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ロングテール/少数者のネットワーク [生きる方法]

小比満 さんから教えていただいた、論文です。
いわゆるロングテール問題を論じています。

「囲い込み」とか、「棲み分け」の問題です。
それがロングテールという現実の問題であるのです。

情報出典



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千人の忠実なファン


よく知られているように、ロングテールは2種類の人々にとって良いニュースである。一つは、少数の幸運な集積業者、たとえばアマゾンやネットフリックス。もう一つは60億人の消費者。これら2種類のうち、消費者のほうが無限のニッチに隠れている財産からより多くの恩恵を受けていると思う。


しかし、創作者にとってみればロングテールが功罪相半ばするものであることは疑う余地がない。この方程式においては一人一人の芸術家、演出家、発明家、制作者が考慮されていない。ロングテールは創作者の売上を大きく増やすのではなく、激しい競争と価格低下への果てしない圧力を加えてくる。芸術家としては、他の芸術家たちの作品を集積する大規模業者にでもならない限り、微々たる売上という低迷から抜け出す道筋をロングテールが提供してくれることはない。

爆発的大ヒットをねらう以外に、芸術家はどうすればロングテールから脱却できるのだろうか?

一つの解決策は「千人の忠実なファン」を見つけ出すことである。そういう呼び方はしなくてもこのやり方に気づいた芸術家たちもいるが、私は定式化してみる価値はあると思う。「千人の忠実なファン」の要点を簡単に言えば次のとおり。

芸術家、音楽家、写真家、工芸家、俳優、アニメ作家、デザイナー、ビデオ作家、著述家などのような創作者、すなわち芸術作品を創作する人は誰でも、生計を立てるためには「千人の忠実なファン」を集めれば良い。

「忠実なファン」とは、あなたが創作したものを何でもかんでも購入する人のことである。あなたが歌うのを見るために200マイルの道のりを自動車で走ってくる。あなたの作品の「超豪華 再発売 高画質版ボックスセット」を買ってくれる。すでにその低画質版を持っているのに。あなたの名前をグーグルアラートにセットしている。あなたの絶版作品が出てくるイーベイのページをブックマークしている。あなたのコンサートの初日に来る。あなたにサインを求める。Tシャツやマグや帽子を買う。次の作品が発売されるのを待ちきれない。そういう人たちが忠実なファンである。

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売上を増やしてロングテールの水平な直線から脱出するためには、「忠実なファン」と直接つながる必要がある。別の言い方をすれば、千人の「平凡なファン」を千人の「忠実なファン」に転向させることである。

控えめに見積もって、「忠実なファン」はあなたの活動を支援するために、賃金1日分を1年間に使うものとする。この「賃金1日分」は平均での話である。「最も忠実なファン」は当然それより多くのお金を使うだろう。ここでは、一人の「忠実なファン」は1年あたり賃金1日分として100ドル使うことにしよう。千人のファンがいれば、その合計は1年あたり10万ドル。そこから多少の経費を差し引いて、たいていの人の生活費くらいにはなる。

千人というのはありうる数字である。千まで数えることはできる。1日一人ずつファンを増やしていけば、3年で達成できる。「忠実なファン」の仕組みは実現可能だ。「忠実なファン」に喜んでもらうことは、楽しくて励みになる。そのおかげで芸術家は本物のままでいられる。自分の作品の独自性に集中でき、「忠実なファン」はそこに価値を認める。

重要な課題は、「千人の忠実なファン」と直接につながっているということである。彼らは直接あなたに支援を与える。たぶん彼らはあなたのハウスコンサートに来るだろう。あるいは、あなたのウェブサイトでDVDを買う。ピクトピアであなたの写真を注文する。直接の支援であれば支援の全量をあなたが確保できる。さらに、直接のフィードバックや愛情も有益である。

