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村上隆と北川フラム [アート論]

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村上隆の顔の《言語判定法》による分析   北川フラムの顔の《言語判定法》による分析

《第13次/喜劇領域》の《社会性の高いデザイン的人格》 《第6次元/自然領域》の《社会性の高いデザイン的人格》

《想像界》の人格                   《想像界》の人格

《シリアス人間》                   《シリアス人間》
《ローアート的人間》                 《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。            シニフィエ(記号内容)的人間。
『真実の人』                     『真実の人』


 彦坂尚嘉の《言語判定法》での分析で見るかぎり、村上隆と北川フラム二人とも社会性の高いデザイン的エンターテイメント的な人格なのです。そして《シリアス人間》で、しかも「真実の人」であるという共通性があります。

 2000年代アートのスペクタクル化が、実はアートのデザイン化であり、幻影化であり、それがアートの社会性の増大であったことと、この2人のカリスマの人格構造は一致していたのです。

 2000年代は、こうして北川フラムと村上隆という2人の偉大なカリスマによって、日本美術がローカリゼーションとグローバリゼーションの両方でスペクタル化した時代であったのです。(面白いのは、この二人は交差しなかったことです。北川フラムの中には、キャラクターアートに対する否定の意識があることは、発言の中に垣間みられます。)

 従来の銀座の貸し画廊を歩き回る画廊巡りや、美術館や博物館を一人でコツコツと歩いて、ベンチの隅でお弁当を密やかに食べるといった貧乏臭い美術愛好家を、あざ笑い、時代遅れにする、圧倒的なアート現象の社会的スペクタクル化がはかられたのです。
 しかし、このことは、アートシーンで独自に起きたものではなくて、後期資本主義社会が生み出すスペクタクル化という疎外現象のアート版に過ぎないのです。
 ギ・ドゥボールが『スペクタクルの社会』(1967年)で指摘した事は、多くの人々が受動的な観客の位置に押し込められた世界に、後期資本主義社会がなったということです。映画の観客のようにただ世界を眺めることしか残されていないという状態におかれたことをスペクタクル化と言い、これが資本主義の究極の統治形態だと言うのです。

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ギ・ドゥボール.jpg
同様の警告は、ダニエル・ブアースティンが『幻影の時代』という本で、
もっと早い1964年に指摘していた事でした。
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 私は、このダニエル・ブアースティンに大きな影響を受けた世代です。ブアースティンの指摘は、この情報化社会の幻影性を早くに指摘していたと言える。
 2000年代の背後には1995年からのアメリカで起きたインタネットバブルと、2002年からのサブプライムローン・バブルという2つの過剰消費があったのであって、このアメリカの過剰消費が作り出すスペクタクル化の波に乗る形で新幹線の乗客までもが増大しただけでなくて、アートシーンも巨大化してスペクタクルになり、観客は傍観者といてながめるだけになったのです。
 いや、それは芸術そのもの質としては長谷川裕子の主張した「アートとデザインの遺伝子を組み替える」事態となって、アートという名の元に、芸術性のひとかけらも無いデザインワークが、アートとしてもてはやされる時代になったのです。ひとかけらも無いと言うのは、言い過ぎの部分がありますが、《近代》の純粋芸術は古くなり、衰弱したのです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 しかし、高度消費社会の中で、資本主義そのものに対する根源的な否定意識も広がって来ています。なぜ私たちは、すべての事に対して消費者として受身でなければいけないのか? なるべくお金を使わないようにする事。ニューヨークでは、ホームレスでもない人々が、ゴミとして捨てられる食品をゴミ箱から拾って食べるまでされていると、ネットで読みました。自動車も持つ事を拒否する若者の増加。こうした高度消費社会に対する反撃の動きが次第に社会の底流に広がって行きます。
 アートという自由と信じられていたものが、勝手にデザイン化に転化され、一部の新興成金により誤読され、誤読に誤読が重ねられ、幻影の時代の中で、根拠なき熱狂の嵐が吹き荒れ、美術市場は異様に高騰し、現代アートの裸の王様化が進んでいったのが2000年代でした。村上隆の作品もしかり、現代美術としてもてはやされる作品は精巧なデザインや下品さまでも上手に取り込み、さも高尚であるかのように私たちを取り巻いて、幻影と、誤読の罠をしかけてきているように感じます。
 こうした村上隆的なキャラクター・アートという新・偶像崇拝美術に対する反撃であるかのように振る舞う形で、越後妻有トリエンナーレの北川フラムの里山に対する思いの思想は展開して行ったのですが、同時に農舞台やキョロロ、そしてキナーレという幻影の巨大建築が建設されていきました。
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農舞台です。
アートと里山を同時に楽しめるフィールドミュージアムという掛け声で
建設されたものです。

設計者はMVRDV

MVRDV (エムブイアールディーブイ) はオランダのロッテルダムを拠点とする建築家集団で、1991年に設立されものです。名前の由来は事務所設立時のメンバーの三人の頭文字からとったものであるのです。

  • ヴィニー・マース(Winy Maas、1959年 - )
  • ヤコブ・ファン・ライス(Jacob van Rijs、1964年 - )
  • ナタリー・デ・フリイス(Nathalie dVries、1965年 - )

ヴィニー・マースとヤコブ・ファン・ライスはレム・コールハースの主宰する建築設計事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)の出身です。

 レム・コールハースは、1944年生まれのオランダの建築家。代表的な作品は、シアトル中央図書館(2004年)、カーサ・ダ・ムジカ (ポルトガル、ポルト、2004)などですが、私はこの両方を見に行っています。現在、中国中央電視台本部ビル (中国、北京、2004着工)が建設中です。



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手塚貴晴設計のキョロロです。

里山と自然と文化の魅力と不思議を楽しく展示する科学館という

コンセプトで建てられました。

手塚貴晴(てづか たかはる)は、1964年生まれの建築家東京都市大学准教授。
ふじようちえん(立川市)で2008年の日本建築学会賞を受賞しています。

今回の越後妻有では、
廃屋を改造してイタリアンレストランにする仕事をしています。
北川フラムのアートディレクションで、そのイタリアンレストランに、
彦坂尚嘉のウッドペインティング・シリーズの小品5点が飾られています。
(作品番号229)
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3つめが原 広司設計のキナーレです。
着物の歴史館や和グッズを販売する和装工芸館が設けられているほか、
風呂と休憩室が揃った温泉「明石の湯」があります。

原 広司は1936年生まれの建築家。東京大学名誉教授
2001年京都駅ビルで、ブルネイ賞建築部門激励賞。

越後妻有トリエンナーレの総合ディレクターである北川フラム氏と、
建築家・原広司氏は姻戚関係があります。
北川フラム氏の人脈の大きさと厚さが、この越後妻有トリエンナーレを
巨大なものにしているわけですが、
同時にその次元は、こうした巨大建築を建設すると言う、
《近代》特有の開発主義の性格を持っているのです。

