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《第30次元》 の女/小橋めぐみ [美人論]

電車の車内広告で、天成園という和風旅館の広告で、
《第30次元》の美人を見つけた。

『第30流美人』というものが存在する事を証明できたという、
大発見なのです!

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彦坂尚嘉の『アートの格付け』というのは、
《超次元》から《第41次元》という42段階があるのですが、
しかし、すべてが見つかっているわけでな無いのです。

《第31次元》というのは、犯罪領域とか、老人とかで、
《第1次元 社会的理性領域》の倒錯領域であって、
これについては、たくさん発見して来ています。

しかし、そのとなりにあるはずの《第30次元》というのは、
まだ見つかっていなかったのです。

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この《第30次元》の美人というのは、
小橋めぐみ(こばし めぐみ)という女優です。

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小橋めぐみの顔

《想像界》の眼で《第30次元》のデザイン的エンターテイメント美人
《象徴界》の眼で《第30次元》のデザイン的エンターテイメント美人
《現実界》の眼で《第30次元》のデザイン的エンターテイメント美人

《想像界》の美人
固体美人(前近代的美人)
《気晴らし美人》《ローアート的美人》

シニフィアン(記号表現)的人間。


1979年生まれですから、現在30歳でしょうか。
NHKの大河ドラマ『徳川慶喜』で皇女和宮を演じた女優です。

その小橋めぐみが、2002年の写真集『孵化 fuka』でセミヌードを披露し、さらに2007年の映画『マリッジリング』ではヌードでの情事のシーンを演じ話題となったというのです。

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なぜヌードのになったのか?
理由はいろいろあるとは思いますが、
彦坂尚嘉の視点からは、《第30次元》の美人だからだという解釈に
なります。

《第1次元 社会的理性領域》の倒錯領域は《第31次元》です。

そして《第2次元 技術領域》の倒錯領域が《第21次元 愛欲領域》
です。
この倒錯というのは、フロイト的な意味での多型倒錯なので、
実は《第2次元》の倒錯というのは、《第21次元》から、
《第30次元》次元と、幅が広いのです。

ですから、《第30次元》次元美人と言うのは、
《第2次元》の美人の倒錯の一種であったのです。

エロ写真が《第21次元 愛欲領域》であると言うこともあって、
小橋めぐみは、ヌードや性的魅力を売り物にする女優へと、
展開するはめになったのだろうと解釈します。

さて、まとめです。
今回の《第30次元》の発見で重要だったのは、2つあります。

一番大きいのは、《第30次元》美人というものが、現実に
存在するという事です。

2番目は、《第30次元》というのは、《第2次元》というものの
倒錯である事を確認できた事です。

そのことがあって、
栃原比比奈さんの風景作品が、
《象徴界》が《第21次元》から《第30次元》ある事が、
確認できました。
これはまた、別に画像を付けてご報告します。






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彦坂尚嘉のアトリエの改造(1〜4) [気体分子ギャラリー]



彦坂尚嘉のアトリエを、本格的に改造しています。



上のビデオで栃原比比奈さんが塗っていたのは、下塗り剤のシーラで
す。



この改造には、かならずしも、今まで手伝ってくれていた
メンバーが理解してくれて、応援してくれているわけではありません。

私の欲望を理解してくれないと言うか、
改造にソッポをむく人もいます。

そもそも、そういう人は、現在の厳しい時代の事が、
分かっていないのです。

多くの画廊が潰れるだろうし、
発表するチャンスは減って来ます。
実際に画廊は倒産したり、閉鎖する所が続いています。
移転も多いのです。
そうして京橋も衰弱して来ています。
画廊にお客さんが来なくなっているという話も、
いくつもの画廊から聞きます。
そもそも画廊というのは《近代》の産物であったので、
《近代》の終焉とともに、衰弱して骨董化して行くのです。

そういう意味では、気体分子ギャラリーというのは、
あくまでもネットギャラリーであって、
《近代》のギャラリーとは違うものなのです。
気体分子ギャラリーは、ブログとホームページの中で成立して行くのです。
今、改造している現実のアトリエは、
そのネットの情報を作り出す陰の実体なのです。
実際には藤沢まで来なくて良いのです。
ネットだけで見て下さって、それで完結する
そういうギャラリーなのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

2010年から2015年は、戦中に匹敵する厳しい時代になります。

作家が制作し、発表する場所を確保する事は、
今まで以上に厳しくなります。

多くの作家と付き合って来ましたが、
ほとんどの人は、目先の利益だけを追いかけて、
遠くの未来や、歴史的な長期の事を、見ていません。
目先の自己満足しか、考えていないのです。

多くの作家は、自分の画廊を維持する事や、
批評家との関係をキープする事すらを、
きちんとしようとしません。

アートスタディーズの時に、レクチャーしてくれるゲストを捜すのも
実際には難しかったのです。
その原因は、ナルシズムの作動による他者排除です。

自分を守るために、
他者を問答無用に排除するのです。

なぜなら、自分の欲望だけを考えて、他人はじゃまだからです。

ナルシズムというのは、自分を守るだけでなくて、
他者を排除するのです。

それは社会的な関係性や歴史性を、
目先の小さな関係に限定して、
より普遍的な公共性への視点を欠いているのです。

小さな関係性は、
時代が変われば崩壊して、失われます。
そのことを考えていないのです。

人間が社会的に生きるというのは、
実は他者の欲望を理解して、それをコピーして自分の欲望に
する事です。
それが人を愛する事です。

愛するというのは、他人の欲望を自分の欲望とすることなのです。

気体分子ギャラリーを作動させようという私の欲望は、
実際には、若い作家の発表の場をキープする事に意味を見いだして
いるのですが、それは若い作家の発表の欲望を、
私自身の欲望としてコピーするからです。

