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斉藤義重の学歴について [アート論]

 原始への回帰

  斎藤義重は、受験に失敗します。ですから斎藤義重の最終学歴は中学校卒ということになります。そして正規の美術教育というものは受けていません。つまり色彩論、比例論、構図論、芸術空間論、主題論、芸術史/美術史といった、現在、美術を語る上で必要な基礎的学問を学んでこなかった、ということです。

現在の人は、美術作品を制作するには、自分の中にある想いや感性を発揮することが一番良い作品を作るのだ、というように考えていますが、それはカントの天才論の通俗化にすぎません。実際は、美術というものを歴史的に振り返ってみると、ギリシア時代から美術制作は高度の学問性を持っていて、美術家は作品をつくることと同様に、理論も多く書いてきています。

 紀元前五世紀にはギリシアでは、美術家による美術についてのさまざまな文献の発生がみられます。ポリュクレイトスの人体のポロポーションの研究書『カノン』、画家ティマンテスの『絵画概論』。

紀元前四世紀になると、パンフィロスの算術や幾何学についての書物、さらにエウフラノルの比例と色彩論、アペッレスの芸術論、メランティオスの絵画論、

ニキアスの主題論。そして紀元前三世紀のパンフィロスが登場して、「学問のあらゆる分野、とりわけ算術と幾何学において完璧な修練をつんだ最初の画家」との評価を確立します。

 これらの知識は一世紀の古代ローマの博物学者プリニウスによる『博物誌』全三十七巻に流れ込み、その芸術作品についての記述は古代ローマ芸術についての資料として美術史上の高い評価と、大きな影響を与えます。このプリニウスの『博物誌』が、ルネサンス期の15世紀に活版印刷で刊行されて以来、ヨーロッパの知識人たちに愛読されたからです。

このギリシアからルネッサンスにいたる美術家の思想は、《学識ある画家》という理想像なのです。そして、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 一四五二-一五一九)に象徴されるように、芸術家というのは万能人のような広範な知識と見識と視野の深さが必要な職業となります。それは単なる職人や、奇人変人、さらに狂人とは一線を画する高度な知識人です。

 斉藤義重はしかし、中学校卒という低学歴が示すように、ギリシア〜ルネッサンスに至る《学識ある画家》という理想の外に位置する《無知の美術家》であったのです。

ではこのような学識を欠いた《無知の美術家》というのは、アジア的美術家の宿命で会ったのでしょうか?

 中国においても、四世紀後半の南北朝時代の東晋の画家である顧 愷之は、名画の祖と言われ、著作も『啓蒙記』『文集』があったと言われていますが、失われています。

五世紀の宗炳の『画山水序』という最古の山水画論があります。ここで「透視図法 」を具体的な制作方法としての説いているのです。「透視図法 」としては、ヨーロッパでは十五世紀に初めて確立されるのですから、一〇世紀も東洋美術は先行していたのです。

 さらに中国の六朝時代の画家である謝赫の世界最古の画学書/画品書である『古画品録』

等々、実に多くの精緻な画論と画法、そして美術史を、美術家たちは記述してきています。

しかし現代になると、“前衛”という名の下に、芸術家達には次第に知識や学問というものを重く見ない傾向が出てくるようになりました。例えば、第二次世界大戦後のフランスのジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet 一九〇一-一九八五)という作家は、従来の西洋美術の伝統的価値観を否定して、子供や「未開」人、精神障害者などによる絵画を《アール・ブリュット=生(き)の芸術》と呼んで賛美しました。なぜそうなるかは、かなり複雑な事情があるので、ここでは十分に論じられませんが、一つには、大きな背景に第二次世界大戦による破壊状況があります。この時は、日本もヨーロッパも戦火で灰燼に帰しました。そしてこの荒廃が、芸術にも大きな影響を与え、ある種の“野蛮な状態”になった、と筆者は考えます。それは、現在で言えば、例えば、核戦争後の世界を暴力が支配する野蛮世界を描いたオーストラリアのアクション映画『マッドマックス2』(一九七九年)に出てくるような核戦争後の荒廃した世界、モヒカンヘアーで暴れまわる暴走族などを描いた世界観が、一九八〇年代全般のSF映画をはじめ、漫画『北斗の拳』など以降の数多くの作品に影響を与えたのと同様の状況と言えます。

しかし八〇年代のこうした日本の動きとは逆に、アメリカの美術家は大学四年間だけでなく大学院に進学し、その修学は九年に及び、PHDを取得していくのが大勢になりました。日本でも村上隆や松井冬子がPHDを取得しているように、芸術家が高度の専門知識を学ぶことは歴史の趨勢となっています。

 そういう意味で斎藤義重が中学卒であることや、斎藤義重と契約して押し出した東京画廊の初代社長山本孝が尋常小学校卒という低学歴であったことと重ね合わせ、日本の前衛美術や現代美術の知的水準の低さが、フランスのデュビュッフェ的な未開主義につながる日本固有の民度の低さと原始/未開芸術主義として理解される、という説明が成立します。

 例えば、上林澄雄は『日本反文化の伝統―流行性集団舞踊狂の発生』という一九七三年に出版した本の中で、舞踏を通してですが日本の中に原始への回帰を求める情念が存在している事を分析しています。こうした原始的で未開な状態への回帰の衝動というものがあって、その意味では日本文化が理性脳を失って、野蛮な原始脳で美術作品を作る事を良しとする下半身性を体現しているものとして、斎藤義重はあるのかもしれないと、筆者は考えています。

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