 美術館関係者からは北川フラムが、アートゼネコンと陰口をきかれたのは、単なる豪腕のアートディレクションに対する嫉妬やねたみだけとは言えないものがあります。
 越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》というのは、過疎化と少子化で衰弱化した地方と言っても、田中角栄による列島改造計画の徹底化した地域であり、過剰にまで発達した道路とトンネル建設による驚くほどよく完備した道路網が完成している近代化された地域です。近代化の地域改造が完成した時に、人々の期待した幸せの幻影は消えて、若い人々はこの地を離れて、都会に出て行ってしまったが故に、越後妻有の地は衰退したのです。
 そこで政治スケジュールに入って来たのが平成の大合併でした。つまり越後妻有トリエンナーレの根本には、6市町村の合併と言う《平成の大合併》の政治目的が潜在していたのであります。
 日本の近代史は3回の《大合併》、つまり市町村合併の歴史です。まず明治維新による変革で、1988年の《明治の大合併》です。この市町村合併によって、伝統的な村は世界は解体されます。約7万あった村が、5分の1にされて,約15000にされたのですが、この変動は以後もすすめられて、最終的には7分の1の1万台になります。2度目が、敗戦による変革で、1953年から61年にかけて《昭和の大合併》が実施されて、市町村数は約3500にまで統合されました。江戸時代の末期の20分の1にまでなったのです。そして《平成の大合併》ですが、市町村の数は1760まで減って、つまり江戸時代の40分の1の数にまでなってしまったのです。
 住民の伝統的な生活世界の小さな7万箇の村世界を解体しつくして、アメリカの様に、車が無ければ生活が出来ない広大な《大地》の形成と言う、生活世界のアメリカ化という構造変動があったのです。
 近代化による改造の極限の地域に、現代美術を移植することが、越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》であったのです。『大地の芸術祭』という題名の中の《大地》は、江戸時代までの日本の伝統的な自然とそこでの人々の生活世界を意味しているのではなかったのであって、《大地》は、アメリカナイズされた《大地》なのです。この《大地》には、もはやかつての7万個の《日本の村》は無いのです。だからこそ、小さな山村は淘汰されて、過疎化と少子化は進み、住民の個数は減り、廃村に至るのです。
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 北川フラムの根底には1960年代末のアースワーク熱狂した感性が潜在していて、平成の大合併と言う里山のアメリカ化と、北川フラムの芸術観が共振を起こして、アメリカ型のアアースワークの日本語への翻訳と言うローカリゼーションの形式が、北川フラムのアートディレクションの根底を形成していたように、彦坂尚嘉には見えます。
 つまり里山の小さな世界を、巨大空間にスペクタクル化することが北川フラムの仕事であった可能性が、越後妻有トリエンナーレにはあるのです。実際、越後妻有トリエンナーレの作品は、スペクタクル・アートであるものが多いのです。
 こうした2000年代の10年間のアートのスペクタクル化の幻影を押し進めた立役者として、北川フラムと村上隆という巨人が出現したのでした。

 

 私自身は美術家として、この越後妻有トリエンナーレ第一回から全ての回に参加して、Floor Eventシリーズを4回展開してきただけに、感慨深くこの北川フラムによる10年間の魔術的な夢を振り返らざるをえません。

 Floor Event/フロアイベントというのは、自らが立つ床そのものを直視すると言うコンセプトの作品だからです。日本の《大地》がアメリカ化したという事実を直視しなければならなかったのです。



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越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?(5)

越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?──2000年代日本現代アート論

彦坂尚嘉 /木村静2009年08月15日号

6:2000年代のアートのスペクタクル化

 2000年代は、こうして北川フラムと村上隆という2人の偉大なカリスマによっ

て、日本美術がローカリゼーションとグローバリゼーションの両方でスペクタ

ル化した時代でした。

 従来の銀座の貸し画廊を歩き回る画廊巡りや、美術館や博物館をひとりでコ

ツコツと歩いていた貧乏臭い美術愛好家を、あざ笑い、時代遅れにする、

圧倒的なアート現象の社会的スペクタクル化が2000年代にはかられたのです。

しかし、このことは、アートシーンで

独自に起きたものではなくて、後期資本主義社会が生み出すスペクタクル化と

いう疎外現象のアート版に過ぎないのです。

 ギ・ドゥボールが『スペクタクルの社会』(1967)で指摘したことは、多く

の人々が受動的な観客の位置に押し込められた世界に、後期資本主義社会がな

ったということです。映画の観客のようにただ世界を眺めることしか残されて

いないという状態におかれたことをスペクタクル化と言い、これが資本主義の

究極の統治形態だと言うのです。 

 情報化社会化が生み出す根拠無き疑似イベント性の危険性については、ダニ

エル・ブアースティンが『幻影の時代』という本で、もっと早い1964年に指摘

していた事でした。私は、このダニエル・ブアースティンの著作を高校生で読

んで、非常に大きな影響を受けた世代です。

 
左:ギー・ドゥボール/右:ダニエル・ブーアスティン

 2000年代の背後には1995年からのアメリカで起きたインターネットバブルと、

2002年からのサブプライムローン・バブルという二つの過剰消費があったので

あって、ドゥボールやブアースティンが警告していた社会のスペクトル化や幻影化

は、極限まで増幅され、ロバート・シラーが指摘したように『根拠なき熱狂』でし

かないバブルの波が2002年から2007年10月まで盛り上がり、そしてこの盛り上がり

は,波が海岸で崩れて行くように、崩壊したのです。このアメリカの過剰消費が作

り出すスペクタクル化の波に乗る形で新幹線の乗客までもが増大しただけでな

くて、アートシーンも巨大化してスペクタクルになり、観客は傍観者としてな

がめるだけになったのです。

 いや、それは芸術そのもの質としては長谷川祐子の主張した「アートとデザ

インの遺伝子を組み替える」事態となって、アートという名の元に、芸術性の

ひとかけらも無いデザインワークが、アートの幻影としてもてはやされる時代

になったのです。ひとかけらも無いというのは、言い過ぎの部分がありますが、

《近代》の純粋芸術は古くなり、衰弱したのです。それに変わって、疑似アー

トが跋扈し、芸術は、ただの幻影になってしまったのです。
 しかし、高度消費社会の中で、資本主義そのものに対する根源的な否定意識

も広がって来ています。そもそも資本主義そのものが《近代》が生み出したも

のであって、《近代》が衰弱して脱-近代化している時に、なぜに脱-資本主義

の動きが起きないのでしょうか?そして、なぜ私たちは、すべての事に対して

消費者として受身でなければいけないのか?消費そのものに対する反撃は、ま

す、なるべくお金を使わないようにする事です。こうした節約主義が若い人々

の中に、うねりとして始まっています。ニューヨークでは、ホームレスでもな

い人々が、ゴミとして捨てられる食品をゴミ箱から拾って食べるまでされてい

ると、ネットで読みました。自動車も持つ事を拒否する若者の増加は、新しい

未来を感じさせます。高級乗用車を買うのではなくて、安いレンタカーやシェ

ア・カーの利用が広がってきています。こうした高度消費社会と後期資本主義、

そしてマスコミュニケーションの幻影操作に対する反撃の動きが、次第に社会

の底流に広がっていきます。
 アートという自由と信じられていたものが、勝手にデザイン化に転化され、

一部の新興成金により誤読され、誤読に誤読が重ねられ、幻影の時代の中で、

「根拠なき熱狂」の嵐が吹き荒れ、美術市場は異様に高騰し、現代アートの

裸の王様化が進んでいったのが2000年代であったのです。村上隆の作品も

しかり、現代美術としてもてはやされる作品は精巧なデザインや下品さまで

も上手に取り込み、さも高尚であるかのように私たちを取り巻いて、幻影と、

誤読の罠をしかけてきているように感じます。
 こうした村上隆的なキャラクター・アートという新・偶像崇拝美術に対す

る嫌悪と反撃であるかのように振る舞う形で、越後妻有トリエンナーレの北

川フラムの里山に対する思いは展開していったのですが、しかし同時に農舞

台やキョロロ、そしてキナーレという幻影の巨大建築が建設されていきました。

 まず、松代に建設された農舞台です。


 アートと里山を同時に楽しめるフィールドミュージアムという掛け声で建設

されたものです。

 設計者MVRDV(エムブイアールディーブイ)というオランダのロッテルダム

を拠点とする建築家集団で、1991年に設立されたものです。名前の由来は事務

所設立時のメンバー三人の頭文字からとったものであるのです。彼らは、

レム・コールハースの主宰する建築設計事

務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)の出身です。
 レム・コールハースは、1944年生まれのオランダの建築家。代表的な作品は、