つながるための技術と、小規模生産のための技術がこの循環を可能にする。ブログとRSSフィードでニュースや出演予定、新しい作品などを流す。ウェブサイトには過去の作品のギャラリー、経歴情報のアーカイブ、持ち物のカタログなどを置く。いろいろなデジタル関連業者、たとえばディスクメーカー(CD/DVD作成)、ブラーブ(自費出版)、ラピッドプロトタイプ業者、マイスペース(コミュニティサイト)、フェースブック(SNS)などが、少量のものを早く安く簡単に生産して宣伝するために協力してくれる。何か新しい物を制作するために、百万人のファンがついている必要はない。わずか千人で十分なのだ。

あなたの生計を支える熱狂的なファンの小さな輪のまわりに、同心円状に「平凡なファン」の輪がある。この人たちは何でも買うというわけではない。じかに接することを求めない。でもあなたが創作するものを多く買ってくれる。「忠実なファン」を育てるために用意したプロセスは「平凡なファン」にも使える。新しい「忠実なファン」を獲得しながら、同時により多くの「平凡なファン」も増加させることができる。これを続けていけば、ついには何百万人のファンができて大ヒットするだろう。百万人のファンを持つことに関心がないような創作者を私は知らない。

しかしこの戦略のポイントは、生き延びるためにはヒット作品は必要ないということだ。ロングテールから脱出するためには、ベストセラーというショートヘッドを目指さなくても良い。テールからそう遠くない中間部分に、少なくとも生計を立てられる場所がある。途中にある安息の地が「千人の忠実なファン」である。芸術家がベストセラーのかわりに目指すべき目標である。

デジタルに媒介されたこの世界でスタートする若い芸術家には、スターを目指す以外の道があるはずだ。ロングテールを作ったまさにその技術で可能となった道である。プラチナ・ヒットや爆発的ベストセラーやセレブの地位などという、狭くて見込みのない頂上に到達しようとするかわりに、「千人の忠実なファン」との直接のつながりを目指す。それははるかに健全な目標である。巨万の富ではなく生計を得るのだ。一時的流行やブームではなく、「忠実なファン」があなたを取り巻いている。実際にそこに到達する可能性はずっと高い。

ここで警告をいくつか。この方策「千人の忠実なファン」は、一人の場合、すなわちソロ・アーチストのために考案したものである。デュエットやカルテット、あるいは映画のクルーの場合はどうか?明らかにより多くのファンが必要だ。増加すべきファンの数は、創作グループの人数の増加に正比例する。グループの規模が33%大きくなれば、33%だけ多くのファンが必要になる。この線形的増加は、デジタル世界でたいていのものが指数関数的に膨張するのと対照的である。この「忠実なファン」のネットワークは、標準的なネットワーク効果の法則に従って、ファンの数の二乗に比例して増加すると言っても驚くにはあたらない。「忠実なファン」は互いに結びつきがあるので、あなたの作品への平均的支出額を容易に増加させる。創作に関わる人数が多ければ、必要とされる「忠実なファン」も多くなるが、その増加は爆発的ではなく緩やかで比例的に増加する。

もっと重要な注意。芸術家は必ずしもファンを育成する素質や意欲を持っているわけではない。多くの音楽家は音楽を演奏したいだけであり、写真家は撮影したいだけ、画家は絵を描きたいだけである。彼らの気質としては、ファンの相手、とくに「忠実なファン」の相手をしたいとは思っていない。このような創作者には、仲介者、マネージャー、付き人、代理人、あるいは観客係というような、ファンを取り仕切る人が必要である。そうであっても同様に「千人の忠実なファン」という中庸の目標を目指すことはできる。彼らは二人組で仕事をしているだけのことだ。

三つ目の特徴。直接のファンが最も望ましい。
間接的に生活費を稼ごうとすれば、必要な「忠実なファン」の数は急速に増大するが、無限には増えない。ブログを例として考えてみよう。ブロガーに対するファンの支援は広告のクリックを通じて行われる。(たまにチップ・ジャーによる場合もあるが。)ブロガーが生活費を稼ぐためにはより多くのファンが必要になる。このため到達目標はロングテール曲線の左へ向かって動くが、それでも爆発的ヒットの領域にはまったく届かない。同じことが本の出版にも言える。作品による収益の大部分を取ってしまう会社が関与していると、支援する「忠実なファン」は何倍も多くの人数が必要になる。自分のファンと直接に接触することを開拓すればするほど、その必要な人数は少なくなる。

