アートディレクションの基本/斉藤ちさとさんへの手紙
海賊版:ヤーコブ・ローゼンバーグの製作/中野輝也さんへの提案 [気体分子ギャラリー]
立教大学への一番楽な道
池袋駅西口方面へ
西口の階段は登らずに、
地下商店街の通路を歩きC3出口から立教通りへ
駅から歩いて行くと、左手に立教大学の正面のツタの生えたたてものの
正門が見えます。
右手にも、立教大学の門があります。
それを通り過ぎて、最初の小さな道を右に曲がると、
左手に6号館の建物の門があります。
建物に入ると守衛の部屋があるので彦坂の所に行くと言って下さい。
研究室は6号館の6106です。
分からなければ、彦坂の携帯に電話して下さい。
090-1040-1445
研究室の電話
03-3985-6106
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詳しい行き方は以下よりお願いします
立教大学のサイト
http://www.rikkyo.ac.jp/
一番上のバーに交通アクセスがあります。
ページ中程に池袋キャンバスへの道順が、あります。
http://www.rikkyo.ac.jp/access/pmap/ikebukuro.html
キャンバスマップがあります。
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/index.html
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柄谷行人批判/東洋遠近画法の忘却 [アート論]
以下の文章は、「建築と美術のあいだ」というシンポジウムの記録集(未刊行)からの抜粋です。
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彦坂: さっき南さんがフッサールの『幾何学の起源』という本に触れられていましたけれども、フッサールの手稿「幾何学の起源」は、1936年に書かれているのですが、それへの序説をジャック・デリダが1962年に書いていて、そういう意味で、フッサールの現象学が、ポスト構造主義に橋わたしして行く重要な本です。
今日のシンポジウムの主題でありキューブとか、スクエアというのも幾何学ですが、人類史の中での幾何学の起源は、ナイル川の定期的な氾濫をめぐる土地の測量技術です。「幾何」という言葉の語源は、ギリシャ語で土地という意味の「"γη"(ゲー)」と、測定と言う意味の「"μετρεω"(メトレオ):」)から来ていて、つまり《土地測量》ということです。幾何学は、ギリシアに伝わって、発達します。
ピタゴラスやタレスらによる幾何学の発展で、彼らは深く図形を研究して、定理をいくつも発見し、そして証明という手法を編み出します。少数の原理から、厳密に演繹を積み重ねていって、当たり前とは思えない事柄を示していくやり方が、証明です。これはユークリッドの『元論』で完成します。そしてこれがヨーロッパ精神の手本になるのです。ですからフッサールが『幾何学の起源』として意味している《幾何学精神》というものは、原理からの演繹的な証明によて到達する真理の発見を意味するのです。
実は私は、フサールから大きな影響を受けています。学生時代に現象学研究会ってのをやっていて、一生懸命フッサールの『現象学の理念』から始まって、最後のいわゆる『危機書』と言われる『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』まで読んでいったんです。
フッサールの現象学と言うのもむずかしくて、特に最初に読んだ『現象学の理念』には、もう悪戦苦闘でした。とにかく、なにを語っているのかもわからない。むずかしい。ものすごく難解で、何を意図しているのかが、なかなかわからない。あれは学生に向かってしゃべった講義録の本なんで、聞かされた学生がわかるはずがなかったはずです。ヨーロッパの哲学者っていうのは、必ずしも文章を書いているのではなくて、パロールというか、しゃべって、記録を残していく人が多いのです。たとえば言語学のソシュールは、存命中一冊の著書も出版していないのですね。ソシュールの著書の『一般言語学講義』も、ジュネーヴ大学で行われた講義を、弟子がまとめたものですね。
私がいま読書会しているラカンも、『エクリ』っていう著作本はありますけど、基本的には書く人ではなくて語る人でした。20年以上に渡って『セミネール』って呼ばれるセミナーを開いて語り続けたのですね。これが次々書き起こされて本になって出てくるんですけれども、まあ、むずかしくて、大変です。みんなお経を読んでいるようなもので、根気よく読まないとなりません。
ラカンを解説書で読むのと、本物の本で読むのとは全然違うのです。つまり、何を言おうとしているのかというと、『幾何学の起源』を書いたフッサールは、『厳密な学問としての哲学』という本も出版していて、厳密に、学問として哲学をしようとするわけですね。こういう姿勢に、若い時に私は感動して影響を受けたのです。しかもフッサールがすばらしいのは、フッサールが信じたこと、つまりデカルトの「我思う故に我有り」という、いわゆるコギトを原理として、他者の存在を演繹的に導きだそうとする試みが、この厳密な学問の展開の中で次々に崩れていくわけですね。厳密にやるから、信じていた自分の原理と思っていた基盤が突き崩されて行く。こういう意味で、フッサールというのは本当に誠実にヨーロッパの哲学を壊していった人です。それに、私は若かかったせいもありますが、非常に感動したのですね。