シアトル中央図書館(2004年)、カーサ・ダ・ムジカ(ポルトガル、ポルト、

2004)などですが、私はこの両方を見にいっています。彦坂尚嘉責任の芸術

分析では《第21次元 愛欲領域》の建築で、これは実は《第2次元・技術領域》

の倒錯領域なのです。現在、中国中央電視台本部ビル(中国、北京、2004

着工)が建設中ですが、コールハースは批判的に検討さられるべき建築家で

あると思います。

 

 手塚貴晴設計のキョロロです。


 里山と自然と文化の魅力と不思議を楽しく展示する科学館というコンセプトで

建てられました。手塚貴晴(てづかたかはる)は、1964年生まれの建築家。東京都

市大学准教授。ふじようちえん(立川市)で、2008年の日本建築学会賞を受賞して

います。
 今回の越後妻有では、廃屋を改造してイタリアンレストランにする仕事をして

います。(作品番号229)。


 3つめが原広司設計のキナーレです。


 着物の歴史館や和グッズを販売する和装工芸館が設けられているほか、風呂と

休憩室が揃った温泉「明石の湯」があります。原広司は1936年生まれの建築家。

東京大学名誉教授。2001年京都駅ビルで、ブルネイ賞建築部門激励賞。
 越後妻有トリエンナーレの総合ディレクターである北川フラムと、建築家・原

広司は姻戚関係があります。北川フラム氏の人脈の大きさと厚さが、この越後妻

有トリエンナーレを巨大なものにしているわけですが、同時にその次元は、こう

した巨大建築を建設するという、《近代》特有の開発主義の性格を持っているの

です。美術館関係者からは北川フラムが、アートゼネコンと陰口をたたかれたの

は、単なる豪腕のアートディレクターに対する嫉妬やねたみだけとは言えないも

のがあります。実際に立川の再開発や、京都駅ビル建設等々に、深く関わって来

ている実力のあるアート・ディレクターなのです。
 越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》は、過疎化と少子化で衰弱化した

地方とはいえ、田中角栄による列島改造計画の徹底化した、過剰にまで発達し

た道路とトンネル建設による道路網の完成した地域で行なわれています。この

山岳地形の改造が完成した時に、人々の期待した幸せの幻影は消えて、若い人

々はこの地を離れて都会に出ていってしまったのです。そして越後妻有の地は

衰退したのです。
 そこで政治スケジュールに入って来たのが平成の大合併でした。越後妻有ト

リエンナーレの根本には、6市町村の合併と言う《平成の大合併》の政治目的

が潜在していたのであります。
 日本の近代史は3回の《大合併》、つまり市町村合併の歴史です。まず明治

維新による1988年の《明治の大合併》です。この市町村合併によって、約7万

あった伝統的な村世界は解体され約15,000(5分の1)にされました。

2度目が、敗戦による変革で、1953年から61年にかけて《昭和の大合併》が

実施され、市町村数は約3500にまで統合されました。江戸時代の末期の20分

の1にまでなったのです。そして《平成の大合併》では、市町村の数は1760ま

で減って、江戸時代の40分の1になったのです。

 こうした小さな村の解体は正しかったのか?中国の老子は、人間の幸せは人

生は、小さな村の中にあると看破して、小国寡民を説きました。これはひとつ

の真理なのです。フランスでは「フランスの最も美しい村」という協会があり

ます。1982年に設立されたもので、その目的は質の良い遺産を多く持つ田舎の

小さな村の観光を促進することにあります。協会ではブランドの信頼性と正当

性を高めるために厳しい選考基準を設けています。その基準というのは、人口

が2000人を超えないこと、そして最低2つの遺産・遺跡(景観、芸術、科学、

歴史の面で)があり土地利用計画で保護のための政策が行われていることなど

が、あります。したがって従って景観を破壊するような建物や設備は制限され

るのです。このフランスの基準を機械的に当てはめろとは言いませんが、農舞

台にしても、キョロロにしても、キナーレにしても、越後妻有の景観と調和し

た建築であったのか? という調和を巡る議論は必要であったはずであります。
 しかしフランスとは正反対に、日本では小さな村は併合されて行き、住民の

伝統的な生活世界は解体され、自動車が無ければ生活が出来ない広大な《大地》

を形成するアメリカ化が進んで行ったのです。越後妻有における《大地の芸

術祭》の「大地」は、アメリカナイズされた「大地」であり、この《大地》

には、もはやかつての7万個の《日本の村》は無いのです。だからこそ、

小さな山村は淘汰されて、過疎化と少子化は進み、住民の個数は減り、

多くの地域が廃村に至る道を歩んでいるのです。こうした近代化に

よる改造の極限の地域に、現代美術を移植することが、

越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》でした。


 北川フラムは1946年生まれで、私と同じ年齢です。私と北川フラムの根底に

は、ロバート・スミッソン、マイケル・ハイザー・ウォルター・デ・マリア、

そしてクリストといったアーティストに熱狂した経験があります。つまり1960

年代末のアースワーク、あるいはアース・アート、ランド・アートと呼ばれた

芸術です。それらの流れはサイトスペシフィック・アートなどと呼ばれた美術

まで拡張されます。北川フラムの感性

の中には、こうしたモダンアート最後の巨大化した美術に熱狂した感性が潜在

していて、平成の大合併という里山のアメリカ化と、北川フラムの芸術観が共

振を起こして、アメリカ型のアアースワークの日本語への翻訳と言うローカリ

ゼーションの形式が、北川フラムのアートディレクションの根底を成したよう

に、私には見えます。
 つまり里山の小さな世界を、巨大空間にスペクタクル化することが北川フラ

ムの仕事であった可能性が、越後妻有トリエンナーレにはあるのです。実際、

越後妻有トリエンナーレの作品は、スペクタクル・アートであるものが多い。
 こうして2000年代の10年間のアートのスペクタクル化の幻影を押し進めた

立役者として、北川フラムと村上隆という巨人が出現したのでした。

画像:http://blog.so-net.ne.jp/_pages/user/auth/article/index?blog_name=hikosaka2&id=14458939

 彦坂尚嘉の《言語判定法》での分析で見る限り、村上隆は《第13次元・喜劇

領域》、そして北川は《第6次元 自然領域》と、生きている次元そのものは違い

ますが、二人とも社会性の高いデザ

イン的エンターテイメント的な人格です。そして《シリアス人間》で、しかも

「真実の人」であるという共通性があります。アートのスペクタクル化が、

実はアートのデザイン化であり、幻影化であり、それがアートの社会性の増大

であったことと、この2人のカリスマの人格構造は一致していたのです。
 2000年代というのは、こうして村上隆の時代であると共に、北川フラムの越

後妻有トリエンナーレの時代であったのです。二人の背後には1995年からのア

メリカ社会の過剰消費の世界中への波及による「根拠なき熱狂」があり、そし

てグローバリゼーションの中の自虐的で不快な「セルフ・オリエンタリズム」

があり、さらに「日本の《大地》のアメリカゼーション」があったのです。
 私自身は美術家として、この越後妻有トリエンナーレに第1回から全ての回

に参加し、FloorEventシリーズを4回展開してきただけに、北川フラムによる

10年間の魔術的な夢を感慨深く振り返らざるをえません。FloorEvent/フロア

イベントというのは、自らが立つ床そのものを直視するというコンセプトの

作品だからです。日本の《大地》がアメリカ化したという事実を直視しなけ

ればならなかったのです。そしてそのことは老子の説いた「小国寡民」性を

失った事であり、日本人が幸せに生きる道を喪失したことを意味したのです。

21世紀の日本人は不幸なのです。

この不幸さを超えるには、どうしたら良いのか? たぶん唯一残されているの

は、新しい関係、つまり伝統的な血縁関係や、地縁関係、そして学閥関係や、

会社企業共同体ではない新しい関係によって、小さな《島》を作る事でしょう。

しかもそれが、インタネット関係であって、かつての様な固い関係で

はなくて、流動性のより高い、気体分子状態という緩い関係の中で、形成して

行く事のあると、私は考えています。

越後妻有の衰退を救う道も、携帯電話をどんな山奥でも使えるようにすることと、

インタネット網を完備する事です。この事を抜きには、都会からの移住者も

呼び込む事は出来ません。

終章 目玉作品問題と、「ばさら」を超えて

 越後妻有トリエンナーレの目玉作品というと、今回のカタログの表紙は草間

彌生であり、扉はアブラモヴィッチの夢の家であり、次はボルタンスキーです。

これらの問題点を論じることは、いろいろな角度から可能ですが、まずボルタ

ンスキーの作品を例にして考えておきたいと思います。

 

