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小さな門より入れ/軽蔑に耐え(加筆2) [生きる方法]

 駄美術というのがあって、駄菓子をもじったものですがグリコのおまけのような、貧しさの中にあって光る、お札のような作品ですね。 

by 丈 (2009-12-18 18:22)  

丈様

 

コメントありがとうございます。

駄美術というか、低俗美術というのは、基本と言うか、

基盤だと言えます。


制作されている美術作品の80%は最低な駄菓子的な美術なのです。


実は映画論の中には『最低映画』という用語があって、

「エクスプロイテーション映画」の翻訳です。


私自身も『低俗映画研究会』というのを、

大学時代に主催していました。


「エクスプロイテーション映画」というのは、

exploitという言葉通りに、搾取するとか、搾り取るという意味です。


つまり「馬鹿な奴らから金を搾り取るための映画」というのが、

「エクスプロイテーション映画」というもので、


何の事は無い、商業主義の娯楽映画の事で、ハリウッド映画にしろ、

昔の五社映画の80%は、こうした商業主義の映画なのです。


こういうexploitを目指すのは、何も映画だけではなくて、

美術にもたくさんあって、

「馬鹿な奴らから金を搾り取るための美術」というものは、

実は美術作品の主流でると言えるのです。


つまり商業主義の娯楽美術なのですが、

これは古くはミケランジェロ、ティツアーノや、ゴヤ、

そしてマティス、アンディ・ウォーホル、リキテンシュタイン、

さらにはジェフクーンズ、ダミアン・ハースト、村上隆も、

奈良美智も、「エクスプロイテーション美術」であるのです。

この中には、ピカソの大多数の作品も入ります。


ミケランジェロを「エクスプロイテーション美術」というと、

怒る人が、多くいるかもしれません。

しかしミケランジェロの作品は、高く評価され、

多くの影響を与えた事は事実ですが、

彦坂尚嘉の私見では、《第6次元 自然領域》の低い

しかもデザイン的エンターテイメント作品に過ぎないのです。

だからこそ、社会的に大成功したのです。


これについては別のブログを用意しているので、

詳細はそちらに譲ります。


美術史を通して、実は「エクスプロイテーション美術」は、

いつの時代にも大きな流れでありました。

しかも「低俗美術」というのは、実は、

特に1975年以降の主流の美術であると言えます。

 

高級美術、あるいは上流美術、《真性の芸術》の美術というのは、

忌避され、抹殺されて来ているのです。


今日においては、ほぼすべての美術は低俗美術であり、

駄菓子のような美術なのです。

 

そういう美術への嫌悪は正当ではありますが、

しかし単なる貴族趣味では、

敗北するしかないでありましょう。


むしろ逆であって、

「エクスプロイテーション美術」のフリをして、

そのキッチュで低俗な表情のしたに、

《真性の芸術》を滑り込ませて行く事が求められているのです。


あるいは、意識的に良い趣味性をとり、

分かりやすい現代美術の定式的なスタイルやイデオロギーを

まとう。

こうした事もまた、商業的に、

つまり「馬鹿なコレクターから金を搾り取るための美術」として

制作されている事が、事実としてあるのです。


実際に多くの人々は、

こうした商業主義が好きなのです。


もともとが、美術は、映画と同様に低俗なのです。


「エクスプロイテーション映画」が、

映画を通して訴える思想も芸術論も、世界に対する知的認識もなく、

単に《気晴らし》の娯楽映画をつくるというもので、

そこにはオリジナリティもなく、平気で人の作品をパクル。


もともと映画をそれほど好きなわけではなくて、

単に商売にすぎないという人々が蠢(うごめ)いている世界です。


同様の事は現代アートにも言えて、

多くの美術家は、美術を通して訴えるべき思想も芸術も、

世界に対する認識も無くて、

それでも社会的に了解にのるそれらしきコンセプトを、

もっともらしく書く事で了解されているだけなのです。


その表層的な理屈や定番のイデオロギーを、

また馬鹿な人々が文字通りに信じるという、

馬鹿でアホで、能天気なお祭りが繰り広げられているのです。


そこにはオリジナリティも無く、平気で他人の作品を焼き直し、

自分の作品として発表する。


何よりも、美術の作家自身が、

もともと美術はそれほど好きではなくて、

単に《自己愛》性人格障害者で、単に自己中毒者の商売に過ぎない

美術が蠢(うごめ)いているのです。


低俗美術というのは、理性脳による抑制が無いのです。

美術のイラスト性、装飾性、官能性という、

人間の脳の最深部にある原始的な本能や欲望という劣情に訴える

だけが、美術の本質だと思っているのです。


今日の社会は、ある意味で自然なのであって、

ジャングルなのですが、美術も芸術も、同様に、

ジャングルの中をサバイバルする、低俗な商売になったのです。

それが村上隆が提起した、芸術起業論なのでありました。


 

 

絵画の起源

 

人類の歴史の中には、大きな絵画=建築美術、中ぐらい(基準は20号)

の絵画=流通美術、そして小さな絵画=本の美術/版画・写真というのが、あるのです。

 

つまり絵画はひとつではなくて、起源が3つあるのです。

 

日本の中でされている絵画論は、絵画をまるでひとつの起源から生まれて来たかの様な議論の仕方で、抽象的に論じているのです。そういう抽象論は、不毛なのです。

 

それはまるで、人間もゴキブリも同じ生物だとして、生物を抽象的に論じているのと同様なのです。

 

「木」という言葉で指し示す物が、松の木から、ツツジ、榛松、さらには木の橋から、割り箸まで指し示しえるように、「絵画」という言葉が指し示す物は、実はひとつの絵画ではなくて、複数の起源から生まれた多様な絵画なのです。その中には低俗絵画も含まれているのです。