きちっと学問を探究すると、原理と信じていた先入観は壊れる(笑)。厳密な学問というのは、人間の思い込みを壊す破壊活動なのです。壊して、原理そのものを再定義して、枠組みを組み替えて、古い原理の世界をを越えていける。だから、私はロマンティックにそういう幾何学精神に憧れて、厳密な学問としての芸術っていうのをめざしたんです。ですから私は、できるだけ厳密に思考しようと努力をします。拙著もそうですが、できるかぎり事実関係を調べています。
実例の一つは、日本が太平洋戦争にやぶれたという1945年8月15日の天気です。美術評論家の椹木野衣さんは、彼の著書『日本・現代・美術』の中で「日本列島の上には雲ひとつなかった」と書いています。つまり日本敗戦の日、日本列島に雲一つないと言う事実が、その後の解釈のための原理として、屹立しているのです。
そして多くの日本人が、この晴天の事実を信じている。そのイメージは、ハルマゲドンで、つまり日本は、ハルマゲドンになった。日本はそこでリセットされたんだと。そうして、彼はリセット論を展開するんですね。それは、イメージで読むと綺麗なのです。日本の敗戦の日には、日本列島の上に雲ひとつなかった。
しかし私は本能的に嘘を感じたのです。きれい過ぎるからです。私は、それは事実なのかどうかを確認するために、気象庁まで行って、調べたわけです。気象庁には、朝の六時と夕方の六時の二枚の天気図が残っていたのです。それだけ私が見てもわからないので、事情を説明して気象官を呼んもらって、こうこうこういうふうに椹木野衣が書いているので、ですから玉音放送があったときに日本列島の上に雲ひとつなかったのかどうか教えて下さいって言ったのです。そしたら北海道は、朝雨が降っていて、雲があるのです。彼の書いていることとは、事実は違うのですよ、だから、私はそういうふうに、できるだけ厳密に調べていくのです。
こういうことが重要なのは、単に天気の事だけではないからです。日本の敗戦は、ハルマゲドンではなかったし、そしてリセットではなかったのです。日本の官僚機構で解体されたのは内務省だけで、戦争を遂行していた大蔵省も外務省も、そして鬼畜米英を子供たちに教えていた文部省もリセットはされず、解雇もされず、給料は払い続けられて、戦中の体制は継続して行ったのです。敗戦リセット論というのは、幻想であり、ファンタジーであり、嘘なのです。事実とは違うのです。
もうひとつ実例を上げるます。椹木野衣さんの『日本・現代・美術』を読んでいると、最後の方ですが、手帖という文字の入った『美術手帖』と『暮らしの手帖』が出て来て、『暮らしの手帖』をまねして『美術手帖』という題名ができたのだっていう風に読めるような書きかたをしてるんです。が、年号を調べると逆なのです。『美術手帖』のほうが先です。そういう風に、椹木野衣さんは、いかさまをやるわけです。しかも意図して、悪意を込めて、いかさまをやる。彼はそれをはっきり方法として考えていたのです。自覚をしてやる確信犯の売文家なのです。
自分は関係のないものを強引にむすびつけて、とにかく読者にショックを与える風に書くと、対談の中で言っています。。事実や真実の追求はやらない。文章がおもしろければ良いのですね。事実こうした椹木野衣さんの文章が商業的に受けて、時代を制圧したのです。
椹木野衣さんは、自分のこういう方法を、美術界では言わないのです。福田和也さんっていう右翼の文芸評論家ですけれども、彼と文芸誌でそういう自分の本音と方法を語っていました。私の椹木野衣さん批判は、今度出版した『彦坂尚嘉のエクリチュール』というの本で、主要な論文として収録していますけど、これを執筆するために大宅壮一の作った雑誌専門図書館である大宅壮一文庫に行って、検索かけて、とにかく椹木野衣が美術界以外でしゃべったり書いていることを収集して来たのです。
「でたらめに反対!」「調査重視!」という方針を出して、教条主義を批判し、「調査なくして発言権なし」というテーゼを確立したのは毛沢東でしたが、日本の美術界というのは「でたらめに大賛成!」の世界で、事実の調査をきちんとやらないで、先入観や迷信にたよる判断が、はびこっているのです。椹木野衣さんというのは、こういう人間の知的怠惰につけ込んで、すごくうまく立ち回る商業主義のライターなのです。普通に文章書くんだったら調べてくるって当たり前のことですけれども、私の属している美術界っていうのは、そういうことをしない人が多いのです。だから私の本ってのはひとりのアーティストがどうやって反抗してったかっていう、そういう知的な抵抗の物語なのです。いくら反抗しても、日本の土壌というのは、グズグズで、しっかりする可能性はありません。それは知っているのですが、それでも私は抵抗をする。
たとえばデタラメは美術界だけではないのです。大きな影響を与えたのに柄谷行人さんの『日本近代文学の起源』っていうのがあります。これはフッサールの『幾何学の起源』と、題名で意識して重ねている面はありかも知れませんが、しかし少数の原理の発見が、東洋への視点を欠くことで、単なる先入観からの誤謬への到達になっています。『日本近代文学の起源』の第一章は、「風景の発見」という文章です。この文章の世評は大変に高いものですが、しかし彦坂から見ると、日本美術や東洋美術を知らない無知から来る誤謬以外の何ものでもないのです。何が間違いか?