DSC05126.JPG.jpeg

撮影;木村静


ボルタンスキー作品に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析。

《想像界》の眼で《第8次元 宗教領域》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《第8次元 宗教領域》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《第8次元 宗教領域》のデザイン的エンターテイメント。

《想像界》の表現であって、《象徴界》《現実界》は無い浅い作品。
液体美術であって、気体/固体/絶対零度の3様態は持っていない浅い作品。

《気晴らしアート》であって、《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》であって、《ハイアート》性は無い。

シニフィアンの美術であって、シニフィエ性は無い。
《イラスト的空間》。【B級美術】。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  越後妻有という里山での芸術祭において重要視したいのは「いかに場所と調

 和しているか」という観点です。「フランスの最も美しい村」という協会とほ

ぼ同一の視点です。里山には自然があり、そこに移り住んだ人がいて、その人

たちの生活空間があります。つまり、この場所には元々ストーリーがあり、そ

こでの芸術表現活動においては、そのストーリーを前提として考えなければい

けない。都会の自室や、お金で借り切った東京のギャラリーなど、一種の私的

化された空間での表現よりもはるかに難易度が高い事と言えます。その点で、

クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマンによる「最後の教室」には、

異論を唱えずにいられません。廃校になり、子供たちがいなくなった小学校に

はもの悲しいものもありますし、廃校を再利用するプロジェクト自体は素晴ら

しいと思います。ガイドブックには美しい写真が掲載され、評価も高いようで

すが、しかし実際は蒸し暑く、干草の匂いがする真っ暗な体育館から、真っ暗

な廊下を歩き、壁にかけられた額縁の中も黒い。廊下のくぼみには古着と思わ

れる服がただ山のように積み重ねられている、2階には棺と思わせる直方体に

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越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?(4) [アート論]


開会式の記念写真。最前列下、中央の女性の右横にいるのが彦坂尚嘉
撮影=木村静


彦坂尚嘉(左)と北川フラム(右)。第4回のオープニング式典会場で。彦坂尚嘉と北川フラムは共に1946年生まれで、1969年以来の40年間の交友関係がある。
撮影=井上清仁

 越後妻有はあくまでも日本の田舎であって、トリエンナーレは現代美術を、この日本の現実に還元していくという、そういうローカリゼーションの美術展なのです。同時に、現代美術の前提価値そのものを解体していくという脱・構築運動であって、そのデコンストラクション性を評価する視点で見ていかないと、北川フラムというアートディレクターに対する正当な理解はできません。
 ローカリゼーション(localization)というのは、情報技術においては、コンピュータ・ソフトウェアを、現地語の環境に適合させることを言います。外国で開発されたソフトウェアを、日本で使用できるようにするためには、日本語に翻訳する必要があります。日本語化だけではなくて、プログラムを修正したり、プログラムコードを修正をしたり、ソフトウェアの仕様変更までも、が必要となります。したがって、いわゆる「翻訳する」というだけではなくて、最終的に日本の現実に適応できるものにしなければならないので、改造が必要です。こうした広義の翻訳やシステムの変更の行為をまとめて、ソフトウェアの「現地語化」、すなわち「ローカリゼーション」と言います。
 越後妻有トリエンナーレで、北川フラムがディレクターとしてやっている仕事は、欧米生まれの現代美術を日本語に翻訳し、さらに日本の田舎の現実に適応できるように、アートの質を修正したり、アートの個人性を消して社会性を強調したデザインワークに変質させたり(実例・カバコフの作品)、アートの高度な質を低くしたり、アートの仕様や様式の変更をしたり、アートの価値観や目的の変更を仕掛けているという、アート・ローカリゼーションの実践なのです。
 それは従来の芸術至上主義や、純粋芸術という価値観や、個人主義制作を解体して組み直す作業になります。住民参加の制作による作品の展開は、この近代個人主義的制作の、解体再編運動であったのです。それは《現代美術》というものを、日本の田舎という生活世界に基礎づけていくという、最終的な和物化/和風化運動であったのです。こうして現代美術の「現地語化」という仕事をしたのが北川フラムであって、その結果としていくつかの傑出したアートディレクション・アートが生まれました。


大地の芸術祭2003出品作品新田和成「ホワイトプロジェクト」
出典=越後妻有・大地の芸術祭のまわり方


   アートフロント+新田和成「ホワイトプロジェクト」彦坂尚嘉責任の芸術分析 

   《超次元・超越領域》から《第41次元・崇高領域》までの多次元的な《真性の芸術》 。

   《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

   気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現 。

   《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示。

    《ハイアート》と《ローアート》の同時表示 。

   シニフィアン(記号表現)の芸術。[A級芸術]。

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 代表的なのは、2003年の代表作のひとつとなった新田和成の「ホワイトプロジェクト」です。これは新田和成ひとりのアーティストとしての実力だけでは到底出来ない作品で、新田和成を素材にした北川フラムが主宰するアートフロント・ギャラリーの仕掛けたアートディレクション・アートであったように、私には見えました★10
 《シリアス・アート》と《気晴らしアート》、そして《ハイアート》と《ローアート》の同時表示がこの「ホワイトプロジェクト」では成立していて、この事は情報社会のアートとしての新しさを示しています。「同時表示」ということを説明するのも、難解なのですが、白と黒とか、善と悪とかいった、2元対立の反対のものが、混じり合わないままに、同時に存在するという状態です。こうした状態が、情報化社会の新しい芸術の特徴となって来ているのです。

 こうした北川フラムのアートディレクションの豪腕さは、1988年から1990年の『アパルトヘイト否!』や、1994年の『ファーレ立川』でも際立っていましたが、特に私を驚かせるほどに屹立して来たのは、新田和成の『ホワイトプロジェクト』の前年の2002年、第二回大地の芸術祭プレイベントとして企画された「天空散華・妻有に乱舞するチューリップ・中川幸夫『花狂』」でした。あれこそは中川ひとりのアーティストとしての実力だけでは到底出来ない作品で、中川幸夫を素材にした北川フラムの仕掛けたアートディレクション・アートでありました。中川幸夫の初期構想が、いかなるプロセスで北川フラムによって変形されて拡大されていったかを論述すると長くなりますので省きますが、北川の驚くべき執念によって実現したもので、マス・メディアの利用も巧妙さを極めたものでした。

   図版:http://www.geocities.jp/fumimalu/hana.htm

   北川フラム+中川幸夫+大野一雄の「花狂」に対する 《言語判定法》による彦坂尚嘉責任の芸術分析 

   《超次元・超越領域》から《第41次元・崇高領域》までの 多次元的な《真性の芸術》。

    《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

    気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現 。

   《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示 。

   《ハイアート》と《ローアート》の同時表示 。

   シニフィアン(記号表現)の芸術、[A級芸術]。


 