最後に、実際の数字は媒体ごとに異なるかもしれない。たとえば、画家には500人の「忠実なファン」、ビデオ作家には5千人の「忠実なファン」とかいう具合に。さらに、国によっても違うはずだ。実際の数字が問題なのではない。それはやってみなければ決められない。そのモードにはいってみれば、実際の数字が明らかになるだろう。それがあなたにとって必要な「忠実なファン」の数だ。私の方策は数字の桁が違っているかもしれないが、それでも百万人よりはずっと少ないだろう。

「忠実なファン」の人数について参考文献を調べてみた。
Suck.com の共同創設者カール・ステッドマンにはマイクロセレブについての理論がある。その計算では、マイクロセレブとは1500人に有名な人である。1500人があなたに夢中ということだ。ダニー・オブライエン (Danny O'Brien) は次のように述べている。「英国のすべての町にひとりずつ、あなたのおバカなオンラインコミックが好きな人がいるとする。あなたが1年中ビールを飲むためには(またはTシャツを販売するのには)それで十分である。」

このマイクロセレブに対する支援をマイクロ後援とか分散後援と言う人もいる。

1999年にジョン・ケルシー(John Kelsey) とブルース・シュナイアー(Bruce Schneier) は「ファースト・マンデー」 (First Monday) というオンラインジャーナルでこのモデルを発表した。それは大道芸人方式 (
Street Performer Protocol) というものである。

大道芸人の論理を使うと、本が出版される前に著者は直接読者に協力を求める。もしかすると本を書く前ということもあり得る。著者は出版社を通さずに、次のような声明を発表する。「10万ドルの寄付が集まったら、このシリーズの次の小説を公開します。」

読者は著者のウェブサイトに行って、寄付金がいくら集まったかを知ることができる。小説を出版させるために寄付することができる。注意すべきことは、著者は次の章を出版する費用を誰が払うのか気にしなくて良い。また、お金を払わずにその本を読む人がどれくらいいるかも気にしなくて良い。著者は10万ドルという容器が満杯になったかどうかだけを気にすれば良い。それが満たされたら、次の本を出版する。この場合には「出版」というのは単に「提供」するというだけのことであり、「製本して書店で販売する」という意味ではない。本は無料で誰にでも提供される。寄付金を払った人にも、払わなかった人にも。

2004年には、
ローレンス・ワット=エバンスという作家がこのモデルを使って最新作の小説を出版している。彼は「忠実なファン」にみんなで合わせて毎月100ドル払ってくれるように頼んだ。100ドルを手に入れると、小説の次の章を投稿した。本全体は「忠実なファン」に対してオンラインで公開して、その後、すべてのファンに向けて紙で出版した。彼は今この方式の第二作を書いている。彼の生活は200人程度の「忠実なファン」に支えられている。それができるのは、彼が従来のやり方でも出版しているからだ。何千人もの「平凡なファン」の支援によって出版社から前払金を受け取っている。その他、ファンからの直接の支援を利用している作家としては、ダイアン・デュエインシャロン・リーとスティーブ・ミラー ドン・セイカーズなどがいる。ゲームデザイナーのグレッグ・ストルジは同様の「忠実なファン」モデルを採用して前払資金による二つのゲームを作っている。ここでは「忠実なファン」50人が開発資金を寄付した。

「忠実なファン」モデルの特質は、ファンがその人数に比べて大きな力をもって、芸術家をロングテールの末端から脱却させることが可能になるということである。それには3通りの方法がある。各人がより多く購入すること、直接お金を払うことによって売上高のうち創作者の取り分をもっと多くすること、支援のための新しいモデルを実現させること、の三つである。