ジャック・ラカンやジラールが発見した事は、
自分の欲望というのは、実は他人の欲望のコピーであると言う事です。

他人の欲望を生きる事こそが、人生の基本であり、
そして社会関係の基本なのです。

しかし、欲望は多様であり、
お互いの欲望は、実はすれ違うのです。

ですから、欲望を交差させられる関係を求めて、
組み替え、移動して行く必要があるのです。

多くの作家というのは、実は自分の発表場所もいらなければ、
自分の作った作品を死後も残して、歴史的意味性として美術館に
入れるという事すらも、排除するのです。

追いかけているのは目先の自己満足だけであって、
それ以上の欲望は無い人が多いのです。

作家の欲望というのは、
実は多様で、それは人間の生き方そのものであって、
私の試みと齟齬を来たし、分かれるという関係を何度も繰り返して
来ています。

私自身の問題が大きくあるにしても、実際にやる気の無い作家にも
実に深い問題があるのです。

努力を惜しみ、目先だけを生きる。
人生は確かに盲目的なものではありますが、
作家の多くは、実に矮小なのです。

さて、そういう意味で、気体分子ギャラリーの活動は、
内紛も含みながら進みます。
それは何故なのか?

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ニューヨーク在住の富井玲子さんは、
「彦坂尚嘉は動く標的だ!」と評しました。
確かに私は、動き続けるのです。
しかし私の元の友人や知人は、動く事を嫌います。
古いままに止まる事を望むのです。

コンテンポラリー・アートという意味を理解していないのです。
コンテンポラリーであり続けようという、
不可能である欲望を私は持っています。

不況が深刻化し、日本が崩壊していく2010年〜2015年の時代、
戦中の「新人画会」のように、作家が困難な時代に《真性の芸術》を
追求するマトリックスを、形成したいと思います。

「新人画会」は、太平洋戦争下の1943年に結成されています。
30代の靉光、井上長三郎、麻生三郎、松本竣介、鶴岡政男、糸園和三郎、寺田政明、大野五郎の8人の画家が、描きたいものを描くために相寄り、結成したのです。

「太平洋戦争」「大政翼賛会」「国民総力決戦」などの言葉の飛び交う時代、1944年の第3回「新人画会展」まで開催されます。

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靉光の作品

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、
《無芸術》、《非芸術》、《社会芸術》の
すべてがある。

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井上長三郎の作品

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、
《無芸術》、《非芸術》、《社会芸術》の
すべてがある。

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麻生三郎の作品

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、
《無芸術》、《非芸術》、《社会芸術》の
すべてがある。

太平洋戦争の最中に、新人画会の作家たちのすぐれた作品が
存在した事は、大きな意味があるのです。

同様の事は、ベルリンの壁のある時期の東ドイツの作家たちの美術にも
いえます。
困難なときほど、芸術というのは、追求される必要があるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


マトリックスというのは元来「生み出すもの」を意味する言葉で、
子宮という意味です。

《近代》という時代は終わりました。
「我思う故に我有り」という哲学的な反省が、
「自分だけ善ければ良い」という《自己愛》性人格障害に退化して
しまいました。

行き過ぎた《自己愛》が、社会を解体し、ばらばらにしてゆくのです。

自己満足だけを追いかける作家の時代は、しかし、
この日本の崩壊下の不況の中で衰弱するのです。
「自分だけ善ければ良い」という考えの人は孤立して行きます。

この不況下で、孤立した作家は、衰弱します。
歴史的に振り返れば、作家たちは集まり、助け合って生きて来たのです。
ピカソのいた洗濯舟にしろ、モンパルナスにしろ、
ソーホーや、チェルシーーの形成にしろ、
作家は集まってお互いの制作を、競争しつつ、切磋琢磨して来たのです。

社会というのは、人間のつながりでできています。
社会の欲望、そして他人の欲望を見据えて、
それを自分の欲望としてコピーして行かないと、
人間のつながりは生まれません。

自分の欲望を明確にして、それと共有できる人を捜して行く必要が
あります。
同時に、他人の欲望を良く見て、自分の欲望として共有できるか
どうかを、見分けて行かなければならないのです。

人間と人間の関係が、従来の様な伝統的な血縁関係や地縁関係、
そして学閥や会社閥の関係ではない、
新しい欲望のネットワークの時代になったのです。

気体分子ギャラリーは、
靉光や井上長三郎、松本竣介らの「新人画会」のように、
作家の協力関係で運営しますので、
労働に参加するスタッフを求めています。

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コープ・ヒンメルブラウ/COOP HIMMELB(L)AU(画像追加20) [建築]

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昨日、今日までの会期で終わりそうなので、あわてて初台のオペラシティまで行って、
コープ・ヒンメルブラウ展を見て来ました

コープ・ヒンメルブラウ
というのは建築集団で、1968年ウイーンで設立されています。

斬新なデザイン性に感動するのですが、それ以上に、
《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《社会芸術》という、
6段階をすべてクリアーしている事に対しての驚きがあります。

それはコールハースの建築には欠けている事なのです。
コースハースの場合には、《原芸術》がありません。
そのせいか、私はシアトルと、ポルトに実物を見に行って、建築ツアーも
して、勉強すると、コールアースの建築は、思ったほどには感動しないという
体験をしているのです。

コープ・ヒンメルブラウそういう意味で、パーフェクトに6つの芸術層をもっている
建築の美しさを、実物で見てみたいと思うのです。


整理すると、芸術は次のような6階層の構造を持っています。

《原芸術》
《芸術》
《反芸術》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《無芸術》
《非芸術》
《社会芸術》


芸術という言葉を、建築という言葉に置き換えても、
同じ意味として了解して下さい。
つまり建築=芸術なのです。

《原建築》
《建築》
《反建築》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《無建築》
《非建築》
《社会建築》


例えば、東京オペラシティというのは、
立派な《1流》建築ではありますが、
しかし《無芸術》《非芸術》《社会芸術》の建築下部構造の3層しかありませ。
建築の上部構造を欠いているのです。

