。

認識ではない所で、他人とはつながっている。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

残るのは、社会を成立させている《第1次元 社会的理性領域》を
重視して、ここに基盤を置くという事なのか、
それとも《第1次元 社会的理性領域》を排除して、
アンダーグランドとか、カウンターカルチャーに基盤を置くのか?
という選択になります。

私の志向としては、この両者を同時に成立させる方向に
向かうという事です。

それが今日のフーコーが言う所の管理社会であると考えます。
そしてこの両者をつなぐ方法が、ラカン晩年の志向である、
サントームであると考えるのです。

《第1次元 社会的理性領域》主義と、
これを否定するカウンターカルチャー主義を
関係づけるという、関係性に、今日の統合の次元を見るのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

以上の結論が出ても、
この彦坂の芸術分析を、丁寧に展開して行く作業は継続されます。
しかし繰り返せば、
この彦坂の認識そのものは、決して多くの人には、
共有され得ないという事です。

たとえばコンビニ弁当でも、
《第1次元 社会的理性領域》のセブンイレブンよりも、
《第6次元 自然領域》のミニストップの方が美味しいと感じる人も、
いるのです。

同様に、大竹伸朗の《第6次元 自然領域》の作品を、
シュビッターズの《第1次元 社会的理性領域》の作品や、
ラウシェンバーグの《超次元》の作品よりもすぐれていると
信じる人もいるのです。

そうした現実の多様性は、
私自身は、
信仰の自由の問題として、
認めるという事です。

人それぞれであり、
この多様性を、認識の共有制としては成立は出来ないのです。

人間の先入観による分裂化は、
認めるしかないのです。


人は様々であり、
認識は共有できないのです。
バラバラであるということを認めるしかないのです。

人々は、バラバラに、
気体分子運動をしているのです。

このバラバラの中で、
バラバラの人をつなげるものは、
正確で精緻な認識ではなくて、
サントームであるということです。

芸術の問題も、実は、
サントームに移行していると言えるのです。
おそらくそう認識した時に、
正確な意味での芸術の死が立ち現れて来ます。

サントームを成立させられれば、
芸術ではなくてデザイン作品でも良いと言う立場です。
いや、むしろデザインの方が,
サントームを成立させやすいのだから、
情報化社会の芸術は、実はデザインなのである、
ということです。

言い換えると、芸術を倒錯させればデザインになるのだから、
情報化社会というのはデザインの時代になっているのだ、
という認識です。

《大文字の芸術》が倒錯して、デザインが時代をおおったのです。

おそらく、こうした認識は1975年以降、
強烈に展開されて来ていることは、
事実だろうと思います。

デザインの時代ではあるのですが、
それを認めてもなお、
芸術の名において成立させる以上、
芸術は、消滅させ得ないのです。

だとすれば、
デザインではなくて《真性の芸術》が、
倒錯して立ち現れることが要請されるのです。

事実そうした作品が、
出現して来ているのです。


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