 すでにこの「花狂」でも、《シリアス・アート》と《気晴らしアート》、そして《ハイアート》と《ローアート》の同時表示が成立していて、この事は情報社会の情報アートとしての新しさを示しています。いや、逆で、もともとこの1日だけのイベントは、越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》を成功するために、情報戦として仕掛けられた「情報アート」であったのです。

 しかしアートフロン・ギャラリーの内部に取材して聞くと、1回目からの住民参加の制作そのものは、作家と住民の反応の自立的展開を無視できない動きであって、そのすべてを北川フラムのアートディレクションに帰するのは、事実経過としては無理があるように思いました。アートディレクション・アートの展開は、作家自身にもフィードバックされていって、相互増幅していったように思います。
 実例としては2003年の代表作家のひとりであった彦坂尚嘉の場合には、展示場所の田麦という山村に自らの本籍を移すということをやっています。次の2006年の代表作家となった菊池歩の「こころの花──あの頃へ」は、現地への移住によって、その長期性の中で制作されています。したがって、そのような作家の積極的な参加を引き起こすシステムを立ち上げ、作動させ得た北川フラムの豪腕は見事なものと評価するべきで、他の誰もマネの出来ない偉業であったと私は思います。
 菊池歩の作品「こころの花-あの頃へ」は大きな評判にはなって、現地の人気は非常に高いものでありました。しかし彦坂尚嘉の芸術分析では低くて、《第8次元宗教領域》のデザイン的エンターテイメント作品と判断します。しかも絶対零度の美術という、つまり原始美術でありまして、芸術的には[B級芸術]であったのです。

   図版:http://www.pref-niigata.jp/tokamachi/art/06/kikuchi_keiro/index.html

   菊池歩「こころの花」_《言語判定法》による彦坂尚嘉責任の芸術分析。

   《第8次元宗教領域》》のデザイン的エンターテイメント作品_ 。

   《想像界》の美術。 絶対零度の美術(=原始美術)。《気晴らしアート》。 《ローアート》。

   シニフィアン(記号表現)の芸術。[B級芸術]。

こうして越後妻有トリエンナーレ『大地の芸術祭』で作り出された「妻有アート」とも言うべき住民参加型の様式は、手の込んだ手芸、あるいは工芸とも言える作りと、奇妙に類似した構造の作品となって、しだいに固定化していきます。



大地の芸術祭2006出品作品
日本大学芸術学科彫刻コース有志「脱皮する家」
Photo: KazueKawase

   日本大学芸術学部彫刻「脱皮する家」 《言語判定法》による彦坂尚嘉責任の芸術分析 

   《第6次元自然領域》のデザイン的エンターテイメント作品 。

   《想像界》の美術。絶対零度の美術(=原始美術)。《気晴らしアート》。《ローアート》。

   シニフィアン(記号表現)の芸術。[B級芸術]

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 前回2006年のトリエンナーレで評判になった日本大学芸術学部彫刻コース有志による「脱皮する家」も、廃屋の中に展開されたオールオーバーの木彫工芸といったおもむきのものでありました。私の芸術分析では、《第6次元自然領域》のデザイン的エンターテイメント作品と判断されます。芸術ではなくて、工芸なのです。しかも菊池歩「こころの花──あの頃へ」と同様に絶対零度の美術(=原始美術)であり、《気晴らしアート》、《ローアート》なのです★13
 これら大評判になった妻有様式の作品は、現代美術が、「手芸」や「工芸」という《ローアート》にローカリゼーションされたものです。ポロック的なオールオーバーの構造の上に展開される「手芸」や「工芸」として、屋外や、廃屋の中に反復して、妻有様式がバリエーション化し、しだいにマンネリ化して、つまらないものになっていきます。飽きるのです。芸術を脅かし、淘汰するものは、結局、この人間の飽きの問題です。


杉浦久子+杉浦友哉+昭和女子大学杉浦ゼミの「雪ノウチ」       撮影=木村静

   彦坂尚嘉責任の芸術分析 

   《第1次元社会的理性領域》から《第6次元自然領域》までの 多次元的なデザイン的エンターテイメント作品 。

   《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

    気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現 。

   《シリアス・アート》。《ハイアート》。

    シニフィアン(記号表現)/シニフィエ(記号内容)の同時表示 。

   《透視立体》。[A級美術]。

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 そういう飽きの空気の中で、今回の、杉浦久子+杉浦友哉+昭和女子大学杉浦ゼミの「雪ノウチ」という作品は、このような住民参加型「妻有アート」の中でも際立つ秀作でありました。

 

 フロイトがいう《退化性》という私的歴史性をもった芸術作品ではありませんが、たいへんにフェニミンな美しさのある作品で、《1流》の《ハイアート》性をもつデザイン作品でした。合法的表現であって、私的な表現性が見えなくて、社会的公的性だけで成立しているので、エンターテイメントではあります。そして、作品は実体的ですので、ここでもエンターテイメント作品です★14。しかし、私の芸術分析で見る限り、「シニフィアン(記号表現)/シニフィエ(記号内容)の同時表示」という今日的な表現の重層性が達成されていることは非常に高く評価できます。この構造は、かつての古典芸術のシーニュ性が解体されてシニフィアン(記号表現)に還元されたモダンアートの限界を超える、情報化社会の芸術の新しさと言えるものだからです。それは「シニフィアン(記号表現)/シニフィエ(記号内容)の同時表示」という構造が、決してかつてのシーニュの復活ではなくて、離婚した夫婦が、また一緒に同席して並んでいるような、そうした非統合性において獲得される今日的なアート・クオリティです。ここにおいて、「妻有アート」がマンネリの原始美術性から脱して、次の飛躍を遂げ得る地平が示されていると言えます。

5:村上隆のグローバリゼーション

 「2000年代日本現代アート論」を考えようとすると、2000年代の日本美術に見られる動きには、北川フラムとは正反対の運動として、村上隆に代表される世界展開がありました。世界美術市場を真摯に学習した村上隆は、男性期と乳房を立てた喜多川歌磨呂風の現代版立体春画とも言うべき巨大フィギアで、グローバリゼーションの高額商品性を獲得していったのです。

   図版;http://image.blog.livedoor.jp/dqnplus/imgs/b/8/b8e9874c.jpg

   村上隆の作品に対する彦坂尚嘉責任の《言語判定法》による芸術分析 。

   《想像界》の眼で《第13次元・喜劇領域》のデザイン的エンターテイメント作品 。

   《象徴界》の眼で《第13次元・喜劇領域》のデザイン的エンターテイメント作品 。

   《現実界》の眼で《第13次元・喜劇領域》の《真性の芸術》作品 。

   《想像界》の表現 液体作品(=近代美術)。

   《 気晴らしアート》。 《ローアート》。

    シニフィエ(記号内容)の美術。

    《原始立体》。[B級美術]。

 私の《言語判定法》による芸術分析では、村上隆の作品は《現実界》のところで《真性の芸術》性をもっているので、完全なデザインワークではなくて、芸術作品と言えるものではありました。

 それに対して、ほぼ同じ時期に台頭して来た中国現代絵画の場合は、純粋のデザインワークに彦坂尚嘉には見えるものが多かったのです。それは中国人自身が自分たちの顔を下品でばかな顔に自虐的に描いた漫画で、そのデザイン画に世界が熱狂した悪夢の時代でありました。