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東京オペラシティ

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。

《無芸術》《非芸術》《社会芸術》がある。



同様の現象は、丹下健三の後半の建築や、
安藤忠雄の最近の建築にも言えます。

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丹下健三の新東京都庁舎

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。

《無芸術》《非芸術》《社会芸術》がある。

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安藤忠雄の兵庫県立美術館

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。

《無芸術》《非芸術》《社会芸術》がある。




《社会芸術》や《社会建築》性さえあれば、社会的には成立しますが、
しかし《原芸術》という上部構造を欠いている芸術や建築は、
結局は実用以上に意味は無いのであります。










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今回いっぱいで、ダルマへの参加終わります。(加筆3) [アート論]

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あなたの生活にすばらしい幸運を呼ぶ『達磨ラッキー』は、


過剰なまでの欲望に満ちています。


幸運の神がもつ欲望をコピーして、


自分自身の欲望に変える達磨ラッキーが、


あなたを幸せにします。


幸運達磨の最高峰です。



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達磨ラッキー(大) 12.000円




「深川いっぷく」の白濱万亀さんと、
けっこう付き合って来たのですが、
さすがに、下町のリアリティと付き合うのが、
私の限界になったように思います。

何が限界なのか?

★イベント名
  新春企画「第4回深川100人100色だるま展」

★開催期間
 2010年1月1日(金・祝)~1月24日(日)
 13:00~20:00
 定休日 1月2日


達磨も第1回目に参加して、今回も参加したのですが、
こういうものの制作は、
今回で終わりにしようと思います。

思想的には、下町の庶民へ向けて制作する事は、
それなりの意味があると思いますが、
どこかで、私自身の中で空転して、
ついて行けないところがあるのです。

越後妻有でもそうですが、
結局、人々の生活の下層まで下りて行くと、
アートや芸術が成立できない地層が存在しているのです。

しかしその地層を無視しては、
人間のいとなみは成り立たないのですが、
それでも、その区切りのレイヤーというのは存在していて、
そこを超えることが出来ない。

越後妻有で象徴的な作家は、菊池歩さんでしたが、
彼女は、超えられたと思いますが、
私には、そういう越境が、意味のあるものとは思えない。

「深川いっぷく」の追いかけている層というのは、
菊池歩さん的なものとも違うのですが、
私の追いかけているディメンションでもない。

とりあえず「深川いっぷく」は、今回で卒業しようと思います。

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達磨ラッキー(小)  5.000

 

 

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《想像界》の眼で《第41次元》〜《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第41次元》〜《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元》〜《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ローアート》

シニフィアンとシニフィエの同時表示の美術
キッチュと純粋芸術の同時表示。

《透視立体》
【A級美術】

自分では、一生懸命に作っていますが、
しかし、結局はダルマとしてしか見られません。
《ローアート》であることを超えられない。
超えようとすると、お金がかかります。
当たり前ですが・・・・。
たとえば、ダルマを金属で鋳造するとか・・・。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《社会芸術》 
そいう、すべてが有る状態にまで、描き込んだということ。

それと《想像界》《象徴界》《現実界》の3界の上に、
さらに《サントーム》を描き込むというてんこ盛りであります。

やり尽くしたという事もあって、
燃え尽きたのですね。

越後妻有トリエンナーレと、深川との関係は、
ある意味では連動していたのですが、
アートが、地域起こしとつながる可能性を模索する10年でした。

アートで、地域起こしができるのか?
という疑問から始めて10年間、地域と付き合って来て、
サントームとしての芸術の機能があるという事には、
確信が持てるようになりました。

サントーム論をここでやるわけにはいかないのですが、
アートには、新しい社会的な機能があるということを、
実感としてつかめたのです。

しかし卒業して、私は次の2010年代は、
違う方向へと転換するということです。

2000年代の10年は、いろいろ勉強できたけれども、
限界にきたのです。

芸術やアートの成立するトポスには、地層的な限界が
存在するのです。

ギャラリーARTEさんの本島とは、
地域起こしと言う範囲を超えた、
もう一段階ステージを変えた形で、
お付き合いできる可能性を模索したく思います。
本島は、格調が高い地域なので、
その辺の差がうまくつながれるかどうかですね。

「深川ラボ」の白濱雅也さんとは、
まだ現代アートのギャラリーとしての
展開の可能性を追いかけるという意味での作業は、
継続できればと思っています。


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アイスクリーム(加筆2最後の結論部分) [食べ物]

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私のアトリエの近くには、飯田牧場という
日本一小さいと言われている牧場があります。
ここの取れ立てのミルクで作ったアイスクリームは美味しくて、
《第1次元 社会的理性領域》、つまり《1流》の味です。

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アイスクリームと言えば、ハーゲンダッツです。

ハーゲンダッツは、1920年代にポーランドからのユダヤ系移民ルーベン・マッタスとその妻が、ニューヨークで、アイスクリームの行商を荷馬車で始めたのが起源と言われています。
そのルーベン・マッタスの顔を見ると、《超1流》の人物です。

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《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格
《シリアス人間》

《ローアート的人間》

シニフィアン(記号表現)的人間。
『真実の人』

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

日本に上陸したのは1984年。
私もこの年に食べて、感動しています。
大人のアイスクリームで、
高級アイスクリームというイメージを焼き付けられたのでした。

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ハーゲンダッツのイメージ

《想像界》の眼で《超次元》だけのデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《超次元》だけのデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元》だけのデザイン的エンターテイメント

《想像界》だけの表現
固体美術の表現

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《原始画面》『ペンキ絵』
【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《社会芸術》がある。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ハーゲンダッツの高級戦略が、
《超1流》のイメージだけで、
《1流》が無いところが、面白く思いました。

もっとも、高級化したのは1961年。
創業から40年も絶ってからです。
レシピに卵黄を加え、乳脂肪分を17%まで上げたのです。

途中から高級化するというのは、戦略として、ありなのですね。

シャネルも、最初は《3次元・コミュニケーション領域》でしたが、
ブランドとして確立されると、《超次元》になっています。

マドンナの音楽も、最初は《第2次元 技術領域》ですが、
途中から《第1次元 社会的理性領域》にアップしています。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

