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彦坂尚嘉のアトリエの改造(1〜4) [気体分子ギャラリー]



彦坂尚嘉のアトリエを、本格的に改造しています。



上のビデオで栃原比比奈さんが塗っていたのは、下塗り剤のシーラで
す。



この改造には、かならずしも、今まで手伝ってくれていた
メンバーが理解してくれて、応援してくれているわけではありません。

私の欲望を理解してくれないと言うか、
改造にソッポをむく人もいます。

そもそも、そういう人は、現在の厳しい時代の事が、
分かっていないのです。

多くの画廊が潰れるだろうし、
発表するチャンスは減って来ます。
実際に画廊は倒産したり、閉鎖する所が続いています。
移転も多いのです。
そうして京橋も衰弱して来ています。
画廊にお客さんが来なくなっているという話も、
いくつもの画廊から聞きます。
そもそも画廊というのは《近代》の産物であったので、
《近代》の終焉とともに、衰弱して骨董化して行くのです。

そういう意味では、気体分子ギャラリーというのは、
あくまでもネットギャラリーであって、
《近代》のギャラリーとは違うものなのです。
気体分子ギャラリーは、ブログとホームページの中で成立して行くのです。
今、改造している現実のアトリエは、
そのネットの情報を作り出す陰の実体なのです。
実際には藤沢まで来なくて良いのです。
ネットだけで見て下さって、それで完結する
そういうギャラリーなのです。

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2010年から2015年は、戦中に匹敵する厳しい時代になります。

作家が制作し、発表する場所を確保する事は、
今まで以上に厳しくなります。

多くの作家と付き合って来ましたが、
ほとんどの人は、目先の利益だけを追いかけて、
遠くの未来や、歴史的な長期の事を、見ていません。
目先の自己満足しか、考えていないのです。

多くの作家は、自分の画廊を維持する事や、
批評家との関係をキープする事すらを、
きちんとしようとしません。

アートスタディーズの時に、レクチャーしてくれるゲストを捜すのも
実際には難しかったのです。
その原因は、ナルシズムの作動による他者排除です。

自分を守るために、
他者を問答無用に排除するのです。

なぜなら、自分の欲望だけを考えて、他人はじゃまだからです。

ナルシズムというのは、自分を守るだけでなくて、
他者を排除するのです。

それは社会的な関係性や歴史性を、
目先の小さな関係に限定して、
より普遍的な公共性への視点を欠いているのです。

小さな関係性は、
時代が変われば崩壊して、失われます。
そのことを考えていないのです。

人間が社会的に生きるというのは、
実は他者の欲望を理解して、それをコピーして自分の欲望に
する事です。
それが人を愛する事です。

愛するというのは、他人の欲望を自分の欲望とすることなのです。

気体分子ギャラリーを作動させようという私の欲望は、
実際には、若い作家の発表の場をキープする事に意味を見いだして
いるのですが、それは若い作家の発表の欲望を、
私自身の欲望としてコピーするからです。

ジャック・ラカンやジラールが発見した事は、
自分の欲望というのは、実は他人の欲望のコピーであると言う事です。

他人の欲望を生きる事こそが、人生の基本であり、
そして社会関係の基本なのです。

しかし、欲望は多様であり、
お互いの欲望は、実はすれ違うのです。

ですから、欲望を交差させられる関係を求めて、
組み替え、移動して行く必要があるのです。

多くの作家というのは、実は自分の発表場所もいらなければ、
自分の作った作品を死後も残して、歴史的意味性として美術館に
入れるという事すらも、排除するのです。

追いかけているのは目先の自己満足だけであって、
それ以上の欲望は無い人が多いのです。

作家の欲望というのは、
実は多様で、それは人間の生き方そのものであって、
私の試みと齟齬を来たし、分かれるという関係を何度も繰り返して
来ています。

私自身の問題が大きくあるにしても、実際にやる気の無い作家にも
実に深い問題があるのです。

努力を惜しみ、目先だけを生きる。
人生は確かに盲目的なものではありますが、
作家の多くは、実に矮小なのです。

さて、そういう意味で、気体分子ギャラリーの活動は、
内紛も含みながら進みます。
それは何故なのか?

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ニューヨーク在住の富井玲子さんは、
「彦坂尚嘉は動く標的だ!」と評しました。
確かに私は、動き続けるのです。
しかし私の元の友人や知人は、動く事を嫌います。
古いままに止まる事を望むのです。

コンテンポラリー・アートという意味を理解していないのです。
コンテンポラリーであり続けようという、
不可能である欲望を私は持っています。

不況が深刻化し、日本が崩壊していく2010年〜2015年の時代、
戦中の「新人画会」のように、作家が困難な時代に《真性の芸術》を
追求するマトリックスを、形成したいと思います。

「新人画会」は、太平洋戦争下の1943年に結成されています。
30代の靉光、井上長三郎、麻生三郎、松本竣介、鶴岡政男、糸園和三郎、寺田政明、大野五郎の8人の画家が、描きたいものを描くために相寄り、結成したのです。

「太平洋戦争」「大政翼賛会」「国民総力決戦」などの言葉の飛び交う時代、1944年の第3回「新人画会展」まで開催されます。

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靉光の作品

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、
《無芸術》、《非芸術》、《社会芸術》の
すべてがある。

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井上長三郎の作品

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、
《無芸術》、《非芸術》、《社会芸術》の
すべてがある。

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麻生三郎の作品

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、
《無芸術》、《非芸術》、《社会芸術》の
すべてがある。

太平洋戦争の最中に、新人画会の作家たちのすぐれた作品が
存在した事は、大きな意味があるのです。

同様の事は、ベルリンの壁のある時期の東ドイツの作家たちの美術にも
いえます。
困難なときほど、芸術というのは、追求される必要があるのです。

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マトリックスというのは元来「生み出すもの」を意味する言葉で、
子宮という意味です。

《近代》という時代は終わりました。
「我思う故に我有り」という哲学的な反省が、
「自分だけ善ければ良い」という《自己愛》性人格障害に退化して
しまいました。

行き過ぎた《自己愛》が、社会を解体し、ばらばらにしてゆくのです。

自己満足だけを追いかける作家の時代は、しかし、
この日本の崩壊下の不況の中で衰弱するのです。
「自分だけ善ければ良い」という考えの人は孤立して行きます。

この不況下で、孤立した作家は、衰弱します。
歴史的に振り返れば、作家たちは集まり、助け合って生きて来たのです。
ピカソのいた洗濯舟にしろ、モンパルナスにしろ、
ソーホーや、チェルシーーの形成にしろ、
作家は集まってお互いの制作を、競争しつつ、切磋琢磨して来たのです。

社会というのは、人間のつながりでできています。
社会の欲望、そして他人の欲望を見据えて、
それを自分の欲望としてコピーして行かないと、
人間のつながりは生まれません。

自分の欲望を明確にして、それと共有できる人を捜して行く必要が
あります。
同時に、他人の欲望を良く見て、自分の欲望として共有できるか
どうかを、見分けて行かなければならないのです。

人間と人間の関係が、従来の様な伝統的な血縁関係や地縁関係、
そして学閥や会社閥の関係ではない、
新しい欲望のネットワークの時代になったのです。

気体分子ギャラリーは、
靉光や井上長三郎、松本竣介らの「新人画会」のように、
作家の協力関係で運営しますので、
労働に参加するスタッフを求めています。

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