  図版:http://hikosaka2.blog.so-net.ne.jp/2009-07-16

   岳敏君の作品に対する彦坂尚嘉責任の《言語判定法》による芸術分析。

   《想像界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント 。

  《象徴界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント 。

  《現実界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント 。

  《想像界》の作品。 固体美術(=封建社会の美術)。《気晴らしアート》。《ローアート》 。

  シニフィアン(記号表現)の美術。 

  《原始平面》。『ペンキ絵』。[B級美術]。

 

 私の芸術分析では、中国現代絵画を代表する岳敏君の作品は、完全なデザイン的エンターテイメント作品であって、ひとかけらも芸術性はありません。しかも現代美術ではなくて、前近代の封建社会のデザイン画であります。この古い漫画が1億円を超えて取引されたというのは、まさに「根拠なき熱狂」の時代の悪夢でありました。
 いや中国だけではなくて、アフリカやインドからも同様の自虐性をもった現代アートが台頭して来ます。西欧の人が持っている侮蔑感のイメージに合わせたオリエンタリズムの作品なのですが、そういうものが台頭して来て、グローバリゼーションを体現する流通性として熱狂的に受け入れられたのです。

 インドの象をつかった現代アート作品であるバールティ・ケール「その皮膚は己の言語ではない言葉を語る」という作品も、《第41次元崇高領域》のデザイン的エンターテイメントであって、《真性の芸術》性は無いと私は芸術分析します。しかも固体美術(=封建社会の美術)《気晴らしアート》《ローアート》であって、とても現代アートと言えるものではないのです。


   図版:http://www.flickr.com/photos/chiaki/3048530501/

   バールティ・ケールの作品に対する彦坂尚嘉責任の《言語判定法》による芸術分析 。

   《想像界》の眼で《第41次元崇高領域》のデザイン的エンターテイメント 。

   《象徴界》の眼で《第41次元崇高領域》のデザイン的エンターテイメント。

    《現実界》の眼で《第41次元崇高領域》のデザイン的エンターテイメント。

    《想像界》の作品。固体美術(=封建社会の美術)。 

   《気晴らしアート》。《ローアート》。

    シニフィアン(記号表現)の美術。 《原始立体》。[B級美術]。


 

 グローバリゼーションの中で、外国の他者に向かって自らの表現を成立させようとすると、ジャック・ラカンの主張した鏡像理論が成立してしまうのです。他者=欧米人という存在を鏡として設定してしまうと、欧米人の中に先入観としてある侮蔑化された非欧米人のイメージに自虐的に合わせない限り、世界市場に乗らないという現象が起きたのです。他者=欧米人が抱く先入観のイメージにこそ、私自身のセルフイメージがあるということになったのです。このことを主題に論じた大規模なアフリカ現代美術展「アフリカ・リミックス」が森美術館であって、アフリカ人のアイデンティティを巡る試行錯誤の歴史の展示とカタログ論文は、重要な視座を私たちに与えてくれました。
 日本人で、このセルフ・オリエンタリズムの不快感のある作品の先駆者に大浦信行がいます。昭和天皇をヒロヒトとよび侮蔑的に見る欧米人の眼に映る日本を、自らのアイデンティティ化した作品『遠近を抱えて』は、1982年から1985年にかけて制作された連作版画全14点ですが、これが日本国内でいくつかの社会問題を引き起こしたのです。昭和天皇の顔と女性ヌード写真をならべたり、笑っている昭和天皇の頭の上に原爆のキノコ雲の写真をコラージュするなどに、怒りを感じる日本人が出て来たのです。私見を申し上げれば、何よりもこの大浦作品が、彦坂尚嘉責任の芸術分析では《第21次元 愛欲領域》で作られていて、エロ写真などど同次元の低級性を持っている作品であった事です。大浦信行作品についてはすでに詳細に論じて、図版も掲載しているので、興味のある方は
ブログ(http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2009-04-22)を見て下さい。
 この自虐的なセルフ・オリエンタリズムに満ちたグローバリゼーションのスペクタクルな幻影の中で、芸術としての根拠の無いデザイン的エンターテイメント作品が、熱狂的に受け入れられ、21世紀の最初の10年間である2000年代を覆(おお)いつくしたのです。それが2000年代美術の特徴だったのです。
 ここで重要なことは、《スペクタクル化》であったと、整理して把握しておきたいと思います。


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越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?(3) [アート論]

越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?──2000年代日本現代アート論

彦坂尚嘉 /木村静2009年08月15日号

3:越後妻有トリエンナーレの名品の数々

 今回の第4回越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》では、約370点の作品

がありますが、ルーブル美術館に膨大な作品があるのと同じであって、その大

半は凡庸な作品に過ぎないのです。多くは低級な作品でしかありません。そう

いう凡庸の海の中で、奇跡のようなすばらしい作品を見つける事が、楽しみで

美術を見ているのです。私の組織しようとしたツアーは、基本として《超1流》

のすぐれた作品を見ようというものです。しかし《超1流》の作品というのは、

観客の精神が未熟であれば、理解は出来ないのです。
 芸術の鑑賞というのは、その人の人格的成熟と見合っているのであって、

人格的に低俗な人は低俗な芸術が好きだし、人格的に凡庸であれば、凡庸な

ものが好きなのです。凡庸な人はレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は好きでは

ないし、雪舟は嫌いなのです。人格的に成長して成熟し、高度になれば、高級

な芸術が好きになるようになるのです。だから芸術鑑賞は、自分の人格的な

成長と成熟をかけた闘いなのです。そしてまた、その人の人格性を現すものだ

から、欧米の社交界では、芸術の話をするのです。自分の人格と教養の高さの

表示になるからです。
 さて、そういうわけで、私が名品と思う作品を挙げていきます。
 まず、ノイシュタットの作品マジックシアター(作品番号181)です。

《超1流》の作品で、ほぼパーフェクトです。人間が作れる限界の高さに近づいた

名品だと思います★5


撮影=木村静

★5── ハーマン・マイヤー・ノイシュタットに対する彦坂尚嘉責任の芸術分析。 

《超次元~第41次元》の多次元的な《真性の芸術》。 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。 

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。 

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示。 

《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。

 《芸術》と《反芸術》の同時表示。 

シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示。 

《透視立体》。[A級美術]。

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 続いて、リチャード・ウイルソンです。
 (作品番号122)日本に向けて北を定めよ「74゜33'2""」。この作品も、

私の大好きな作品です。決して主張しすぎない淡い青の色合いに作家の環境へ

の調和の精神が感じられます★6


撮影=安斎重男

★6──リチャード・ウイルソンに対する彦坂尚嘉責任の芸術分析 

《超次元~第41次元》の多次元的な《真性の芸術》。 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。 

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。 

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示。 

《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。

 芸術、しかし反芸術性の同時表示はない。 

シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示。 

《透視立体》。[A級美術]。

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アフリカの作家、オギュイベです。
 (作品番号110)いちばん長い川。これもすばらしい作品で、大激賞です★7

アフリカの作家、オギュイベです。
 (作品番号110)いちばん長い川。これもすばらしい作品で、大激賞です★7

★7── オル・オギュイベに対する彦坂尚嘉責任の芸術分析。 

《超次元~第41次元》の多次元的な《真性の芸術》。 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。 

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。 

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示。

 《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。

芸術と反芸術の同時表示。 

シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示。 

《透視立体》。[A級美術]。


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 2003年の作品である(作品番号138)のアン・グラハムというオーストラリ

アの女性作家の作品スネーク・パス」です。曲がりくねった山の遊歩道にあり、

通る人々に踏まれることや、生えてくる草に埋もれること、土をかぶることも

計算に入れて作られていて、6年かけてその場所に馴染んだ蛇の少々お間抜け

な顔には、チャーミングな温かさも感じられます。
 住民参加型の、そして場所に対しても理想的な調和性の有る作品です。
 この、何でも無いモザイクの蛇のアートが、芸術的にも高度に作られている