「日本は明治になるまで遠近画法はなかった」っと平気で書いています。その根拠は宇佐見圭司という画家の書いた文章です。しかしこのテキストに対する批判検証抜きで使う事で、根本的に間違えている。そもそも宇佐見圭司氏は、美術大学を出ていない高校卒の学歴の人で、基本的な東洋美術史の教育を受けていないのです。一方の私の先生は吉沢忠氏で、水墨画の権威です。彼に2年間学んでいる。この教育の差がある。
日本には、明治以前に遠近画法は中国から輸入されていたのです。つまり東洋遠近画法が成立していたことが重要です。東洋遠近画法ってのはヨーロッパに比べて十世紀も早くに成立していたのです。ところが、江戸末期に西洋遠近画法が入ってくると、その深いイリュージョンの見た目の派手さで、東洋遠近画法が成立して、オプティカル・イリュージョンが成立していたことを、みんな忘れてしまったのです。
東洋美術の教養のある人は誰でも知っているこのことを、誰もいわない。柄谷行人が怖いのでしょうか、誰も柄谷行人が間違っているっていうことを、美術界の人は言わないのです。腰抜けなのだか、無知なのかわかりませんが、言わない。
五世紀の宋炳「画山水序」は、人類史に惨然と残る画論です。ここに明確に透視画法は記載されているし、さらに空気遠近画法も記述されているのです。つまり東洋には遠近画法が、西洋よりも早くに成立していた事を柄谷と宇佐見は、無知無教養で知らない。
さらに西洋遠近画法も、遅くても江戸時代後期には輸入されていて、、いわゆる眼鏡絵ですが、葛飾北斎でいえばクールベの波の銅板画を見て、このコピー作品から出発しているのであって、西洋遠近画法は使われているのですね。北斎の場合は、眼鏡絵の西洋遠近画法から出発して、その後東洋遠近画法に回帰して、この東洋と西洋の遠近画法を折り重ねて、非常に複雑な遠近空間を作り出して行きます。
暮沢:ヨーロッパで開発されたカメラ・オブスキュラのモデルだけじゃないってことですね。それはまあもちろん応挙とか北斎とかそれは知らなかったでしょうから。
彦坂:カメラ・オブスキュラ自体は、西欧で開発したものではありません。アラブ世界です。エジプトの数学者ハイサムがカメラ・オブスキュラの研究をしています。十字軍の時に、イスラム世界の光学の知識がヨーロッパに渡って、はじまったのであって、ヨーロッパの発明ではないのです。
応挙とか北斎は、カメラオブスキュラも、西洋遠近画法も、直接か間接かはいろいろあるにしても知っていたと私は思います。事実として丸山応挙は眼鏡絵を描いています。北斎は、クールベの絵画の複製版画を見ています。
カメラ・オブスキュラでも、透視画面っていう構造の基本は同一ですから、そういう意味で、先ほど申しあげたように中国での木枠に絹を張って遠くを見て、これをトレースして絵を描くという手法は、レンズの無い手描きカメラの手法なのです。これが五世紀以前に成立していて。日本にもそれは入ってきているのです。
源氏物語絵巻に見られる逆遠近画法というものも、これも原始的ではありますが遠近画法です。
もっと原始的な遠近画法は、上下法です。遠くのものを上に描き、立派な遠近画法なのです。
さらに、二つのものを重ねて描く重積法があります。後ろになる方が遠くにあって、前にくるものが、近くのものです。
俯瞰法して描くと、遠近が描きやすくなるので、俯瞰法も重要な手法です。これらが原始遠近画法です。
それに対して宋炳の「画山水序」に記述されている木枠に絹を張って。透視してトレースする手法は、原始遠近画法ではなくて、文明的な遠近画法なのです。東洋には、イタリアで十五世紀に発見する窓枠の理論よりも十世紀も早くに、こうした透視画面が発明されて、絵画がトレースして量産されていたのです。柄谷行人の書いているのとは違って、明治以前に遠近画法があって絵を描いてる。そういう基本が抜け落ちて語られていく、それに対する反抗があるわけです。
だから先ほどのフッサールの『幾何学の起源』に見られる《幾何学精神》の重要性ですね。絵画における遠近画法の基本を、原始遠近画法と文明遠近画法とで行われた歴史的事実を、きちんと原理として把握する必要があるのです。