支援の新しいモデルにはマイクロ後援も含まれる。別のモデルとしては起業費用の前払調達がある。デジタル技術のおかげでファンによる支援がいろいろな形で可能になっている。ファンダブル (
Fundable) はウェブをベースとする企業で、誰でもプロジェクトのための一定額の資金を調達できる場を提供し、さらに後援者に対してもプロジェクトが発足することを保証する。全額が集まるまではファンダブルが資金を保留する。もし最低額に達しなければ、そのお金を返却する。

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ファンダブルのサイトから一例を示す。

アメリアという20歳のクラシックソプラノ歌手は、録音スタジオに入る前に自分の最初のCDを事前販売した。「事前注文で400ドル得られたら、(スタジオ費用の)残りが払えるようになります。」と寄付予定者に説明した。ファンダブルのオール・オア・ナッシングモデルによって、彼女が目的を達成できなかったとしても、顧客は誰も損をしないことが保証されている。アメリアのアルバムは940ドルを超える売上があった。

千ドルあっても飢餓状態の芸術家を生き延びさせることはできないだろう。しかし本気の心遣いがあれば、熱心な芸術家が「忠実なファン」とともに成長することは可能だ。カナダの音楽家
ジル・ソビュール は長年にわたるツアーとレコーディングを通じてかなりの規模の支持者を集めており、「忠実なファン」の力を得て成功している。最近、彼女は次のアルバムのレコーディング費用7万5千ドルをファンにお願いして調達することにした。今のところ5万ドル近くを集めている。寄付という形で直接に支援することにより、ファンはその芸術家に対する親近感を増す。AP通信(Associated Press)は次のように伝えている。

寄付者は資金に対する担保のレベルを選ぶことができる。10ドルの「磨いていない宝石」、すなわち彼女のレコードが完成したらそれを無料でデジタル・ダウンロードできるというものから、1万ドルの「兵器級プルトニウム・レベル」まで。これは彼女が次のことを約束している。「私のCDに歌いに来てね。あなたが歌えなくても大丈夫。こちらでなんとかするから。」5千ドルの寄付に対しては、寄付者の家でコンサートをするとソビュールは言っている。低いレベルはもう少し一般的なもので、寄付者は特別版のCDをもらえるとか、寄付者がそのCDの「ジュニア・エグゼクティブ・プロデューサー」としてライナーノートやTシャツに記載されるといったものである。

「忠実なファン」によって生計を立てることに対して、通常、他の選択肢は貧困である。つい先頃の1995年の調査によると、芸術家であることの一般に認められた価格は高い。だが社会学者
ルース・タウスが英国の芸術家を調査したところ、彼らの収入の平均は貧困最低限レベルを下回るという結果を得た。

創作者には、貧困でもなくスターでもない中間の居場所があると私は言いたい。それは成層圏レベルのベストセラーよりも低いけれども、ロングテールの暗がりよりは高いところだ。実際に本当の数字はわからないが、熱心な芸術家であれば千人の「忠実なファン」を開拓することができると思う。ファンからの直接の支援と新しい技術を利用して、正当な生活ができるはずである。そのような道を進むと決めた人がいたら、私に連絡をいただけるとありがたい。


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小山 泰介氏と斉藤ちさと氏の写真作品 [アート論]

小山 泰介氏は、写真家です。

1978年、東京生まれ。東京在住。

刻々と変化していく都市を生物や自然と同じような有機体として

とらえ、都市の新陳代謝のような人工物の表面や状態、現象の細部を

撮影し、有機的で抽象度の高い写真作品を制作しているとのことです。


たいへんに広範なものを撮影しておられます。


下に掲載するものは、その展示風景の1つです。


 

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小山 泰介氏は、写真家でいらっしゃいますが、
写真家というと、すべての写真家が同一であるように、
思われる方もいらっしゃるでしょう。
実は、写真家というのは、
多様に専門を細分化して写真家が存在しています。

たとえばヌード写真家、お料理写真家、建築写真家、
ファッション写真家、等々、専門が細分化しているのです。
撮影機材が高額で、高額なカメラを持っている写真家が
すぐれているとさえ言える状態があって、
しかも専門撮影の技術は高度で、知識や技術や経験が無いと
使える写真が撮影出来ないのです。