のであってそのことを含めて、理解して欲しいと思います。芸術というのは、

何も汚かったり、醜悪である必要も、下品である必要も無いのです。本当の

名品は、かわいく、上品なものです。

 

 

★8── アン・グラハムに対する彦坂尚嘉責任の芸術分析 

《超次元~第41次元》の多次元的な《真性の芸術》。 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。 

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。 

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示。 

《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。 芸術と反芸術の同時表示。

 シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示。 

《透視立体》。[A級美術]。


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さて最後に、作家的には水準はほんの少し落ちますが、クリスチャン・ラピ

を挙げ上ておきます。フランスの現代美術は《第6次元》程度の低いものが多い

のですが、この人は珍しく《第41次元・崇高領域》のある作家です★9
 「砦61」(作品番号158)は、木で作られた黒い彫刻で、風雪に耐えて2000年

からここにあります。今後もどのように風化し、味わいを増していくのか楽し

みです。



撮影=安斎重男

★9── クリスチャン・ラピに対する彦坂尚嘉責任の芸術分析 

《第41次元~第7次元》の多次元的な《真性の芸術》、

ただし《第6次元》~《超次元》は無いので、倒錯領域の作品と言えます。その意味では下品

です。 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

 気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。 

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示。 

《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。 

芸術と反芸術の同時表示。 

シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示。

 《透視立体》。[A級美術]


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R&Sie建築事務所の駐車場。
ガイドブックで見れば、駐車場という内容も含めて、
わざわざ見に行きたいという食欲のわくものではなかったが、
行ってみるととんでもない良い作品。

なにしろかなりの面積がアスファルトでできた駐車場なのだが、
そのアスファルトがうねりをうねって、盛り上がり小山になり、さらに
地表からめくれあがって、せり出している。

何よりもシニフィアンとシニフィエの同時表示、
ハイアートとローアートの同時表示、
芸術と反芸術の同時表示といった、正反対のクオリティガ同時表示されている
超1流から41流までの全領域をもった名作であった。


 


DSC04884.JPG.jpeg
                      撮影:木村静

 R&Sie建築事務所の駐車場に対する彦坂尚嘉責任の芸術分析 

《超次元》から《第41次元》の多次元的な《真性の芸術》、 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

 気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。 

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示。 

《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。 

芸術と反芸術の同時表示。 

シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示。

 《透視立体》。[A級美術]






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越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?(2) [アート論]

フォーカス

越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?──2000年代日本現代アート論

彦坂尚嘉 /木村静2009年08月15日号

2:山本想太郎と彦坂尚嘉の2つのフロアイベント

 今回の越後妻有トリエンナーレ名品ツアーで見た作品の中で、秀作をあげる

とすると、先ずに山本想太郎の建具を使ったフロアーイベントとも言うべき作

品だろうと思います。次に紹介する彦坂尚嘉の間伐材をつかったフロアイベン

トと、床にものを敷くということで良く似た構造です。

 山本想太郎氏は、1966年生まれの建築家で、早稲田大学理工学研究科(建築

専攻)修士課程を修了して坂倉建築研究所を経て、独立して山本想太郎設計ア

トリエを主宰しています。今村創平、南泰裕らとともに建築家ネットワーク・

プロスペクターをつくって活動して、前回の2006年には、このグループの作品

として「足湯プロジェ」を松之山湯田温泉「ゆのしま」敷地内にアート作品と

してつくっています★1
 今回はグループではなく、一人で制作した作品です。タバコの葉を乾燥させ

る倉庫として使われていた建物の内部に、庭のように歩く空間を作っています。


撮影=木村静

 ★1── プロスペクター作品の芸術分析。 《第6次元自然領域》のデザイン的エンターテイ

メント作品。 《想像界》の表現。 液体(=近代)表現。 《気晴らしアート》。 

《ローアート》。 シニフィアン(記号表現)の美術。 《透視立体》。 [A級美術]。

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 前回の足湯プロジェクトで使った白く塗られた越後妻有全域から集められた木製建具約150枚が用いられて、訪れた人は、建具の障子紙やガラスが無くなった穴の部分に足を

入れて、この庭を散策するのです。上部の空間には空中に浮遊する、建具ででき

た3つの筒があって、上部から外光が入っています。

 繊細で、大胆で、そして建具の敷かれた床を歩くという作品で、新鮮で感銘を

受けました。
 この山本想太郎の作品は、デザイン的エンターテイメントではなくて《真性の

芸術》になっている作品です。このこと故に、高く評価したいと思います★2



撮影=木村静

★2──山本想太郎作品の芸術分析。 《第1次元~第31次元》の多次元的な《真性の芸術》、

 ただし《超次元》と《第41次元》が無い。 《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ

重層的な表現。 気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。 《シリアス・アー

ト》《ハイアート》。 シニフィアン(記号表現)の美術、ただしシニフィエ(記号内容)

性が無い。 《透視立体》。[A級美術]。

山本想太郎の越後妻有トリエンナーレへの取り組みは、これだけではなくて

「妻有田中文男文庫」(作品番号10/2009年作品)さらに、「安堀雄文記念館」

(作品番号10/2006年作品)「再構築」(作品番号31/2006年作品)、

「名ヶ山写真館」(作品番号36/2006年作品)と、全部で五つもあるのです。

この精力的な活動の熱意が背景になって、今回の傑作が生まれたと思います。


彦坂尚嘉フロアイベント2009
撮影=武田友孝

 この山本想太郎の作品に呼応するかのように、建築の床面を、あたかも外部の

庭であるかのように反転させて、廃屋を芸術作品に変貌させたのが彦坂尚嘉のフ

ロアイベント2009(作品番号22)です。彦坂尚嘉は1946年生まれの美術家で、

1970年多摩美術大学油彩科中退。1969年に多摩美術大学の学園紛争のバリケー

ドの中の造型作家同盟展という美術展でデビューしたアーティストです。その

ときに出品した床に透明ビニールを敷いた「フロア・イベント」と、木を使った

「ウッド・ペインティング」を、40年後の現在も展開して継続制作しているとい

う作家です。
 今回の越後妻有トリエンナーレでは、田麦(作品番号22)という山村の廃屋で

は「フロア・イベント」を展示し、もう一つ建築家の手塚貴晴のリノベーション

したイタリア・レストラン「黎の家」(作品番号229)の方には、「ウッド・ペ

インティング」を5点展示しています。


彦坂尚嘉ウッドペインティング・シリーズ2009
撮影=木村静

 前回2006年では、同じ田麦の廃屋で、自分の家である彦坂家の歴史をテーマに

した

フロアイベントを展開しています。彦坂家は、宇都宮藩の家老の家で、幕末の

宇都宮戦争で壊滅している家系なのです。この時は〈気派〉というグループで

制作しました。


彦坂尚嘉フロアイベント2006
撮影=後藤充

 展示は、一転して、間伐材を使った作品になっています。


撮影=武田友孝

大地の芸術祭2009出品作品/彦坂尚嘉「フロアイベント2009」  撮影:木村静

★3── 彦坂尚嘉作品の芸術分析。 《超次元~第41次元》の多次元的な《真性の芸術》。 

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。気体/液体/固体/絶対零度の

4様態をもつ多層的な表現。
《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示。 《ハイアート》と《ローアート》

の同時表示。
《芸術》と《反芸術》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示。
《透視立体》。[A級美術]。