実は、昨日はサーティワン・アイスクリームを食べたのです。


「ティラミス」というシーズンフレーバーです。


「コクのあるティラミスをアイスクリームに、

しっとりコーヒー風味のスポンジを入れ、

エスプレッソリボンで仕上げました」というしろもので、

ルックスも、味も《第41次元》だったのです。

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31アイスクリーム「テラミス」のイメージと味覚

《想像界》の眼で《第41次元》だけのデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第41次元》だけのデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第41次元》だけのデザイン的エンターテイメント

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
液体=近代の表現

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
【B級食品】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《社会芸術》がある。

サーティワンアイスクリームの31は、毎日違うアイスクリームを
一ヶ月食べられるという意味だそうです。

これがなかなか凄くて、《第41次元 戦争領域》、
そして《第31次元 犯罪領域》、
さらに《第21次元 愛欲領域》、《第2次元 技術領域》と、
4次元にわたるアイスクリームを揃えています。

その中の極めつけの《第41次元》だけですが、
ご紹介しておきます。


ホリデーグリーティング

Holiday Greeting

さわやかな酸味のラズベリーと上品なコクのピスタチオが絶妙な組み合わせ。マシュマロも入った、楽しくリッチなフレーバー。

 

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キャンディマン

Candyman

チョコレートアイスクリームに、ゴロッと大粒のチョコレートとカリカリのシュガークリスプ、さらにキャラメルとオレンジの2種類のリボンまで巻きつけたら、キャンディマンのできあがり! さあ、仮装パーティーへ出かけよう!

 

 

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マジカルミントナイト

Magical Mint-Night

ちょっぴりビターなチョコレートとさわやかなミントの2つのフレーバーにパチパチはじけるポップロックキャンディをちりばめました。夜空にキラめく魔法をイメージしたフレーバーです。

 

 

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チョコレートミント

Chocolate Mint

チョコレートチップとミントアイスクリームの絶妙なハーモニー。

 

 

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キャラメルリボン

Caramel Ribbon

バニラアイスクリームと、とろけるキャラメルリボンのスウィートなハーモニー。

 

 

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ポッピングシャワー

Popping Shower

お口の中で、ポップロックキャンディが次々に弾ける楽しいフレーバー。

 

 

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ロッキーロード®

Rocky Road®

チョコレートアイスクリームにアーモンドとマシュマロ。「岩だらけの道」の名もユニーク。

 

 

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昔は、たくさんのアイスクリームが日本でも出店したのですが、

多くが消えて行きました。
その中で、忘れられないのがSwensen's です。
これもアメリカンアイスクリームの過剰な愚かさを、てんこもりに
した、恐るべきものでありましたが、
日本からは消えてしまったようです?

その中でサーティワンアイスクリームが健闘して来ている事に、
改めて驚きます。

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最後は、彦坂尚嘉のトマトアイスクリームです。

私は小さいときからトマトが好きで、トマトにお砂糖をたっぷりかけて食べていました。
 
それが高じてトマトジャムをつくったり、トマトのみそ汁も良く作って食べていました。

そうこうするうちに、新しい冷蔵庫を買ったときに、アイスクリームメーカーがついていたので、トマトアイスクリームを作ったのです。
 

ところが世間には、「とまと銀行」はあっても、「トマトアイスクリーム」はない。


これは面白いというので、作品にしました。

トマトアイスクリームをつくって展覧会をやった最初は、1998年、神田の文房堂ギャラリーの『トマトアイスクリーム試食会』です。

この後、銀座のギャラリー手、立川のスタジオ食堂、そして今年の越後妻有トリエンナーレと続けています。

2008年の『こんぴらアート』でもトマトアイスクリームをやっています。
 
この作品は、トマトアイスクリームを食べて、「おしいい、まずい」という意見を言い合うという作品なのです。

これは《超次元〜6次元》の、上品なアイスクリームでありました。

そういう意味で、私にとっての役割を終えてしまったと言えます。
つまり今日の私にとっては《超次元》から《第41次元》までの、
全領域が問題だからです。

情報化社会の芸術は、《第7次元》〜《第41次元》という倒錯領域を、
含んだ総合性で、作品形成をしないとダメであるという、
結論に至っているからです。

そういう意味で、トマトアイスクリームの第2弾のレシピを
考えなければいけませんね。

 

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小さな門より入れ/軽蔑に耐え(加筆2) [生きる方法]

 駄美術というのがあって、駄菓子をもじったものですがグリコのおまけのような、貧しさの中にあって光る、お札のような作品ですね。 

by 丈 (2009-12-18 18:22)  

丈様

 

コメントありがとうございます。

駄美術というか、低俗美術というのは、基本と言うか、

基盤だと言えます。


制作されている美術作品の80%は最低な駄菓子的な美術なのです。


実は映画論の中には『最低映画』という用語があって、

「エクスプロイテーション映画」の翻訳です。


私自身も『低俗映画研究会』というのを、

大学時代に主催していました。


「エクスプロイテーション映画」というのは、

exploitという言葉通りに、搾取するとか、搾り取るという意味です。


つまり「馬鹿な奴らから金を搾り取るための映画」というのが、

「エクスプロイテーション映画」というもので、


何の事は無い、商業主義の娯楽映画の事で、ハリウッド映画にしろ、

昔の五社映画の80%は、こうした商業主義の映画なのです。


こういうexploitを目指すのは、何も映画だけではなくて、

美術にもたくさんあって、

「馬鹿な奴らから金を搾り取るための美術」というものは、

実は美術作品の主流でると言えるのです。


つまり商業主義の娯楽美術なのですが、

これは古くはミケランジェロ、ティツアーノや、ゴヤ、

そしてマティス、アンディ・ウォーホル、リキテンシュタイン、

さらにはジェフクーンズ、ダミアン・ハースト、村上隆も、

奈良美智も、「エクスプロイテーション美術」であるのです。

この中には、ピカソの大多数の作品も入ります。


ミケランジェロを「エクスプロイテーション美術」というと、

怒る人が、多くいるかもしれません。

しかしミケランジェロの作品は、高く評価され、

多くの影響を与えた事は事実ですが、

彦坂尚嘉の私見では、《第6次元 自然領域》の低い

しかもデザイン的エンターテイメント作品に過ぎないのです。

だからこそ、社会的に大成功したのです。


これについては別のブログを用意しているので、

詳細はそちらに譲ります。


美術史を通して、実は「エクスプロイテーション美術」は、

いつの時代にも大きな流れでありました。

しかも「低俗美術」というのは、実は、

特に1975年以降の主流の美術であると言えます。

 

