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白髪一雄の反作品 [アート論]

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白髪一雄という作家がいます。
足でアクションペインティングを描いた作家です。
具体の代表的な作家の一人です。

何回も個展を見ていますが、
最初に見た時には面白くて、良い作家に思えるのですが、
3回目を過ぎると、みな同じに見えてきます。
一枚一枚は違う色で、違うストロークで、別の作品なのに、
みな、同じだという印象が生まれてくるのです。

今、横須賀美術館で回顧展をやっている様なので、
見てこようとは思っています。

数をみていると、上品とは言えない、
むしろ下品と言ったら失礼ですが、
そういう荒々しい野卑で反文明性が見えて来て、
良く無い作品であると思う気持ちが私の中に生じている事が
分かるようになります。

《第6次元 自然領域》ですが、
何よりも絶対零度の作品です。
つまり現代美術といいながら、内実は原始美術なのです。
野蛮な美術であると言えます。
下品に感じるのは、文明の中の野蛮美術だからです。

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一昨日、ある場所(ザマーケットの事務所)で、この作家の大きな絵を目にして、
芸術分析をしたのですが、
驚くべき事に、芸術という項目への
《言語判定法》的な反応がありませんでした。

つまり白髪一雄の作品は《原芸術》ではない。
白髪一雄の作品は、《芸術》でもない。
白髪一雄の作品は、《反芸術》でもない。
白髪一雄の作品は、《非芸術》でもない。
白髪一雄の作品は,《無芸術》でもない。
白髪一雄の作品は,《社会芸術》でもない。

という結果になったのです。
つまり白髪一雄の作品は、あらゆる意味で「芸術」という
言葉に、対応をしないのです。

つまり、白髪一雄の作品は、あらゆる意味で「芸術」ではないのです。
このことは、かなり驚きなのです。

なぜなら、この社会にある普通の物でも、《非芸術》という言葉に
対応しているからです。
ということは、白髪の作品は、普通の物ではないのです。

同様のことは「絵画」という言葉でも起きました。

白髪一雄の作品は、「絵画」ではない。
白髪一雄の作品は、《反絵画》でもない。
白髪一雄の作品は、《非絵画》でもない。
白髪一雄の作品は,《無絵画》でもない。
白髪一雄の作品は,《社会絵画》でもない。

つまり白髪一雄の作品は、あらゆる意味で「絵画」という
言葉に、対応をしないのです。
つまり、白髪一雄の作品は、あらゆる意味で「絵画」ではないのです。

しかし、ちょっと目には絵画に見えますし、
私たちはアンフォルメルの絵画の一種類としてみて来ているのですが、
《言語判定法》では絵画ではないのです。

フランスのアンフォルメルの作家に
ジョジュル・マチューという作家がいますが、
この人の作品は、絵画という言葉に対応するものです。


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私はマチューの回顧展をパリで見ていますが、
最初期には根拠の有る絵を描いていますが、
あとは《第6次元 自然領域》の『ペンキ絵』に過ぎません。

有名な画家ではありますが、ひどいレベルの絵画です。
回顧展で見ると、なおさら、ひどさが身にしみます。
ひどいアーティストは、日本だけではなくて、
フランスにも居る事がわかります。

さて白髪一雄です。

そこで、私は、白髪に対応する言葉を探しました。

とりあえずみつかったのは、「アクション」です。
「アクションの結果」という言葉にも、対応はします。

しかし「シニフィアン」(記号表現)という言葉には反応しません。
「シーニュ」という言葉にも反応しません。
マチューの絵画はシーニュという言葉にも、シニフィアンという
言葉にも、対応します。

同様のことはデ・クーニングやポロックの絵画もチェックしましたが、
ちゃんと芸術関係の言葉や、絵画にも、シニフィアンという
言葉にも対応します。

つまり白髪のものは、かなりの異常な物なのです。

白髪一雄の作品は、では「アクション」ではあるにしても、
いったいなんなのでしょうか?

そもそも「作品」なのでしょうか?

《言語判定法》で、「作品」という言葉を投げかけると、
白髪一雄の作品は、
「作品」ではない、と出ました。

では何なのか?

白髪一雄の作品は、《反作品》であると出ました。
つまり「反作品」という言葉に対応するものなのです。

しかし《反芸術》ではないのです。

《反芸術》ではなくて、
反作品であるという白髪の反作品は、かなりの奇形であると
私は思い、驚いた次第です。

白髪さんは、実はかなり苦しんだ作家で、
仏教僧にもなっておられる方です。

現代美術家が、何故に仏教僧の修行をして、会得までなさったのか?
その秘密の一端を覗いた気持ちがいたしました。

彼の反作品には《芸術》が、一かけらも無いのです。
にもかかわらず、《芸術》という名において、
彼の反作品は、社会的に成立しているのです。
この理不尽さは、本人にも苦痛をもたらしたように思います。

《芸術》の名において、作品を成立させる以上、
芸術を探究する必要はある、という当たり前の事は
あるのです。





タグ:白髪一雄
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