その中に、そう言う分類があるかどうかはともかくとして、
芸術写真と言うものがあります。

芸術写真にも、いろいろあって、
実はけっこう大きな差があります。

小山泰介氏と、斉藤ちさと氏は、
ともに芸術写真ですが、
小山氏の方がデザイン業界よりのように私には見えます。

一方の斉藤ちさと氏は、現代美術の写真作品です。

細分化してきていることは、写真に限った事ではないのですが、
写真界の細分化は、激しいのです。

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今回、このブログで、読者のコメント欄で、
この小山泰介氏の海の泡を撮った写真と、
斉藤ちさとという、私の主催している気体分子ギャラリーの
作家の写真が、泡で類似しているために、「盗作」という言葉で、
問題になりました。
私はこの事件を「名誉毀損事件」と呼んでいます。

2人の写真が、まったく違う領域の写真家であり、
撮影している文脈自体が違う事は、
2人のホームページを見れば、一目瞭然なのですが、
しかし、類似性を発見して、「盗作」の摘発と思い込んで、
興奮している人たちには、それが見えない様です。

なぜに、このように興奮するのかは、
彦坂尚嘉的な文脈では、《想像界》の現象として理解できて、
おもしろく興味深い事ではあります。

この写真の類似性については、
すでに府中美術館の学芸員の方から、
次のようなコメントの書き込みをいただいています。

斉藤ちさとさんの気泡作品は、2005年秋には府中美術館の公開制作
が行われています。

小山泰介さんの写真は2007年の展示を写真集にまとめたものです。

斉藤さんの作品はストレートな写真ではなくて、炭酸水をいれる特性
の薄い水槽を前に設置しての作為ある撮影。

小山さんは基本的には対象に手を加えない撮影です。しかも画像は
一点だけ。作品のメインの傾向は違うものです。

普通に考えても両者には関連はないんじゃないでしょうか。
「悪意がある」と言われてもしかたのないカキコミだと思います。

空しい人騒がせしないようにお願いします。
両方の作家に極めて失礼。

by tsuno (2009-10-31 11:11)  



この学芸員の方のコメントの書き込みが、
専門家の基本的な態度だろうと思います。

ですから「盗作」として興奮する余地はないのですが、
しかし、興奮は興奮をよんで、
まあ、みなさんが、一生懸命になられた。
一生懸命さには驚きがありましたし、
これはこれで現象として、面白く拝読しました。

さて、実はこの「盗作」という指摘は、
私の古い教え子から、もっと早くに指摘が来ていて、
それも馬鹿馬鹿しいもので、
私は相手にしませんでした。
これをブログに書いた所、
それに対する反応が、次のように個人メールで来ました。
個人メールですので、またまた怒られるので、
一応匿名で、掲載します。

まず、その「盗作」とされた写真です。

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【情報出典】

この写真を送りつけて来たAさんは、次のようなコメントを書いています。


球体が崩れているだけでアイデアはほとんど

斉藤さんのものですよね。

ご存知でしたか?


何しろ、真夜中に携帯にご丁寧に電話して来て、

メールを送りつけて来たので、

そのAさんの興奮の高さが分かります。


その後、この「名誉毀損事件」が起きて、

また、このAさんはメールを書いて来てくれましたが、

これはブログへの転載を嫌っている事が書かれていますので、

引用だけにします。


「水や気泡を媒介にして光の屈折を利

用する写真というのは誰でも考えそうなこと」で「結局、芸術

というのは、同じような技法を使って作られたとしても、個人

の卓越性に依拠する」ということです。

 