高級美術、あるいは上流美術、《真性の芸術》の美術というのは、

忌避され、抹殺されて来ているのです。


今日においては、ほぼすべての美術は低俗美術であり、

駄菓子のような美術なのです。

 

そういう美術への嫌悪は正当ではありますが、

しかし単なる貴族趣味では、

敗北するしかないでありましょう。


むしろ逆であって、

「エクスプロイテーション美術」のフリをして、

そのキッチュで低俗な表情のしたに、

《真性の芸術》を滑り込ませて行く事が求められているのです。


あるいは、意識的に良い趣味性をとり、

分かりやすい現代美術の定式的なスタイルやイデオロギーを

まとう。

こうした事もまた、商業的に、

つまり「馬鹿なコレクターから金を搾り取るための美術」として

制作されている事が、事実としてあるのです。


実際に多くの人々は、

こうした商業主義が好きなのです。


もともとが、美術は、映画と同様に低俗なのです。


「エクスプロイテーション映画」が、

映画を通して訴える思想も芸術論も、世界に対する知的認識もなく、

単に《気晴らし》の娯楽映画をつくるというもので、

そこにはオリジナリティもなく、平気で人の作品をパクル。


もともと映画をそれほど好きなわけではなくて、

単に商売にすぎないという人々が蠢(うごめ)いている世界です。


同様の事は現代アートにも言えて、

多くの美術家は、美術を通して訴えるべき思想も芸術も、

世界に対する認識も無くて、

それでも社会的に了解にのるそれらしきコンセプトを、

もっともらしく書く事で了解されているだけなのです。


その表層的な理屈や定番のイデオロギーを、

また馬鹿な人々が文字通りに信じるという、

馬鹿でアホで、能天気なお祭りが繰り広げられているのです。


そこにはオリジナリティも無く、平気で他人の作品を焼き直し、

自分の作品として発表する。


何よりも、美術の作家自身が、

もともと美術はそれほど好きではなくて、

単に《自己愛》性人格障害者で、単に自己中毒者の商売に過ぎない

美術が蠢(うごめ)いているのです。


低俗美術というのは、理性脳による抑制が無いのです。

美術のイラスト性、装飾性、官能性という、

人間の脳の最深部にある原始的な本能や欲望という劣情に訴える

だけが、美術の本質だと思っているのです。


今日の社会は、ある意味で自然なのであって、

ジャングルなのですが、美術も芸術も、同様に、

ジャングルの中をサバイバルする、低俗な商売になったのです。

それが村上隆が提起した、芸術起業論なのでありました。


 

 

絵画の起源

 

人類の歴史の中には、大きな絵画=建築美術、中ぐらい(基準は20号)

の絵画=流通美術、そして小さな絵画=本の美術/版画・写真というのが、あるのです。

 

つまり絵画はひとつではなくて、起源が3つあるのです。

 

日本の中でされている絵画論は、絵画をまるでひとつの起源から生まれて来たかの様な議論の仕方で、抽象的に論じているのです。そういう抽象論は、不毛なのです。

 

それはまるで、人間もゴキブリも同じ生物だとして、生物を抽象的に論じているのと同様なのです。

 

「木」という言葉で指し示す物が、松の木から、ツツジ、榛松、さらには木の橋から、割り箸まで指し示しえるように、「絵画」という言葉が指し示す物は、実はひとつの絵画ではなくて、複数の起源から生まれた多様な絵画なのです。その中には低俗絵画も含まれているのです。

 

この絵画の複数性への認識を欠いた議論は、単なる抽象論に過ぎないのです。

 

小さな絵画

 

ドローイングというのは、基本的には小さな美術で、本の美術です。浮世絵も、版画ですので、この小さな美術に入ります。

 

小さな絵画の多くは、コレクターのところでしか見られませんが、例えば瑛九のマッチ箱代の絵画は、なかなか良いものでした。

 

モローの小さな絵画は、ヨーロッパの美術館には展示してありましたが、胸を締め付けられる様な感動があります。

 

アンドレマッソンの作品も、小さなものが多くて、MOMAでも、知っていて探さないと見損ないます。

 

小さな絵画を、日本の多くの現代美術家は、見る事もしないで、軽蔑の眼差しで、見も市内で切り捨てる態度を取りますが、それは間違いです。

 

扇面

 

狩野派は、狩野永徳のように、安土桃山城の大壁画を描いていますが、しかし実際に食べるために描いているのは扇面の絵画です。

この扇面画は、普通に見ると、良いのか悪いのか分かりにくい物です。

 

同じ事は明治の巨匠である富岡鉄斎にも言えます。1000号を超える大作を数多く描きながら、しかしコレクターに人気のあったのは、扇面なのです。しかし私でも、この扇面を見て、なかなか分かりにくいということを経験しています。


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小さな作品というのは、実はコレクター以外の普通のただ見の人間には鑑賞が難しくて、人に嫌な思いもさせます。

 

たとえば菅井汲の小さなシルクスクリーンの作品は、嫌な感じがしました。

 

ジョン チェンバレンの小さな彫刻も、嫌な感じで見た覚えがあります。

 

自分の作品も嫌な感じを持つ人がいるだろうとは思います。

 

しかし、私自身は、もともと小さな作品をつくることをし続けて来ています。

 

クレーの影響が大きいと言う事があります。小さなところから始めるというのは、重要な事だと思っています。

クレーを悪く言う人も多くいますが、クレーは偉大なアーティストです。

 