 今回はグループではなくて、一人で制作した作品です。200年は経つ古い農家

の内部に、庭のように歩く空間を作っています。津南の山奥に切り倒されて放置

されている樹齢20から30年の間伐材を輪切りにして、約1,000個、床に敷いてい

るのです。間伐材の上を歩くのは汚れと危険さで無理なので、床にはレンガと

砂利で歩道が作ってあります。観客は、この歩道を歩いて室内を散策して、反対

の出口から出て、今度は両側に開いた壁を失った空間を透して向こう側の茄子畑

を、見ると言う借景の作品です。外壁には絵が描かれていて、廃屋ペインティン

グになっています。家の内部にも『ペンキ絵』が描かれていて、さらに「木に

竹を継ぐ」という言葉と、「人は木竹石にあらず」という文字が書いてありま

す。産業社会と情報化社会の連続性の齟齬と、そして派遣切りに象徴される事態

を、間伐材と言う人工的な淘汰の悲惨さに重ねた作品であります。この彦坂尚嘉

の作品も、デザイン的エンターテイメントではなくて、《真性の芸術》になって

います。

 彦坂尚嘉の越後妻有トリエンナーレの取り組みは、これだけでなくて、すでに

述べたように、イタリア・レストラン「黎の家」(作品番号229)の方には、

「ウッド・ペインティング」を5点展示しています★4

DSC04474.JPG.jpeg
★4──彦坂尚嘉作品の芸術分析。 《超次元~第41次元》の多次元的な《真性の芸術》。 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。 気体/液体/固体/絶対零度の
4様態をもつ多層的な表現。 《シリアス・アート》、ただし《気晴らしアート》性はない。 
《ハイアート》、ただし《ローアート》性はない。 シニフィアン(記号表現)とシニフィエ
(記号内容)の同時表示。 《透視画面》。オプティカル・イリュージョン。[A級美術]。

 


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越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?(1) [アート論]


彦坂尚嘉顔写真/佐々木薫撮影2.jpg

彦坂尚嘉(ひこさかなおよし)1946年生まれ。

ブロガー。立教大学大学院特認教授。
日本建築学会会員。日本ラカン協会幹事。
美術家

木村静2.jpg

木村静(きむらしずか)1980年生まれ。
フリー・メディア活動家。フリー・アナウンサー。
G8市民メディアセンター札幌実行委員会に参加。
活動テーマは、フリー・メディアによる
新しい市民コミュニケーション網の構築。

フォーカス

越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?──2000年代日本現代アート論

彦坂尚嘉 /木村静2009年08月15日号

 

1:『越後妻有トリエンナーレの中の名品を求めて巡る』ツアー


2000年に始まった越後妻有トリエンナーレは、文字通り21世紀の

初頭の10年間をかざる美術展でありました。それは新潟出身の天才

アート・ディレクター北川フラムによって作り出された、広大で壮大

な自然と芸術の大スペクタルであったのです。この大スペクタルは、

越後妻有という地域に、現代アートを還元していくローカリゼーショ

ンとして組織されたのでした。 

今回、参加者20人で3泊4日の『越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》の中

の名品を求めて巡るツアー』を組織して、コディネートして来ましたので

ご報告したいと思います。

 このツアーは建築評論家の五十嵐太郎が中心になってやっている「アート

スタディーズ」という勉強会と、「建築系ラジオ」というフリー・メディア

組織の共同主催のものです。そこには五十嵐太郎、山田幸司、松田達、そして

三橋倫子などの建築系の人々と、彦坂尚嘉、飯田啓子、秋元珠江、田嶋奈保子、

中川晋介などのアーティスト、そしてギャラリストの玉田俊雄(タマダ

プロジェクト主宰)、さらに美術研究者やアート・コレクター、立教大学

や武蔵野美術大学の学生など、さらに田邊寛子や、木村静のような地域起こし

の市民運動をやっている人々も参加しています。
 五十嵐太郎を中心とする建築+美術系の混合グループでのツアー活動は、

すでに何回もいろいろな地域で繰り返されて来ていて、前回の2006年の

《大地の芸術祭》でも行なわれています。
なおこのツアーは、今回の企画者の彦坂尚嘉自身が、二つの場所での作品を

越後妻有トリエンナーレに出品しているので、自分自身の作品を見せ宣伝する

という我田引水の意図は明確にあります。中立的な記事を読む事を求める読者

には不快なことでしょうから、事前にお断りをしておきます。
 そして、この報告の文章は、「ドルーズ/ガタリ」、そして「ネグリ/

ハート」などの複合執筆の影響を受けてフリーメディア活動家の木村静と、

ブロガーの彦坂尚嘉のコラボレーションで執筆され、それはまたビデオ撮影

と文章執筆の組み合わせという混合形態による美術批評の新スタイルの試み

でもあります。ビデオ映像の時間拘束性を嫌うかたも多いとは思いますが、

YouTubeの伝達能力は高いので、頭の部分の少しだけでも見ていただければ

と思います。

 「名品を求めて巡るツアー」と名付けているのは、今こそ自らの人格的成長

と教養の蓄積をかけた全身で感覚を研ぎ澄まし、自分の脳と身体で感じること

が重要だからです。芸術鑑賞は、もともと人間の人格成長をかけた文化教養

であります。下品な人格の人には、俗悪なエロ写真や漫画レベルの低俗美術

しか分かりません。すぐれた高度の芸術を理解するためには、人格的成長と

成熟が必要なのです。
 マスコミを通じて世間一般の空気や風聞がつくられて、押しつけられてくる

下品で低俗で、お仕着せの幻影のデザイン的エンターテイメント・アートでは

なく、自らの人格の判断基準をもって、真実と純粋を追い求める《真性の芸術》

を体感するために、ここで紹介する作品と向かい合いました。
 空気と風聞に支配され宣伝記事と提灯記事しか書かない職業的な美術批評家

やアートライターの多くを無視して、彦坂尚嘉は自らの言葉で作品を批評する

行為を、孤立して非営利的執筆としてのブロガーを実践してきているからです。

現代の圧倒的なスペクタクル社会化に対して、硫黄島での栗林中将のように

玉砕を覚悟した徹底的な抗戦をして、裸の王様化されない《真性の芸術》鑑賞

に挑戦をしていきたいと思います。とは言っても、彦坂尚嘉が彦坂尚嘉の作品

を紹介し、説明する記事の部分では、当然のように中立性を求める読者の不審

を呼ぶ記事となりますので、批判的に疑念の眼で読んでいただくことをお願い

致します。私自身に対する正統な批判には、正面から誠実に向き合いたいと思

います。
 さて、最後にもう一つお断りしなければなりません。彦坂尚嘉の文章を初め

て読まれる読者にはきわめて難解で恐縮ですが、私は《言語判定法》という

測定法による芸術分析をやっています。「芸術分析」という言葉は、

「精神分析」という言葉を下敷きにしています。これは芸術作品を《超次元》

から《第41次元》までの42段階に分類して判定するものです。これも難解で

有名な精神分析のジャック・ラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》という

用語を彦坂流に流用した方法で、極めて緻密で晦渋であります。とは言っても、

あくまでも、彦坂尚嘉という個人の人格的成長と成熟の責任をかけた主観

による分析でありまして、かつての印象批評という美術批評の方法を情報化社会

の緻密性に適合できるように、バージョンアップしたものにすぎません。

それは昔の体重計と、現在の体脂肪率、部位別皮下脂肪率、内蔵脂肪レベル判定、

基礎代謝表示、部位別骨格筋率、BMI表示、対年齢表示、MYダイエット判定

等々のやたらに詳しい体重計の違いでありまして、彦坂尚嘉がやっているのは、

《言語判定法》を使った詳細な「印象批評」なのです。その意味では、

きわめてオーソドックスで伝統的なものです。煩雑と思われる方は、適当に

飛ばして読んで下さってもかまいません。


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