しかしこの引用の内容も間違いだらけで、

この《想像界》だけの人格と言うものが、

現実をきちんと捉えない様が見えて、愕然とします。


水や気泡を媒介にして光の屈折を利用する写真というのは誰でも

考えそうなこと」という認識自体が、間違っています。

斉藤ちさと氏の作品というのは、初期のフォトグラムの米から始まって、

気泡に至り付いていて、特にビニールを使った作品ですが、

異常に手間のかかった関連作品の連鎖があるのです。

今回も、わざわざ水槽をつくり、写真器材の投資をし、

高額のラムダプリントを焼き、高額の額装をしているのです。

このひとつひとつの手間やお金だけでもたいへんなもので、

だれもが、このような徒労な、バカな写真にエネルギーを

注ぎ込めるものではないのです。



議論のしようがありません。


世界の捉え方が、根本的にちがうのです。

何故に、このように、Aさんは、くだらなく世界を見るのか?

事実に反することの連鎖で思考ができている。

ひとつひとつの事実の物質的時間的金銭的な負担と、

表現のリスクを見ないのです。


思考する機能が、不全です。


私の文章がひどい書き方で恐縮ですが、

馬鹿の壁が、現実に存在しているのです。


しかしAさんが、馬鹿なのか?

そんなことはありません。

彼自身は教師をしていて、青山学院を卒業の優秀な人です。

しかし、この優秀な人にとっても、

実は世界の構造は複雑すぎて、解釈や判断が間に合わないのです。


世界は類似に満ちているのです。

私にとっては、こういう類似作品というのは、

現実の中にはたくさんあるのは当然な事で、

まったく問題にならないのですが、Aさんには、

そうではないのです。

その類似を切り出して、妄想的な物語を作り出すのです。

このような物語の生産も、《想像界》の特徴です。


何よりも、ロイターの写真は芸術ではないのです。

芸術作品と、芸術ではない報道写真の類似性が、

何故に問題になるのか?


何故に、このような興奮が起きるのか?


彦坂尚嘉的に理論化すれば、

《想像界》だけの精神の中で起きる

《シニフィエ連鎖》という現象なのだろうと思います。

情報化社会では、環境全体がバーチャル化しているので、

《シニフィエ連鎖》が起きやすいのだろうと思います。


《シニフィエ連鎖》というのは、言語の非物質性の部分、

つまり脳内リアリティの領域だけで、連鎖反応を起こすのです。


つまり斉藤ちさと氏の写真を、「泡」とか、「泡の中に写る画像」と

いった、事象の説明的な情報だけでとらえているのです。


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2010年代 [状況と歴史]

佐藤大輔さんから、次のようなコメントを
いただきいました。

コメントは、「名誉毀損事件」以降多くて、
たいへん考えさせられましたが、
みなさんの、コメントを書いて下さった努力は、
たいへんありがたく、
それへのご返事も、おいおい書かせてもらいます。

アーキテクチャーとしてこのブログを再考することは、
なかなか考える事が多いのです。

その前哨戦で、
佐藤大輔さんへの返事を通して、
来年への変化を書こうと思います。


久しぶりにコメントさせていただきます。
2010年代に区切りを入れるということは、今継続中の活動を切っていくということ
になるんでしょうか?
アーティスト(他の公人にとっても)としては、意識においても実際の活動内容におい
ても、根本的に見直していくということが迫られることになるというように
お考えですか? 
by 佐藤大輔 (2009-11-01 22:18)  




佐藤大輔様コメントありがとうございます。ひとつは、時代そのものが2010年から大きく変わって行くという事です。

私自身は、1972年に『年表:現代美術の50年』という400頁に
のぼる作業を『美術手帖』(1972年4月号/5月号)でしています。

この年表の編纂に対しても、批判や誹謗中傷は、
後を立ちません。
少し前の話ですが、芸大先端研の教授である高山登氏と会う機会があって、
私はなつかしさで一緒に飲んだのですが、
高山氏は「彦坂のあの年表を含む作業はインチキだ」という
批判を始めたのです。
懐かしさから飲んでいたので、「やめろよ」と言ったのですが、
やめない。
結局、私が、高山登氏の頭を、ぽかぽかと殴るはめになったのです。