聖書にも、小さき門より入れとあります。

小さな作品は重要なものなのです。

 

小さな作品、中くらい作品、大きな建築美術と、すべての領域を作りたいと言う気持ちが私には、あるのです。でないと、美術と言う相互性が理解できないと考えます。

 

皇居美術館空想のような、概念的で象徴界の設計の様な作品も作れば、小さな名刺大のドローイングも描くと言う立場をとります。そうしないと、美術の全領域が追求できないと考えます。

 

しかし多くの作家は、自分の作品だけを愛して、美術そのものや、芸術そのものを追求しようとしません。

 

コレクター

 

コレクターも同様であって、大コレクターや美術館のような上流が重要ではありますが、しかし下流の小さなコレクターも重要だと、理念的には思います。

 

それはリアリズムというよりは、思想的な理念の問題であって、実際には小さな作品を作るのは手間も大変だし、社会的には不愉快な思いもたくさんします。小さな作品や、版画を作ると売春婦のような扱いを受けます。

 

小さな作品だけを買うコレクターは、今度は逆に、自分には買えない大きな作品を見ようとはしません。美術作品が好きなのではなくて、買う事が好きなのです。

 

コレクターはコレクターで、自分の欲望だけを見つめていて、実は作家研究もしないし、極端に言えば作品も見ようとはしないのです。コレクターのほとんどは、コレクションという事自身を勉強しません。すぐれたコレクターについて、どのようにしてすぐれたコレクションを集めたのか、という、そういう他者のコレクターについて、勉強をしようとしません。ただ盲目的に買いたいだけと言うコレクターが多くいるのです。。

 

つまり人間の多くは自分のことしか考えていなくて、美術や芸術すらが、自分の《気晴らし》のために過ぎないのです。《気晴らし》への欲求は、人間の深い欲望なのです。こうした矮小な人間の欲望と向き合って、この矮小さをコピーして、自分の欲望であるかのように制作する中に、《真性の芸術》を滑り込ませて行くと言う詐術が重要なのです。芸術というのは、《社会芸術=エクスプロイテーション美術》を模倣した上での詐術なのです。

 

建築美術をコミッションワークでやる場合も同様で、日本の美術界は、こうしたものは見ない事にしているかのように無視します。つまり小さな美術を無視すると同時に、大きな建築美術をも無視するのです。

 

日本の現代美術界というのは、奇妙な欺瞞の空間の中に閉塞しているのであって、それはそれで仕方がない事です。美術や芸術というものが、奇妙な思い込みの迷信の中に形成されていて、一種の知的障害のような症状を呈しています。

 

しかしこうした構造を、一挙に変える事は出来ません。団体展は、どうしようもありません。現在の旧・現代美術も、まとめて古くなり、団体展のようになってしまいました。若い現代アートのことは、私自身には良く分かりませんが、しかしある種の新しい団体展のように見えます。


この外へと出たいという欲望!

 

電車の中で

 

ただ普遍的な美術を追究しようとすれば、私は小さな美術も、中くらいの美術も、大きな美術も追究をして行かないと、作家として大きく成長できないと思っています。

 

そんな、大それた事を言う必要も無い事ですが、自分としては電車の中で描けるこうした小さなドローイングも、面白いのです。電車の中で、私は退屈ですから、制作をしたいのです。

 

中くらいのものや、大きな作品も作りますが、小さなドローイングや水彩も、小さな隙間の時間の中で作って行きたいのです。

 

こうした小さくて安い作品を、軽蔑する人は軽蔑すれば良いのです。私は何人もの人に軽蔑されて生きて来ていますが、私は鈍いから、屁とも思わないのです。鈍さというのも才能の内であります。

 

私の方は、小さくても真剣に芸術作品として制作するだけです。

 


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白髪一雄の反作品 [アート論]

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白髪一雄という作家がいます。
足でアクションペインティングを描いた作家です。
具体の代表的な作家の一人です。

何回も個展を見ていますが、
最初に見た時には面白くて、良い作家に思えるのですが、
3回目を過ぎると、みな同じに見えてきます。
一枚一枚は違う色で、違うストロークで、別の作品なのに、
みな、同じだという印象が生まれてくるのです。

今、横須賀美術館で回顧展をやっている様なので、
見てこようとは思っています。

数をみていると、上品とは言えない、
むしろ下品と言ったら失礼ですが、
そういう荒々しい野卑で反文明性が見えて来て、
良く無い作品であると思う気持ちが私の中に生じている事が
分かるようになります。

《第6次元 自然領域》ですが、
何よりも絶対零度の作品です。
つまり現代美術といいながら、内実は原始美術なのです。
野蛮な美術であると言えます。
下品に感じるのは、文明の中の野蛮美術だからです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

一昨日、ある場所(ザマーケットの事務所)で、この作家の大きな絵を目にして、
芸術分析をしたのですが、
驚くべき事に、芸術という項目への
《言語判定法》的な反応がありませんでした。

つまり白髪一雄の作品は《原芸術》ではない。
白髪一雄の作品は、《芸術》でもない。
白髪一雄の作品は、《反芸術》でもない。
白髪一雄の作品は、《非芸術》でもない。
白髪一雄の作品は,《無芸術》でもない。
白髪一雄の作品は,《社会芸術》でもない。

という結果になったのです。
つまり白髪一雄の作品は、あらゆる意味で「芸術」という
言葉に、対応をしないのです。

つまり、白髪一雄の作品は、あらゆる意味で「芸術」ではないのです。
このことは、かなり驚きなのです。

なぜなら、この社会にある普通の物でも、《非芸術》という言葉に
対応しているからです。
ということは、白髪の作品は、普通の物ではないのです。

同様のことは「絵画」という言葉でも起きました。

白髪一雄の作品は、「絵画」ではない。
白髪一雄の作品は、《反絵画》でもない。
白髪一雄の作品は、《非絵画》でもない。
白髪一雄の作品は,《無絵画》でもない。
白髪一雄の作品は,《社会絵画》でもない。