 

この絵画の複数性への認識を欠いた議論は、単なる抽象論に過ぎないのです。

 

小さな絵画

 

ドローイングというのは、基本的には小さな美術で、本の美術です。浮世絵も、版画ですので、この小さな美術に入ります。

 

小さな絵画の多くは、コレクターのところでしか見られませんが、例えば瑛九のマッチ箱代の絵画は、なかなか良いものでした。

 

モローの小さな絵画は、ヨーロッパの美術館には展示してありましたが、胸を締め付けられる様な感動があります。

 

アンドレマッソンの作品も、小さなものが多くて、MOMAでも、知っていて探さないと見損ないます。

 

小さな絵画を、日本の多くの現代美術家は、見る事もしないで、軽蔑の眼差しで、見も市内で切り捨てる態度を取りますが、それは間違いです。

 

扇面

 

狩野派は、狩野永徳のように、安土桃山城の大壁画を描いていますが、しかし実際に食べるために描いているのは扇面の絵画です。

この扇面画は、普通に見ると、良いのか悪いのか分かりにくい物です。

 

同じ事は明治の巨匠である富岡鉄斎にも言えます。1000号を超える大作を数多く描きながら、しかしコレクターに人気のあったのは、扇面なのです。しかし私でも、この扇面を見て、なかなか分かりにくいということを経験しています。


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小さな作品というのは、実はコレクター以外の普通のただ見の人間には鑑賞が難しくて、人に嫌な思いもさせます。

 

たとえば菅井汲の小さなシルクスクリーンの作品は、嫌な感じがしました。

 

ジョン チェンバレンの小さな彫刻も、嫌な感じで見た覚えがあります。

 

自分の作品も嫌な感じを持つ人がいるだろうとは思います。

 

しかし、私自身は、もともと小さな作品をつくることをし続けて来ています。

 

クレーの影響が大きいと言う事があります。小さなところから始めるというのは、重要な事だと思っています。

クレーを悪く言う人も多くいますが、クレーは偉大なアーティストです。

 

聖書にも、小さき門より入れとあります。

小さな作品は重要なものなのです。

 

小さな作品、中くらい作品、大きな建築美術と、すべての領域を作りたいと言う気持ちが私には、あるのです。でないと、美術と言う相互性が理解できないと考えます。

 

皇居美術館空想のような、概念的で象徴界の設計の様な作品も作れば、小さな名刺大のドローイングも描くと言う立場をとります。そうしないと、美術の全領域が追求できないと考えます。

 

しかし多くの作家は、自分の作品だけを愛して、美術そのものや、芸術そのものを追求しようとしません。

 

コレクター

 

コレクターも同様であって、大コレクターや美術館のような上流が重要ではありますが、しかし下流の小さなコレクターも重要だと、理念的には思います。

 

それはリアリズムというよりは、思想的な理念の問題であって、実際には小さな作品を作るのは手間も大変だし、社会的には不愉快な思いもたくさんします。小さな作品や、版画を作ると売春婦のような扱いを受けます。

 

小さな作品だけを買うコレクターは、今度は逆に、自分には買えない大きな作品を見ようとはしません。美術作品が好きなのではなくて、買う事が好きなのです。

 

コレクターはコレクターで、自分の欲望だけを見つめていて、実は作家研究もしないし、極端に言えば作品も見ようとはしないのです。コレクターのほとんどは、コレクションという事自身を勉強しません。すぐれたコレクターについて、どのようにしてすぐれたコレクションを集めたのか、という、そういう他者のコレクターについて、勉強をしようとしません。ただ盲目的に買いたいだけと言うコレクターが多くいるのです。。

 

つまり人間の多くは自分のことしか考えていなくて、美術や芸術すらが、自分の《気晴らし》のために過ぎないのです。《気晴らし》への欲求は、人間の深い欲望なのです。こうした矮小な人間の欲望と向き合って、この矮小さをコピーして、自分の欲望であるかのように制作する中に、《真性の芸術》を滑り込ませて行くと言う詐術が重要なのです。芸術というのは、《社会芸術=エクスプロイテーション美術》を模倣した上での詐術なのです。

 

建築美術をコミッションワークでやる場合も同様で、日本の美術界は、こうしたものは見ない事にしているかのように無視します。つまり小さな美術を無視すると同時に、大きな建築美術をも無視するのです。

 

日本の現代美術界というのは、奇妙な欺瞞の空間の中に閉塞しているのであって、それはそれで仕方がない事です。美術や芸術というものが、奇妙な思い込みの迷信の中に形成されていて、一種の知的障害のような症状を呈しています。

 

しかしこうした構造を、一挙に変える事は出来ません。団体展は、どうしようもありません。現在の旧・現代美術も、まとめて古くなり、団体展のようになってしまいました。若い現代アートのことは、私自身には良く分かりませんが、しかしある種の新しい団体展のように見えます。


この外へと出たいという欲望!

 

電車の中で

 

ただ普遍的な美術を追究しようとすれば、私は小さな美術も、中くらいの美術も、大きな美術も追究をして行かないと、作家として大きく成長できないと思っています。

 

そんな、大それた事を言う必要も無い事ですが、自分としては電車の中で描けるこうした小さなドローイングも、面白いのです。電車の中で、私は退屈ですから、制作をしたいのです。

 

中くらいのものや、大きな作品も作りますが、小さなドローイングや水彩も、小さな隙間の時間の中で作って行きたいのです。

 

こうした小さくて安い作品を、軽蔑する人は軽蔑すれば良いのです。私は何人もの人に軽蔑されて生きて来ていますが、私は鈍いから、屁とも思わないのです。鈍さというのも才能の内であります。

 

私の方は、小さくても真剣に芸術作品として制作するだけです。

 


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