もちろん、殴るのは良く無い事で、
笑って、聞き流す事が必要なのだと思います。

ところが、たとえば、かわなかのぶひろ氏だと、
こちらが笑って流していると、サディズムが増幅して、
際限なく攻撃して来ますから、
反撃しないと、終わらないのです。


こういう事がイヤなので、昔の現代美術の関係には、
出来るだけでない事にしました。

しかし『年表:現代美術の50年』は、その後、
これに匹敵するものがない、たいへんにすぐれたものです。
この年表の成果は、広がりのある波及をしているのですが、
それを私が書いても、誇大宣伝としてしか機能しないので、
書きません。

被害も、高山氏以外からも、こそくな形を含めて受けていて、
私自身の、他者への不信感を募らせています。

もっとも私自身は、本当は能天気で、楽観的なので、
実は、どうでも良いのですが・・・。
そのへんの能天気さを、晩年は出して行きたいと思っています。

私自身の、歴史を見る目が、飛躍的に発達したのは、
この年表の編纂400頁作業を8ヶ月間の泊まり込みで、
集中的にやってからです。

特に最下段の批評の文章を引用した帯がありますが、
あれは私一人でやった作業です。
みんなが出来ないと言って中止を主張したのを、
無理矢理、私が一人でやったのです。

私自身は多摩美映画研究会に入っていて、
映画の編集技術を習得していましたから、
この批評の帯を、映画のように
作っているのです。

批評のコピーをはさみで切りながら、引用のコラージュを、
映画編集の容量で作り出したのです。

しかし他人は、こうした私の果敢な仕事を評価し無いどころか、
叩いて来て、侮辱し、差別し、無視しました。

しかし、それでも私自身は、歴史を見る目を学び、
自分自身を成長させることが出来ました。

だから、まあ、能天気に笑っているのが良いのです。
悪口を言う人が、実際には何もやらずに老いて行くのを
目の前に見ているのですから。

この様な経験から、来年からの2010年代というのは、
今までとは違う時代が始まる事を、予測できるのです。
特に、凄い予測というよりは、常識的過ぎる予測ですが・・・。

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このブログも、実は私の美術作品なのです。
このブログを出力して縦の絵巻のようにした作品も、
試作品を実現しています。
大木裕之氏の企画した「たまたま」展にささやかですが、
この試作品を数本出品しています。

気体分子ギャラリーというのも、私の作品なのです。
コンセプチュアルな作品として、ギャラリー活動をしているのです。
この2010年代の前半、つまり2015年までの5年間を
めどに、集中して、展開しようと考えています。

そのために、いくつかの整理をしています。
ひとつは2000年代は、越後妻有トリエンナーレに、
2000年の第1回から、2003年の第2回、2006年の第3回、
2009年の第4回と、すべてに参加して来ましたが、
これを,今回で終了するつもりです。

現地との関係は残っているので、
2010年代の展開が無いとは言いきれませんが、
作家としては、もはやネタ切れでして、
出来なくなっているのです。

さて、越後妻有を終了する事で、
もう少し、高度に、
私の格闘する問題を煮詰めて行きたいと考えています。

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私自身が向き合っているのは、あくまでもブーバーの語った
《普遍的他者》であるのです。
そしてフッサールが語ったような《厳密な学としての芸術》なの
です。

しかしこのような、私の志向性自体が、間違いではないのか?
という疑いもあります。

それは美術そのものが、結局のところ《世俗》であり、
そして《いい加減さと》であるからです。

《美術とは世俗である》ということを

この事実ともっと、向き合って行く必要があるでしょう。
この認識をもっとも、過激に自覚して展開したのが、
会田誠さんです。

つまり《厳密な学としての芸術》の追求と、
会田誠的な《現実の世俗社会の中の芸術》は、違うのです。
この差を、どう捉えて行くのか?
2010年からの私の活動の根幹をなすのは、
この矛盾との格闘です。