つまり白髪一雄の作品は、あらゆる意味で「絵画」という
言葉に、対応をしないのです。
つまり、白髪一雄の作品は、あらゆる意味で「絵画」ではないのです。

しかし、ちょっと目には絵画に見えますし、
私たちはアンフォルメルの絵画の一種類としてみて来ているのですが、
《言語判定法》では絵画ではないのです。

フランスのアンフォルメルの作家に
ジョジュル・マチューという作家がいますが、
この人の作品は、絵画という言葉に対応するものです。


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IMG_0327.jpg

IMG_0324.jpg

私はマチューの回顧展をパリで見ていますが、
最初期には根拠の有る絵を描いていますが、
あとは《第6次元 自然領域》の『ペンキ絵』に過ぎません。

有名な画家ではありますが、ひどいレベルの絵画です。
回顧展で見ると、なおさら、ひどさが身にしみます。
ひどいアーティストは、日本だけではなくて、
フランスにも居る事がわかります。

さて白髪一雄です。

そこで、私は、白髪に対応する言葉を探しました。

とりあえずみつかったのは、「アクション」です。
「アクションの結果」という言葉にも、対応はします。

しかし「シニフィアン」(記号表現)という言葉には反応しません。
「シーニュ」という言葉にも反応しません。
マチューの絵画はシーニュという言葉にも、シニフィアンという
言葉にも、対応します。

同様のことはデ・クーニングやポロックの絵画もチェックしましたが、
ちゃんと芸術関係の言葉や、絵画にも、シニフィアンという
言葉にも対応します。

つまり白髪のものは、かなりの異常な物なのです。

白髪一雄の作品は、では「アクション」ではあるにしても、
いったいなんなのでしょうか?

そもそも「作品」なのでしょうか?

《言語判定法》で、「作品」という言葉を投げかけると、
白髪一雄の作品は、
「作品」ではない、と出ました。

では何なのか?

白髪一雄の作品は、《反作品》であると出ました。
つまり「反作品」という言葉に対応するものなのです。

しかし《反芸術》ではないのです。

《反芸術》ではなくて、
反作品であるという白髪の反作品は、かなりの奇形であると
私は思い、驚いた次第です。

白髪さんは、実はかなり苦しんだ作家で、
仏教僧にもなっておられる方です。

現代美術家が、何故に仏教僧の修行をして、会得までなさったのか?
その秘密の一端を覗いた気持ちがいたしました。

彼の反作品には《芸術》が、一かけらも無いのです。
にもかかわらず、《芸術》という名において、
彼の反作品は、社会的に成立しているのです。
この理不尽さは、本人にも苦痛をもたらしたように思います。

《芸術》の名において、作品を成立させる以上、
芸術を探究する必要はある、という当たり前の事は
あるのです。





タグ:白髪一雄
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小さな完売と、考え方 [気体分子ギャラリー]

彦坂尚嘉 様


 昨日から今日にかけて彦坂さんのブログからの作品購入者が

 3名でした。

ということはお送りいただいた作品は完売いたしました。


1点は持ち帰りたいとのことでお渡ししました。

この先の購入希望の方へ出来れば作品数点を追加していただけますか。


熱烈ファンがいらっしゃいますね。

新鮮な感動を味わった一日でした。


○○○○

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 カスヤの森現代美術館

 〒 238-0032

 神奈川県横須賀市平作7-12-13

 tel   046-852-3030

 fax   046-852-7488

 e-mail info@museum-haus-kasuya.com 

 http//www.museum-haus-kasuya.com

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


私の作品を買って下さったみなさまに、
感謝します。

カスヤの森現代美術館からのご要望があるので、
作品を3点追加いたしますが、
その画像は、ブログを改めてご紹介します。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


日本が一億総中流の時代には、
中流の人々が、アートを買わなかったという思いが、
私にはあります。

そのせいもあって、中流に対する失望が私の中にはあるのです。

さて、そういう意味で、
現在の中流解体による、日本経済の墜落、
そして世界の中で最悪の赤字財政が到達するだろう破綻への道程は、
ひどい状況ですが、しかし一億総中流の失望の時代よりは
ましかもしれないという思いがあります。

上流のコレクター

中流が解体される事で、上流が生まれて来ていて、
上流階級の人々は、高いものを買います。

それは高いランクのギャラリーで、作品を買います。

ですから、私も作品を高額になるように制作しなければなりません。

額も、高めのものを付けなければなりません。

私の現在のギャラリー状況の中では、
アートフロントで売ってもらうのが、一番良いという状態です。

ギャラリー・アルテさんも頑張って下さっています。

あと昔の関係が残っていて、
ザ・マーケットにいる杉山旭さんから言われたので、
実は昨日、10号前後くらいの作品を2点、
徹夜で完成させて、新橋のザ・マーケットの会場まで手で運んで
入れて来ました。
1月のオークションに出品するためです。

作家が作品を直にオークションに出品する時代に
なって来ています。

徹夜で制作して、そのまま立教の授業を2コマやって、
さらに昨日はラカンと美術の読書会でした。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

今の状態では、
オークションでは安い価格で、落ちるか落ちないかも
分からない状態です。

定価は30万円以上のものでも、5万円程度で落ちています。
5万円でも、落札できる事を良しとして、耐えなければなりません。
マーケットの性格を把握して学習して、適応できる方法を
考えなければなりません。

そういう意味で、《原芸術》の反対にある《社会芸術》という概念は、
重要なものです。

これについては、このブログでミケランジェロ論として
詳論する準備をしています。

《近代》という時代は、
モダンアートは、基本は《原芸術》を中心にして抽象美術
/ミニマルアート/概念芸術までの展開を計ったのです。

しかしそれは同時に結果に至ってしまった事と、
ベトナムでアメリカが敗戦する事で、
事態は反転したのです。

いや、正確にはネオダダからポップアートへと反転して行く時点で、
実は《社会芸術》へと、芸術の基盤が反転したのです。
この反転は、もともと社会の中には潜在していたのであって、
迷宮としての世界―マニエリスム美術 』という
グスタフ・ルネ ホッケの著作が、邦訳では1960年代半ばにでますが、
これが転換点になっていたと、私の私感ですが感じます。

