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エンターテイメントについて [アート論]

彦坂さんの作家としての考えを要約してもらえないでしょうか。エンターテイメントは、(他で)間に合ってますから、真面目なBLOGを期待してます。
by TRAEKILI (2009-11-09 15:30)  


TRAEKILI様

ご質問ありがとうございます。

他人に分かるように書くという事自体が、ある種の詐術なのです。

分かるという事自体が、問題なのです。

ですので、たとえばラカンの執筆やレクチャーは難解を極めていて、専門家でも「わからない」と言っています。

私が「このブログは、エンターテイメントである」というのは、あくまでもブログの読者に分かる範囲で書いているからです。

ニーチェは大好きですが、ニーチェのように書けば、あなたは読めないかもしれません。

フッサールも私は大好きですが、この水準で書けば、このブログの読者のほぼ全員が読めないでしょう。

真面目な言語というのは、基本として、難解を極め、分からないものです。

私がここで試みているのは、あくまでも、日本人の普通の人々に分かる範囲で書くと言う努力をする事で成立しているので、それは知的なエンターテイメントの範囲だと考えているのです。

《真性の理論》というのは、カントを読めば分かりますが、極めて難解です。

このような高度な水準を理解してくれる読者が、私にはいない事は、私は経験的にでしかありませんが、知ってるのです。 

人間には、「知りたい」「分かりたい」という欲望があります。
この欲望の中で、このブログは書かれています。
だからエンターテイメントなのです。

それに対してニーチェやフッサール、カントなのでの《真性の理論》は、「知り得ない」「分かり得ない」という人生の深淵の上に築かれているのです。このことを、多くの読者は読みたく無いのです。

by ヒコ (2009-11-11 04:16)  

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《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な人格 [生きる方法]

山根秀太郎というハンドルネームの人物は、このブログのコメント欄から退場なさったので、これ以上の議論は終わりたいのですが、しかし、以下のようなコメントがあったので、誤解を解くために書いておきます。

山根さんの論点は正しいと思います。諦念を抱かれるのは、彦坂さんを含め想像界の人間(のコメント)が大多数だからだと思います。お気を落とさないでください。


by 浜 (2009-11-10 15:04)  

ヒコ

 

浜さん
コメントありがとうございます。
基本的な誤解があります。
私は《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格、さらにはサントームのある4層の人格を良しとする主張をしているのであって、《想像界》の人格の存在を否定していません。
それは今までのブログを読んでいただければ、書いてある事です。
山根さんも、浜さんも、この総合性の問題を誤解なさっています。
山根さんの論点そのものに、そうした矮小さがあるのです。 
by ヒコ (2009-11-11 03:13)  


 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

山根さんも浜さんも、《想像界》の人格を悪と考えられているのですが、それは基本的な誤解です。

まず、元々はラカンの考えた人間の人格は、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつものなのです。たぶんラカンを読んでおられなくて、この基本の認識をを山根さんは欠いています。

彦坂尚嘉の理論は、このラカンの用語を借用して、《言語判定法》という方法の中で展開しているので、ラカンの使用とはずれる側面が発生します。

その辺が、山根さんの間違いを生み出しているので。

人間の人格は、基本としては《想像界》《象徴界》《現実界》の3界と、さらには晩年のラカン理論に登場する《サントーム》という環を持っているのです。彦坂尚嘉の理想としての人格も、このラカンの枠組みは全面的に肯定しているのであって、したがって彦坂尚嘉の人格の中にも、《想像界》の人格は存在しているのです。

ところが山根さんと浜さんは、そのことを否定的に考えて、さらにはそのことを持って、彦坂尚嘉の人格は《想像界》だけであると、単純化しているのです。

浜さんがいうように、山根さんの議論は詳細を究めていて、その限りでは論点は正しく見えるのですが、それは正しく見える限りの狭い範囲の論理なのです。

山根さんが、桑山名義で、最初に書いた長文の最後を思い出して下さい。

ただ、そうしている間にこの場はみるみる自己破産へ向かうでしょう。
何を言っても無駄です。

by 桑山 (2009-10-30 12:24)  

これが最初の文章の結末ですよ  !
詳細な理論展開をする理性的な人物が、最初に登場した文章でこのようにかくことは、私に対しても、このブログを読んでくれている人々にも、社会的な基本的な礼儀を欠いているのです。
その結果が、最後の山根名義での次の様な文章につながったのです。


自分のコメントを再度読み直しました。
私「山根秀太郎」も「桑山」もこのブログから去ります。名前を変えて再度出ることもしません。
というのも、どうやら、どうやっても私はここでは「悪霊」であり続けたようにです。私としては建設的な議論をして場を活性化させたいと思っていたのですが、結果的にはこうして多大なご迷惑をおかけしました。

このブログは、読み物として面白いものであると思います。
これからも頑張ってください。それでは。 
by 山根秀太郎 (2009-11-09 02:56)  

何故に山根秀太郎氏は、退場をなさったのか?
それは最初の「この場はみるみる自己破産へ向かうでしょう。何を言っても無駄です」という文章が、指し示しているものなのです。この予言が、自分自身に帰って来ているのです。私やコメントを書いている人を、最初から「何を言っても無駄です」と否定してしまえば、それは極めて失礼で、社会性を欠いた暴言なのです。こうした暴言を背景として、一見精緻に見える論理を展開しても、その論理の外縁は「何を言っても無駄です」ということ、さらには「この場はみるみる自己破産へ向かうでしょう」という呪いにおおわれていたのです。

桑山/山根秀太郎氏が、一生懸命に、何度も書いて下さった事には感謝しますが、かれが中学校時代から、このような詳細な論争を展開しながら、ある空しさに至るのは、理論的な整合性を生み出すことのできる狭い範囲での論争を得意としているからです。そしてその外縁には何を言っても無駄です」という、全面否定が、最初からまとわりついているのです。

戦争で言えば、局地戦を戦っておられるのです。
大局を欠いている。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格と言う視点を欠いて、《想像界》という人格を理解して、その限りでの整合的な理論を組み立てているのです。

退場なさった方に、これ以上批判する事は、無駄な事だし、山根秀太郎というハンドルネームの方に失礼でしょう。かれが一生懸命に書てくれた事に対しては、感謝していますし、敬意を評したいと思います。

最後に私見を述べれば、複雑系の理論では、この現実世界を貫徹している基本は、冪乗則だけであって、それ以外は、実は予想不可能なのです。

ここでも理論をずらしていると言う批判を受けるかもしれませんが、局地的な整合性は、実は無意味なのです。彦坂尚嘉の理論的な特徴は、全人類の歴史とか、全色彩領域とか、そのような《全》という視野をもって考えるという方法です。

これに対しても中原佑介氏などから、厳しい批判をいただいていますが、しかし、ならば中原氏が、いかなる理論的な成果を上げたかと言えば、それも空しいものなのです。

あらゆる理論は、実は不完全であり、詐術です。

理論的整合性は、その枠組みの外縁を見なければ、無意味なのです。

彦坂尚嘉自身は、矛盾に満ち、錯綜し、欺瞞と誠実の交合物なのです。その事自体が方法である事は、このブログでも示しているつもりです。

局地的に、理論的整合性を築く方法そのものが、間違なのです。

なぜなら、その理論の外部が忘れられているから、一見したところの整合性に至っているからです。世界は理論では無いのです。だからこそ、理論が必要であるのです。この矛盾が分からないと、屁理屈になってしまうのです。


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