実例を上げると、ポロックの作品です。

世俗的に評価の高いのは、下の掲載作品です。
ニュヨーク近代美術館での回顧展でも、一番売れたポスターです。
むかし読んだ記憶で、確認していませんが、確か最初にオーストラリア
に売れた作品であったともいます。これも記憶ですが、
確かポロックが描けなくなったのを、友人たちがよってたかって、
描かせた作品と言う記憶があります。(以上、確認が必要です。)


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ackson Pollock
Blue Poles: Number 11, 1952の彦坂尚嘉責任の芸術分析

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品液体美術

《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《無芸術》であって、《芸術》ではない。

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それに対して、グリンバーグが高く評価して、
ポロックの代表作と言われるのは、
「五尋の深み」(1947)(ニューヨーク近代美術館)です。

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Jackson Pollock


Full Fathom Five(1947) に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析。


《想像界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》、《気晴らしアート》性は無い。
《ハイアート》、《ローアート》性は無い。

シニフィアンの美術シニフィエの美術性は無い
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

《芸術》であって《無芸術》《非芸術》《反芸術》性は無い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大変にすぐれた作品ですが、
この作品は、多くの人には、分かりにくいと言えます。

何故に、分かりにくいのか?
この分かりにくさというのは、
彦坂尚嘉の理論では、大脳新皮質の存在に帰結します。

脳そのものは複雑なので、
正確な脳の構造は専門家に任せますが、
図式として極度に単純化すれば、
人間の脳は、理性脳と、原始脳の2つでくみたてられえいると
整理させて下さい。

つまり生物というのは、象が鼻を長くし、キリンが首を長くして
進化したように、身体変形で進化の運動をして来ました。
進化とは、身体変形であったのです。
そして人間は脳を巨大化し、さらに大脳新皮質を発達させて、
身体変形の限界まで進化したのです。

この大脳新皮質による抑圧が、
理性を作り出していると、一応考えておきます。

つまり理性脳と、原始脳があって、
この両者で、人間の精神は作動しています。

お酒を飲むと、理性脳の働きは、有る程度麻痺して、
原始脳が解放されます。

このお酒を飲んだ様な原始脳の解放として芸術を考える人々が
います。
このような人々は、
たとえば、デルボーのような美術を、芸術として歓迎したりします。

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こうしたデルボーのような絵画は、
理性脳の抑圧を取った、原始脳の解放、つまり官能性としての芸術で
あると、私は考えます。

日本近代美術に、大きな影響を与えた黒田清輝の先生である
ラファエロ・コランの作品も、ソフトポルノとも言うべき、
原始脳の絵画であるのです。
デルボーの絵画以上の恥ずかしさを感じるのは、私だけでしょうか?

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黒田清輝がフランスに留学していたのは、1884年から1893年です。
この時期、すでに印象派は存在していてモネは、『積みわら』から
ルーアン大聖堂』に至連作シリーズを描いています。

Claude-Monet-Screensaver_1.png

ラファエル・コランは、 1850-1916年の人です。
一方のロード・モネは、1840年から 1926年の人です。
モネの方が10歳年上で、そしてコランより10歳長生きしています。
つまり二人は、同時代の人であり、
黒田清輝は、モネに指事する事も、時代的には出来たはずですが、
しかしラファエル・コランを選んだのです。

モネとコランの絵を並べて見ましょう。

Claude-Monet-Screensaver_1のコピー.jpg

このモネの絵画の系譜が、ポロックにつながります。
ニューヨーク近代美術館は、モネとポロックを並べて展示していた
ことがあって、私はこれについて読売新聞に文章を書いたことがあり
ますが、モネとポロックは継続して行くのですが、
ラファエロ・コランは、モダンアートの歴史の中では、
傍流に止まります。

この2枚の絵画の差を、脳の問題で整理すると、
モネの絵画を芸術として評価するためには、
大脳新皮質の理性脳で鑑賞するしか無いのです。
何よりも、ラファエロコランのヌード絵画の様な、直接的な官能性が
ありません。

Claude-Monet-Screensaver_1のコピー.jpg

原始脳の絵画、          理性脳の絵画

官能の美術            禁欲的な美術

黒田清輝が、








 




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