越田博文さんの作品で考えた事 [アート論]
2009.11.24(火)-29(日)
名古屋で故・山田幸司さんのお通夜に出席した後、
京都によって、越田博文さんの作品を拝見しました。
搬入段階で見せていただいたので、
下に掲載する作品は、ネットからとってきたものです。
《想像界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜41次元》の《真性の芸術》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
ただしサントームが無い。
気体/液体/固体の3様態をもつ多層的な表現
ただし絶対零度が無い。
《気晴らしアート》
《ローアート》
シニフィアンとシニフィエの同時表示の美術
純粋美術とキッチュ美術の同時表示
《芸術》と《反芸術》の作品。
ただし《無芸術》と《非芸術》がない。
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写真をコンピューターで加工したものを描いている絵画です。
試みとしては、情報化社会の絵画として充分にあり得るものです。
《気晴らしアート》で《ローアート》であるところが、
一番気にはなりますが、
『アートの格付け』としては、《超次元》から《第41次元》まで
あるので、頑張っている方ではあります。
興味深かったのは、
《芸術》と《反芸術》性はあるのですが、
《無芸術》と《非芸術》性が無い事です。
その意味で、古いモダンアートの系譜に属しておられます。
《無芸術》性を分かりやすく言えば、装飾や色彩の肯定であり、
性的な官能表現の肯定の志向です。
この《無芸術》が、一見したところありそうで、実は欠けています。
《非芸術》性というのは、デザイン性ですが、
これも
越田さんの作品ではありそうで、それが欠けています。
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作家としては1986年から活動なさっていて、
この時代は森村泰昌さんや、宮島達男さん、そして中原浩大氏が、
台頭した時代です。
この時代の3人に共通しているのは、
《無芸術》《非芸術》の両方をもっている作品なのですが、
《芸術》と《反芸術》性は、欠いているのです。
つまり、1975年以降になると、
それまでのモダンアートから現代美術にあった《芸術》《反芸術》が
消えてしまって、
《無芸術》《非芸術》の時代になるのです。
この変化に対して、
越田さんは乗り切れなくて、古い《芸術》《反芸術》の構造に
固執したのです。
にもかかわらずデザイン性や装飾性はあって、
つまりデザイン性を素材にしながら、このデザイン性を否定し、
装飾性を材料にして作品を作りながら、これを否定的にあつかう
ことで、《芸術》《反芸術》性を確立しているように、
見せた作品を展開なさって来たように、
私には見えます。
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越田さんが活動を開始した1986年からという時代は、
バブル始まった時代でありました。
美術での大きな変化はジェフクーンズの登場です。
ジェフクーンズは、モダンアートの否定したキッチュを、
積極的に肯定的に扱う事で、キッチュと純粋芸術を
同時表示したのです。
それだけでなくて《無芸術》《非芸術》と《芸術》《反芸術》の
4つを、同時表示する作品を展開しました。
このジェフクーンズを模倣し、後追いする形で、村上隆と
ダミアン・ハーストが登場します。
情報化社会の芸術のひとつの型は、
この《無芸術》《非芸術》《芸術》《反芸術》の4つを
同時表示して行く事だと、私は思います。
今回の越田さんの作品を拝見すると、
《無芸術》《非芸術》を欠いた状態というものが、
いかなるものなのかを、実見したと言う感慨があります。
つまり、通俗的に言えば、今日の現代アートは、
実は《非芸術》としてのデザインワークを十全に達成する必要が
あります。
そして《無芸術》としての官能表現の徹底的な追求が
必要なのです。
このことを、改めて強く認識させていただきました。
この二つを成立させた上で、古い《芸術》《反芸術》までをも
成立させて見せる力技が必要なのではないでしょうか。