しかし《社会芸術》への1980年代の転換は、
同時に短命な美術作品を量産的に発生させる事に帰結し、
さらにそれは1990年代2000年代という20年間に
再び繰り返されました。
この1980年代から2009年までの30年間の美術家を思い起こせば、
華やかなはずなのに、実は惨憺たる荒廃も同時に出現してきて
いる事が見えるはずなのです。

彦坂尚嘉が考える結論は、
《原芸術》と《社会芸術》の分裂そのものに問題があるのであって、
この統合が重要なのです。

彦坂尚嘉と、そして気体分子ギャラリーの活動は、
《原芸術》と《社会芸術》を統合した作品を展開して行きます。

制作は、《超次元》から《第41次元》のすべてを描いて、
しかも《原芸術》《芸術》《反芸術》
さらに《非芸術》《無芸術》《社会芸術》のすべてを同時表示
する事を基本にします。

アートフロントギャラリーが売ってくれている事と、
それと、うまく行っても行かなくても、
オークションでもささやかに頑張る事。

さらに自分が主催する気体分子ギャラリーでも、
売れても売れなくても、
高額で展開しなければならないのです。

気体分子ギャラリーというのは、
《第6次元 自然領域》の凡庸主義の作品ではなくて、
《第41次元》と《超1流》作品を売っていことを目的にしています。

それは上流階級の人々に、
高い金額で、高いクオリティの作品を提供することを
目的にしているギャラリー活動なのです。

昨日徹夜して完成させた2点も、
《超次元〜第41次元》のすべてを持っていて、
しかも《原芸術》《芸術》《反芸術》、
さらには《非芸術》《無芸術》《社会芸術》のすべてを持っている作品
なのです。

この《非芸術》《無芸術》《社会芸術》の面をも持っていることで、
従来には無い総合的な作品を目指して行きます。

制作は、手間も時間も、材料費もかかるのです。
しかもフルコースのこうした作品は、もしかすると売れにくいかもしれません。
その場合にはアトリエに残して、
死後の販売の可能性にかけるしかありません。

同時にこのフルコースと平行して、
《第1次元 社会的理性領域》と《第41次元》という組み合わせの様な、
洗練した作品を展開します。
売れる作品は、『アートの格付け』では、むしろ2つの格を
もつものくらいの方が、見る方は楽だろうと思います。
作品的にも、実は洗練度を上げることが出来るのです。

コレクターというのは、結局自分の感性に合わせて作品を選ぶので、
フルコースは無理で、より軽いものを求めるのです。
そして軽い洗練された作品は、芸術的にも高度なものなのです。

重いものと軽いものの両面での制作の追求が必要です。
マティスもまた、このような両面での制作がされていますから、
そういう2重性は重要なのです。


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ミケランジェロと《社会芸術》(1) [アート論]

ミケランジェロは、高校時代の友人であった画家の遠藤原三(光風会評
議員)が好きで、
かれが大著の画集を買っていて、高校の時から見ていました。
私はイタリアには3回行っていて、
代表作の実物のほとんどを見て来ています。

572px-Michelangelo's_Pieta_5450_cropncleaned.jpg
ミケランジェロ「サン・ピエトロのピエタ
《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の美術。
固体美術。

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術。

原始立体。お人形。【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《社会芸術》である。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原彫刻》《彫刻》《反彫刻》は無い。
《非彫刻》《無彫刻》《社会彫刻》である。

このバチカンにあるピエタは、
《6流》のお人形にすぎなくて、彫刻になっていないのです。

若きマリアの身体にしても、布のシワは良く彫れていますが、
しかし布のシワの向こう側にあるはずのマリアの肉体は、
まったく彫れていないのです。

キリストの腰骨の構造が彫れていなくて、
下肢の付き方も不自然です。

マリアの骨盤も彫れていなくて、
トータルに見ても、マリアの腰はうまくいっていません。
人体彫刻として、基本を欠いています。

それは実物を見て、まず、感動しないという直接性で来ます。
ミケランジェロの彫刻は、ただの通俗のお人形なのです。

同様のことは、高村光太郎の彫刻にも言えて、
これも《6流》の人形に過ぎないのです。

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ミケランジェロ「サン・ピエトロのピエタ
《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の美術。
固体美術。

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術。

原始立体。お人形。【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》は無い。
《非芸術》《社会芸術》である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原彫刻》《彫刻》《反彫刻》《無彫刻》は無い。
《非彫刻》《社会彫刻》である。


高村光太郎のこの有名な手で、一番ひどいのは、手首です。
手首が、この彫刻では作られていない腕の部分への延長性が、
まるで作られていない。

指の肉の中にあるはずの骨の骨格関係も、まるで構造化されていなくて、
親指と、人差し指の関係もできていない。
彫刻としては、《透視立体》性を欠いていて、
《原始立体》に過ぎないのです。

ミケランジェロには《無芸術》《非芸術》《社会芸術》の
3つの芸術性がありましたが、
高村光太郎には、《無芸術》性が無くて、
《非芸術》と《社会芸術》性だけです。
つまり高村光太郎は、ミケランジェロよりも落ちるのです。



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山田幸司さんを偲ぶ会 in 東京 [告知]

『山田幸司さんを

   偲ぶ会 in 東京』



日時:2009年12月28日(月)19時から21時半


会場:新宿 aria blu Tokyo(アリア・ブル・トウキョウ)

   東京都新宿区歌舞伎町1-6-2 T-WING 7-9F

   03-5155-5633

   http://ariablu.com/


会費 5000円、2時間、コース料理、飲み放題、カラオケ付



忘年会を

かねて、山田幸司さんを偲ぶ会を開催いたします。

このブログを読んで下さっている方、

どなたでも参加できます。


ふるって下記に申し込んで下さい。

21日が締め切りです。

hiko@ja2.so-net.ne.jp




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